たとえる(3)

げんすけ

2020/07/18 07:59


「たとえる・たとえ」のメカニズムは、いったいどうなっているのでしょうか? その問いに答えるためには、


(1)説明する : 「何と言ったらいいのでしょうか、たとえばですね……」、


(2)言い換える : 「……とも言えます」、


(3)似た言葉をもってくる : 「ほら、あれですよ。……と似た感じがするんですけど」、


と三つの案が浮かびました。よく考えると、この三つの方法には「たとえる・たとえ」という言葉の代わりに「たとえる・たとえ」以外の言葉を用いるという共通点があります。当たり前ですね。それ以外に方法はなさそうですから。


 いずれにせよ、ただ今行った作業は、「たとえる・たとえ」行為以外のなにものでもない、のではないでしょうか? 国語辞典を作るという作業を連想します。ある言葉を、別の言葉に置き換えて「利用者=読者」に分かるように記述する。やっぱり、その作業も「たとえる・たとえ」です。袋小路に入ってしまいました。発想を転換しましょう。


     *


*ヒトは広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を使用するさいに、一時的に、あるいは部分的に、その「森羅万象」に「なる・なりきる」。


 以上のフレーズは、以前にこのブログで書いた文章から引用したものです。このフレーズを読み返してみると、「なる・なりきる」と「たとえる・たとえ」とは、かなり似た行為ではないかという気がします。


*「なる・なりきる」とは、ヒトがある対象を知覚した瞬間に起きる「酔っ払ったような状態」=「夢を見ているような状態」=「自分が自分であるということを忘れてしまうような状態」=「意識」である。


と「たとえる」ことができるのではないでしょうか? 最後に、そっと「意識」を付け加えたのは、それがヒトのいつもの状態=常態だからです。これを言い換えると、


*ヒトは常に「酔っ払っている」=「夢を見ている」=「自分を忘れている」


となります。つまり、


*「自我亡失状態」=「意識」


なのです。そして、その仕組み=働きが瞬間的なものなら、


*「なる・なりきる」=「意識」=「自我亡失状態」


と言ってもいいような気がします。


     *


*ヒト一人ひとりの持つ「意識」という「たった一台のテレビ受像機のたった一面の画面」を占めていた「自我」が消えてしまい、その代わりに知覚している対象、つまり、ヒトの知覚体験の枠内にある「何か」が、その「画面」にあらわれる=映し出される。


 以前は、以上のように考えていました。でも、今は何だかしっくりこない感じがしています。上の文にある「自我」ですが、そのようなものはないのではないでしょうか?


*「自我」が「消えてしまう」、のではなく、「そもそもない」と考える


ほうが妥当に思えてきたのです。ヒトの意識という画面には、「何か」が映し出されているが、それが「自我」であるということはない。その「何か」とは、ヒトが知覚している情報=データの総体ではないかと思います。


 ヒト(※正確には「ヒトの脳」というべきかもしれません)は、画面に映し出された「画像=情報=データ」を他人事(ひとごと)のように眺めているだけであって、「自分自身を意識している」=「自分のことに集中する」のではない。あくまでも他人事。それを自分の事と勘違いしている。その「勘違い」が「自我」だとも言えるのではないでしょうか。ズバリ言うと、「自我」なんてない、ということです。したがって――飛躍しますが――自分探しなんかしても意味はない、とも言えます。


     *


 部屋に閉じこもって、テレビの画面に映っている番組やゲームの画像、あるいはパソコンのモニターに映っている画像に、見入っているヒトを想像してください。画面に目が離せないほど集中している。または、ぼーっとして画面を見ているものの、その部屋は密室で、調度も窓も何にもない。画面を見るしかすることがない状態。それが、ヒトの意識ではないでしょうか? このように仮定すれば、


*そもそも「他者」に対立する概念である「自我」などというものはなくて、各ヒトの持つたった一台のテレビ受像機の画面には、常にヒトが知覚している情報=データが映し出されている。


となり、


*もしも、ヒトに「自我」があるとれすれば、それはテレビ画面に映し出されている映像ではなく、画面という「器(うつわ)」である。そして、その「自我」は画面には映し出されない、つまり、知覚されない。したがって、「自我」はないと言える。


と言うほうが適切かもしれないという気がします。ヒトは、湯のみやお茶碗のような器である。貝がらや、木に空いた「ほら」、洞くつのような「空っぽのあな=空洞」、言い換えると「空=くう=うつほ=うつお」です。


*ヒトは、常に「何か」(=「ヒトが知覚している情報=データ」)を知覚している「器」である。言い換えるなら、ヒトは、常に「何か」に「なりきっている」。


     *


 以上のような説明の仕方=考え方もできるのではないでしょうか? で、今、思いついたのですが、簡略化されたイメージとしては、コーヒーサイフォンです。


*ヒトとは、知覚器官(=上ボール)と脳(=下ボール)とをシナプス(=足管)によってつながれた、コーヒーサイフォンのような形をした器である。


 知覚器官 上ボール

 │ │

 シナプス 足管 = テレビ受像機の画面 = ヒトの意識

 │ │

 脳 下ボール


 ヒトの意識とは、上記の図の左側にある三つのパーツ全体であるような気がします。脳だけが特権的存在=上部構造=司令塔として、意識=知覚を統率しているというよりも、脳は知覚器官とシナプスを通して、常に信号を交換し合い、連動=連携している、と考えたほうがよさそうです。


 脳、知覚器官、シナプスは、「ダイナミックス=動態」の中にあり、その「動き=働き」が、常に画像(=信号)を映し出しているテレビ受像機の画面にもたとえられる。


*その動きにおいては、「見る ←→ 見られる」という関係性はなく、「見る = 見られる」という「流動性=不確定性」が「立ちあらわれている=生起している」。


というイメージを抱いています。


     *


 以上のように、めちゃくちゃこじつけながら、ヒトの「なりきる」=「たとえる」をたとえてみました。ややこしいですね。もっといいこじつけ方が思いついたら、変更したいと思います。いずれにせよ、


*「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」=「表象作用」を説明するには、「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」=「表象作用」を用いるしかない。


みたいです。当たり前ですね。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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