かわる(3)
げんすけ
2020/06/29 12:37
「わかる」というひらがなで書かれた言葉に、漢字=感字を当てる、つまり漢字をまじえることで意味が分類される=区別される=明確になる。
このように書くと、いいこと尽くめのような印象を抱きそうになりますが、果たしてそうでしょうか?
ところで、寄り道になりますが、ここで「感字」という言葉について説明をする必要を感じます。好きな言葉なのですが、「感字」のように辞書に載っていない言葉遣いや言葉を使用するさいには、よくグーグルなどで "○○" というふうに括弧でくくって検索します。想像したよりもヒット数が多くて驚くことが珍しくありません。また、ヒットしたサイトをのぞいてみて、その使われ方と自分の使い方とを比較してみるのもおもしろいです。似ている場合も、まったく違う場合もあります。
「感字」という言葉については、初めて見聞きしたのが、いつなのかは覚えていません。手元にある複数の辞書には載っていないことは確かですが、グーグルで調べた限りでは、かなり普及している言葉だと思います。個人的には、感字は夏目漱石の当て字をイメージして使っています。漱石の感字=当て字には感心させられるものが多く、自分なんかは「漱石の感字のファン」だと言っても言いすぎではないと思っています。
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さて、さきほど書いて宙吊りになったままの問いを、少し変えて繰り返します。
ひらがなだけで書かれた言葉に漢字を当てることは、便利なことでしょうか?
意味が明確になるのだから、便利というか、良いことに決まっているではないか。勝手に、そんな返答を想像してしまいます。書き言葉であれば、ひらがなだけで書くよりも、辞書的に「正しい」とされている表記にしたがって書くことが求められる場合があることは確かです。
この文章を書いているパソコンの脇に『朝日新聞の用語の手引』という本があります。かつて仕事で文章を書いていたころには、それにしたがって表記するように指示されました。たとえば、出版関係の仕事にたずさわる人のために手本=標準となるような表記法があることは納得できます。でも、メールや、ブログ、手紙といった私的な文書において、漢字をまじえた「正しい」表記法は便利なものと言えるでしょうか?
自分の好きなように書けばいい。
結論をいうなら、そう思います。もちろん、程度や限度はあるでしょう。ただ、コミュニケーションの道具としてなら、想定する相手に通じればいいし、日記のような自分だけのものなら、自分がわかりさえすればいいでしょう。
「正しい」と「正しくない」は、そういう区別が好きな人同士や、かつての国語審議会の役割を果たしている現在の文化審議会国語分科会が勝手にやっていればいい(※ただし税金が使われていることを忘れてはなりません)。そう考えています。
こう書いたところで、疑問が浮かびました。そもそも、言葉遣いが「正しい」とか「正しくない」とはどういうことなのでしょう?
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77