たとえる(6)

げんすけ

2020/07/25 08:00


*「あなたは天使のような人だ。わたしはあなたがそばにいるだけで心が休まる。あなたとこうして肩を並べ、あなたの背中に生えている翼の先が、わたしの肩先に触れるとき、わたしは最高に幸せな気分になる。真綿のような羽根のかたまりが、わたしの肩にもたれかけてくる。その柔らかな重みがわたしに力を与えてくれる。わたしは思わず手を伸ばし、翼に包まれたあなたの肩を抱く。あなたの体温がわたしの腕、そして胸へと伝わってくる。あなたの体が意外に熱いのに、わたしは驚く。あなたの体がわたしのほうに傾いてくる。あなたを受けとめようとわたしもあなたに体の重みを預ける。あなたを支えきれなくなりそうで、わたしは体をずらしてあなたの上体を両腕でかき抱く。顔と顔が接する。そのとき、あなたが涙を流しているのを感じた。別れは近い。あなたが翼を広げ、天に帰る時が近づくのを、わたしは悟る」


 上で引用したのは、前回の「たとえる(5)」で取り上げた例の馬鹿みたいな話ですが、あのようにたとえがエスカレートしていく話を、実際にあなたの目の前で、誰かが口にしたとします。たとえば、あなた、あるいは、相手の人の部屋で、です。相手は、あなたと別れることを前提にしていることは確かですね。


 とにかく、そんなシチュエーションなのでしょう。想像してみてください。不気味じゃありませんか? 「ばーか」と、あなたがひとこと言えば、「ごめん」なんて言いながら舌を出すくらいの性格の人なら、心配は要りません。


 一方で、冗談が通じないような、とてもシリアスで一途な人から、あんなことをじっと目を見つめられて言われたら、どうします? こっちとしては、へたなことを言えませんよね。相手は、ストーカーになる素質十分じゃないですか? 言葉を選んで、感謝の意を表し、そうそうにお引取り願いたいですよね。


     *


 さて、アレゴリーの話に移ります。アレゴリーについては、さまざまな定義があります。特に聖書がからんでくると微妙になります。聖書はあくまでもキリスト教およびユダヤ教という宗教の「聖典」であると考えている人たちにとって、聖書を一種の「文献」や、「古文書」、「文学作品」、「テクスト(=テキスト)」としてとらえるスタンスは、なかなか容認できないでしょう。


 でも、そうしたスタンスの学問領域もあれば、そうしたスタンスで聖書を研究の対象とする人たちが、アカデミックなギョーカイにいます。欧米であれば、そんな人たちに対する風当たりは強いだろうと思われます。場合によっては、命がけの行為かもしれません。


 話を戻します。


 一般には、アレゴリーとは、「あなたは天使のようだ」(直喩=明喩)のように、「……のよう」「……みたい」を使わずに、「あなたは天使だ」とズバリ表現する「隠喩=暗喩」を多用したストーリー性のある文章と言っていいかと思います。グーグルなどで検索すると、その他にも、さまざまな領域でさまざまな定義があるようです。ここでは、対象を文章に絞って話を進めます。


 隠喩を多用した一貫したストーリー性のある文章だと定義すると、当然のことながら、かなり長いものまで指すことになります。比較的新しいものでは、ジョージ・オーウェル作の『動物農場』や、ジョナサン・スウィフト作の『ガリバー旅行記』といった一編の文学作品、そして、古いものでは、バニヤン作の『天路歴程』(※すごく長いらしいです)や、渡辺淳一ではなくてミルトン作の『失楽園』(※すごく退屈らしいです)、十三世紀のフランスで書かれたという『薔薇物語』(※これも長くて退屈らしいです)といったものがあるそうです。


 個人的には、隠喩に満ちたストーリー性があるちょっとした小話程度のものをイメージしています。これだと、今も、エッセイや、小説、ブログ、日記、マンガ、アニメ、会話などの形で、その辺に転がっていそうな感じがします。


 一編の作品としてではなく、長い文章において断片的=部分的に挿入されている短いものもアレゴリーに含めましょう。たとえば、このブログの「たとえる(5)」で出てきて、この記事の冒頭にコピペした、あの馬鹿みたいな話のように。あれくらい不完全でテキトーなものも、「アレっ、ゴリ押しじゃん」という感じでアレゴリーとして考えちゃいましょう。


 あの話の「わたし」と「あなた」は恋人同士で、場所は病院の個室。見舞いに来た「わたし」は、余命いくばくもない患者の「あなた」が上体を起こしているベッドの横にある椅子に腰かけている。時刻は午後の二時くらい。まどろんで半分夢見ている状態の「わたし」が、「あなた」を天使に見立ててそっと肩を抱いている、という設定。あるいは、「あなた」が亡くなった後に、「わたし」が「あなた」との上記の病室での出来事を回想している設定でもいいでしょう。


 こういう設定ならば、「直喩=明喩」が「隠喩=暗喩」へとエスカレートしていき、非現実的、つまりおとぎ話めいた表現になるのも説得性があるのではないでしょうか?


     *


 あの話を、本格的なアレゴリーにすることも可能です。たとえば、「わたし」と「あなた」は敵対関係にある隣国同士。「わたし」国は、「あなた」国を「支援」や「保護」や「安全保障」という美辞麗句でもって侵略・侵入し、やがてはジェノサイド(=集団殺戮)によって、せん滅させようとしている。「わたし」国に占領され、監視下にある「あなた」国の新聞記者、あるいは作家が、新聞の記事か寄稿文の中に、あの小話をそっと挿入する。以上の状況を頭に入れて、冒頭に引用したあの馬鹿話を、ここでもう一度、ぜひ読んでみてください。待っていますので……。


     *


 読んでいただけましたか? 案外、言えてませんか? 二国のたとえとして読むと、不気味ではありませんか? 分かる人だけに分かる風刺というやつです。「ペンは剣よりも強し」の精神です。アレゴリーと風刺は、相性が非常にいいらしいです。世界に、似たような関係にある国々や、似た状況にある地域がありませんか? 悲しいですが、ありますね。


 たとえば、村上春樹というか、「世界の Haruki Murakami 」が、二〇〇九年の二月一五日に「エルサレム賞」の授賞式で行ったスピーチの一部が話題になりました。「卵」と「壁」と「システム」が出てくる部分です。隠喩=暗喩が用いられています。短いですが、ストーリー性もあります。このブログでイメージしているアレゴリーの好例だと思います。


     *


 さて、アレゴリーというと、個人的には「憑依(ひょうい)」という言葉を連想します。憑依とは、霊や魔物のようなものが取りつく(=取り憑く)ことです。怖いです。憑依という言葉を見聞きすると、『エクソシスト』(※悪魔祓いをする祈祷師という意味ですね)なんていうホラー映画以外に、シャーマニズムのシャーマンが頭に浮かびます。シャーマンとは、「わたしは誰? ここはどこ?」という具合にトランス状態になって、神や、霊、精霊などと交信し、預言(=託宣を預かること)や予言(=未来を予測すること)を行うヒトです。


 女性の場合には巫女(みこ)とも呼ばれていますね。預言や予言というと、そのものズバリの=具体的なお告げもあるようですが、何だか訳の分からない断片的な言葉を吐いたり、荒唐無稽で支離滅裂に近いような話をすることもあるみたいです。


 そのでたらめぶりが、取りようによっては「たとえのエスカレート」=アレゴリー=「何か重要な意味がありそうだ」っぽく聞こえる場合があります。「こんなん出ましたけど」って感じで出てきます。そして、お告げをした後のシャーマンさんは、平常に戻ってケロッとしていたりします。


 その落差が、趣があって好きです。シャーマンさんにも、いかにもうさんくさそうなヒトや、なりきり名人みたいな玄人(くろうと)っぽいヒト、どちらかというと精神的な疾患をわずらっているではないかと思われるヒトなど、いろいろいます。どのような職業にも、上手下手や、さまざまな流派や、ヒトそれぞれの流儀・プレゼンの仕方があるのと同じです。


     *


 予言ではなく預言といえば、個人的には聖書を連想します。聖書には、旧約と新約の二つがありますね。どちらも「たとえだらけ」です(少なくとも私にはそう思えるくらいの意味です、念のため)。つまり、文字通りに受けとっては意味が分からないということです。


 新約のほうに「ヨハネの黙示録」と呼ばれている書がありますが、これがやっかいな問題をかかえています。「ハルマゲドン」という善と悪の最終戦争が出てくるからです。さきほどの村上春樹のスピーチとも大いに関係します。


 また、現在のオバマさん(※鮮度が悪くて申し訳ありません、文章の勢いを生かすためにそのまま掲載します)の前のブッシュ(※特に父子の息子のほう)大統領の政権の中枢に、聖書の言葉の一字一句が真実だと考えるファンダメンタリストと呼ばれる人たちと、その人たちに近い考え方の人たちが入りこみ、かなりあやうい状況になっていました。実のところ、チョーあぶねー=きな臭かった=一触即発だったらしいですよ。ああ、怖い。文明の「衝突=ガチンコ」のほんまもん状態ですもの。


 何が恐ろしいのかと申しますと、自己成就的予言=予言の自己実現=「信じているうちに、その通りになっちゃった(※実は、自分が信じていることを無意識に自分で実現してしまう)」= self-fulfilling prophecy とかいう心理が働くらしいからです。「国語で百点を取るぞ取るぞ」と信じて実際に百点を取れたくらいなら、まだいいです。「悪魔(※比喩です、実は「敵」)との最終戦争が起こるぞ起こるぞ」だと、とんでもないことになります。特に、核兵器を使われた日には、連鎖反応が起きても不思議ではありません。この星、めちゃくちゃになりますよ。


     *


 聖書に書いてあることを真実だと受けとると、大変なことになるのは、容易に想像できますね。怖いですよ。マジで怖い。マジこわ。テレシコワ。コルゲンコーワ。講和条約。CHANGE さまさまでっせー。何だか文体と書いていることが乱れてきたというか、訛ってきているのは、恐怖心をやわらげようと自分なりに努力しているからなのです。ご理解いただければ幸いです。それくらい、怖いということです。


 ところで、ノストラダムスの大予言って、覚えていらっしゃいますか? 1999年の7月に、空から恐怖の大王が降りてくる、とかなんとかという話です。外れてよかったですね。あれと、例のコンピューターがらみの2000年問題――あの二つを乗り切って21世紀に突入できた「元尻尾のない只のおサルさん」=「尻尾のないおサルさん + α 」=ヒト=人間様、万歳!って感じですか。


     *


 アレゴリーに話を戻します。アレゴリーという仕組みは、普通の「たとえ」に比べて、微妙な心理が働いています。普通の「たとえ」は、


*「Aの代わりにAでないものを用いる」=「Aの代わりにBを用いる」


ですね。つまり、Aを誰かに説明したかったり、伝えたかったりしたい時に、Bをもってくると都合がいいから、Bで代用する、という単純な発想です。一方、アレゴリーは、屈折した感情があり、いかにも「訳あり」っぽいのです。以下に、まとめてみます。


*アレゴリーとは「Aの代わりにBを用いる」という「たとえ」の一種であり、


(1)実はAが分かっていない、

(2)Aを直接的に伝えてはならない事情がある(※たとえば、ずばりAだと言うとヤバかったり、身の危険がある)、

(3)もったいぶってAを素直にAと言いたくない、

(4-0)Aがでたらめである場合に、代りにBをもってきて、

(4-1)Bでお茶をにごす=テキトーにその場をごまかして知らん顔を決めこむ、

(4-2)BをヒントにしてAを暗示する=「ごめん、これだけで勘弁してね」=「お願い、これだけで分かってちょうだい」という感じで、とりあえず事態を処理する、

(4-3)工夫を凝らして「ちょっとだけよー」 or 「わっかるかな?」という感じでBと言っておき、相手の苦労する様子を見て楽しむ、

(4-4)Bもでたらめにしておく、


という可能性のある仕組みである。


と言えるのではないでしょうか? ややこしいですね。


     *


 少し手を加えて、次のようにも言えます。



*アレゴリーとは「Aの代わりにBを用いる」という「たとえ」の一種であり、次の四つの仕組みがある可能性が考えられる。


(1)Aが分かっていない場合に、Bでお茶をにごす=テキトーにその場をごまかして知らん顔を決めこむ。【※日常的に、よくある例だと思います。】


(2)Aを直接的に伝えてはならない事情がある(※たとえば、ずばりAだと言うとヤバかったり、身の危険がある)場合に、BをヒントにしてAを暗示する=「ごめん、これだけで勘弁してね」=「お願い、これだけで分かってちょうだい」という感じで、とりあえず事態を処理する。【※こうした事態に追いこまれているヒトたちに同情します。】


(3)もったいぶってAを素直にAと言いたくない場合に、工夫を凝らして「ちょっとだけよー」 or 「わっかるかな?」という感じでBと言っておき、相手の苦労する様子を見て楽しむ。【※文学や学問のギョーカイに、よく見受けられます。】


(4)Aがでたらめである場合に、Bもでたらめにしておく。【※スピリチュアルとか、宗教とか、占いとか、政治とか、行政とかいう特定の分野だけでなく、こういうことをするヒトって、結構います。自分も謙虚に反省します。】


 以上ですが、どうでしょう?


 こっちのほうが、すっきりしていますね。いずれにせよ、屈折しています。だから、分かりにくいし、難解だとも言われるのです。そんなわけで、アレゴリーは、「アレッ、ゴリ押ししている」=「ちょっとそのこじつけって強引すぎて苦しいんじゃない?」という、印象を与えるのではないでしょうか?



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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