げん・幻 -4-

げんすけ

2020/07/02 09:33


「まぼろし」を「間を滅ぼす」と読んでいると、知らぬ間に「真を滅ぼす」とも読んでいるような気持ちを覚えます。事物や現象のあいだの隔たりをなくす。これが「間を滅ぼす」だとすれば、その行為は、「真」つまり「真実」と呼ばれているものを、無化するとまでは行かないまでも無力化する作業に近づくと考えられます。


 つまるところ、「真を滅ぼす」とは「真をなくす」です。「真を生かす」お話をしているのではありません。その意味では、殺伐とした場に立ちあうことだと言えそうです。


 間・差異・違い・隔たりがなくなっていく様子は、真実と虚偽という対立した構図が薄れていくさまと重なって見えます。すべては、まぼろし、つまり幻想である、という安易な話におさまってしまいがちです。


 ところで、今、こうしてイメージとたわむれながら書いているのは、あくまでも、うさんくさくて、いかがわしい物語です。実体、現実、事実、そして真実といった言葉が指し示していると信じられている、うさんくさくて、いかがわしい神話とは次元が異なるように思われます。言葉が足りず、ややこしい言い方をしてしまい、申し訳ありません。


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 ここに書かれている駄洒落に満ちたたわいない話も、論証や実証といった手続を踏んだいかめしい科学・学問の話も、うさんくさくて、いかがわしいという点では共通しています。うさんくさいとか、いかがわしいというのは、人知の及ばない事象を、知ったり分かったりできると思い込んでいる状態くらいの意味です。明らかに語弊のある言葉ですが、大切だと思うことを訴えたいときに使っています。


 自分たちにとって免れることができない限界を、ヒトという種は受け入れ、自覚しているでしょうか。これは大切な問いだと思っています。ヒトは、何かの代わりに、その何かではないものを用いるしかない。言い換えると、言葉以前の物・事・現象の代わりに、言葉以前の物・事・現象ではないもの、つまり言葉・記号・象徴を用いるしかない。これが、ヒトの限界です。うさんくささであり、いががわしさです。


 具体的に言えば、知覚という仕組みです。知覚器官から脳にいたるまでの各所で生じているという、信号あるいは情報の伝達と処理(外界から受けた刺激の情報化=データ化)という形でしか、ヒトは世界および宇宙を知覚できないらしいのです。


 こうした仕組みは、ヒトに限らず、この惑星に生息するほぼすべての生き物に共通した知覚の手段だそうです。でも、その仕組みを自覚し、受け入れることができるのは、おそらくヒトという種だけみたいなのです。


 もし、そうであれば、自覚し、受け入れようではありませんか。自分たちの知覚に備わった、うさんくささと、いかがわしさを認めようではありませんか。敗北を認めようというのではありません。むしろ限界を自覚することで、科学や学問の精度は高まるのではないでしょうか。それだけでなく、この惑星での無軌道な行いに歯止めをかける一助になるかもしれません。


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 自分を含め、ヒトのなすことはすべて、いかがわしく、うさんくさい。そうした思いを前提に、ああでもありこうでもある、ああでもないこうでもない、ああでもありこうでもない、ああでもないこうでもあるという具合に、「さまよい・さ迷い・呻吟い」ながら、言葉とたわむれていこうと思っています。


 真剣にならずに本気に、本気にならずになら真剣に、という感じです。何についてもそうですが、半酔または半睡というのでしょうか、一途になって、のめり込むのを避け、風通しをよくしておくことが必要ではないかと自戒しています。


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「まぼろし」という言葉を口のなかで転がしていたら、「マーボー豆腐のロシア風」が転じて「ロシア風麻婆豆腐」という、荒唐無稽とも言えるイメージというか言葉があたまに浮かびました。


 ボルシチをベースに絹ごし豆腐をぐつぐつと煮込むなどという、レシピにまで思いをめぐらしそうになりました。意外と、おいしいかもしれません。冬なんかに、熱々の「ロシア風麻婆豆腐」をスプーンにすくって、ふうふうと息を吹きかけながらすすると、からだが温まりそうです。


 そんなまぼろしに浸っていると、「うつつ・現」つまり現実が、「うつうつ・うつらうつら・うとうと」つまり「ゆめうつつ・夢現」に侵され、やがては「ゆめ・夢」へと移ろっていくようで、いい気持ちになります。夢はすべてを肯定してくれます。それは、夢の主語が何か、あるいは誰かという問いと関係がある気がします。とはいえ、答えは誰にも分かりません。


 いずれにせよ、安心して身をまかせられるのが、夢の魅力です。夢には矛盾はありません。あると感じたら、それはむしろ覚醒ではないでしょうか。夢の後の記憶としては、いくらでも矛盾を指摘できます。一笑に付すこともできるでしょう。覚醒は、その意味で退屈きわまりない体験です。夢では退屈はあり得ません。あれよあれよが夢です。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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