「東京」× 無限大
げんすけ
2020/07/19 08:41
東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京、東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京 東京……
これって、きのう(※安心してください、「きのう」の記事を読まなくても分かるように書きますので)お話した、「そっくりなもの」=複製=コピーの一例です。
(1)不気味ですか? それとも、(2)スーパーなんかに並んでいる、大量生産された製品=商品と同じで、何とも思わない、ですか? あるいは、(3)こんなブログを書いている者こそが、不気味だ、あやうい、とお思いになりますか?
個人的には、誰かのブログで、以上のような文字のつらなりを見て、質問をされたなら、(1)⇒YES、不気味です、(2)⇒NO、何とも思わないわけにはまいりません、(3)⇒YES、YES、そんなことをしている人って、とっても不気味で、マジであやういと思います、という感じで回答しそうです。
文章を書き進めていく都合上、(2)と(3)は保留にして、(1)に的を絞って、お話を続けたいと思います。どうか、ご理解とご了承をお願い申し上げます。
*
さて、ここでは、ある人を仮定して、話を進めます。その人の意見では、「東京」という言葉――この場合では文字=活字ですが――が、ずらりと複製されて並んでいるさまは、いささか不気味だと感じています。並べた者の気が知れない、あそこが尋常ではないのではないか、という不気味さは別にして、「そっくりなもの」=複製=コピーがずらりと並んでいること自体が、何だか気味が悪いのです。
これを、スーパーの棚に陳列された缶詰や、紙パック入りの牛乳や、サンマと比べて、同じじゃないかと言われても、「いや、そうじゃない」という気持ちを強く抱いています。とはいえ、どうしてそう思うのかと尋ねられても、明快な返事ができそうな感じではありません。ただ、不気味なのです。
自分は、次のように思います。
「東京」という文字の羅列を見て不気味と感じることは、ヒトとして、ごく自然な反応です。不気味と感じないほうが、むしろ不気味です。なぜ不気味なのかを考える必要はない。考えたところで、ゴキブリが苦手な人にゴキブリの大群を見せて、なぜ「うげーっ」とするのかと問い詰めるようなもので、答えなんか出そうもないからです。
詳しく申しますと、体感的、あるいは生理的(※この言葉には抵抗を覚えるのですが、便利ですから使います)、または心理学的な反応について述べるさいには、言葉による説明は、あまり説得力がないと感じるからです。ひょっとすると、
*不気味の前で、人は沈黙するしかない。
と、ヴィトゲンシュタインさんなら、小声でつぶやきそうな気がします。ですので、がらりと違った面から、冒頭の、「そっくりなもの」=複製=コピーの行列
――ちなみに、数学でいう「行列」も英語では matrix (※マトリックス)と言います。おもしろいですね。自分は数学がすごく苦手なので、なぜ「そっくりなもの」の「お母さん」=マトリックス と、「行列」とがつながるのかは不明です。「お母さん」の胎内で「そっくりなもの」の「胎児」あるいは「卵」が列を成しているというイメージでしょうか?――
を眺めてみましょう。
*
ところで、
*あなたにとって、東京って何ですか?
というか、
*あなたにとって、東京ってどんな所ですか?
そんなふうに尋ねたとすれば、いろいろな答えが返ってくるでしょうね。ちょっと想像してみませんか? 個人的に想定する回答を、以下に挙げてみます。
*「仕事でよく出かける場所」、「アキバがある所」、「シブヤがある都市」、「昔、シブガキ隊のコンサートを見に行った所」、「ディズニーランドのついでに行く所」、「○○が都庁でふんぞり返っている間は、一銭もお金を落としたくない都市」、「歌手の○○ちゃんが住んでいるまち」、「元彼の○○くんが、今、大学で一生懸命にラグビーをやっている所」、「原宿なんかを歩いていたら、スカウトされてタレントかモデルになれるかもしれないまち」「有名人に出くわして、握手とかしてもらえるかもしれない街」、「むかし、わが青春時代を送った大都会」、「先祖伝来の田んぼ一反を売ったお金で、2人の息子が通っている学校のある、わが国の首都」、「司法・立法・行政が集中している、お上の巣であり牙城」、「とにかく都会」、「5年前に○○ちゃんと別れ話をした、豊島区西巣鴨庚申塚にある、都電荒川線の庚申塚駅のベンチがまだあるはずの所」、「よく知んないけど、こわいところ」、「よく知んないけど、いいことありそうなところ」、「2カ月に1回、表参道の○○にいるカリスマ美容師の△△さんにカットしてもらいに、電車を乗り継いで2時間半かけていくまち」……
長いですね、ちょっと休みましょう。
*
では、さきほどの続きをいたします。
*あなたにとって、東京って、どんな所ですか?
「去年の夏に、4週間かけて通った予備校があった所」、「あたしが3歳の時に、家出をしたというパパが住んでいるらしい都市」、「おれが家出した時に、○○署のおまわりさんだった、△△さんと□□さんに補導されて、いろいろお世話になった都市」、「教祖様のお住みになっている聖なるパワースポットがある場所」、「2015年までに、おらがきれいなお嫁さんと、白金か白金台のマンションに住んでいるはずの、この村から1,000キロ離れた都会」、「今から20年後に、わたしがフリーのメイクアップアーティストとして、大きな鏡の前でモデルさんや女優さんなんかの脇に立って、忙しく手を動かしているはずの国際都市」、「うちの人と出会って、一緒に苦労して、一緒に事業に失敗して、5人の子どもを抱えて、一家7人でここまで逃げてきた、半生の出発点みたいなまち」「おらには、テレビで見るしか、カンケーねえ、とこ」、「塀の外の話だもんなー、けど、いつかここを出たら、一山当ててやりてー所」、「毎週、日曜になるとさ、早起きして、始発なんかに乗っちゃってさ、原宿に着いてさ、代々木公園まで全力で走っていってさ、ちーちゃんとか、まーぼーとか、えーこちゃんとかと一緒に木の下なんかで着替えてさ、ラジカセ鳴らしてさ、ほかの仲間と踊ったりさ、馬鹿やったりしたまち 」
――代々木公園、ラジカセ、踊る……。あれ、まあ! ひょっとして、これって、もしかして、きょうの、
*あのヒトは今
では、ないかいのう?
*「竹の子族」
元・「竹の子族」のみなさん、現在は、どうしていらっしゃいますか? 「ホコ天=歩行者天国」(※「イカ天」なんてのも、時期はずれますが、ありましたよね)が禁止になるまで、毎週日曜日に、踊ったりパフォーマンスみたいなことをやるのが、続いていたんですよね。中心は、中学生や高校生。元気よかったですね。こっちは、こわごわ、傍で見ていただけでしたけど、あのラジカセやアンプのでかい音には圧倒されました。
自分は中途難聴者ですから、徐々に聴力が低下してきたころで、ああいう音は耳にはよくなかったのかもしれません。でも、うらんでなんかいませんよ。自分で好んで、見学に行ったんですもの。みんな、楽しそうでしたね。それより、元・「竹の子族」のみなさん、現在、耳のほうは、大丈夫ですか? ちょっぴり心配しています。で、竹の子ですが、いろんな衣装と系統があったみたいで、派閥抗争めいたごたごたも、見聞きしました。すべては過去の話、みなさん、もう落ち着かれましたか?
いつだったか、NHKアーカイブスかなんかで、みなさんの当時の映像を見ましたが、一つ印象的だったことがあります。特に、女の子たち。あのころの、みなさん、ぽっちゃりしていましたよね。実に健康そうに見えました。朝昼晩と三食、ばっちり食べてるな、って感じ。
今ではパパやママになっている方々もいらっしゃるはずですが、おたくのお子さんたち、特にお嬢さんなんて、ずいぶんスリムじゃないですか? 三食ばっちり食べていますか? 眉も当時に比べれば、最近のギャル(※死語ですか?)たちは、かなりスリムになっていますよね。昔の女性のメイクって、今みたいに眉が極細だったり、無かったりなんてこと、なかった気がするんですけど、記憶違いですか?
*
さて、再開します。
*あなたにとって、東京って、どんな所ですか?
「わては、ここで一生を過ごし、骨をうずめる覚悟でおま、そやから、いっさい、かかわりたくない場所ですのう」(※いったい、どこの方言ですか、それは?)、「なんてったって、都はここ、ふん」(※なるほど、そうどすか?)、「あそこはですね、ロハスでエコでリサイクルな僕たちの住む場所ではありませんね」(※はあ、ロハスさまですか、失礼しました)、「セミナーに出て、100万円の青い壺と50万円の数珠をローンで買わされた、こわいところ」(※それくらいで済んで、良かったですね)、「おれ、東京の大学で哲学やりてー」(※それは、およしなさい、お勧めできません、不幸になりますよ、ここに生きた見本が一匹います)、「わたしをトーキョーに連れてって、ねえ、オジサン、1週間くらい泊めてよ、そのうち出ていくから、ね?」(※そっ、そんな、にじり寄らないでください、あなたおいくつですか? は、犯罪になるではありませんか、それに、このオジサンには他人様を養うようなお金がないんです)……
*
というわけで(※どういうわけ、なんでしょう?)、「そっくりなもの」=複製=コピーの一例として、「東京」という「言葉」――この場合では文字=活字ですが――を羅列し、次に、その「東京」を用いて「あなたにとって、東京って、どんな所ですか?」というアンケートというか、一口インタビューみたいなものを、想像=空想=妄想してみました。どうして、こんなことを試みたのかと申しますと、
(0)頭の中での一種のシミュレーションとして、
(1)「東京」を一個のトリトメのない「記号」と仮定し、
(2)複数の「知覚する存在であるヒト」たちの、頭を含む身体を、「舞台=ステージ=場」として、その「東京」という「記号」が発するさまざまな、「まぼろし=意味=イメージ」を記述し、
(3)その「まぼろし=意味=イメージ」の多様性を確認することにより、
(4)「東京」という一個のトリトメのない「記号」の「トリトメのなさ」を体感的に感じとるために、
(5)「東京」という一個のトリトメのない「記号」も、スーパーなどに並んでいる「大量生産された商品=製品」と同様に、いろいろな場所に「いっぱいある」「そっくりなもの=複製=コピー」であることを、具体的な形で体感的に感じとり、さらには、
(6)その「記号」の発信源であるはずの「お母さん=マトリックス」が、東京という具体的な場所などでは全然なく、むしろ、
(7)「知覚=錯覚するヒト」が宿命として持つ、太古に「と或る尻尾のないおサルさん」が「と或る尻尾のないおサルさん + α 」=「狂えるおサルさん」=「ヒト」=「人間様」となったさいに起きた「頭の中のズレ」=「 + α 」の結果である、という仮説を打ち立ててみると同時に、
(8)「東京」という一個のトリトメのない「記号」もまた、「大量生産された商品=製品」と同様に、言葉やイメージのやりとりである、コミュニケーションと呼ばれる「交換」行為を通じて「消費される対象」であることを示す、
という、ある種の実験(※エクスペリメント)=体験(※エクスペリエンス )を、みなさんと共有したい、と思ったからなのです。
*
今、書いた個所を読み返しましたが、ややこしいですね。実際、ややこしいのです。ただ、簡単に次のような、非常に大雑把なまとめ方も可能です。
(A)百人のヒトの頭の中には、百個の東京についてのイメージがある。
どうでしょうか? だいぶ、すっきりしましたよね。ただし、これ、嘘なんです。なぜなら、次のようにも言えるからです。
(B)ヒトの意識は複層的であり、一刻一刻変化しているため、百人のヒトの頭の中には、同時的に、かつ継続的に、無限の数の東京についてのイメージがある。
つまり、「意識の複層性」と「時間による意識の変容」という要素を加えたのです。そうなると、(A)よりも、ややこしくなります。さらにほかの要素を加えることも可能です。そうすれば、なおいっそう、ややこしい記述になります。ものごとを簡単に言うと嘘になる。とはいえ、詳しく言うと収拾がつかなくなる。言葉を扱うことが原因で生じる、この種のややこしさを避けるために、直感に頼るという方法もあります。
では、その方法を、試してみませんか? まず、冒頭の「東京」の羅列を、もう一度ご覧になってください。不気味ですよね。尋常じゃないですよね。次に、三つに分かれたインタビューへの回答である、「○○○○○」、「○○○○○」、「○○○○○」……のうち、最初のかたまりを眺めてください。これも、気味が悪いですよね。
*
さて、これから大切なことを申します。今から、書くことを頭に入れて、目を閉じ、書かれていたことを頭の中でイメージしてみてください。いきますよ。
「東京」× 無限大 AND 「○○○○○」× 無限大 (※数学とは関係ありません、あくまでも比喩です、念のため)
上の図式を頭に入れて、目を閉じ、あなたの頭の中で、「東京」と、「○○○○○」が、どんどん増殖していくさまをイメージしてみてください。どんどん増えるのですよ。無限大に増えていくのですよ。それで、くらっとしたとすれば、「記号というもののトリトメなさ」をシミュレーション的に体感したとほぼ同じになる、と思うんですけど、どうでしょうか?
誰も東京を見たり知覚した人なんていないのです。東京というのは、東京という文字であり音声、つまり、言葉を通して各人が頭の中にいだいているイメージなのです。その数は無限です。しかも刻々と変化するのです。
東京、東京。
この二つは、そっくりですよね。でも、それは、あなたの頭の中では、
*そっくりなものなんかじゃなくて、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃしたもの
なのです。それが、
*二つどころか、無限に「存在する=想像される=イメージされる=認識される」
のです。
ただ、それをまともにイメージすると脳がパンクしますから、適度にというか、すごく単純化してデータ処理しちゃうのです。これは喜ばしいことです。さもなきゃ○○しますよ(※○○は各自によって違います、想像してみてください)。
さて、
>ヒトは、一度に一面のテレビ画面しか見られない。
>ヒトの知覚は、一面のテレビ画面である。
という意味のことを、今週の前半(※安心してください、「今週の前半」の記事は読まなくても分かるように書きますので)に書きましたよね。まさに、そういうことなんです。
冒頭の東京の羅列を見て、ぎょっとしたとすれば、ひょっとして、あなたは、自分の頭蓋骨の内側に、ずらーりと並んでいる東京というトリトメのない記号の羅列と、その記号たちの発するイメージたちを、垣間見たような錯覚に陥ったのかもしれませんね。ひょっとして、ですよ。比喩ですよ。深く考えないでくださいね。
もう、春です(※ごめんなさい、この記事はずいぶん前の春に書いたものなのです)。メンタルヘルスに気を配りましょう。きょうは、調子に乗って、あなたの頭の中に土足で踏み込むような真似をしてしまいました。ごめんなさい。
自分は、スピリチュアル、ヒーリング、自己変革、自己啓発、コーチングなどが苦手で、それらもどきのことは、されたくも、したくもありません。
健康のためなら死んでもいい、みたいなことを言ったのは、自称健康オタクのサンプラザ中野さんでしたっけ? 自分の場合には、今、挙げたようなものにすがるくらいなら、うつのままでいい、とすら思っています。というか、お薬のほうが頼りになります。あとは心の持ちようでしょうか。要するに、好みの問題です。誤解なさらないよう、お願い申し上げます。
ですので、きょう最後のほうでやったのは、お遊びです。深い意味は全然ありません。また、一緒に遊びませんか? 待っています。
※この記事は、今朝、うちで購読している朝刊の一面の下のほうを見て、ああ、あれに似ているなあと思い出し、誰にも頼まれていないのに、急きょ投稿しました。こういう符合=偶然ってわくわくして好きです。その新聞の購読者の方、ねえ、そっくりでしょ?
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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