不思議
げんすけ
2020/06/28 14:13
とりとめのない話とか、分かるようで分からない現象が好きです。そうは言っても、漠然とした話ですよね。不思議とか曖昧な事や物が好きだ。こう言い換えれば、分かっていただけるでしょうか。
恥ずかしいのですが、一足す一が二になるということが未だによく分かりません。足し算とか引き算とか掛け算とか割り算など、計算はできます。でも、あれは条件反射みたいなものでやっていて、実は分かっていないのです。どうなんでしょうか。大抵の人は一応分かってやっていることなのでしょうか。恥ずかしくて、他人様に尋ねたことはありません。
たった今、恥ずかしいと書きましたが、本当のところを申しますと、それほど恥ずかしく思わなくっているのを、最近ひしひしと感じています。年を取るにつれて、図々しくなってきたのかもしれません。
話は変わりますが、辞書を読むのが好きです。国語辞典も英和辞典もおもしろいです。引くと言うよりも、読むのです。辞書というのは、当然のことながらエッセイや小説ではないのですが、とりとめのない話に満ちているような気がします。
自分にとっては、分かるようで分からない話の宝庫でもあります。各語の項目に解説してある複数の語義のからみ合いなど、こじつけめいていて特に読んでいて楽しいです。語源の解説も駄洒落みたいで結構笑えます。
*
高校生だったときのことです。
確か二年生になった春でした。新学期が始まって、新任の英語教師が教壇に立ちました。教師も生徒たちも、たがいに相手を探りあう瞬間です。その教師は、黒板に自分の氏名を書き、簡単な自己紹介をした後、生徒たちの氏名と顔を照らし合わせながら、出欠をとり終えました。
「みなさん、辞書は持ってきていますか。ない人は、持っている人のそばに行ってください。どのページでもいいから、そうですね、三回ほどめくって開いてみましょう。ページの中身を読む必要はありません。ただ見るだけでいいです」
教師はそう言いました。英語の授業とはいえ、唐突な感じがしました。教室内がうるさくなり始めました。席を離れてもいいと言われたわけですから、あちこち動き回る生徒もいます。
「じっくり、読む必要はありませんよ。目を細めて、少しページから目を離して見てください。きっと、そのほうが、よく分かりますから」と、さらに教師は言います。
「えーっ」
生徒たちの不ぞろいな声が上がります。なんだか謎々めいてきました。電子辞書など、空想もできなかったころのことです。生徒たちは、ひとりで、あるいは数人が固まって、高校生向けの分厚い辞書を開き、遠視か老眼の人のように、左右見開きのページから目を離し、近視の人のように目を細めています。
三分ほどして、教師は言いました。
「何か、気づいたことはありませんか? 読んだ感想じゃないですよ。見た目の印象です。気づいたことを聞かせてください」
初めて相手にする英語教師に対し、誰も発言しようとはしません。ただ、ざわざわするだけ。そのうち、教室内が白けた感じになってきました。
一体なんだろう、みたいな謎々めいた疑問の効果も薄れ、室内のざわめきが収まりかけたころ、教師は次のように言い足しました。
「短い単語ほど、たくさん意味が書いてありませんか?」
「なーんだ」とか、「うーん」とか、「おーっ」とか、「はあ?」とか、「……」とか、生徒たちの反応はさまざまでした。
「英語でいちばん短い単語は何でしょう? そう、a です。a を引いてみましょう」
よくは覚えていませんが、確かそのときに持っていた中型の学習辞典には、番号が振られていて、いくつかの a があり、冠詞の a の項には一ページをはみ出るほどの意味や例文が載っていました。
短いけど長い。単語は短いけど解説は長い――。
びっくりしました。それまで何度も英和辞典を引いていながら、そんな見て明らかなことに、全然気づかなかったことに気づいたのです。分かるようで分からなくなりました。不思議でした。
その不思議さに気づかせてくれた英語教師と出会って、数年後、自分が大学生になり、言語について考えるようになったとき、その教師が生徒たちを相手に行った「いたずら」というか「謎々」と、その「種明かし」をよく思い出しました。
そのころには、英語にはゲルマン系(土着の言葉系)とラテン語系(外来語系)という二重構造があるらしいという知識も頭に入っていました。日本語にも、そうした二重構造があるようだという話も知りました。
日本語では、大和言葉系の日常語と、インテリや支配階級の用いた漢語系の二重構造があるそうです。たとえば、「彼女、『おめでた』だって」(今では古い表現でしょうね)は大和言葉系、「彼女、『妊娠』したんだって」は漢語系ですね。すごく単純化すると、訓読みと音読みのニュアンスの違いと言ってもいいかもしれません。「書く」と「記述する」の違いみたいに。
さきほども簡単に触れましたが、英語にも、ゲルマン系とかいう土着系の言葉つまり日常語と、侵入者兼征服者兼支配階級だった人たちの言語の二重構造が残っている。こんな話を、大学の語学の授業などでよく聞かされました。
土着の言葉のほうが、日常生活に密着していてよく使うから意味の層が厚い、つまり多義的だから語義や解説が多くなり、辞書での記述が長くなる――。これが理屈です。何となく分かるような気がします。何となく分かりますが、それでも不思議さは去りません。自分のなかでは曖昧なままなのです。その曖昧さに酔っている自分がいます。我ながら困ったものです。
今、この文章をパソコンのワープロソフトで書いていますが、文字の変換というのは、よく考えると、分かるようで分からないの典型だという気がします。とりとめがなく曖昧な感じもします。自分は、そういう落ち着かない気分が好きです。わくわく感を覚えます。昔はワープロ専用機なんてありましたね。そのころから、感心していたのですけど、日本語の文字変換のソフトを開発した人たちはすごいなあ、と素直に思います。
でも、そのすばらしいソフトを利用して文字を書いていても、やっぱり迷いますね。「変える」か「換える」か「代える」か「替える」かなんて、しょっちゅう迷います。そんなとき、モニターに小さめのボックスがひょこりと現れて「候補」を示し、その用法の解説や例文まで教えてくれるようになりました。
それでも確信が持てない場合には、辞書を引きます。そう言えば、さきほど例に挙げた「書く」ですけど、「かく」と読みますね。ちょっと大きめの国語辞典で「かく」というひらがなだけを引いてみると、違う漢字を当てて別項扱いになっていますが、たとえば、「書く」と「描く」と「掻く」と「画く」は、もともと大和言葉としては同じところから出てきていると書いてあります。この四つの「かく」の解説を合わせただけでも、結構な長さになりそうです。
短いけど長い。単語は短いけど解説は長い。
これは、英語だけでなく日本語でも当てはまりそうだと気づきました。不思議です。分かるようで分からない。摩訶不思議。
*
不思議という言葉で思い出したことがあります。「あいうえお表」とか「五十音表」と言うのでしょうか、小さいころ、親の手製の表が、机の上の壁に貼ってあったのを覚えています。そのとき、不思議だったのが、「や行」と「わ行」です。親が作ってくれたものでは、確か、次のようになっていました。
( 前略 )
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ を
ん
この表を見るたびに、不思議に思っていました。
「なんで、あそこが抜けてんだろう?」
今でも不思議です。国語のお勉強をしっかりしなかったせいでしょう。誰かに話せば笑われそうですが、個人的には、あの「抜け」はたぶん「傷跡」なのだと思っています。だから、かわいそうだと感じてしまいます。歴史的仮名遣いとか呼ばれているものあたりと、関係があるのではないかという気もします。でも、よく分かりません。
いつだったか辞書を読んでいるときに、「ゐ」と「ゑ」に出くわしたことがあります。「これだ――」と思って説明に目を通しましたが、短く書かれてあるせいか理解できませんでした。追求する気もありませんでした。それっきりです。
グーグルなんかで検索して調べれば、謎が解けるのでしょうが、自分は、これだけは謎のままにしておきたいと思っています。傷跡はそのままそっとしておいて、出来れば触れたくないという気持ちがあります。いつか、傷跡の意味が解けることもあるでしょうが、今のところは、このままでいいです。怠け者だから調べないと言えないこともありませんが、これだけは不思議なままでいい。そう思います。
ここまで書いて、また一つ思い出したことがあります。親の書いてくれたものではなく、学校にあった表です。
( 前略 )
ま み む め も
や い ゆ え よ
ら り る れ ろ
わ い う え を
ん
忘れかけていましたが、こういうのも確かに見ました。懐かしいです。で、今、こうやって、上の二つの表を見比べてみると、頭が混乱してきました。めまいに似ています。
いったいどういうことなのでしょう。
ちょっとうろたえてきました。これもまた、専門の本なり、グーグルでしっかり検索すれば、解決するのかもしれません。でも、この謎も、そうっとしておきたいです。曖昧なままで構いません。不思議を「わかった!」にすれば、それでおしまいじゃないですか。不思議を「?」のままにしておき、じっくり眺めながら愛でたいと思っています。
それにしても、二番目に挙げた表の「ん」って、どこか寂しそうじゃないですか。英和辞典の最後のほうに載っている「X」や「Z」を思い出します。語数というかページが極端に少なくて、かわいそうな気がします。「X」と「Z」みたいにページの少ないアルファベットに「Q」がありますが、この「Q」で始まる単語の二番目に、決まって「U」が来るのも昔から気になって仕方ありません。やっぱり辞書って、引くだけではなく読んでみると、「不思議」と「曖昧」だらけです。ま、問題は辞書にではなく自分にあるにしてもです。
「あ」で始まって「ん」で終わる表と、「A」で始まって「Z」で終わる並びがある。その文字だけやその文字を頭にかぶった語をたくさん収めた辞書がある。そんなことが不思議です。でも、曖昧なままでいいです。
ややこしい謎解きや詮索をするより、そうした文字で記すことの出来る言葉たちが生きて輝くのを聞いたり見たり(あるいは死にそうなのを悲しんだり)、一緒に遊んでもらうほうが大切だという気がします。
いずれにせよ、言葉って大好きです。愛しています。陳腐な言い方ですけど、愛に理屈なんて要りません。まして素性や出自なんて関係ないです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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