げん・幻 -5-

げんすけ

2020/07/09 08:36


「まぼろし」という言葉のなかでも、とりわけ気に入っている「ま・ma」という音を発して遊んでいたら、官能的とも言うべき体験を味わうことができました。


 まず、口をしっかりと閉じます。両唇に力を入れるのがコツです。これが、「m」の発音の構えです。そのまま、声を出そうとしてみてください。鼻から空気が抜けてハミングする状態になりますね。鼻の奥から喉にかけて、わずかな隙間に残っている空気が震えるのを感じ取ってみましょう。


 次に、上の口の構えから、一気に息を吐き出す要領で、大きく口を開けます。口の後部にある軟口蓋と呼ばれる皮膚の外壁と、鼻の奥が、そこを通る空気と共に振動します。これが「a」です。


 以上の「m」から「a」への移行を、繰り返してみましょう。口の動きと状態に集中し、できれば、あたまを「から・空・殻」にして、何度か試してみてください。


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 学生時代に、言語学や音声学をかじったことがあります。そうした分野では、「ma」という音、一つを取っても、それをさらに意味素、形態素、あるいは音素という言葉で「分ける」作業を行っていました。現在でも、あのような言葉が使われていて、あのような作業をしているのかどうかは知りません。


 そうした作業に意味があるのかどうかは分かりませんが、話としておもしろかったことは確かです。そのこじつけの妙技と、荒唐無稽なところが、おもしろかったのです。うさんくさいとも言えます。


 今になって思うのは、たとえば「ma」を分けることで、「何か」が「分かる」のかと言えば、それははなはだ疑問だということです。「分ける」作業で、「何か」が「分かる」のではなく、「生じる」のだとすれば、「まぼろしをいだく」ことではないかという気がします。「ma」と発音してみることで「何かは分からない何か」を「感じ取る」ことのほうが、ずっと刺激的な体験ではないかと思っています。


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「ma」と発音しながら、その行為を「何か」に置き換える作業は、二つに「分けられる」気がします。一つは、意味素、形態素、あるいは音素という具合に、その音の構成要素に「分ける」方法です。もう一つは、「ま・間・魔・真・麻・馬……」というふうに意味やイメージに「分ける」やり方です。


 繰り返しになりますが、両者に共通するのは、「置き換える」、つまり「すり替える」という動作が行われているらしいということです。これは、ヒトにとって免れない行為のようです。


「ma」と発音する行為だけでなく、話を広げて話し言葉と書き言葉について考えてみても、事態は変わらないみたいです。言葉を発する、つまり話したり書いたりする、ヒトという種に特有の行動は、「置き換える・すり替える」という仕組みを基本としていると言えそうです。


 一見、遠いようですが、「置き換える・すり替える」と「まぼろし」とは、深くかかわり合っている。そんな気がします。ふだんは意識されないのですが、そうなっているのに気付くこともあるみたいです。「あれっ」とか「おやっ」とか「あらまあ」という感じでしょうか。


「あはっ」とか「なるほど」とは違います。「分かる」や「ひらめく」のではなく、あくまでも「気付く」のです。「分かる」や「ひらめく」には、あらかじめシナリオが用意されている気がします。やらせや出来レースみたいです。だから、驚きはなさそうです。確認できた喜びならありそうです。


 いずれにせよ、「まぼろし」には驚きが伴う場合が多いようです。喜びが伴うという保証はない感じがしますが、「思い込み」という「まぼろしのまぼろし」というか、「二重のまぼろし・ダブル・double(※この単語を大きめの英和辞典で引いてみてください。おもしろい意味がいろいろあります。)」にはあるみたいです。


 一方で、「すり替わっている」のに気が付かないケースも、意外と多いみたいです。「まぼろし」は「化ける」のがうまいのでしょうか。ヒトが迂闊(うかつ)なだけなのでしょうか。


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「ま・ma」という、音であり言葉であるものの持つ、イメージの喚起力と意味の生成力は、かなり強そうです。「ま・間・魔・真・麻・馬……」という意味の連鎖や、「マーボー豆腐のロシア風」転じて「ロシア風麻婆豆腐」といった荒唐無稽なイメージについての話とは別の考え方をしてみます。


 とは言っても、基本的には似たような「置き換え・すり替え」作業をしているだけなのですが、たとえば、日本語以外の言語で使われている、母親を意味する「ママ・マー・マーマ・マーム・マンマ・ママン」、古い日本語で乳母を意味する「まま・めのと」、ご飯を意味する日本語の「まんま、まま、めし」、日本語以外の言語で、乳や乳房と関係のある「mammal(英語で「哺乳類」)・ mammalian (近代ラテン語で「乳房の」)(※以上はジーニアス英和大辞典を参照しました)」という語に、目を向けて考えてみます。


「ma」という類似だけでなく、さらに細かく「m」と「a」に「分ける」ことも、言語学上は可能らしいです。その上で「m」に注目してみます。すると、「milk (英語で「乳・母乳・牛乳」)・ meolc および milc (古英語で「人間・動物の乳や乳汁」)(※以上はジーニアス英和大辞典を参照しました)」との類似にまで、話を「つなげる」ことができます。


 以上の話を、単なる「こじつけ」とみなすヒトがたくさんいそうです。無理もないことだと思います。確かに、いかがわしくて、うさんくさい話ですよね。それとも、「なるほど」と納得なさいますか。


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「こじつけ」で「でまかせ」ですが、「ma」に言語とまぼろしの根源を見る思いがすることがあります。「リアル」だという、まぼろしの特徴を備えている点が、まさに「まぼろしっぽい」のです。


「ma」という音を出すさいには、「m」から「a」へと口の構えと呼吸を移行させていきますね。「m」とは言語学上は子音と呼ばれているのですが、日本語ではローマ字とは異なる制約があるために、「む・ム・無・无・武・牟・務・夢……」というふうにしか記述できません。


 どうしても「mu」のように、母音の「u」が伴います。もっとも、実際にはあいまいに発音されるようです。「すきやき」や「キムチ」が「sukiyaki」や「kimuchi」ではなく、「skiyaki」とか「kimchi」と発音される場合が多いのとほぼ同じです。


「m・mu」というと、その音に相当するものが数多くあるにもかかわらず、個人的なイメージでは、「無」を特権化させてしまいます。「何もない」という意味の漢字ですね。好きな文字です。めったに目にしない漢字ですが、「む・无」も「何もない」という意味らしいです。


「a」については、「あ・ア・阿・吾・我・彼・亜・嗚……」のうち「阿」を優先させたい気持ちになります。「阿吽の呼吸」というフレーズのイメージが、強いからかもしれません。「阿」を広辞苑で引くと、「阿字(=あじ)」・「阿字観(=あじかん)」・「阿字本不生(=あじほんぷしょう)」などいうフレーズにまで導いてくれて、その意味のうさんくささに驚き入ってしまいます。


 ここでは、「どうだ!」・「梵語だよ。分かんないの?」・「密教だよ。大したもんだろう!」・「真理様の象徴だよ。いやだ、ご存じない?」という具合に、虎の威を借りる狐のような真似はしたくありませんので、ご興味のある方は、大きめの国語辞典で、上記の「阿」の付くフレーズをお調べになってください。意味をお確かめになり、感動なされば、そんないいことはないと思います。


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「あうん・あーむ・おおん・おーむ・おうむ・aum・om」という、言葉とも音とも言えるような言えないような声の出し方があるそうです。インド哲学や仏教と関係ある「聖なる音」らしいのですが、詳しいことは知りません。「ま・まー」や「ma」が「m」から「a」への移行だとすれば、「あうん・あーむ」は「a」から「m」への移行だと言えそうです。


 両者は逆だと考えられるみたいだし、連続して繰り返して唱えれば、「えん・円・縁・延」、つまり「わ・輪・環・和」を延々と描いているようにも思えます。ヒトが口をぱくぱくさせながら「話している」さまを見ていると、そんな気がします。だから、「わ・話」なのでしょうか。「話す」は、両唇を「離す・放す・放つ」、あるいは、声つまり息を「発する・発す」なのでしょうか。


 こういう、でまかせで、トリトメがなく、いかがわしい思いに耽るのが好きです。根拠がないというのは、個人的には、自由という状態を意味します。宙ぶらりんですが、心地よいです。


 唐突ですが、ジャンガリアンハムスターを見ていると、「あーむ」という感じで背伸びをしながら、あくびみたいな仕草をしますね。かわいいです。その様子を見ながら連想したのですけど、ヒトの赤ちゃんの泣き方は、あくびの逆で「むあー」とも聞こえなくもないです。一言発するのではなく、繰り返して「むあーむあーむあー…」と泣くのですから、逆ではなくて、やっぱり「わ・輪」なのでしょうか。


「むあー」と「あーむ」が、始原的な行為だという気がしてきます。なんだか、話が、宗教・カルト・スピリチュアリティ・オカルトめいてきました。一緒くたにくくってしまい、関係者の方には失礼かと思いますが、個人的には苦手な分野です。こうしたたぐいの生業(なりわい)とは、これまで無縁で来ました。この先も無縁でいたいと思っています。


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 宗教、カルト、スピリチュアリティ、オカルト……と、つぶやいていたら、「近親憎悪」という言葉が浮かびました。実際、自分の言動は、うさんくさくて、いかがわしいと思えますし、自意識過剰だからでしょう。


 自意識とは、文字通り、自分の意識について考えることですから、それが近親憎悪とかかわっているかどうかを決定する側にはありません。ですから、何とも言えませんが、「近親憎悪」という言い方に対し、いい気持ちがしないことは確かです。もしも自分の意識のなかに、生業としての宗教・カルト・スピリチュアリティ・オカルトめいたものがあれば、「まぼろし・魔を滅ぼす・魔滅ぼし」したいです。


 もっとも、群れることには大きな抵抗感があるので、仮に魔を滅ぼせなかったとしても、組織には属せないだろうと思います。組織には、ふつうリーダーが必要です。程度の差はあるでしょうが、個人崇拝は避けがたいと思います。そう考えると、やっぱり群れるのは嫌です。でまかせは、ひとりでやるほうが気楽です。罪つくりにもならないと思われます。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。

https://puboo.jp/users/renhoshino77




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