かわる(6)
げんすけ
2020/07/06 08:51
「かわる・かえる」と「わかる・わける」にそれぞれ漢字を当てることによって、両者の持つイメージ、つまり意味の広がり=構造がわかるような気がします。かつて自前の文字を持っていなかったらしい日本語に、中国の文字が加わったというか入りこんだ状態になった。そして、漢字の形を少し変えてひらがなとカタカナを作ったというようなことを、学校で習った覚えがあります。
こうした経緯についての専門的な知識はありません。したがって、あくまでも素人として、手持ちの知識を動員して自分なりに考えてみたことを書いてみます。話し言葉だけで存在していた大和言葉に、漢字を当てる過程では、大雑把に言って次のような作業が行われていたのではないでしょうか。
漢字は表意文字だと言われています。文字通り受けとれば、意味を表す文字ですが、当然のことながら、音声もまた表しています。その漢字に、音声だけで存在していた大和言葉を当てる、という作業をしたわけです。これは、このブログで何度か用いてきた
*「感字」
にほかなりません。
*「 kawaru 」にこの漢字を当ててみようじゃないの
という感じです。音の似ている中国語に、大和言葉の音を当ててみたのです。そして、「かな=仮名=仮の名」を作ったということでしょうか。「仮の名=かりのな」を「借りた名」と当て字してみたい誘惑に駆られます。
昔々に、こんなことができたなんて、きっと当時のインテリ階級の人たちでしょうね。正確に言うと、バイリンガルな少数の知識人たちです。帰化人もいたかもしれません。そういう人たちの「輪=ネットワーク=サークル」があったのではないか、と想像します。そうだとすれば、ある程度の統一性=共通性のある表記が定着しつつあったのではないか、とまで推測できます。
もし、すでに漢字を変形して仮名ができていたとするなら、次の段階は、音ではなく、大和言葉の意味を表すために、仮名と漢字を「当ててみた=組み合わせてみた」。つまり、
*「 kawaru 」の意味に「近い=相当する」中国語の「文字=漢字」と仮名を当ててみた。
この場合の「当ててみる」とは、たぶんくっつけてみることだと考えられます。
その結果として、
*「かわる」=「変わる・変る」=「代わる・代る」=「替わる・替る」=「換わる・換る」ができた。
要するに、いわゆる「送り仮名」が決められた。そして、誰かによって決められた「当て字と送り仮名」が普及すると、それが手本=見本=標準=規範=いわゆる「正しい」表記法となった。きわめて大雑把ですが、簡単に言えば、そうした作業が行われたのではでないでしょうか。
*感字とは、論理的であるようで、意外と感覚的=いい加減=テキトー=暫定的=とりあえず的な作業だ
と思っています。現在の慣用的な表記もまちまちですが、とにかくその複数の慣用的な表記法ができるに至るまでには、きっと紆余曲折を経てきたことでしょう。文部科学省といったお役所も、出版界といった導き手も、文壇という権威も、全国ネットの新聞社という知識・情報の普及の担い手もなかった時代のほうが、ずっと長かったのですから、そうにちがいありません。
*
要するに、
*日本語の表記はばらばらだった
のです。それが、現在になって一応の落ち着きを見せている。でも、あくまでも「一応」です。お役所や、権威や、知識・情報の普及の担い手などが、ちょっとした違いはあれ、せっかく「統一された」表記法を完成させたのに、20世紀の終わりころに「強敵=手強い掟破り」が現れたのです。
「強敵=手強い掟破り」とはネットです。
*インターネットやケータイが「国語を乱し始めた」
のです。感字という、ダイナミックス=運動=活動=勝手きままな動き=「何だか知らないけど、みんながやり始めたからやってみよう」=「おもしろい、この言い方(or 書き方)「こんなのは、どうかなあ」=「ねえねえ、こういう言い方(or 書き方)が流行っているんだって、うちらもやってみようよ」が、ネットによって加速化=激化=活発化=活性化されてきたように感じます。
「かわる・かえる」と「わかる・わける」に話を戻します。両者のイメージを、リスト化=チャート化=見える化してみて、言葉がいかにぐちゃぐちゃした=ほぼ支離滅裂状態にあるかがわかりました。具体的には、「かわる(4)」では「わかる・わける」を、そして「かわる(5)」では「かわる・かえる」のぐちゃぐちゃぶりを調べてみました。
*
そういうわけで、ここでは、「わかる・わける」も「かわる・かえる」も、ぐちゃぐちゃしているという前提で、話を進めます。その「トリトメのない=テキトーな状態」に、とりあえず「理屈=道筋=ルール=約束事」をつけて「感字 or 当て字 or 送り仮名」を採用することにより、何とか整理がつき、ぐちゃぐちゃしているなりにも、多くの人たちに納得 or 妥協 or 追随 or 支持される形で、慣用的な表記法が仮設されたというべきでしょうか。
もっとも、「仮設」ではなく「確立」ではないか、と主張なさる方もいらっしゃるに違いありません。でも、現在の日本人が明治時代、江戸時代、あるいは平安時代と同じ言葉を話したり書いたりしていないのですから、「仮設」としておきます。
で、「仮設」という語を採用したことからおわかりになるように、少しばかり、あやういんです。カーテンを「取り替える」とするか、「取り換える」とするか? 中には「取り変える」でいいんだ、と言い張る人もいそうです。じゃあ、中をとって「取りかえる」にしておこう、と言う人も多いでしょう。一方で、ネット上では「今日、部屋のカーテン、とっかえた」とか「きょう、部屋のカーテン、CHANGEしたっス」なんて書かれていても、全然不思議ではありません。
いずれにせよ、これくらいのレベルでは、大した問題にはなりません。たとえ、これ以上のレベルで言葉遣いが変化をしたとしても、何とかやっていけるでしょうし、実際にやってきたのであり、現にやっているのではないでしょうか。
「ぐちゃぐちゃ」から「すっきり」へ。正確に言うと、
*「ぐちゃぐちゃ」であるのに、「すっきり」だと勘違いしてしまう。
そうした「勘違い=錯覚=思い込み」ができるのですから、ヒトはやっぱり、頭がいいです。いずれにせよ、
*ああでもない、こうでもない、ああでもある、こうでもある、と言いながらも、それなりに=テキトーに、ヒトはコミュニケーションをしてしまう
のです。
さて、次回は、「かわる・かえる」と「わかる・わける」のシンクロする=かぶる=ダブる=重なる=関連し合う部分について書いてみたいと思います。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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