あう(2)

げんすけ

2020/07/22 07:59


*あう=合う=会う=逢う=遭う=遇う=和う=韲う=敢う=饗う=あうん=阿吽=阿呍=あい=愛


 上の言葉たちを眺めていると、いろいろなイメージが喚起されます。これまでさまざまな記事の中で、「言葉=言語」について考えるさいに、上と同じような「=」を使った「言葉の羅列作り」の作業をしてきました。思い出してみます。


*「わかる」=「分かる」=「別る」=「解る」=「判る」(※「かわる(1)」~「かわる(10)」より引用) 【※安心してください。この「~より引用」は無視しても分かるように書きますので。】


*「かわる」=「変わる・変る」=「代わる・代る」=「替わる・替る」=「換わる・換る」(※「かわる(1)」~「かわる(2)」より引用)


*「はる」=「張る」=「貼る」=「墾る」=「晴る・晴れる」=「霽る・霽れる」=「腫る・腫れる」=「脹る・脹れる」(「なる(1)」~「なる(10)」より引用)


*「はらう」=「払う」=「掃う」=「祓う」(「なる(1)」~「なる(10)」より引用)


*「なる」=「成る」=「生る」=「為る」=「慣る・慣れる」=「馴る・馴れる」=「狎る・狎れる」=「熟る・熟れる」=「鳴る」(「なる(1)」~「なる(10)」より引用)


*「たとえる」「たとえ」「たとい」「たとえば」「たどる」(「たとえる(1)」~「たとえる(9)」 +「たとえる(10)」より引用)


 最後の一列を除き、ひらがなで書いた大和言葉系の言葉を、漢字に送り仮名を添えるという形で置き換えたものです。それぞれの列にある「漢字+ひらがな」という組み合わせに目を走らせていく。そして、各列の最初にあるひらがなだけの言葉を声に出して読んでみる。音=音声=発音は同じなのに、「漢字が違う=感じが違う」。まさに感字です。


     *


 字を感じる。文字を感じる。それにその字の意味を重ね合わせる。すると音たちと意味たちとイメージたちが多層的な体験として、身体を揺さぶる、あるいは貫く。漢字は表意文字であると同時に発音も伴う。ひらがなは表音文字であると同時に意味も伴う。その別個であるはずの文字の体系が、日本語の中では併存し併記される。


 これは夢、いや夢現(ゆめうつつ)です。


 それだけではありません。同じく漢字の形からとられたというカタカナまで存在する。アラビア数字=算用数字やローマ数字が混じることもある。場合によっては、略語や記号としてのアルファベット、ローマ字としてのアルファベットが、漢字やひらがなやカタカナに混じって表記されている文章も珍しくはない。


 英語を始めとするヨーロッパの言語の単語やフレーズやセンテンスまでが混じった文章も見かける。こんな驚くべきことが、あっても不思議とは思わなくなっている。よく考えると不思議。びっくり仰天。それなのに、すました顔をして存在している。実存している。これは、この国のことなのです。この国で、日々刻々と起こっている現象なのです。とはいえ、


*あらゆる言語がユニークである。


と言語学の本にはよく書いてあります。実際、そうなのでしょう。ある特定の言語が、他の言語と比べて、より複雑だとか、より単純だとか、より高等だとか、より劣っているだとか、そんなことはない。たとえば、アメリカ先住民の諸言語の中には、たとえば、ヨーロッパの諸言語と単純に比較して、かなり複雑な文法体系を持つものがある。そんなふうに言語学は説きます。


     *


 次のような思い出が、頭に浮かびました。アラビア語にはラクダに関する単語が百個以上ある(※数は、うろ覚えです)。ラクダの姿勢やある状態を言い表す言葉だけで百を超える。エスキモー(※現在では主に、イヌイットと呼ばれていますね)の諸言語には、それぞれ雪に関する、あるいは雪の形態や降り方や積もっている状態などを表す単語や言い方が百個以上ある(※数はうろ覚えです)。


 その百個以上というのは何千個か何十個の記憶違いかもしれませんが、そんなことを教えてくれた中学の先生がいました。その話を聞き、魔法にかけられたように、ぼーっとした気が遠くなるような気持ちになったことを覚えています。言葉って不思議だ。いったい、どうなっているのだろう――。


「ほら、日本語でもそうでしょう。コメ、ご飯、めし、飯(いい)、ライス、稲、苗、もみって言葉がありますね。それは英語では、みんな rice って言うんですよ」


「先生は、英語が専門じゃないから、よく知りませんが、雄牛、雌牛、子牛、牛肉、牛乳みたいに、みんな「ウシ」とか「ギュウ」がつくけど、確か英語では、別の単語で言うんでしょ? 豚やニワトリも同じように、雄と雌と赤ちゃんでは違った言い方をするじゃなかったかしら」


「言葉っていうのは、その言葉を話している人たちの生活や文化と密接に結びついているのですね」


 社会科の女性の先生でした。農耕民族と狩猟民族の説明の中で、そんな話をしてくれたのです。その先生の言葉が、今でも断片的に思い出されます。それを、テキトーにつないだのが、ラクダ、雪、rice についての上述の三つの文章です。


     *


 高校生になっても、その先生の話してくれたことの切れ端が頭の中に残っていて、大学受験には役に立ちそうもない、以下のような単語を調べて覚えたものでした。


*bull、ox、cow、calf、beef、milk、cattle (ウシ関連の単語)

*swine、pig、hog、boar、pork (ブタ関連の単語)

*rooster、cock、hen、fowl、chicken (ニワトリ関連の単語)

*deer、red deer、fallow deer、hart、stag、buck、hind、doe、roe、fawn、calf、venison (シカ関連の単語)

*sheep、ram、lamb、mutton (ヒツジ関連の単語)


 このように、狩猟民族(※実際には農耕にも携わっている場合がありますが)の言語を起源とする英語では、飼育したり狩猟の対象となる動物では、雄鶏や雌鶏のように同じ言葉に雄や雌をくっつけるというのではなく、独立した単語を用いますね。その意味では、言葉=言語というものは、それぞれがドメスティックなものだと言えます。


 しかし、現実には、こうした狭義の言葉=言語が、ヒトの移動にともない、あちこちで「出合う」、「溶け合う」という現象を起してきました。ピジン言語とクレオール言語(「「人間=機械」説(3)」 ※安心してください。お読みにならなくても分かるように書きますので。)という現象です。その意味では、言葉=言語は「内 vs. 外」という対立をいとも「簡単に超える=無効にする」「力=ダイナミズム」を備えています。


 その「出合い」と「溶け合い」によって、新たにできた言葉=言語が、それを話す集団の生活と文化に深くかかわりながら、次第にユニークな属性を「そなえていく=つちかっていく」という過程をたどります。その結果として、「混じり合う」前のそれぞれの複数の言葉=言語がその痕跡をとどめることもあれば、消えてしまうこともあります。


 たとえば、シンガポールの「英語」(※括弧でくくるべきでしょう)を指すシングリッシュでは、上記の家畜を区別する単語の一部は、たぶん用いられていないでしょう。たとえシングリッシュを広義のイングリッシュの一つであるとみなしても(※あえてみなすべきだとは思いませんが)、シンガポールに住む人たちの生活や文化とは無縁の単語は、シングリッシュでは使われていないと思われます。


 また、「英語」(※これも、括弧でくくるべきでしょう)が広く話されているインドやパキスタンを例にとれば、ウシを神聖視するヒンズー教徒と、ブタを汚れたものとみなすムスリム(※イスラム教徒)とでは、その人たちが話す二種類の「英語」は、地域差だけでなく、宗教観を大きく反映しているものと想像できます。


 考えてもみてください。前者はいわゆる多神教であり、後者はいわゆる一神教です。その両者および現在のスリランカ、バングラデシュをつないだのが、かつての「大英帝国=植民地主義の権化」と、その帝国の言葉=言語である英語だったのです。実にきな臭い話ですね。でも、事実なのです。


     *


 それだけではありません。イギリス連邦=英連邦(= the Commonwealth of Nations )という名称で束ねられた旧大英帝国の植民地。かつて「日の沈むことのない」という修飾語を冠した大英帝国の支配下にあった国々や地域では、程度の差はありますが、今でも「英語」が用いられています。「外」から入ってきた or 押し入ってきた「異」なる言葉=言語が、その地域の「異」なる「生活と文化」あるいは「文明」をつなぎ「合わせた」、あるいは、「無理やりくっつけた」。これが、歴史的事実です。


 その過程で、無数と言っていいほどのピジンやクレオールが生まれた。そして、意図的にあるいは恣意(しい)的に、国境という線引きをして英国はその地から撤収した。その結果、現在、世界に散らばる旧英国領で紛争が起き、多数の人たちの血が流れている。これも、事実です。


 英国は、世界中に時限爆弾や地雷を埋めて撤退した。そのように言えば言いすぎでしょうか。言語とは直接的に関係しませんが、線引きという点では、たとえばパレスチナ問題に限って言えば、決して言いすぎだとは言えない気がします。


 ロンドンにある「大英博物館= British Museum 」を、「海賊の倉庫」だとか、「海賊の強奪品の展示場」とか、呼ぶ人たちが世界中にいるのは、当然でしょう。また今になって、「盗んだものを返せ」という声が上がっているのは、理にかなっていると思います。最近のニュース報道を見聞きすると、そう言われている国は、英国だけではありませんね。


 サザビーなどでのオークションに関する、複数のニュースを思い出してください。英国に限らず、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、ドイツ、ロシア、米国、日本など、かつて植民地政策を実行してきた国々が、今英国を例として述べてきたような「歴史的事実」の当事者、正確に言えば加害者だったのです。


     *


 違った視点からも、考えてみましょう。現在、グローバルな大不況の影響下にあるとはいえ、インドは、ITを基幹産業として目覚ましい発展をしつつあります。また、インドは、広義の多国籍企業のグローバルなコールセンターとして、重要な機能を果たしています。たとえば、デル社のパソコンを買った米国内に住むユーザーが受話器を上げて、ある電話番号をダイヤルする。すると、インド訛りの「英語」の声が聞こえてきて、適切なサポートをしてくれる。これも、ありふれた出来事になっています。


 最近では、中国訛りの「英語」も聞かれるといいます。実は、この文章はデル社のPCを使って書いています。サポートが必要になり、指定の電話番号をダイヤルすると、どう聞いても「中国系」の人と思われる方の声が聞こえてきます。もちろん、日本語ですが。


 米国内のユーザーがDELLのコールセンターに電話をする話に戻します。この場合には、事実上の「世界語」としての「英語」の力を無視することはできない、という証しと言えるでしょう。香港では、その歴史的経緯から、「英語」を使いこなせる中国人がたくさんいます。東南アジアに散らばっている華僑にも、「英語」に堪能な人たちが実に多いです。その人たちにとって、英語は生きるための「糧 or 道具」の一つなのです。この視点から考えるならば、グローバルなレベルでの上述の事態には全然きな臭さは感じられません。


 このように、


*複数の「言葉=言語」と文化・生活が「出合う」「溶け合う」「混じり合う」という意味での「あう」


の「過酷な=負の=ネガティブな」側面と、「頼もしい=正の=ポジティブな」側面の両方を、考え「合わせ」たうえで、冒頭の大和言葉と漢字との「出合い」にテーマを戻してみましょう。


     *


 さて話は、がらりと変わります。大和言葉を漢字と「からませる」=「出合わせる」ことで、何が起こるかというと、


*「分ける・分かる」


が生じるということです。


*大和言葉の多重性=多層性が「見える化」=「顕在化」する。


と言ってもいいでしょう。これは非常に「興味深い=感動的な」現象ではないかと思います。たとえば、


*合う=会う=遭う


については、新聞社や通信社が発行している「用語の手引き」や「用字用語集」などに、用法の例が記載されています。つまり、新聞や雑誌という媒体を通し、日常生活で、よく目にする漢字と送り仮名の組み合わせですね。辞書を引けば、微妙な違いが丁寧に説明してあります。例を挙げると、


*目と目が合う/○○さんと会う/事故に遭う


は、基本的な書き分けですね。


*計算が合う・殴り合う・間に合う/理想の人と出会う・席に立ち会う・死に目に会う/災難に遭う・にわか雨に遭う


と、なるとかなり微妙な意味の違いが「書き分け」によって表現できます。さらに、


*「合致する」という意味の「あう」/「集合する」という意味の「あう」/「会合する」という意味の「あう」/「面会する」という意味の「あう」/「遭遇する」という意味での「あう」/「遭難する」という意味での「あう」


と漢語系の言葉と組み「合わせ」て、意味を比較することも可能です。


     *


 で、思うのですが、以上のような意味の違いは、もともと大和言葉「あう」に存在したのでしょうか? それとも、大和言葉と、漢字=漢文=中国語が、少数のインテリ階級 or 支配者階級でバイリンガルの状況が続いている間に、中国語を「見習う」、あるいは、中国語と「出合う」形で、「あう」が新たな意味「合い」を取り入れたのでしょうか?


*「あう」は、もともと「あう」として「あった」のでしょうか? それとも、「あう」は、別の(=異なる)「あう」と出「あって」変化したのでしょうか?


 こういう卵とニワトリのどちらが先かと似た問題は、専門家に任せるとして、素人は、


*今「ある」ままを、観察する。


という方法をとるしかないようです。


 言語学に、


*通時的 vs. 共時的


という対立した考え方=方法論があるようですが、このブログを書いている者には、そのような肩に力の入った姿勢で、言葉=言語と取り組む気力はありません。意味するものを音・声に限定する珍説に義理立てする必要もなし(日本語という現実を生きていてそんな抽象に同調できるわけがありません)。自分なりに、だらだら=のらりくらりとやっていきます。このブログでやっているのは「お遊び」です。と、きのうに引き続き、断っておきます。


 というわけで、卵とニワトリのどちらが先かは不思議ですが、あいにくタイムマシーンがありませんので、保留、つまり、「?」のまま、話を進めます。とにかく、微妙な違いが「ある」ということだけを前提に、考えていきましょう。冒頭に挙げた、


*あう=合う=会う=逢う=遭う=遇う=和う=韲う=敢う=饗う=あうん=阿吽=阿呍=あい=愛


を、再び、ぼけーっと眺めていて、ふと思い出したことがあります。また、脱線させてください。


     *


 たびたび道草して、ごめんなさい。で、思い出したのは、


*「ああ、イヤだ。英語って、どうしてこんなに、ややこしいの?」


という発言です。


 以前、アルバイトで、塾の英語講師として中・高生に英語を教えていたことがありました。その時期に、ある授業で、ある高校生の女の子がため息混じりに、そう言ったのです。英語のスペリングと発音の関係について、愚痴をこぼしたのです。


 確かに、そうですよね。英語には、ローマ字式に読んでも、「ある程度OK」なものもあれば、「なんでこうなるの!?」とぼやきたくなるスペリングの単語もあります。中学の教科書でも出てくる、enough なんて、そうですよね。なんで、イナフなの? eight (※エイト)も、そう。なんで、読まないの?


 gh のことです。ghost(※ゴースト)だと、読んだような読まないような「ゆうれい」に出合った(or 出会った or 出遭った)ような気がするし、through なんて、発音が苦手な th で始まって、どうやら l (※エル)とは違う読み方をするらしい r (※アール)までが出てきて、あれりゃ! 後半はイナフと同じじゃん。


 なのにスルーって読めっていうわけ? 中間テストで書かなきゃならないはめになったら、どう「スル」の? 馬鹿にしないでちょうだい。


と、英語自体に悪態をついても仕方がないので、英語を教える人が生徒の罵倒を浴びることになります。その罵倒が的を射ているために、先生は返す言葉がない。先生も、生徒も、ニッチもさちっちもドーニモぶるどっぐ状態。


 先生としては、英語の語源や、言語の構造=体系を説明して納得させることも一つの手ですが、それに辛抱して耳を傾けてくれる生徒は、まずいない。「ややこしいことをいう先生」というレッテルを貼られたら、生徒の学習意欲をそぐ結果になることは明らか。善意が裏目に出る。友好な信頼関係にヒビが入る。


 フォニックスとやらも、覚えるのに根気が要るし、万能ではない。就学以前のお子さんや、小学生くらいなら、お遊び感覚で、喜んで覚えてくれます。でも、中学で英語につまずいてしまって、高校生になってしまった生徒さんだと、フォニックスでフェニックスのように甦ってくれる確率は、きわめて低いし、時間的余裕もない。無力な先生は、なだめすかして生徒の奮起をうながすしかない。


「そうだよね、英語ってイヤーな言葉だよね。でも仕方ないもんね。じゃあ、一緒に二十回書いて覚えようよ」


と、言いながら、生徒の隣の空席に着くのが関の山でした。これ、実話です。


 おかげさまで、その時は、through のスペリングを、その生徒はなんとか覚えてくれました。スロウグ、スロウグと繰り返し口にしながら、席を並べて一緒に書いた結果です。ああ、なんてテキトーな先生だったのだろう、と反省しています。でも、結果よければすべてよし。とにかく、覚えてくれた。万歳!


     *


 ところで、このブログでは、


*すべての言葉=言語は、ピジンおよびクレオール言語である。


という考え方をとっています。これをまことに下品でエッチな表現で言い換えると、


*すべての言葉=言語は、ぐちゃぐちゃ、くちゃくちゃであり、オージー(orgy)、レイプ(rape)、やり合い、野合などと並行して起きた、相合傘=逢い合い傘=愛愛傘=愛の産物である。


となります。


 そのぐちゃぐちゃが、英語の場合には、スペリングに顕著に表れていると言えそうです。イングランドの「言葉=言語」のくちゃくちゃぶりは、イングランドのぐちゃぐちゃ=くちゃくちゃした歴史と重なっているのです。


 一時は大英帝国に匹敵するくらいの勢いを持っていた、かつてのスペイン王国の言語、スペイン語は、スペリングという点だけをみると「すっきり」していますね。ほとんど、ローマ字式に読めると言っていいほど「すっきり」している。そんなことを、英語講師をしていたころ、上とは別の生徒さんに話しました。


「ほとんど、ローマ字式に読めるの?」


「うん、そうだよ」


「(日本で)英語の代わりにスペイン語を教えればいいのに」


「うん、そう思う」、


という感じでした。


 スペイン語はスペイン語なりにややこしいことがたくさんあることは、黙っておきました。大英帝国ではなく大西王国か? これは、よく考えると暴言ですね。植民地政策であることには変わりはない。前言撤回します。


     *


 で、話を戻します。


 もしも、「大ジャパン帝国」(※「大日本帝国」とは違いますよ。どうか、誤解なさらないでください)だったら? これは、おとぎ話=つくり話=フィクション=大嘘=でまかせ=「せいぜい格好つけてアレゴリー」です。で、繰り返しますが、もしも、歴史上で「大ジャパン帝国」が成立していたとしたら、現在、世界中に大変な苦労をしている人たちが、たくさんいるでしょうね。


 現実の世界で、英語のスペリングで、苦しんでいる人たちが、たくさんいるように。漢字、ひらがな、カタカナ、アラビア数字=算用数字、ローマ数字、略語や記号としてのアルファベット、ローマ字としてのアルファベット、さらには、英語を始めとするヨーロッパの言語の単語やフレーズやセンテンスまでが混じった表記が可能。こんなややこしい言葉=言語の読み書きを勉強しなければならない。でも、この国では、現に、大部分の人たちが、「当たり前みたいに」=「ごく自然に」読み書きしている気になっている(本当は、大変な苦労をした結果なのですけど)。


 これは、この国に住む人たちだけが、きわめて優秀だからなのか? うーむ。そういえば、年表で見ればそれほど昔ではないある時期に、この国以外のかなり広い地域で(※大東亜共栄圏という言葉が想起されます)、上の「おとぎ話」での「読み書きの話」が現実に行われていたのです。もうご高齢ですが、まだそうした読み書きの教育を受けた人たちが生存しています。


 中には、まだ、そのややこしい「言葉=言語」の読み書きをよく覚えている人がいても、驚くにはあたりません。くれぐれも、きな臭い=政治的な話にとらないでくださいね。それは、本意ではありません。お願い申し上げます。で、そう考えるとき、


* 森羅万象=「世界or宇宙」 ⇒ 人間機械=言語能力  ⇒ 正しい文=言語運用


という言語モデルを打ちたて、


*ヒトには言語を習得する能力が備わっている。その能力には、ヒトという種に共通の属性が含まれているらしい。その証拠に、ヒトの子(※特に乳幼児)であれば、人種・民族・出身地に関係なく、どんな言語でも習得させることができる。その能力を「言語能力(linguistic competence)」と、とりあえず呼ぼう。


という、「「人間=機械」説(2)」(※安心してください。この記事を読まなくても分かるように書きますので。)で触れた、Ch とかいう人(※記憶違いでなければ、チョムスキーではないと思いますけど)の直接のお弟子さんか、孫弟子さんか、喧嘩別れなさった人たちが提唱した言語観が、魅力を持っている=信頼できそうだと感じられるのです。


 ただ、一つ大きな問題があります。この言語モデルでは「正しい文=言語運用」という部分が、外すことのできほど重要な意味を持っているらしいのです。


 すると、


*すべての言葉=言語は、ピジンおよびクレオール言語である。= すべての言葉=言語は、ぐちゃぐちゃ、くちゃくちゃであり、オージー(orgy)、レイプ(rape)、やり合い、野合などと並行して起きた、相合傘=逢い合い傘=愛愛傘=愛の産物である。


とは、相容れない=「あい」入れない=「合わない」という結論に達します。ですので、このさい、思い切って


* 森羅万象=「世界 or 宇宙」 ⇒人間機械=言語能力 ⇒ ぐちゃぐちゃな言葉・言語のありよう=言語運用


に変更したいと考えました。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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#言葉


 

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