私家版『存在と無』―序文―
げんすけ
2020/07/07 09:52
これまでに、ずいぶんたくさんの本を買いました。図書館からも借りました。でも、本を読むのは好きではありません。購入、借り出し、積ん読、未読、返却、売却、廃棄、焼却。その繰り返しでした。今は、買うお金がありません。図書館へ行く気力もありません。
哲学は好きですが、哲学書は好きではありません。特に、体系化された論文。緻密な論理を積み重ねていく文章。駄目です。息が詰まります。頭がついていきません。脳の情報処理能力が低いからでしょう。でも、考えることは好きです。しょっちゅう考えています。
断章。断片。アフォリズム。そうした構成の文章が好きです。どこからでも読める。どのページでも、前後を気にしないで読める。辞書みたいに読める。そういう、作りの本があります。スリリングです。立ちどまって休み、考え、また同じページに戻る。疲れますが愉しいです。
体系化された、緻密な論理を重ねて組み立てられた文章でも、あちこち拾い読みしながら、読むことができます。素人は、それでもいいと思います。
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『存在と無』
かっこいいタイトルだなあ。中学三年生の時にそう思いました。哲学したい。そう考えるきっかけになった本のひとつです。高校生になってから買いました。大部で難解。拾い読みしました。積ん読しました。
いつ処分したかは覚えていません。今はないことは確かです。
本の題名を眺めながら、いろいろ考えることが好きです。中身に興味がないわけではありませんが、もともと本を読むことは苦手です。
題名を知っているだけで、自分にとっては十分。そんな本がたくさんあります。『存在と無』も、そのひとつです。わくわくするタイトルです。いろいろなイメージ、言葉が頭に浮かび、収拾がつかなくなります。それなのに、たのしい。愉しい。楽しい。
存在と無
上の文字をよーく見てください。少なくとも、十秒は見つめてください。時計の秒針を見ながら、十秒たつのを「待つ」と分かりますが、十秒って意外と「長い」ですよ。
固有名詞は強い光を放つ言葉です。前後の言葉たちの影を薄くし、時には読めなくしてしまうほどの、まばゆさが固有名詞にはあるので、注意を要します。
『存在と無』
恐縮ですが、すぐ上の文字を、また十秒間ほど見つめてください。
さっきの、存在と無、との違いを感じませんか? 『存在と無』と、かぎ括弧でくくったとたんに単なる名詞が本のタイトルとして固有名詞に変化する。そして、その固有名詞は強い光を放ちます。その差異を感じ取っていただきたいのです。
存在と無、と、『存在と無』との差異。それは、両者の「存在」から生じたと言えると同時に、両者の「無」から生じたとも言える。その両義性について考えてみたいのです。
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<私家版『――――』>というタイトルのもとに、文章をつづりたいという夢があります。
「――――」の部分には、既に書かれて存在する書籍のタイトルが入るのですが、その書籍とは無関係だとお断りしておきます。なにしろ読んだこともない本。過去に、買った、あるいは借りたが、全然読まずに終わったか、拾い読みはしたけれど、その内容の断片すら記憶にない本。名前しか知らない本。そうした本の名前が、<私家版『――――』>、という形で、自分の書く文章のタイトルとして記載されることになる。そんな荒唐無稽とも言える夢があるのです。
かつて、哲学や文芸批評関連の書籍や雑誌の記事に、<『――――』の余白に>というタイトルが、やたら使われた時期がありました。<私家版『存在と無』>よりも<『存在と無』の余白に>のほうがかっこいいなあ、と思いましたが、<『――――』の余白に>は、あくまでも『――――』を読んでいることを前提とした響きがあるので、気が引けます。あきらめました。
これから先、このブログでときおり書こうと予定している、<私家版『――――』>の『――――』という固有名詞を、アマゾンなりグーグルで検索すれば、その作者名、出版社名、発行年月日が、そして翻訳書の場合には、原著者名、訳者名などのデータも入手できるでしょう。紹介文やレビューを読むこともできるでしょう。
繰り返し申し上げますが、<私家版『――――』>は、そうしたデータとは一切関係がありません。単にタイトルに同じ言葉が用いられているだけです。
「本書はフィクションであり、登場する人物や場所などは、同名の実在する人物や場所とは一切関係がありません」
という意味の記述と、状況はほぼ同じです。
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『――――』という言葉の放つ強い光のまばゆさを前提とし、あえてそのかぎ括弧を外してみる。そして、その言葉の持つ、本来の辞書的な定義やステレオタイプ化したメッセージ、その言葉が連想させるもろもろのイメージやニュアンス、その言葉にまとわりついた手垢や汚れを、すべて肯定する。
また、かぎ括弧を外された、――――という言葉を目にした人たちがそれぞれ受け取り想起するであろう、多種多様なイメージの「からみ合い」も積極的に肯定する。そうした「からみ合い」が存在することを積極的に認めたうえで、<私家版『――――』>の書き手はその「からみ合い」を構成する言葉たちに促され、その言葉たちと向き合ったさいに今度は自分が抱くことになる「からみ合い」と戯れながら文章をつづる。
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以上が、<私家版『――――』>の初めての試みとなる、<私家版『存在と無』>の「序文」です。序文というからには、本文が書かれる予定です。本文は、たぶんこのブログ開設以来書いてきた、一連の雑文のバリエーション=焼き直し=二番煎じになるでしょう。
『――――』に入れたい言葉たちが、次々に頭に浮かびます。
善悪の彼岸、言語にとって美とは何か、野生の思考、鏡・空間・イマージュ、権力への意志、「わからない」という方法、動機の文法、男が女になる病気、アレゴリーとシンボル、負け犬の遠吠え、思考と行動における言語、ああでもなくこうでもなく、部分と全体、起きていることはすべて正しい、名付けえぬもの、象は鼻が長い、存在の大いなる連鎖、「あいまい」の知、ビジュアル・アナロジー、翻訳とはなにか、文字の美・文字の力、モノからモノが生まれる……。
哲学したい、批評したい、自分の頭と体で考えたい。そんなスタンスで言葉を紡ぎたいと思っています。引用、固有名詞の羅列、研究、検証、実証、お勉強、は嫌いです。なのに、なぜ、羅列をしたのか?
上に羅列した言葉たちは、自分が初めて耳にし目にしたときには、書名という名の固有名詞でした。それは確かです。でも、もともと『』などついていなかった言葉たちです。『』は、お約束事、つまり制度、しがらみ、ルール、掟です。さきほどの、存在と無、と、『存在と無』の差異を思い出しましょう。そして、固有名詞から、『』を外し、匿名化された言葉の環境へと解き放つ。
すると、例の固有名詞特有のまばゆい輝きの代わりに、どこに光源があるのか定かではない部屋に置かれた物体のように、目を凝らせば凝らすほど、何であるかが認識できない、初めて目にするものとしか言いようのないものとして現前します(※今の文、ややこしくて、ごめんなさい。簡単に言えば、固有名詞が普通の名詞、つまり、ただの言葉に見えるということです)。その何やら懐かしい、それでいて心騒ぐ薄明の中で、そこにある言葉たちが、必死になって別の言葉たちを求め、おびき寄せようとする。
上に羅列した言葉たちは、思考を刺激し、考えることを促してくれる触媒なのだと、あっさり言うこともできるでしょう。とりあえず、その言い方でお茶を濁すのも、ひとつの方法でしょう。どうせ言い尽くすことなど、到底できないのですから。
ただ、その言葉たちのまとう表情と身ぶりと運動に、自分の頭と体を任せてみたい。母親の胎内から出て、まだ見えぬ目で初めて「世界」と向き合ったという、始原あるいは誕生という名の「物語(=フィクション)」を想定しながら。
あえて言うなら、その言葉たちの生い立ちや起源は、このさい、どうでもいい。そう、どうでもいいのです。誰が最初に言った、誰が発明した、誰のオリジナリティー、誰の専有物、「おい、真似すんなよ」、「すごい、わたしって天才? つばつけておこうっと、ぺっぺっ」「そこのあなた、パクるんじゃないわよ」、「" "をつけてググってみよう、おお、まだ『あき』じゃない、しめしめ」(最後のこれは、私がよくやることです(赤面)、ブーメランブーメラン)。
とはいうものの、「作者」という根強い「神話」と、「著作権・知的財産権」という名の、「制度=ルール=掟」があります。作者、著作権。これなしに、現在のヒトの世界は成り立たないのですから。
読んでもいない本のタイトルを借りて、気ままに本を書いてみたい――。
そういうことです。ややこしい文章を書いてごめんなさい。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
#エッセイ