たとえる(4)
げんすけ
2020/07/23 07:53
広義の言葉を使用する限り、ヒトは、
*「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」=「Aの代わりにAでないものを用いる」=「Aの代わりにBを用いる」
という仕組み=働き=メカニズムから逃れることはできないようです。
となると、
*積極的にそのメカニズムを使いながら、常にそのメカニズムを意識する、
というスタンスをとることが、唯一残された道ではないでしょうか。この用心深いスタンスを採用することで、ついつい
*対象(=森羅万象)に「なりきってしまう」ヒトの思考パターンに揺さぶりをかけ、できる限り「なりきりそこねる」ように努める。
つまり、たとえてみれば、「おい、それ以上、酒を飲むなよ」「うとうとしちゃだめ」「自分の住所氏名を言ってみろ」と、自分や他のヒトに声を掛けてやり、目を覚ましたところで、「今、使っているのはたとえだよ。それを忘れちゃだめ」と思い出させてやることです。
*
上記のメカニズムを回避することは不可能なのです。だから、せめてそのメカニズムが働いているのを常に思い出し意識することで、そのメカニズムに備わっている「陥穽(かんせい)=落とし穴」にはまらないように警戒する。そんな戦略をとるのです。それほど気をつけなければならない、上記のメカニズム特有の「陥穽=落とし穴」とはどんなものでしょうか? 「Aの代わりにBを用いる」という言い方を使って説明します。
(1)AからBに話がすり替わっているのに気づかない。
(2)AとBは似ているだけで、同一ではないために、B特有の性質・属性があるのに、その性質・属性がAにも適用されると思い込んでいる。
(3)最悪の場合には、全面的にBを用いながら、Aの話を展開している。
(4)そもそもAもBも、「たとえ」(=広義あるいは狭義の言葉)であることを忘れている。
(5)Aという「たとえ」をAと名付けられた「実体」と混同している。
(6)Aという「たとえ」の代わりに用いているBという「たとえ」を、Bという「実体」と混同しながら、Aという「実体」を思考の対象としているつもりになっている。
ややこしいですね。以下の図式を参考にしてください。
*
「Aという「実体」」(※実際には、ヒトは直接に知覚=認識することができない)
↓
「Aという「たとえ」」(ヒトがふつうAそのものと知覚=認識しているもの=広義の言葉)
↓
「Aという「たとえ」の代わりに用いている、Bという「たとえ」」(※ヒトがAそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)の代わりに、Bそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)を思考や表現やコミュニケーションの道具にしている状況で立ちあらわれるもの(=広義の言葉))
↑
「Bという「たとえ」」(※ヒトがふつうBそのものと知覚=認識しているもの=広義の言葉)
↑
「Bという「実体」」(実際には、ヒトは直接に知覚=認識することができない)
*
以上ですが、図式の真ん中にある、
*ヒトがAそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)の代わりに、Bそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)を思考や表現やコミュニケーションの道具にしている状況で立ちあらわれるもの(=広義の言葉)
は、
*Bそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)
と同じではないかと思われる方がいらっしゃると思います。ごもっともですが、わざわざ区別したのは、前者と後者では、前者のほうに、ヒトの意思や動機や意図とは「おそらく」無関係に「ひとり歩き」するという重大な特性がみとめられるからです。
*
依然としてややこしいですね。具体的な例を挙げます。言うまでもなく、例は「たとえ」です。あくまでも、「たとえ」だということを意識しながら読んでくださいね。書くほうも読むほうもお互いに、対象に「なりきりそこねる」努力をしましょう。
たとえば、
「あなたは天使のような人だ。わたしはあなたがそばにいるだけで心が休まる。あなたとこうして肩を並べ、あなたの背中に生えている翼の先が、わたしの肩先に触れるとき、わたしは最高に幸せな気分になる」
と、「わたし」が「あなた」に話したとします。
馬鹿みたいな例ですね。すみません。さて、説明に入ります。
まず、「わたし」は「あなた=A」を「天使=B」にたとえています。次に、「あなた=A」の「背中=A]に「翼が生えている=B」とエスカレートしています。さらに、その「翼の先=B」という細部にまで、たとえがエスカレートします。
このあたりで、すでに上述の(1)~(6)の全兆候がみられます。どれだけ、「なりきり」状態=錯覚が進んでいるかは、この文を読んだだけでは不明です。というか、判断できません。
続いて、「わたし」は自分の肩先に「あなたの翼の先が触れる=B」とまで言い始めます。かなりエスカレートしてきていますね。その結果、「最高に幸せな気分になる」で文が終わっています。
以上の例のうち、「わたし」が自分の肩先に「あなた=A」の「翼の先=B」が「触れる=B」と言っている部分に注目してください。ちょっと、くどく説明します。「わたし」は「あなた=A」を「天使=B」とたとえているという段階、すなわち、「あなた=A」を、
*Bそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)
つまり「天使」という広義の言葉(※この場合は「わたし」の抱いている架空の存在である「天使」について本や映画やテレビなどで見た視覚的なイメージを頭に描きながら「話し言葉」にしたものでしょう)に置き換えている段階でエスカレートし、「あなた=A」の「背中=A」に「翼=B」を生やしてしまい、その挙句には「翼=B」の「先=B」という細部が「わたし」の「肩先」に「触れる=B」とまで言っています。この部分に、
*ヒトがAそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)の代わりに、Bそのものと知覚=認識しているもの(=広義の言葉)を思考や表現やコミュニケーションの道具にしている状況で立ちあらわれるもの(=広義の言葉)
がみとめられます。
*「あなた=A」を「天使=B」にたとえた「わたし」が、「あなた=A」を相手に話し言葉を用いている状況で、「おそらく」「わたし」の意思や動機や意図とは無関係に「たとえ」がエスカレート=暴走=「ひとり歩き」してしまったのではないか
と思われます。「おそらく」を括弧でくくったのは、判断が難しいからです。
*
*話す、書くという発信行為であれ、聞く、読むという受信行為であれ、ヒトは、その道具である言葉の「ひとり歩き」(※ヒトの意思や動機や意図とは無関係に生じる)という状況に遭遇しやすい。
のではないかと、日ごろから思っています。そんな経験をなさったことはありませんか? 自分や周りの人たち、あるいはテレビで放映される人たちの言動を見聞きしたり、新聞やテレビで報道されるニュースを見聞きするたびに、そうした言葉の「ひとり歩き」がかなり頻繁に起きている気がします。そして、それが原因で重大なトラブルが生じているような印象を受けます。
言葉の「ひとり歩き」には、さまざまな種類がありそうですが、整理はできていません。ただ、「たとえる・たとえ」が原因だと思われる混乱・錯覚や、「酔っ払ったような状態」=「夢を見ているような状態」=「自分が自分であるということを忘れてしまうような状態」=「自我亡失状態」について言えば、これまでの人生で、自分自身および他の人たちが陥るさまを、数えきれないほど見聞きしてきました。
*
なぜ、このようなことがこんなに頻繁に起こるのでしょう? いろいろと考えてみました。
*広義の言葉(=森羅万象の代わり=森羅万象を知覚して得た信号化された情報・データおよびノイズ)を使用する時には、ヒトはその言葉をいったん信じなければならない、つまり、言葉になりきらなければならない、あるいは、自分の意識を委(ゆだ)ねなければならないからではないか?
*ヒト(※正確に言えば「ヒトの脳」 or 「意識」としてのヒト)とは、広義の言葉である、信号化された情報・データおよびノイズを受身的に映像として映し出す「テレビ受像機の画面」ではないか?
*ヒト(※正確に言えば「ヒトの脳」 or 「意識」としてのヒト)とは、広義の言葉である、信号化された情報・データおよびノイズを知覚器官で受信し、シナプスを通して脳に送り処理する「器(うつわ)」ではないか?
*ヒト(※正確に言えば「ヒトの脳」 or 「意識」としてのヒト)は、自分が受信あるいは発信する信号化された情報・データおよびノイズを完全に統御することはできない。統御しそこなった情報・データおよびノイズは、バグや誤作動を引き起こす。ヒト(※正確に言えば「ヒトの脳」 or 「意識」としてのヒト)は、そうした不具合を広義の言葉の「ひとり歩き」、あるいは原因不明の( or 他の原因による)災難・災厄と知覚しているのではないか?
要するに、広義の言葉(=森羅万象の代わり=森羅万象を知覚して得た信号化された情報・データおよびノイズ)に対し、ヒトはかなり受動的であり、無力=劣勢な立場に置かれているらしいということです。今のところは、そんなふうに思っています。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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