なる(5)
げんすけ
2020/07/19 08:08
言語学という学問とそれを研究するギョーカイがあります。どの業界でもそうですが、さまざまな人がいて、いろいろなことを言いますから、喧嘩やいがみ合いも当然起こります。縄張り争いもあります。さらに言うなら、嫉妬あり、中傷あり、イジメあり、献金あり、です。議論とか論争とか言っても、中身は嫉妬・中傷・イジメ・カネがらみという点では「同じこと」で、どろどろの果し合いです。百家争鳴、百花繚乱といった、りんりんらんらんかんかんほあんほあん的言い方も可能です。「何と名づけようと」、喧嘩は喧嘩です。
その「何と名づけようと」「同じこと」に注目した言語学者が、昔いました。言い換えれば、言葉とその言葉が指しているものごとの間に必然性=因果関係=因縁=切っても切れない関係=腐れ縁などない。要するに、両者の関係は、でたらめ=でまかせ=テキトー=恣意的=気まぐれ=こじつけだ、というわけです。確かスイスの人でした。名前が浮かばないのですが、そのうち出てくるでしょう。気配がするというか催すのです。
ぺらぺらの薄っぺらい言の葉を、お大根の皮をかざせば透けて向こうが見えるほどに超薄切りにする板前さんみたいに、異味スルコトと忌身サレルコトにわけわけするなんて、ある意味とってもシュール、イッツ・ソォ・シュール。あ、出ました。
思わずシニフィアンのトチ狂イを演じてしまいました。解離、離人、憑依かしら。「なる・なりきる・擬態・生成」恐るべし。魔に入られたのかもしれません。
軌道修正します。要するに、意味されるものと意味するものの関係性は、お刺身とその味のように、人それぞれ、人生いろいろ、口にする人によって味は変わる、同一人物でもそのときどきの気分でまちまち、ちまちま、同一物でも、時がたてば味も移り変わる、諸行無常、パンタレイ、男心と秋の空。つまり、きわめて気まぐれで、恣意的で、テキトーだという意味です。何だか、現代詩みたいなややこしい説明になってしまいました(現代詩さん、ごめんなさい)。
とにかく、言語学のギョーカイでは画期的な出来事=事件みたいだという話です。
ですので、
*「秋」を「あき」と言おうと、 fall と言おうと、autumn と言おうと、「なる=成」と言おうと、どうぞお好きなように、正解なんてなし、
という感じです。
*
でも、というか、ところで、その「秋」って何でしょう? 四季のない地域に住む人たちにとって、「秋」は体感=知覚できないものです。たとえば、赤道直下に住むたちを考えてみましょう。
アフリカ、インド洋の島々、東南アジアとオセアニアの間、南太平洋の島々、南アメリカには、赤道直下の地域があります。そこには、「春夏秋冬」という「現象」 or 「観念=概念=五感で知覚できないもの」である「春夏秋冬」を知らない、あるいは聞いたことがあるけど経験したことがない人たちがたくさんいます。さて、そこで暮らしている人たちは、どんな言語を話しているのでしょう?
大昔から先祖代々伝わってきた、いわゆる「現地の言語」を話している人たちもいれば、歴史的な経緯から「現地の言語」を奪われて、そもそもヨーロッパで話されていた言語を話している人たちもいるでしょう。かつて、インドネシアの周辺や南太平洋のアジア寄りの地域では、日本語で教育を受けた人たちがいましたね。いつだったか、南太平のある島に住むかなり高齢の現地の男性が、流ちょうな日本語を話しているのをテレビで見て、びっくりしたことがあります。
その人は、幼いころから数年間日本人が作った学校に通い、日本語で教育を受けていたらしいのです。当然、「秋」という言葉も習って知っているでしょうね。教科書は、当時の日本で使われていたのと同じものだったようです。「春夏秋冬」、それに「雪」なんて「言葉」も「知っている」に違いありません。でも、
*「雪」という「言葉」は「知っている」けれど、「雪の実物」を見たことも触ったこともないだろう、
とも想像できます。
これも、想像ですが、その人が住んでいる島やその周辺の島々には、現地の言語が「奪われる」ことなく残っていて、現在、日常生活ではその言語を話している可能性もあるでしょう。いや、日常生活では、新しい支配者の言語である英語とかフランス語とかを話しているかもしれません。それでもなお、現地の言語がまだ残っている可能性は捨てきれません。
ふだん複数の言語を話している人たちは、世界的な規模でみると意外と多いみたいです。特殊なのは、むしろ日本みたいな国だと言えそうです。話を戻します。さきほどの、南太平のある島とその周辺の「現地の言語」が、英語などと併用される形で、依然として使用されていると仮定しましょう。その言語に「春夏秋冬」、「季節」、「雪」という言葉に相当する言葉があるでしょうか? たぶん、ないのではないでしょうか? あったとしても、外来語として存在すると考えるのが妥当だという気がします。
*
とはいうものの、そうした状況は、この国に住んでいてもざらにあると思われます。たとえば、アマゾン川流域にしか生息していないという動植物。ものすごく多いらしいですね。言葉としては、辞書や百科辞典に載っている。または、グーグルやヤフーで検索すれば、ひらがなやカタカナや漢字で表記され、その映像(=写真・動画)まで目にすることができるかもしれません。
言葉=名前と映像で知っているけど、実際に知覚=見たり触ったりしたことはない。そういうものが存在するということが、不思議でなりません。当たり前のようですが、よく考えると摩訶不思議。あくまでも個人的な感想ですけど。
話が大きくなりすぎましたね。もっと身近な例で、考えてみましょう。テレビをつけてみたとします。実際に、近くにテレビがある方はつけてみてください。そこに映し出されているものを、実際に見たり触ったりしたことがありますか? あるいは、画面に映っている場所に行ったことがありますか? 100%のうち99.9999…%の確率で、「ない」のではないでしょうか?
CMを見ながら、「いや、あるよ。ほら、今CMをしていた、あれと同じシャンプーなら、うちにもあるよ」なんて叫んでいる方もいらっしゃるでしょう。同じシャンプーには違いないでしょうが、同一のシャンプーですか? もし、そうなら、あなたか、そのCMに出ている人のどちらかが盗んだことになりません?
それから、あなたが行ったことがあるという、その場所ですけど、同じ場所には違いないでしょうが、同一の場所ですか? もし、そうなら、あなたは今、そこにはいないことになりません? 人はある瞬間に二つの場所に同時に存在することはできないような気がしてなりません。記憶や想像の中での場所なら話は別ですけど。
今問題にしている、同一とはそういう意味です。抽象ではなく、極めてリアルな、つまり今実際に知覚=見たり触ったりできる、「そのもの」と「ここ」を問題にしているのです。
*
いやですね。こういう屁理屈、こじつけ。へそ曲がり、偏屈者の言うゴタク。不毛なスコラ哲学の議論(スコラ哲学に悪いですね、ごめんなさい)や、もったいぶった禅の公案(禅の公案に悪いですね、ごめんなさい)や、いかがわしい宗教などでの洗脳の際に用いる戯言や、絶対多数を得ているからこそ看過されている与党の強弁みたいです。
こういうのって、本当にいやですよね。話をすり替えやがって、上の「同一の話」は、おまえが言ったんだろう、ですか? そ、そうですね。とにかく、ごめんなさい。頭の体操をしていると思って、許してください。冒頭で、言語学のギョーカイなんて書いたので、ついねちっこい口調になってしまったようです。え? 絡み酒なんかじゃありませんよ。昼間からお酒なんか飲んでいませんし、そもそもお酒は体質的に無理なんです。
どうやら、この連載のタイトルである「なる」に共振して、またもや、なりきり=擬態=憑依が起こったみたいです。私はふだんはこんなにねちっこくはないですよ。とにもかくにも、冒頭の文言が影響したのは確かだと思われます。自己嫌悪と被害妄想とそれらへの言い訳が収拾つかなくなってきたので、ここで止めます。ああ、「なる・なりきり・生成」は恐ろしい……。
*
話をもっと簡単にしましょう。
*言葉が何を「指している=意味している」のかは、分かっているようで、よく分からない。
*「言葉」と「その言葉が指すもの」の関係はかなりテキトーであるらしい。
そんなふうに言えませんか? でも、こんなことを考えながら、生きていく=生活していく必要も義理も責任も全然ないことは確かです。ちょっと、頭に揺さぶりをかけてみる。たまには、そんな頭の体操をして、脳を活性化させてみましょうよ。頭がかっかしてくれば、それでもう上の話は忘れましょう。それだけが、目的だったのです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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