あなたなら、どうしますか?

げんすけ

2020/07/08 08:45


 たとえば、電車で通勤途中のある男性が、乗り換えの駅に着き、プラットフォームに降り立つ。突然、見知らぬ女性が男性の手を取り、「この人、痴漢でーす!」と叫ぶ。数時間後、男性は最寄りの警察署で逮捕される。


 たとえば、ある女性がデパートの化粧品売り場で口紅を選んでいる。気に入ったものがないため、そのフロアーから上のフロアーへとエスカレーターで移動する。エスカレーターを降り、服の売り場に向かおうとした瞬間、「お客様、まことに失礼でございますが、そのバッグの中を拝見してもよろしいでしょうか?」と、呼び止められる。女性は手に提げたマイバッグに、口紅が転がりこんだことを知る。数時間後、その女性は最寄りの警察署にいる。


 たとえば、朝起きたばかりの耳に、ドアをノックする音が聞こえる。賃貸マンションに住む、その会社員がドアホールから外を覗くと、数人の黒っぽい色のスーツを着た男たちが立っている。ドアホン越しにやり取りをする。「○○さんですね、××署の者です」。「な、何ですか? いきなり」。念のためにチェーンをかけたまま、ドアを開けると、外にいる男たちの一人が警察手帳を示した後、裁判所からの捜索令状を差し出す。ん? 何だ、これ? 心当たりは、全くない。


 もし、上の三つの例のうち、どれかの事態が自分の身に降りかかったとしたら、あなたならどうしますか?


     *


 ところで、すべての人が絶対に逃れられないもの、つまり免れないものって、何でしょう? お金? 言葉? 病気? 老い?


 ここでお話ししたいと思っているのは、今挙げたものではなく、「法」 です。「法」は、掟、法律、風習、習慣、ルール、マナーなどを含む、広い意味のものとして解釈することができます。今回は、特に「法律」に的を絞ってみましょう。的を絞るとはいえ、これだけでも、非常に大きな問題です。法律を専門に勉強したことのない者が、このテーマで何を書けるのか? 心もとなさを覚えます。


 でも、これから取り上げようとしている法律は、決して他人事ではありません。人として生まれた以上、誰も避けたり無視したりできるものでは全然ないと言えそうです。


 さて、六法全書というものがあります。かつて、小型のものを持っていたことがありますが、今は手元にありません。法律はどんどん変わりますから、古いものを大切に保存していても、使い道は限定されます。


 いずれにせよ、六法全書には人とその行動にまつわる多岐にわたる事柄について書いてあります。百科事典並み、いや、それ以上かもしれません。人が生まれて死ぬまで、そして死んだ後のことについてまで、詳細に記述されているさまは壮観です。


 この国に限ったことではないでしょう。大陸法系であれ、コモン・ロー系であれ、イスラム法であれ――素人なのであとは続きませんが――人とその関係をめぐるありとあらゆる事象が、言葉という形態で体系化され集成されているのです。


     *


 かつて職業としての小説家を目指したことがあります。


 最初は、「純文学」。これは、辞書的な定義の「死語」に当たるかもしれません(現在もなお、一生懸命 「純文学」されている方、ごめんなさい)。とある文芸誌系新人文学賞の最終候補作五編の中に残ったこともありましたが、とある大都市の元・知事(当時の選考委員)に、けちょんけちょんにけなされて落とされました。今はご高齢ながらも、出家者兼現役作家として活躍されている、別の選考委員の方からは励ましのお言葉を頂戴しましたが……。


 その後、掌編と呼ばれる、ごく短い小説を対象とした賞の月間優秀作になったのが、ピークでしょうか。あとは、二次落ち、三次落ち、下読み落ち。悪あがきに、大衆小説 (この言葉も、もう死語 (死後)? いや、死んでなんかいませんよね。出世魚のごとく、現在はエンターテインメント小説と名を変えたようです)とか、ミステリーを書いて、また二次落ち、三次落ち、下読み落ち。いつの間にか書かなく(いや、書けなく)なりました。いやはや、悔しさを思い起こし、つい要らぬことを、ねちねちと書いてしまいました。自己嫌悪。


 ミステリーを書こうとしていたころ、困ったことがありました。人の殺し方は何とか、想像できるのですが、その殺した後のことが、書けないのです。もっとも、クライム・ノベル、犯罪小説、サスペンスを含む、「広義のミステリー」という、新人文学賞の募集要項によくある言葉に素直に従うことで、そうした面倒くさいことを避ける方法もあります。殺すまでの経緯や、殺す課程だけに、集中すればいいのです。


 でも、苦手です。人を殺めるだけでは、良心がとがめる。なんて、格好をつけるわけではありませんが、どうも後味が悪い。夢見が悪い。というわけで、警察、警察組織、警察官の日常生活、捜査法、法律、法医学(検屍や検死も含みます)、検察、裁判所……について、お勉強をしました。当時は、インターネットの黎明期で、日本語で読めるウェブサイトは実に貧弱なものでした。つまり、使えない。


 図書館をおおいに利用しました。で、分かったことがありました。大発見です。


 すべてはハンコのためにある。


 びっくり仰天。図書館のしーんとした閲覧室の席で、引っくり返りそうになるほど驚きました。何しろ、警察官にしろ、検察官にしろ、裁判官にしろ、ペーパーワークが半端じゃないのです。


 何かあったら、書類にする。つまり、文字にする。そして、然るべき上の人から、ハンコをもらう。こればっかしなのです。これ、マジな話です。嘘ではございません。


 いつ、捜査するの? テレビドラマみたいに、警察官は、歩き回って、暇じゃなくて、靴一足をつぶす暇(いや、時間)なんて、本当にあるの?


 そんな疑問の念をいだきました。もちろん、靴を履きつぶすほどの苦労があることは、薄々知っています(おまわりさん、刑事さん、いつもご苦労さまです)。それにしても、です。書類作りが多い。並みの多さではない(ところで、キャリアさん、最終的には、あなたたちがハンコをポンポン押すのですか? そうでしたら、あなたがたの、おててにだけに、ご苦労さまと申し上げます)。


『司法の目的は、人を拘束することではない。まして、処罰することでもない。書類を作成することだ』


 思い出しました。懐かしいです。かつて長い長いセンテンスから成る文章を書いて、一部の学生たちに多大な影響を与えていた身長一八〇センチ強の、大学教員兼文芸批評家兼映画批評家が、雑誌か何かにそういう意味のことを書いていました。昔のことなので、詳しいことは覚えていませんが、大筋は、そうした趣旨のことが書かれていたと記憶しております。


 簡単に言えば、司法と捜査機関において大切なのは、身柄の拘束や裁判や刑の執行ではなく書類作り。もっと、単純化すれば、「人じゃなくて紙」という身も蓋もない話なのです。


 言えてます、よね。その慧眼に感服しました。さすが、元・総長(「総長」と言っても、暴走族の頭ではありませんよ、ウカジ氏ではありません、念のため、ちなみにウカジ氏の身長は一九〇センチだそうです、ちなみにこのお方は元・トーダイ総長です)。


     *


 この辺で、ここまで書いたことを整理してまとめます。


 一、すべては、ハンコのためにある

 二、『司法の目的は、(中略)書類を作成することだ』 by元・総長


 以上に、尽きます。


 ん? はあ?


 ですか? では、もう少し詳しく述べます。公務員つまり役人にとって、何よりも大切なことは、国民への奉仕(シビル・サーバント=公僕(これも死語?)としての義務)などでは毛頭なく、自分に与えられた書類作りと、作成した書類に上司からのハンコをもらうこと、なのです。話を戻し、極論を言えば、大部分の警察官にとって(一部、例外はいます)、重要なのは現場ではなくデスクワークなのです。


     *


 話は変わります。古い話ですが、「ハンコ注射」ってありましたよね? スタンプ注射ともいうらしい。予防接種ですよね。なんの予防かは、忘れました。とにかく、跡(痕跡)が残ります。


 種痘というのも、ありましたよね。何の予防か分からないままに、幼いころに「ん? ギャー!」と泣き叫んで、打たれたことだけは覚えています。虎馬というやつになって、今も残っています。夜中に、タイガーとホースに襲われる夢を見て、飛び起きることが何度あることか! おふざけが、すぎました。ごめんなさい。何らかのトラウマに苦しんでいる方、ごめんなさい。


 ハンコ注射や種痘については、きっと、グーグルで調べれば、詳しいことは分かるのでしょうが、無精者で無気力な者としては、とりあえず手持ちの知識と記憶で間に合わせながら書き進めます。で、肝心なことだけを以下に述べます。


 ミステリーを書くために、法医学に関する本を吐き気をこらえながら読んでいたとき、こんなことを知りました。身元不明の遺体を検死ないし解剖するさいに、腕にある痕跡、つまりハンコ注射や種痘の跡で、その遺体の年齢が推定できる。もっと詳しく言うと、注射や種痘の痕跡の有無や形が、ある一定の期間ごとに異なっていた。そう言えば、そうですね。心当たりがあります。


 ある時、年下の方と、一緒にお風呂に入る機会がありました(深読みなさらないでください)。ある肉体労働(これも深読みなさらないでください)をした後のことです。で、そのさいに左上腕の肩に近い部分にある傷跡を見比べて、その形の違いが話題になりました。結局は、「年齢が違うね(笑)」で、話が落ち着きました。


 さきほどの図書館での驚愕事件のことですが、感心すると同時に、ぞーっとしました。今になって思うのは、次のようなことです。


 国家は、国民に「烙印」=ハンコを押している。たとえば、国民総背番号制、犯罪履歴、叙勲・褒章(複数のランクがありますね)、基礎年金番号制度、運転免許証、パスポート、住基ネット(住民票コード)、納税の際の書類に打たれた番号……。


 これらは、記号であったり、数字であったりする。つまり、コンピューターにとって、使い勝手が極めてよろしいだけです。その情報処理のしやすさが恐ろしい。ただ、数字や記号は言葉に似て「比喩」っていう感じが、まだある。つまり、抽象的で、つかみどころがない。実感がわかない(だからこそ、怖いのですが)。


 でも、上腕の傷跡は、比喩ではない。烙印です。文字通り、烙印=ハンコなのです。一部の家畜に押される、痛々しい傷跡を思い浮かべてください。アウシュビッツやダッハウを連想する人がいても、責めることはできないと思います。衛生上および医学上の理由。健康福祉のためという大義。エピデミックやパンデミックを防ぐという、国家レベル・自治体レベルでの危機管理。国家の安全保障の一環としての当然の措置あるいは義務。そうしたことは、十分に承知したうえで、あえて次のように言いたいです。


 ありがとう。ご苦労さま。でも、やっぱり、気味が悪い。


 そう言わずにはいられない心境なのです。


 ハンコは怖い。


     *


 さて、冒頭に挙げた三つの恐ろしい、カフカ的状況に話を戻します。あれって、めちゃくちゃ怖いですね。ある日、突然、自分が司直の手にゆだねられる事態に遭遇する。想像しただけで、気持ちが暗くなります。


 ここで、カフカ、可もなく不可もなく、可不可とかいう、手垢の付いた、使い古しの駄洒落を拝借して、景気付けでもしましょうか? カフカ可不可あはは、なんて。


 駄目ですか? 元気が出ない? あまりにもくだらなくて、余計に落ち込みましたか? ごめんなさい。いずれにせよ、あのような災難(身に覚えがないなら災難です、冤罪です)が自分の身に降りか掛かったとしたなら、あなたならどうしますか?


 あくまで、反抗しますか?


 残念ながら、あなたはハンコに身をゆだねるしかありません。言い換えると、おとなしく「法の名の下での書類審査」を受ける以外に選択肢はないのです。


 なぜなら、「反抗⇒犯行⇒はんこ」だからです。


「このバカタレ!」と言うお叱りの声が聞こえるようです。でも、本気です。反抗しちゃ、駄目です。一つ間違うと反抗から犯行へと即座に発展して有罪になってしまうんです。あくまでも、とりあえず、おとなしくしておいて「ハンコ」ポンポンペタペタ=ペーパーワーク、に身をゆだねるしか、ないんです。


 誰も逃れられない。もし罪を犯せば、判事も、ですよ(いつでしたか、破廉恥な判事が裁かれましたね)。でも、大丈夫。「法曹界 (ほうそうかい)」には、弁護士という味方(強い味方かどうかは、知りません。今のところ、お世話になったことがないのです。これから先も、ありませんように祈っております)もいます。「ほう、そうかい」なんて駄洒落は言っていませんよ。書いていますけど。


 つまり、法廷で、正々堂々と「反抗」すればいいのです。その段階にまで行かないうちに「反抗」したんじゃ、即刻「犯行」にされてしまいます。公務執行妨害。現行犯逮捕。そうなれば、向こうの思うつぼです。


     *


 で、またもや話をさっきのことに戻します。今、思い出したのです。うろ覚えですけど、ハンコ注射はBCG、傷跡が残る種痘や注射は疱瘡(ほうそう=痘瘡(とうそう)=天然痘(てんねんとう)と関係があったらしい。「ほう、そう」かい、なんて駄洒落は言ってませんよ。書いてはいますけど(またズルして、ごめんなさい)。


 とにかく、人類は天然痘との闘争(とうそう)に勝利し、撲滅した。ですから、これは、痘瘡との闘争に勝ったわけです。WHO万歳! 痘瘡ウィルスにとってはさておき、ホモ・サピエンスにとっては、誠にめでたいことだと思っております。


 しかしながら、ハンコの話は、それだけにとどまらないのです。この続きは、次回に譲りたいと思います。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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