あう(1)
げんすけ
2020/07/20 07:47
ヒトは、
*言葉=言語というものの物質的な側面である、音声+文字という「実体」
を、かろうじて知覚できます。かろうじて知覚したとしても、
*言葉=言語というものの抽象的な側面である、意味やメッセージと呼ばれている、「実体」がなく、トリトメのないもの
を「理解」=「解釈」しようとすると、事態はきわめて困難になります。知覚したデータ=情報の量と、その「難易度」=「質」にも左右されますから、一概には言えませんが、困難であることに変わりはありません。そもそも、
*「理解」=「解釈」という抽象的な「作業=仕組み」
自体が、ヒトには把握=体得できていないからです。つまり、何だか知らないけれど「分かる」 or 「分からない」というありさまなのです。
また、たとえ「理解」=「解釈」することを把握=体得できたとしても、道具の仕組みを頭で知っただけの状態でしかなく、その道具を使いこなせるかどうかは、不明です。生来の器用さ次第でどうにかなるものかもしれないし、時間をかけて熟達していく性質のものかもしれません。いずれにせよ、「理解」=「解釈」は難しいですね。
だからこそ、これだけ、「誤解」とか「曲解」とか「話が通じない」とか「分からない」とか、「言ったの、言わなかったの」といった状況が、古今東西を問わず繰り返し起きてきたのであり、おそらく、現時点でも世界中で起こりつつあるのでしょう。
以上は、高みの見物が可能な他人事ではありません。たった今このブログを書いている者にも、そしてそれをお読みなっているあなたも、こうした言葉=言語をめぐるややこしい状況に、巻きこまれている最中(さなか)にあるのです。
*「ああ、わけの分からないブログだ」
とお思いになっていらっしゃる方々には、お詫び申し上げます。ごめんなさい。これでも、精一杯、みなさんに分かっていただけるようにと、工夫しながら書いているのですが、力が及びません。
言い訳=弁解でお茶を濁させていただきますと、「理解」=「解釈」をめぐる「難しさ=ひょっとすると不可能性」は、ヒトである以上、誰も免れる=逃れることなどできない事態だとも、言えるのではないでしょうか。「それ以前の、おまえの表現力の乏しさの問題だ」と言われれば、またもや、「ごめんなさい」とお許しを願うしかありません。
*
いずれにせよ、
*言葉=言語を用いるさいの「不自由さ」を「自由」と錯覚する
という鈍感さ=たくましさを備えているのが、ヒトという種(しゅ)です。さもなければ、ヒトでなしです。ヒトなんか、やってられません。元気はつらつ、「ポジティブにいこう」の精神で、日々邁進できるのもまた、ヒトの常です。
大不況のおりとはいえ、この国の年間自殺者数が連続して三万人を超えているとはいえ、うつやプチうつをわずらう人たちが増加しているとはいえ、「頑張る」しかないのです。
もっとも、「頑張る」という言葉は、うつの人たちにとっては禁句だという説があります(※ちなみに、うつという診断名を下された自分の感覚では、「頑張って」と真剣なまなざしで相手から言われると、確かに「えっ? 頑張るの? つらいなあ」という感じがして、期待されているような錯覚に陥り、頑張らないと相手に申し訳ないような気分になり、体がこわばります。つまりストレスになります)。自分も他人事ではないのですが、そんな場合には、「頑張らない」で「頑張る」しかありません。
*
話を戻します。
冒頭で、言葉=言語が、まるで物質的な側面と抽象的な側面に分けられるようなことを書きましたが、あれは大嘘=でたらめ=フィクション=ただのお話=「良く言ってせいぜい仮説」です。「とりあえず……と考えて話を進めましょう」、くらいの意味にとってください。
このブログ記事は、学術論文でも研究者の報告書でもありません。素人が、日ごろ考えていることを文字にして、こんなふうに自分は考えておりますが、みなさん、どうお思いになりますか? という気持ちで、ブログとして公開しているだけです。「当たり前だよ、こっちは、あんたに何も期待なんかしていないよ」とおっしゃっていただければ、それでいいのです。
と、お断りしたうえで、今後の計画を書かせてください。
*
*「あう」
というタイトルで、「言葉=言語」の抽象的な側面について、これから何回か記事を書こうと思っております。上述の「理解」=「解釈」だけでなく、「意味」=「メッセージ」、「言葉=言語」の「仕組み=働き」といった、実体がなくトリトメのない側面についても、書いてみたいです。こうした「トリトメのないもの」について考えるとき、ヒトは支え=拠りどころ=ツールになるものを必要とします。これまでに、いくつかのブログ記事を通して、次のようなツールを用いてきました。
(1)表象。表象の働き=「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」。
(2)トリトメのない記号=まぼろし=「そっくりなものが、ずらりと並んでいる」+「そっくりなものが、ほかにもたくさんあるかもしれない」=「お父さんがいない状態で、お母さんから生まれたそっくりな子どもたち」=コピーのコピー=起源のない複製たち
(3)うだつのあがらない尻尾のないおサルさんの脳内にズレが起きた → 「尻尾のないおサルさん + α 」=「ヒト」=「人間様」
(4)「脳内のズレ」 → 「言葉=言語」=「ぐちゃぐちゃ」=「ごちゃごちゃ」
以上です。
*
で、この「あう」というシリーズでは、
*信号
というツールを用いようと考えています。言葉=言語というトリトメのないものを、さまざまな切り口で楽しんでみよう、という「お遊び」の一環と思ってください。真実とか原理とか法則とかいう、ヒトとしての身の程をわきまえない「研究」=「思考」=「思想」とは無縁の「お遊び」です。こちらは、そうした「お遊び」を本気でやっていますが、みなさんは、本気でおとりにならないでくださいね。
サーカスなどで、曲芸をなさっている方々は本気で演じていらっしゃいます。でも、曲芸師の方々は、お客さんに本気=真剣に見てほしいと思っているわけではありませんね。お笑いもそうです。芸人さんは、それなりに本気で一生懸命芸を磨きながら、舞台や高座に上がるわけですが、みなさんにくつろいだ気分で「わはは」と笑っていただくことで、幸せを感じるのです。それと、このブログは似ています。
「わはは」でも「えっ」でも「おっ」でも「ばーか」でも「あほちゃうか」でも、いいです。何か「感じる」ところや、「考える」ところや、「ピクっ or ゾゾっとくる」ところがあれば、それだけで、こちらとしては本望なのです。なにしろ、言葉=言語について考えるとは、
*「ない」について考える。
という、理不尽で倒錯したことを企てているのと同じなのです。ですから、自分は「絶望的な事態=状況」に自分自身を追いこんでいるのだと、覚悟=「身の程をわきまえる」=自覚しなければなりません。だから、本気です。本気にならなければ、そんな理不尽なことはできません。
「絶望的な事態=状況」を、「きわめて不自由で窮屈な枷(かせ) or 枠(わく) or 檻(おり) の中にいる」と言い換えることもできるでしょう。それなのに、ヒトはそうした状況をきわめて「自由で楽観的」なものとして知覚してしまう習性が身についています。さきほど用いたフレーズと似ていますが、
*不自由さを自由さと取り違える。
と言えば、すっきりとして分かりやすいかもしれません。ただし、この「すっきりとして分かりやすい」が、多くの要素を捨て去ったあとの、「大雑把で錯覚に満ちた杜撰(ずさん)さ」とほぼ同義であることを忘れてはなりません。これが、
*言葉=言語を思考の対象とする代償
なのです。この事態を言い表すのに、
*簡単に分かりやすく言えば不正確になる。複雑に言えば分かりにくい。
と言うくらいで妥協してもいいでしょう。
しょせん、言葉=言語を思考の対象にする義理も必然性も必要も、全然ないのです。一言で言えば、
*無用
つまり、こんなことしても、全然世の中で「役に立たない」のですから。こんなことにかかずらわないで、「自由で楽観的に」「世の中で役に立つように」生きるのが「まっとうな」生き方です。無用なことにかかわる必要性など、まったくないのです。
*
でも、その「無用=役に立たない」にとりつかれる人たちがいます。ここにも一匹います。どういうわけだか、います。「無用=役に立たない」とは無縁の人たちから見れば、どこかがズレてしまっているとしか、思えないでしょう。要するに、偏屈=変わり者なのです。ここである「たとえ=比喩=言い換え」をしてみます。
*「無用=役に立たない」とは無縁の生き物たちから見れば、どこかがズレてしまっているとしか、思えないでしょう。要するに、偏屈=変わり者なのです。
お分かりになったでしょうか? 今話題にしているのは、ヒトという種(しゅ)のことなのです。この惑星に生息するおびただしい数の種類の生き物の中に、
*ヒトという偏屈=変わり者の種がいる。
そのヒトという種の中に、さらに偏屈=変わり者がいる。こんなふうに、たとえてみると、分かりやすいかもしれません。ヒトという種が偏屈だと短絡しているわけではなく、あくまでも比喩ですので、誤解なさらないようにお願い申し上げます。
ただ、ヒトは「ちょっと変わったこと」をしている、くらいの意味です。偏屈なのは、ヒトの中で(=ヒトであるくせに)、「ちょっと変わったことをしている」=「言葉=言語に対して過剰にこだわっている」、このブログを書いている者のような、ヒトのはしくれです。これは比喩ではありません。
*
この惑星で、
*「狭義の」言葉=言語 : 話し言葉+書き言葉
を用いる生き物は、今のところ、ヒトだけであるとされています。それが事実ならば、ヒトは、「きわめて変わったこと」をしているとも言えそうです。でも、自分たちが「変わっている」とは思っていません。他の生き物に比べて「優れている」と思っています。
さて、
*「広義の」言葉=言語 : 話し言葉、書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(※家庭だけで通じる断片的な手話)、指点字、点字、音声(※発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号、および、あらゆる知覚対象など
というものを想定した場合には、その中には、ヒト以外の生き物も用いていると考えられるものも含まれますね。最後の「あらゆる知覚対象など」まで含めてしまえば、ゾウリムシも「広義の」言葉=言語を用いていることになります。さらに「信号」も入っていますが、そこでの「信号」は狭義のものです。符号とかシグナルとほぼ同義で含めてあります。
*
実は、その
*「信号」
なるものについて、もっと考えてみたいのです。このところ、別のことを考えながらブログの記事を書き進める一方で、以上のようなことをずっと考えていました。その過程で、気になったのが「あう」という大和言葉系の語なのです。
*あう=合う=会う=逢う=遭う=遇う=和う=韲う=敢う=饗う=あうん=阿吽=阿呍=あい=愛
最後のほうは、「お遊び」用です。語源も、大和言葉系と漢語系の区別もあったものではありません。ダジャレの境地です。相合傘=逢い合い傘=愛愛傘というのと、同じくらいの「めちゃくちゃなこじつけ」=「あほのすること」です。まさに、上で書いた、
*「脳内のズレ」 ⇒ 「言葉=言語」=「ぐちゃぐちゃ」=「ごちゃごちゃ」
です。
でも、本気なのです。正気だという保証はまったくありませんが、本気ですので、今後もこのサイトにおいでになるのをお待ちしております。どうぞ、また遊びに来てくださいませ。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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