げん・幻 -6-

げんすけ

2020/07/15 08:06


 類似、つまり「似ている」という感じを、ヒトは重視しているようです。「似ている」は、「つなげる」、「こじつける」、「たとえる」にも、「似ている」感じがします。


「比喩」という、抽象度が高く、強い響きのある漢語でくくることもできそうです。「比喩」というと、個人的には、「表象・表象作用・再現・ルプレザンタシオン(représentation)・代理・代行・再現代行・代行作用・上演・再現前・再現前化」など、ある種の人たちが多用する一連の類語を連想します。


 学生時代には、そうした言葉たちがよく使われる領域を勉強していました。今は、そのたぐいの分野の勉強はしていません。もともとお勉強は好きではありませんでした。好きなことだけ学ぶ。そんな感じでした。年を取るごとに学ぶことすら億劫になってきて、この数年間は、読むより書く時間のほうが長くなっています。


 インプットするよりアウトプットするという具合に、横着な態度が身についてしまいました。アウトプットと言っても、出るに任せて書く、つまりでまかせを並べているだけですから、やはり横着としか言いようがありません。書くといっても、かゆい皮膚を掻くようなものです。かゆい。確かにむずがゆいです。


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 ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。


「比喩」や「たとえ」を、今述べたフレーズに、言い換えることもできそうです。「その「何か」ではないもの」とは、「何か」の「代理」であるわけですから、「何か」と「その「何か」ではないもの」とのあいだに、「似ている」という「感じ」がすることが、ヒトにとっては大切な基準となると考えられます。あくまでも、「感じ」つまり「イメージ」です。あるいは、もっと生物学的に記述して「知覚」でしょうか。


 唐突ですが、「似ている」と「まぼろし」とは「似ている」と感じられます。「まぼろし」を「間を滅ぼす」と読み、「複数のものたちのあいだにある隔たりをなくす」という考え方をするならば、両者は「似ている」ほどの意味です。ここでも、「ま・あいだ・あわい・間・さい・際・差異」という言葉とイメージが、かかわってくるようです。


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 人面○○という言葉がありますね。たくさんありそうです。こうした現象に共通するのは、いろいろなものに、ヒトの顔を見てしまうという点です。ヒト以外の生き物の顔、毛皮の模様などヒト以外の生き物の身体の一部、ヒトの皮膚にできた出来物はもとより、無生物、つまり、壁や天井の染みの一部、カーテンの模様、空に浮かぶ雲、石や岩といったものに、見えるはずのないヒトの顔を見てしまうのです。


 きわめて主観的な現象のようですが、複数のヒトたちに共有される感覚だということになると、主観的では済まされないという思いに、ヒトはとらわれるみたいです。ただ事ではない、という感じでしょうか。人面○○だけでなく、イエスや聖母の顔・姿、あるいは観音像が何かに出現したという噂をめぐって、大騒ぎする例があるのも、理解できる気がします。


 ヒトは、ヒトの顔や表情に大きな反応を示すと言われています。ヒトが赤ん坊のときから、観察される習性のようです。顔と表情とは区別して、つまり「分けて」考えるべきだという気がします。「顔」が即物的な意味合いを持っているのに対し、「表情」という言葉にはトリトメがないというか、抽象的なニュアンスを感じます。


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 顔をつくる。これも、ヒト特有の習性みたいです。


 表情をつくる。お化粧をする。仮面やお面をつくる。ヒトやヒト以外の生き物を描く。「にんぎょう・ひとかた・人形」をはじめ、ヒト以外の生き物に「似せた」ものをつくる。今挙げた一連の行為には、たいてい、「顔をつくる」という行為が含まれていると思われます。


 顔を構成するパーツは、目、口、鼻、頭という順序で重要度が決まっているのではないかと、個人的に感じています。どういうわけか、哺乳類・爬虫類・鳥類・両生類・魚類・昆虫には、たいてい、目、口、鼻、頭が備わっているように「見えます」。


 とりわけ目が特権的な位置をもっている気がします。目を「見て」、あるいは、目に「見られて」、やすらぎを覚える場合もありますが、怖い、不気味だ、心が乱されるという思いにとらわれることも多いです。人面○○のたぐいだと、後者がほとんどだという気がします。


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 生き物の生態を写した映像を、テレビなどで見るとき、ヒト以外の生き物をつい擬人化している自分を意識し、はっとすることがあります。そうした映像に添えられるナレーションが、被写体である生物を擬人化した物語となっていることにも、気が付く場合があります。


 テレビや映画に限らず、身の回りを見ると、「にんぎょう・ひとかた・人形」だけでなく、擬人化された生き物を模した玩具のたぐいや絵が多いのに驚かされます。いわゆるキャラクターという映像つまり視覚的イメージや、キャラクターグッズという物体や、人面○○と呼べそうなものに取り囲まれているのにも、驚かされます。


「何か」に似たものに囲まれているというぼんやりとした感じから、世界そして宇宙は比喩あるいは暗号であるという確信までは、ほんの数歩だという気がします。「何か」とは、必ずヒトの属性を備えているように思われます。


 ヒトにとって、森羅万象は「ヒトのようなもの」なのかもしれません。そう思うと、ヒトはある種の「心の病」にかかっているとも言えそうです。


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 擬人化されたものが、夢にまで出てくるのには、閉口し感心もします。思いつき、つまり、でまかせですが、夢というのは、擬人化という仕組みを原理としているのではないでしょうか。夢のなかでは、何もかもが、ヒトである自分と通底しているように思えてなりません。


 夢の主語は自分であり、自分と万物のイメージをつなげる、非人称的で匿名的でニュートラルな仕組みだという感じもします。「非人称的で匿名的でニュートラルな」というのは、ヒトに深くかかわりながら、ヒトがコントロールできない自立した状態にあるという意味です。だから、ヒトは夢のなかで自由であると同時に不自由を感じている、という気もします。


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 ヒトと、ヒトが知覚する森羅万象とは、ヒトの意識および無意識のなかで「つながっている」というか、比喩的な意味で「血縁関係にある」のではないか。もしかすると、それは、ヒトの知覚と意識のなかにおいてだけでなく、宇宙に広がっている仕組みなのではないか。ふと、そう思いました。


 ヒトという種に特有の、身の程をわきまえない不遜な考え方だと反省しつつも、こういったことについ思いをめぐらしてしまいます。致し方ない気もします。ヒトからこの性癖を取り除いたら、何が残るのでしょう。尻尾のないおサルさんたちのなかでも、とりわけひ弱い種でしょうか。


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 ここであることは、むこうでもある、同時にいたるところである。大雑把で、飛躍しているうえに、いかがわしい考え方かもしれませんが、そういう気がします。根拠はありませんが、そこに「つながり」、しかも「血のつながり」を感じます。「血」とは、もちろん比喩です。


 すべてのものが「血でつながっている」から、さまざまなしがらみや制約から意識が解放されている夢のなかでは、何もかもが肯定されるという形で、知覚され意識されるのではないか。そんなふうにも思います。


 知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理される。これがヒトにおける知覚および意識だとすれば、よく見聞きする安直な考え方である、「すべては幻想である」という物語に行き着きそうです。その考え方を部分的に拝借すると、夢と現(うつつ)とは、幻(まぼろし)つまり、「まを滅ぼす」という仕組みによって「つながる」と言えるように思えます。


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 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。


 ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、外界から受けた刺激が、情報あるいは信号として、神経と脳で伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識を成している。


 存在をめぐるすべての物語や神話は、今述べた、個人的に気に入っている二つのイメージの変奏なのでしょうか。このイメージが思い込みとなっているために、「(世界や宇宙においては)何もかもがつながっている」とか「(夢のなかでは)何もかもが肯定される」と感じられるだけなのかもしれません。


 きっとそうです。思い込みの産物でしょう。心の病のあらわれでしょう。投げた言葉は、たいてい自分自身にかえってきます。メタな立場に立つ、つまり自分を棚に上げることのできるヒトはいません。自分で自分を見下ろす視点はないように思われます。幻界は言界であり現界でもあり限界だと言えそうです。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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