げん・幻 -7-
げんすけ
2020/07/21 07:59
ふつう、「そっくり」とは、「似ている」を強めた状態だと考えられている気がします。「そっくり」がさらに強まり、ジャンプすると「同じ」という状態になる、と思われている気もします。この調子で行くと、「似ている」の究極の姿が「同一」ということになるのでしょうか。
いわば、「似ている」、「そっくり」、「同じ」、「同一」という格付けです。こうしたイメージは、個人的なレベルでいだくものですから、人それぞれだと思われます。
たった今書いた「格付け」を見ているうちに、「そっくり」は「似ている」が強化されたものではないような心持ちになりました。両者は次元が違うような気がしてきたのです。もちろん、これもまた、個人的なレベルでの印象の話です。
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スーパーの棚に置かれた、プラスチック製容器に入ったヨーグルトを思い浮かべてください。何種類かのヨーグルトが陳列されています。各メーカーの販売している、ある特定の品名が容器に記された「そっくり」なヨーグルトが複数並べられています。「そっくり」なのは、大量生産されたからです。他のスーパーでも、その商品と「そっくり」なものが並んでいるにちがいありません。
次に、電気製品の量販店で売られている、パソコン用のマウスを例に取ってみましょう。ヨーグルトと同様に、メーカーによって、あるいは同じメーカーでも違った色・形・大きさのものが置かれているはずです。そうした店では、透明のプラスチックに収められたマウスが、長いフックに吊るされて並んでいるのを、よく目にします。これも、「そっくり」なものが、たいてい複数ぶら下がっています。他店でも、同じように販売されていることは、ほぼ間違いないと思われます。
「そっくり」なものとして、ヨーグルトとマウスを例として挙げましたが、お茶漬け海苔、サンマの煮付けの缶詰、ジュース、冷蔵庫、乾電池、ポールペン、紙おむつなどについても、ほぼ同じ状態が想像されます。共通するのは、大量生産され、大量に流通し、大量に販売され、大量消費されていることです。それが、「そっくり」の大前提だと言えそうです。
キュウリ、ナス、キャベツ、サンマ、イカ、ウナギも、「そっくり」と言えば「そっくり」な状態でずらりと並べられたり、積み重ねられて売られています。農産物や魚介類の場合には、大量に栽培され、または漁獲されるのが共通点と言えそうです。これらが、大量に流通し大量に販売され大量消費されるのは、ヨーグルトやマウスなどの場合と同じと言っていいと考えられます。
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「似ている」は、「別のものに似ている」が前提になっている気がします。それに対し、「そっくり」は、「そのもの自体に似ている」が前提であるように感じられます。当然のことながら、あくまでも個人的な意見です。思いつきであり、でまかせなので、たいした根拠はありませんが、おいおい説明するつもりです。
「似ている」も「そっくり」も「言葉」、つまり「代理」ですから、いかがわしく、うさんくさいことは言うまでもありません。「いかがわしい」や「うさんくさい」というのは、「いかがわしくない」や「うさんくさくない」を確かめる方法も手段もヒトは手にしていない、くらいの意味です。
「いかがわしい」か「いかがわしくない」か、および「うさんくさい」か「うさんくさくない」かを、ヒトは決定できない点が、「いかがわしい」し「うさんくさい」というふうにも言えると思います。
「いかがわしい」や「うさんくさい」を、「根拠がない」という言い方と同義だと、理解することもできそうです。ただし、ヒトという種(しゅ)の知覚と意識に、絶対的な信頼性と有効性を認めているヒトたちには、縁遠い考え方だろうと想像されます。
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「似ている」が、兄弟姉妹、親子、親戚といった血縁関係を比喩にして語ることができるとするなら、「そっくり」は、コピー機での複写、印刷、大量生産にたとえられそうです。
ところで、比喩、つまり、「たとえる」という行為は、有効性に支えられています。たとえば、AをBにたとえた場合、AとBとのあいだに認められる共通性および関係性がどこまで有効であるかで、その比喩の説得力が決まるという意味です。
「似ている」は、血縁関係のある人たちの間だけでなく、他人同士の間でも、成立する様態です。それなのに、どうして血縁関係という比喩を優遇するのかというと、「つながっている」という属性を強調したいからだと言えます。
また比喩を使うことになりますが、たとえば、他人同士であっても、同じ○○人であったり、同じヒトという種であったりするわけですから、「つながり」はあります。でも、話に説得力を持たせるためには、系図という、いわば「見える」形でプレゼンテーションできるくらいの「濃いつながり」が必要なのです。
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「似ている」の根拠となる「関係性」と「共通性」という基準を支えている比喩である、「(血が)濃いか薄いか」は程度の問題だと言えそうです。「関係性」と「共通性」という言葉の正体らしい「説得力」というものが、いかがわしく、うさんくさいのは、根拠を欠いている場合がほとんどで、またもや、たとえて言うなら、「声が大きいほど」説得力があるからだと言えそうです。
「関係性」と「共通性」の実体らしい「血縁関係」および「血の濃さ」という比喩、言い換えると道具立てですが、これは「声の大きさ」、つまり「説得力」とほぼ同義ではないかと考えられます。
万が一「何らかの根拠に基づく有効性」と「声の大きさによる説得力」とが別物であったとしても、混同されやすいだろうと推測されます。これを「見分ける」ことは難しそうです。いずれにせよ、「似ている」を成立させているらしき条件は、やはり、いかがわしく、うさんくさいと言えそうです。
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学問および科学と呼ばれるものの基本的な作業の一つは、「見る」と「分ける」、つまり「見分ける」みたいです。当然のことながら、「比べる」作業が伴います。「似ている」かどうかを判断する必要があると考えられます。同時に「異なる」かどうかも判断する必要があると言えそうです。
「似ている」および「異なる」ように「見える」の根拠となる「関係性」と「共通性」は、「血縁関係」つまり「血の濃さ」(※ともに比喩です)と、「声の大きさ」つまり「説得力」(※ともに比喩です)という基準で決定されている。仮説の段階でも、実証・観測のレベルでも、その基準は変わらない。そんな気がします。
以上のような事情で、学問および科学における説や法則はぶれるのであり、揺るぎない場合には、声の大きな、そしてたぶん腕力に優れた特定グループの支配に支えられているからだという気がします。
たとえば、ノーベル賞のうち、比較的ハードな物理学賞や化学賞であれ、ソフトな経済学賞や平和賞であれ、上述の力関係(=ダイナミックス)に、左右されているように思われます。進歩、貢献、普遍性という言葉は、このたぐいの賞にはそぐわないという印象をいだいています。建て前と現実の違いという言葉で説明できそうな感じもします。
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物理学では、現在、従来の考え方に代わって、量子という考え方、および量子に関する考え方が、揺るぎない地位を獲得しつつあるとのことです。
もし、ヒトの五感に基づくイメージと実証・観測の結果であるならば、当然のことながら、限度と制約があるわけですから、「血縁関係」つまり「血の濃さ」(※ともに比喩です)と、「声の大きさ」つまり「説得力」(※ともに比喩です)によって、「真偽」が決定されているという話の域を超えるものではなさそうです。
いつか、量子という考え方と量子に関する考え方にぶれが生じ始め、やがて揺るぎなさが持ちこたえられなくなったときには、別の「血縁関係・血の濃さ」を基準とする「有効性・関係性の存在」つまり、いわゆる「説」や「理論」の「有効性」を主張する、「声の大きい」つまり「説得力のある」新興グループの「説」や「理論」に取って代わられるのではないかと予想されます。
量子という考え方と量子に関する考え方が、ヒトの五感に基づくイメージと実証・観測以外の有効性に支えられた結論であったり、あるいは、その考え方を支持するグループの「声の大きさ」つまり「説得力」が揺るぎなく維持されている限りは、近い将来に交代劇は見られないだろうとも考えられます。
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「似ている」が前提として想定しているのは、オリジナルとコピー、本物と偽物、出来事と出来事の再現、という一連の神話であり物語です。
今挙げたペアには、かなり「濃い血縁関係」(※比喩です)がなければなりません。なぜなら、各ペアの間で、激しい勢力争いが生じるほどの類似性、言い換えるなら、各ペアの一方が主となってもう一方を従として卑しめる、あるいは、一方がもう一方を排除するという事態が起こったとしても、双方がその役目を立派に果たせるだけの類似性が備わっていなければならないからです。
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さかんに比喩つまりたとえを用いていることに、辟易(へきえき)なさっている方もいらっしゃるにちがいありません。言い訳をさせていただきますと、それしか頼るものがないからなのです。
ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。
ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。
今挙げた二つの限界であり幻界であり言界でもある現界のなかに投げ込まれているらしい、ヒトという種は、森羅万象と直接出合うことはできず、森羅万象の「代わり」を務める「処理された情報」つまり「その「何か」ではないもの」という「代理」を相手にするしかないと言えそうです。蛇足ですが、「事実」と「意見」を「分ける」ことも、ヒトにはできそうに思えません。ただ、努力目標にしたいというのであれば、その気持ちは理解できる気がします。
比喩しか頼るものがない状況というのは、そういう意味です。せいぜい比喩という仕組みを意識しつつ、(森羅万象の一部の)比喩つまり代理を用いて思考するなり記述するなり働きかけるという方法で、(森羅万象の一部の)比喩に向かい合う。そんな感じでしょうか。いかがわしく、うさんくさい話ですが、致し方ありません。
比喩という仕組みを意識する。言うのは簡単ですが、実行するのは、きわめて難しいと思われます。できれば、考えたくない、忘れたいというのが、人情みたいです。
比喩という仕組みを忘れたり、忘れた振りをするのではなく、常に意識しつつ、(森羅万象の一部の)比喩つまり代理を用いて思考するなり記述するなり働きかけるという方法で、比喩の仕組みそのものを対象に、徹底的に取り組むというスタンスも可能かと思われます。個人的に魅力を感じている姿勢です。これもまた、いかがわしく、うさんくさい話ですが、致し方ありません。
以上の話が、個人的な思い込みの産物であることは言うまでもありません。まぼろしです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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