げん・幻 -1-
げんすけ
2020/06/27 13:19
「まぼろし」と「かげ」が合体しているからでしょうか、幻影という言葉を見聞きすると、いろいろな言葉とイメージがあたまに浮びます。思いつくままに、並べてみましょう。
影絵、幻灯、幻灯機、スライド、スクリーン、銀幕、活動写真、セピア、スチール写真、映画、映写機、映画館、シネマ、キネマ、写真、フィルム、カメラ、明るい部屋、暗室、現像、拡大、引き伸ばし、焼き付け、オーバーヘッドプロジェクター。
そういえば、かつて「幻影城」という本や雑誌の名前もあった記憶があります。
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幻灯つまりスライドは小中学生のころに、よく学校で見ました。確か、教室の窓という窓を遮光性のカーテンか何かで被うのです。幻影には、あのしっとりとした暗闇が欠かせません。
人工的な闇の出現に、わくわくしたものでした。幻灯を見終わって、カーテンを取り外し始めるときに目にするまばゆい光も、強く印象に残っています。いわば非日常的世界から日常に連れもどされるわけですが、一瞬、逆転を感じるのです。
日常である光に満ちた昼間の世界が白っぽい光景となって、ほんの短いあいだですが、闇の世界に劣らないほどの非日常性を帯びるのです。闇で感じるわくわくするような体験ではなく、目を細めるしかない、全身の皮膚を硬い毛のブラシで撫でられるような感覚なのに、なぜか心地よかったのを覚えています。
それもつかの間、がっかりした思いがからだじゅうによみがえってきます。朝目覚めたときに覚えるやれやれという脱力感に似ています。遠いところから帰ってきたときの快い疲労感にも似ています。
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幻影は、「まぼろし」と「かげ」が合体した言葉でありイメージです。「まぼろし」を、「魔を滅ぼす」とか「間を滅ぼす」とか「真を滅ぼす」と読み換えるたぐいの遊びを、よくします。自分勝手に、言葉とたわむれるのが好きなのです。
大きめの辞書を引いて、言葉の語源をたどるのもおもしろいですが、語源には「正しい」対「正しくない」といった二項対立の影がつきまといますから、どうしても窮屈です。それに対し、たわむれるさいには、夢を見るのと同じで、気兼ねも遠慮も無用です。
夢のなかでは、すべてが肯定されるように、夢想のさなかには、疑問をいだくことはありません。何でも許されてしまうのです。幻灯や映画を見るのと似ています。あれよあれよという感じです。
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魔を滅ぼす。この魔って何でしょう。ネガティブな意味合いが濃い言葉ですが、ネガティブとポジティブは反対の関係にあるというより、表裏一体ではないかと、つねづね思っています。見る者の立つ位置によって変わる。そんな感じもします。
科学では、観測者という視点が重要性を増しているという話を、何かで読んだことがあります。共感を覚えます。そもそも「見る」とは、一介の生き物にほかならないヒトという種(しゅ)にとって、広義の主観的行為であるはずです。
それが忘れられがちなのは、残念なことです。話をもどします。
「魔を滅ぼす」でしたね。実は、魔という言葉は、他の言葉を呼び寄せる枕詞か触媒のようなもので、あまり意味はないというか、興味がありません。むしろ、「間を滅ぼす」や「真を滅ぼす」のほうに、個人的にはおもしろみを感じます。
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魔、間、真というように、「ま」という音を、漢字に置き換えてみる。分光する、と言ってもいいかもしれません。つまり、「ま」という表音文字が喚起するイメージを、漢字という表意文字を当てることによって、「分ける」のです。そして、また「ま」に送り返してやる。
すると、「ま」というひらがなと、それを口にしたときに発せられる「ma」という音に、「たましい」が、いわば「やどる」。そんな遊びなのですが、よくやります。もちろん、個人的な次元でのたわむれであり、いたずらです。
意味と音。この二つを、いったん分けて、その中身を確認し、再びくっつける。それこそが、自分にとって、「まをほろぼす」という音と字の発する意味なのです。まさに、まぼろしですね。
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愛用の広辞苑に、「まぼろし・幻」の語源が記載されていないのを幸いに、ひまつぶしができました。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
#エッセイ