げん・幻 -3-
げんすけ
2020/06/29 10:12
「まぼろし」を「間を滅ぼす」と読んだときの、「ま・間」という言葉の意味とイメージですが、説明しにくく感じます。たとえば「間の取り方」というときの、「間」を他の言葉を使って説明しようとすると、困ってしまいます。辞書で語義を調べるという手もありますが、すぐに辞書を引くのではなく、自分で考えてみるのもおもしろいです。
とは言うものの、芸も知識もありませんから、せいぜい類語や似た言葉で置き換えてみるくらいが限度です。とっさに、あたまに浮かんだのは「あいだ・間隔・隔たり・すきま・休み・休止」です。「ま・間」をセンテンスで説明しようとしても、できそうもありません。
観念して広辞苑を引くと、語義に「リズム」という言葉が見えました。日本的だと思い込んでいる「間」という言葉の説明に、外来語が紛れ込んでいるとドキッとします。「拍子・ころあい・まあい」という言葉を使って定義を試みている辞書もありますね、なるほど。
ある言葉を辞書で引いて語義を確認したのち、その語義で使われている言葉を同じ辞書で、あるいは他の辞書で調べてみた経験はないでしょうか。「ま・間」の場合には、さらに「リズム・拍子・ころあい」を国語辞典で引いてみるとか、「rhythm」を英和辞典で調べてみたりするという具合にです。
「リズム」については、「時間的な諸関係(広辞苑より引用)」、「音の長短や強弱の組み合わせ(新明解国語辞典より引用)」、「構成要素の相関的調和・不随意行動のパターン(リーダーズ英和辞典より引用)」、「周期性・周期的な変動(ジーニアス英和大辞典より引用)」というフレーズが目を引きました。
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「間」という漢字と「あいだ」という読みを頼りにしながら、辞書をさまよっているうちに、「間」には「かん」という音読みのほかに、「あい・あわい」という訓読みもあることが分かります。
音読みは漢語系の読み、つまり中国語での読み方を日本風に読んで記したものですね。いく通りかの読み方がある場合には、時代や地域による発音上の違いみたいです。一方、訓読みは大和言葉系の読み方、つまり漢字にその意味に相当する日本語を当てた時の日本語の発音だと理解しています。
まず、訓読みのおもしろさを味わってみましょう。たとえば、「ま(間)」が、「ma」という音と同音の他の語や、「ma」のつく言葉やフレーズを、呼び寄せてくれます。「ま(魔)・ま(真)・ま(摩)……」や「まよう・まもる・とんま・まま・おしまい……」という具合です。この時には、「ま」の意味は希薄になり、あるいはまぼろしのように消えて、代わりに「ma」という音が前面に出てきます。
「ま(間)」が「間」という漢字と一体になって、「間」のつく言葉やフレーズを、引き寄せる場合もあります。たとえば、「間合い・床の間・隙間風・間が悪い……」が、これに当たります。「ま」と「間」が合体しているというか、音と意味とがぴったりと重なり、くっ付き合っている感じがします。
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音読みをすると、どんな感じでしょう。「かん・けん・げん(間)」ですから、たくさんありそうですね。「間隔・空間・世間・人間・間接税」は序の口で、続々出てきそうです。中国から伝わった言葉もあるでしょうし、日本でつくられたフレーズもあると思われます。その区別や実例については知りません。
いずれにせよ、音読みをした場合には、音と字と意味という三者の間にある関係は曖昧なようだというのが、個人的な感想です。分かるような分からないような感じとでも申しましょうか、つかみどころがないのです。ひょっとすると、音読みする漢字のフレーズ、つまり熟語は抽象的な意味のものが多いからではないかという気もします。
大和言葉と、漢字と、漢字の音読みと訓読みとの間には、何があるのでしょう。「あわい・ま・あい・かん・けん・げん・間」と文字を並べて、声に出してみたり、じっと眺めてみたりする。そのうち眠くなる。そんなことが好きです。
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思いつきというか、でまかせなのですが、どうやら、「間」という漢字は、日本語に流れている、漢語系と大和言葉系という二つの系統を浮き彫りにしたり、両者をつなぐ役割を担っているという気がします。
このように、漢字という、いわゆる表意文字をながめることで、その字の意味とイメージが広がります。でも、表意文字と言っても、同時に音も表しているわけですから、漢字は表音文字でもあるわけです。
一方、ひらがなやカタカナやローマ字は、表音文字と呼ばれています。でも、その字面を見ていると、音以外のものを感じます。字の面と書くのですから、顔みたいなものですね。それぞれの文字が持つ形には、音でも意味でもないイメージや動きや表情とでもいうべきものが感じられます。
字面という視点から見ると、表意文字対表音文字という構図は意味をなくしてしまいます。すべてが、形としてとらえられるからです。ヒトが個人レベルでその時の気分や事情に応じて書く文字には、違いがあるはずです。また、印刷された活字の書体による差異に注目すると、なかなか奥深い世界に導いてくれます。
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大学三年生になり、就職について考えはじめたころに、活字のデザイナーを志したことがありました。写植機(写真植字機)のオペレーターになろうとも思い、その操作を教える学校にも通いました。タイポグラフィーと呼ばれる分野の本、印刷会社や活字メーカーが出している書体見本を集め、虫眼鏡で書体ごとの特徴を鑑賞する楽しみも覚えました。
一口に印刷物と言っても、紙やインクの質、刷り上り具合やレタッチ(写真製版の修整)の状態によって、ふだんは気にも留めない違いが生じるのを知ったのが、そうした時期でした。今でも、新聞・雑誌の文字や写真を、虫眼鏡で拡大して見る習慣があります。趣味と言ってもいいかもしれません。ときどき熱中しすぎて、時が経つのを忘れてしまいます。
テレビ画面やパソコンのモニターでも同じです。画質、書体(同じ書体名でもメーカーごとに違いがあります)、画面の明るさといった条件の違いで、同じ文字や文字列の印象が異なり、印象が変わります。そういえば、パソコンでは、フォントという言葉が使われていますね。パソコンを操作してこの言葉を見かけたら、ちょっと休憩するつもりで、たくさんある書体のそれぞれの美しさや、活字の大きさによる印象の違いを、ぜひ楽しんでみてください。
以上挙げた例も、一種の「ま・あいだ・あわい・かん・間」ではないでしょうか。「あわい」という言葉に「あわ・泡」を見て、「淡い」という言葉を連想しました。まぼろしは、はかないです。あわいはあわい。そんな気がします。
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意味という点では、「間」と「関」とは、それほど隔たっていないように思われます。もう少し長くして、「間隔」と「関係」という言葉を比べてみるのも、おもしろそうです。「隔たり」と「関わり」という意味を持つ語の、隔たりと関わりをながめ、思いにふける。その再帰というか回帰というか、たとえて言えば、脳が脳について思考するみたいな遊びが、好きです。
比べるとは、違い、つまり差異について考えることだと言えそうです。「さい・差異・際・再・采・賽」と並べてみると、その言葉たちが「差異」という「祭」を演じているようで、見ていて飽きません。
こんなふうに、何でもつなげてしまう、あるいは何とでも言えるのが、言葉の働きの一つではないでしょうか。もちろん、つなげるのはヒトです。もっと正確に言うなら、脳の仕組みなのかもしれません。ひょっとすると、脳の仕組みを超えた、さらに大きなもの、または多くのものにかかわっている仕組みなのではないか。そんな気もします。
そう考えると、つなげているのか、つながっているのかが、分からなくなります。もしかすると、このあたりに言葉の限界、つまりヒトの思考の限界があるのかもしれません。
いずれにせよ、こうしたことは、ヒトには「分かる」ことではなく、「想像する」しか、あるいは「たとえる」しかないたぐいの話にちがいありません。「ま・間・さい・際・差異」は「きわ・際・きわみ・極み・はて・果て・かぎり・限り」でもありそうです。
ヒトにとっては、宇宙は「まぼろし・幻界」であり、「ぎりぎり・限界」ということですね。身の程を知るべきだ、ということでしょうか。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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