たとえる(5)
げんすけ
2020/07/24 08:09
例の馬鹿みたいな話を蒸し返させてください。
*「あなたは天使のような人だ。わたしはあなたがそばにいるだけで心が休まる。あなたとこうして肩を並べ、あなたの背中に生えている翼の先が、わたしの肩先に触れるとき、わたしは最高に幸せな気分になる」と、「わたし」が「あなた」に話したとします。
です。
何度読んでも、くだらない文章です。では、視点を変えて考えてみましょう。「わたし」と「あなた」って、誰なんでしょう? 恐縮ですが、もっと長めのバージョンをお読み願います。
*
*「あなたは天使のような人だ。わたしはあなたがそばにいるだけで心が休まる。あなたとこうして肩を並べ、あなたの背中に生えている翼の先が、わたしの肩先に触れるとき、わたしは最高に幸せな気分になる。真綿のような羽根のかたまりが、わたしの肩にもたれかけてくる。その柔らかな重みがわたしに力を与えてくれる。わたしは思わず手を伸ばし、翼に包まれたあなたの肩を抱く。あなたの体温がわたしの腕、そして胸へと伝わってくる。あなたの体が意外に熱いのに、わたしは驚く。あなたの体がわたしのほうに傾いてくる。あなたを受けとめようとわたしもあなたに体の重みを預ける。あなたを支えきれなくなりそうで、わたしは体をずらしてあなたの上体を両腕でかき抱く。顔と顔が接する。そのとき、あなたが涙を流しているのを感じた。別れは近い。あなたが翼を広げ、天に帰る時が近づくのを、わたしは悟る」
えらくエスカレートしてきました。さて、「わたし」と「あなた」って、誰なんでしょう? そもそも、これは、どういう場面なのでしょう? この文章は何なんでしょう?
冒頭で、「あなたは天使のような人」だと言っていますから、「あなた」は「ヒト」だと考えられます。「わたし」は「あなた」を「天使」にたとえているということですね。「……のような」が使われていますから、「修辞法=レトリック」で「直喩=明喩(※シミリー)」と呼ばれている技法です。
「天使」というたとえを使ってしまった都合で、「背中」に「翼」があることになり、その「翼」の「先」まで話が細かくなっていき、たとえである「翼」=「羽根のかたまり」が「真綿のような」と形容されて、「真綿」にたとえられる。
*たとえがたとえを生んでしまっている
ということですね。要するにエスカレートしているわけです。
「わたし」は「あなた」を「力」「体温」「重み」「熱」という要素で知覚していきます。これも、一種のたとえです。「あなた」という対象の「一部=要素」で「あなた」という「総体」を置き換える。このようなたとえ方を、修辞法=レトリックでは「換喩(※メトニミー)」とか「提喩(※シネクドキ)」と読んでいます。「力」「体温」「重み」「熱」といった言葉が使われているくらいですから、「わたし」と「あなた」はドッキングしていきます。
次に「顔」が「接する」ことで、「わたし」は「あなた」の「涙」を知覚します。「涙」が「別れ」のたとえであることが、すぐに分かります。「別れ」は「あなた」が「翼を広げ」、「天に帰る」という言葉に置き換えられる。これも、たとえといえばたとえでしょう。
*言葉同士がたとえ合っている
とも言えます。たとえの「一騎打ち」「同士打ち」「ガチンコ」みたいですね。くどいですが、ただ今書いたフレーズもまた、たとえです。それにしても、上のくだらない文章に出てくる、
「わたし」って誰? 「あなた」って誰? ここはどこ? そもそも、この文章って何?
*
読むということ、そして書くということが、いかに「テキトー=恣意的=なんでもあり=でたらめ」であるかをめぐって、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもあると研究者たちが言い争う、百家争鳴=百花繚乱状態が長きにわたって続いているようです。
もう終息しましたか? 不勉強なので、最近のギョーカイの事情には通じていません。ちょっと気になるので、たった今、"開かれた作品" "開かれたテクスト(or テキスト)" をグーグルで検索してみましたが、細々とながらも議論している人たちが、まだいるようです。
さて、上の文章ですが、書いてあることに沿っている限り、どのように解釈しても構わないと思います。正解なんてありません。その文章を書いたヒトがしゃしゃり出てきて「実はこうこうなんですよ」なんて「種明かし」したところで、そんなこと「カンケーネー」とせせら笑えばいいのです。実際、「関係ない」のですから、無視して大丈夫です。書いたヒトの特権なんてありません。仮にあったとしても、せいぜい「著作権」とか「知的財産権」というお金がらみのお話だけです。
*
ところで、あの文章って誰が書いたんでしょうね? ひょっとして、この自分ですか? どんなメッセージを込めて書いたのでしょうね? 忘れました。何しろ、書いている言葉に「なりきって」しまい、メッセージや意図を考えたり、込めるなんて余裕はありませんでした。
書いているうちに、言葉がどんどん自分から離れていくような気分になり……。いわゆる「作者はいない」状態ですね。言葉が「ひとり歩き」してしまいまして、えへへ――。これじゃあ、まるで、政治家や官僚の言い訳じゃありませんか! ああ、みっともない。失礼しました。
自分でキーボードを叩いて書いておきながらも、特権的立場=「 It's mine. 」=「わたしは作者だ」=「無断での複製・複写を禁ず」など、自分にはまったくなく、あの文章は書き手であっら自分の手を離れた、いわば「絵に描いた餅」=「砂上の楼閣」=「蜃気楼」=「まぼろし」=「何だ、これ?」みたいなものなのです。と言ってしまっては、話がおしまいになりますので、またちょっと視点を変えて、遊んでみましょう。
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アレゴリーってご存知ですか? アレゴリー? アレって、ゴリ押しに訳の分からないことを書いておいて、実はこんな意味があります、なんていう一種の修辞技法=レトリックでしたっけ? そうなんですよ、カワサキさん。
さきほど挙げた「死ね口説き=シネクドキ」、「てーゆー=提喩」、わけの分からないテクニックの親戚です。例の拙文=駄文を、アレゴリー=寓喩=寓意=諷喩として扱ってみたらどうでしょう?
そういえば、聖書もアレゴリーに満ち満ちていますね。それはさておき、あの馬鹿みたいな文章をアレゴリーとして読んでみたら、少しはお勉強っぽいことができるかもしれません。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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