たとえる(10)

げんすけ

2020/08/07 08:13


「たとえる(9)」では、だじゃれを例に取り、


*言葉の物質性=音声 or 文字(※漢字・ひらなが・カタカナ・ローマ字)の響きや形(※運動=身ぶり=表情)


に注目した言葉の使い方について考えました。ここでは、


*言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージ(※運動=身ぶり=表情)


に注目した言葉の使い方について書いてみます。簡単に言えば、通常、「筋道を立てて話す(or 考える)」と呼ばれている作業です。この作業においても、基本となるのは、だじゃれの場合と同様に「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」という「仕組み」です。


*「森羅万象A(※無限大)」の代わりに「森羅万象B(※無限大)」を用いる。


と、大げさに言い表すこともできます。


 しかし、こうした「仕組み」が働いているのだ、という「考え方」に触れた(or 「染まった」=「かぶれた」)ヒトが、以下に述べることを理解するためには、いったん上記の「考え方」があることを忘れなければなりません。さもないと、「筋道を立てて話す(or 考える)」と呼ばれている作業について考えるさいに、脳に無理=負担がかかる恐れがあるからです。


 絵を描く、あるいは工作をするといった作業を例に取れば分かりますが、その作業自体や、その作業に用いる道具に疑問や不審を抱いているならば、作業はうまく進みません。最悪の場合には、その作業を途中で放棄してしまうでしょう。やる気を失ってしまうのです。「ああ、馬鹿らしい」「こんなお遊びをやって何になるの」では、お絵描きも工作も全然楽しくないですから、当然でしょう。


 したがって、これから書くことを、ある程度身を入れて読んでいただくためには、


*「世界は、たとえ=仮想現実なんかじゃない」


と自分に言い聞かせる必要があります。「世界は、たとえ=仮想現実なんかじゃない」と、実際に声に出しておっしゃってみてください。「声を出す」という身体的作業が大切です。頭( or 心)の中でつぶやくだけでは、効果は期待できません。


     *


 何だか、自己啓発書めいてきたな、とお感じになられた方、正解です。これからお話したいのは、そのたぐいの話題なのです。「筋道を立てて話す( or 考える)」となると話が、広がりすぎて「何でもあり」状態になりますので、いわゆる「ビジネス書」の中でも、いわゆる「自己啓発書」とか、いわゆる「発想法・思考法」などと分類されている書物を対象に、話を進めていきたいと思います。この種の本について考えるさいには、


*言葉の力を信じる。


というスタンスが問題になるので、ある種の「二重人格=二枚舌」になっていただく必要があります。


 もっとも、上で述べた、


*「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」という、言葉の「仕組み」がピンと来なかったり、「嘘っぱちだ」と感じる人たちにとっては、「世界は、たとえ=仮想現実なんかじゃない」などと、声に出して自分に言い聞かせる必要がない


ことは言うまでもありません。自分自身に言い聞かせる必要のない人のほうが、ヒトの世界では圧倒的多数を占めていると思われます。


 なぜ、このようなことをわざわざ書いているのかと申しますと、


*「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」という「仕組み」があるという「考え方」が心の隅にあると、以下に述べるお話を「理解する」というより「味わう」ことが難しくなる


からです。そうです。これから述べることは、頭で理解すると同時に、体で「味わって」もいただきたいのです。ここでの「味わう」とは、きわめて実際的=実用的な行為です。「考える」「理解する」といった、「霞を食う」ような「浮世離れした」スタンスとは趣が異なります。


 これまで「たとえる」(1)~(9)において述べてきた内容とは、それくらいレベルというか次元の違うお話を、これからしたいと思っています。以上、くどくどと書いたのは、個人的な経験と実感からくる「老婆心」のようなものがあるからです。これが、単なる「心配性」が高じた「杞憂」であれば、「徒労」だったということになりますが、念のために、以上書き添えました。


     *


 さて、誰とは名指しませんが、ある十代のプロゴルファーが(※石川遼さんのことです。十代の一流アスリートやプロの選手が珍しかった時期の話です。記事の鮮度が悪くて申し訳ありません)、この国で人気を集めています。人気だけでなく、実力もつけてきました。個人的に注目しているのは、その発言です。実にプラス思考=ポジティブなのです。


 先日のことですが、ある新聞が目玉にしているコラムに、「どうしたら、あのようないい子が育つのだろう」みたいな手放しの褒め言葉が書かれていて、思わず苦笑してしまいました。なんてナイーブなコラムニストなのだろう、と感じたからです。単に、読者のレベルに合わせて迎合しているだけなのかもしれませんが、それにしてもナイーブすぎます。


 プロのスポーツ選手、とりわけ抜群の実力と人気があり、CMや取材を含め、メディアにその映像や音声を「露出」させることで、莫大な収入を得ている商品価値の高い選手には、大勢のスタッフがついています。


 対象となるスポーツ自体のトレーナーを始め、健康管理、メディア対策の専門家はもちろん、心の管理をするプロフェッショナルが付き添っています。タレントの付き人さんみたいに、常に付き添っているという意味ではなく、エージェント、コンサルタント、コーチといった名称を持ち、有料で、面談・電話・メールといった形で相談に応じたり、サポートを行っているのです。


     *


 話は少し変わりますが、書店では、自己啓発書専用のコーナーがあり、さまざまな「流派」のスペシャリストたちによる本であふれています。現在の大不況は出版界にも及んでいますが、自己啓発書や思考・発想法関連の書籍の売れ行きはなかなか好調のようです。「自分を変えたい」、「ポジティブな思考ができるようになりたい」、「いいアイデアが浮かぶスキルやツールを身につけたい」などと望む人たちが、いかに多いかを示している現象と言えるでしょう。


 さきほどの十代のプロのスポーツ選手ですが、テレビでその発言を聞いていると、自己啓発書に書かれている雛形(ひながた)(※流派の違いはあっても、ほとんど同じようなことが書かれていますね)とそっくりなことを口にしているのです。表面上の言葉遣いがそっくりであるだけでなく、その言葉の根底にある思考のパターンもまたそっくりなのです。


 ただ一つすごいと思うのは、その雛形を口にするだけでなく、然るべき「結果を出している」ことです。だからこそ、テレビでそのインタビューを見ている人たちが、画面に釘付けになり、催眠術にかかったようにうっとりとしてしまうのです。この文章を書いている者も、その1人です。そのスポーツ選手がテレビに出てきて話しているのを聞いていると、思わず聞きほれてしまいます。


「さすがー、超プラス思考」。「すごいなあ」。「あの本で書いてあったことと、そっくりの言動をしている「成功例」が、今、目の前の画面に映ってしゃべっているじゃん」。「やっぱり、夢は実現するのだ」。「何ごとにもポジティブに向きあえば、きっといいことが起きるのだ」。「若いのに、なかなかしっかりしたことを言うね」――。


 同じ画面を見ている他の人たちの発する、そんな声が聞こえてくるようです。言動がポジティブなのは、とうぜんです。そういう訓練(=コーチング)を受けているのですから。


     *


「頑張ってはいけない」といわれている、うつを患っているため、以前は、「元気の出る」たぐいの本を避けていました。ところが、最近思うところがあって、比較的大きな書店に何日か通い、立ち読みしてみました。偏屈者でネガティブ思考に傾きがちな自分にとっては異例の行動です。


 数日間かけての立ち読みの結果、その種の本が、(A)自己変革派と、(B)思考・発想法派の二つに分かれるという印象を抱きました。取り立てて言うほどのことではないのでしょうが、この分野に不案内な自分にとっては、発見でした。買い求めて、じっくり読む金銭的な余裕がないので、百冊前後の本をスキムしただけだとお断りしたうえで、次のような構図=図式=横着をしてみました。


*(A)自己変革派 : 言葉(=単語)と言葉遣い(=語句、フレーズ)がポジティブであるか、ネガティブであるかに異常にこだわる。単語とフレーズをポジかネガかのいずれかに区別=分類=色づけしたうえで、後者を前者に転じるための多種多様なテクニック=スキル=ツールを提供している。科学的根拠(※そんなものがあればの話ですが)を売り物にするものもあれば、スピリチュアリティ・霊・神仏・超越者の存在を大前提とするものもある。


*(B)思考・発想法派 : 自説に科学的根拠(※そんなものがあればの話ですが)があることを標榜するものが大半を占める。キーワードは、「脳・脳科学」「心理・心理学」「論理・論理力」「思考・思考法」「創造性・創造力」「想像力」「情報処理法」。(※論理や体系だけでは事足りないらしく、現在売れ筋の本では、ブレーンストーミングや水平思考やセレンディピティと称して、支離滅裂や偶然やテキトーまでも創造性を高める道具にしよとする貪欲さ=厚顔さ=頼もしさ=好ましさがみられる。)


*(A)と(B)に共通する目標は、究極的には「成功」(※富と幸福の実現)である。


*(A)と(B)に共通する作業は、(1)自分自身の身体(※頭=脳も含む)を、言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージ(※運動=身ぶり=表情)に「たとえる」=「こじつける」、(2)言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージ(※運動=身ぶり=表情)を、自分自身の身体(※頭=脳も含む)に「たとえる」=「こじつける」ことである。ただし、森羅万象が広義の言葉であるという立場に立つなら、(1)と(2)は表面的な違いであって、本質的は同じ作業である。簡単に言えば、本に書かれている狭義の言葉を、「行動=実際に体を動かす」に移すこと。つまり、狭義の言葉を、体を使った広義の言葉に「たとえる」=「こじつける」こと。要するに、「体を張れ」と促している。


【参考: このブログでは、「狭義の言葉」とは、話し言葉と書き言葉を指す。「広義の言葉」とは、話し言葉、書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(※家庭だけで通じる断片的な手話)、指点字、映像、図像、さまざまな標識や記号などを指します。】


*(A)と(B)は共に、「世界は、たとえ=仮想現実である」という意識に強く支えられている。しかし、それを「半ば本気で」しか意識していない。言い換えると、「意識している振りをしながら意識していない」、あるいは「意識していない振りをしながら意識している」。なぜなら、「世界は、たとえ=仮想現実である」は、探求すべき「真理」ではなく「方便」=「ツール」であり、最終的な目標はあくまでも「成功」(※富と幸福の実現)を手に入れることだからである。


 以上のような大雑把な印象=感想を抱きました。


     *


 上述の(A)と(B)は、非常に実用的=「現実」的であるがゆえに、きわめて説得力があり、また「実社会」を生きるうえで有効な考え方=処世術だと思います。その根底には、


*言葉の力を信じる。


という、ヒトに備わった自然な欲求があります。その欲求に素直に従うことで、自己催眠=願望実現信仰=「信じることで夢はかなう」を誘発し(※あるいは引き寄せ)、ひいては「成功」(※富と幸福の実現)の可能性を高める=促進するという、「メカニズム=ダイナミックス=運動=実行=行為」の「現実性=実現性=有効性」の成就に「賭けている」。そう言えるように思います。そうなのです。これは「言葉の力」への信仰であると同時に「賭け」なのです。ただし、


*「賭け」だと意識してはいけない「賭け」である。


という点が、決定的に重要です。


*「森羅万象A(※無限大)」の代わりに「森羅万象B(※無限大)」を用いる。


という仕組みが大前提となっている。それにもかかわらず、さらに言うなら、


*言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージ(※運動=身ぶり=表情)


に我が身(=自分という存在)を賭けた(=「かけた」=「たとえた」=「こじつけた」)大ばくちであるにもかかわらず、その行為を「かけ」だとは絶対に意識してはならない真剣勝負=自己催眠である、とも言えるでしょう。


 上で書いたことで重要な部分を、以下にコピペします。



>(中略)こうした「仕組み」が働いているのだ、という「考え方」に触れた( or 「染まった」=「かぶれた」)ヒトが、以下に述べることを理解するためには、いったん上記の「考え方」があることを忘れなければなりません。さもないと、「筋道を立てて話す( or 考える)」と呼ばれている作業について考えるさいに、脳に無理=負担がかかる恐れがあるからです。


>この種の本について考えるさいには、


>*言葉の力を信じる。


>というスタンスが問題になるので、ある種の「二重人格=二枚舌」になっていただく必要があります。


>これまで「たとえる」(1)~(9)において述べてきた内容とは、それくらいレベルというか次元の違うお話を、これからしたいと思っています。



 このようにくどくど書いていたのは、今引用した部分の、前に述べたような事情があるからなのです。ややこしいですね。分かりやすくするために、たとえ=こじつけ=話のすり替えをしましょう。


     *


「神は存在するか?」という議論を例に挙げます。これは尻尾のないおサルさんが、ズレて、ヒトとなって以来の大問題ですから、「神そのものを思考の対象にできるか?」などといった類の官僚的な手続き上の議論は、パスします。うんと単純化して考えましょう。つまり、「神が存在する」と信じるヒトも、信じないヒトも、「神」という言葉を使っている点に注目するのです。これは、


*ヒトはある「言葉」を扱うさいには、その「言葉」になりきらざるを得ない。


と言い換えることもできます。「神」という「言葉」(※あくまでも言葉ですよ)が前提としてあり、その次に「存在する」「存在しない」(※あくまでも言葉です)がついて来るという感じです。別に、「神」という「実体」(※そんなものがあればの話ですが)の存在を実証したり、あるいは出会ったうえで、「神」という「実体」を前提にしているわけではないにもかかわらず、「言葉」(※あくまでも言葉です)には、


*Aの代わりにBを用いる。


という単純なメカニズム=仕組み=仕掛けが備わっているために、Bつまり「言葉」を扱った瞬間に、A(※これは、実体ではなく、あくまでも言葉です)を想定してしまうのです。この過程を順に説明します。まず、


*「神は


と発想します。


 次に、


*存在する」


と言おう( or 考えよう)と、あるいは、


*存在しない」


と言おう( or 考えよう)と、


あとは、「どうでもいい」=「野となれ山となれ」=「刺身のつま」なのです。つまり、議論しても仕方ないことなのです。


 大切なことは、「神[は]」です。その「神[は]」(※あくまでも言葉です)が、


*Aの代わりにBを用いる。


の「B」を装いながら、実は「A」の代用であることにこだわるか、こだわらないか、が決定的に重要です。こだわるなら、「不幸」(※かなり広い意味にとってください)になります。こだわらないなら「『幸か不幸か』に賭ける(=『幸か不幸か』を保留する)」ことになります。


 なぜ、前者が「不幸になる」のかというと、「ヒトでなし」=「本来ヒトにとって必要ではない行為」=ヒトにとって不自然(=無用=不要)な行為」だからです。なぜ、後者が「『幸か不幸か』に賭ける(=『幸か不幸か』を保留する)」だけで済むのかというと、その行為が「何もしない、何も考えない、何も言わない」ことと同義であり、それこそが「ヒトである」ことだからです。


*「Aの代わりにBを用いる」という仕組みにこだわることは、ヒトとして逸脱した行為(=おまけ)である。ズレてしまった尻尾のないサルの、さらにズレた行為=盲腸みたいなものである。


とも言えるでしょう。


     *


 話を戻します。「神は存在するか?」という議論は、「神[は]」だけで、もう議論は尽くされていて、「存在するか?」はどうでもいいことなのです。それと、同様に、


*世界は、たとえ=仮想現実である。


は、「世界は」で既に、話は終わっていて、「たとえ=仮想現実である」かどうかなど、どうでもいいのです。「言葉」としての「神[は]」も「世界[は]」も、口にした、あるいは、頭の中で思考の対象とした瞬間に、ヒトの脳がすべきこと、または、成し得ることは終わっているのです。


 あとは、


*「賭け」=「かけ」=「たとえ」=「こじつけ」


でしかありません。実は、


*「神は」も「賭け」=「かけ」=「たとえ」=「こじつけ」ではないか


と思っているのですが、まだよく考えていないことでもあり、またここでのお話とは関係がないのでやめておきます。


 なお、今書いたことは「主部+述部」といった言語学的モデルとも関係ありません。いつか、このブログで詳しく説明するつもりです。(※少しだけ、説明しますと、広義の言葉は「センテンス」ではなく「ぐちゃぐちゃしたかたまり」(=イメージ)であり、狭義の書き言葉で「センテンス」と記されているのは、書き言葉としての「体裁」=「都合」以上の何ものでもない。思考やイメージはセンテンスである必然性はない、ということです。)


     *


 ややこしいですね。飛躍して、結論だけを簡単に言います。例の十代のプロのスポーツ選手が口にしている言葉、そしてそのヒトが実行(※この場合は、どこどこの試合で何位だったかとかいう、そのスポーツのプレイ=成績と、いくら稼いだとかいう、成功者としての収入と、その他、大衆を感動させるために演出された言動の数々でしょう)してみせてくれていることは、上で述べた「賭け」が「成功する」可能性を示唆しているのです。


 以上のように申し上げれば、分かっていただけるでしょうか? しかし、あくまでも


*「賭け」


です。誰もが「賭け」で勝つとは限りません。さらに言えば、そもそもヒトが「賭け」だと思い込んでいる「ものごと」が「賭け」でない可能性も十分にあります。さもなければ、「賭け」であるはずがありません。「賭け」自体が、あるいは「賭け」とは、「不確実性」と同義なのです。話が、かけ離れてきました。戻します。


     *


 例のスポーツ選手について、ここで「賭け」と呼んでいるものは、通常、「努力」「才能」「運」「技術」「魅力」などさまざまな美辞麗句に「言い換え」=「たとえ」=「こじつけ」=「すり替え」られて、流通しています。どれが「本当」なのかは分かりません。と言うより、「本当」かどうかはどうでもいいこと(=「刺身のつま」)なのです。大切なのは、そのヒトがいて、言葉(※狭義の言葉です)を発し、プレイし(※広義の言葉です)、世間を騒がせる信号を送っている(※広義の言葉です)という「現実」=「事実」なのです。そうした現象の根底にあると想定される広義の言葉の仕組み=メカニズムなど、どうでもいいのです。


 というわけで、いちおう、申し訳程度に、「たとえる(10)」全体の結論を出しておきます。


*「不幸」になりたくなければ、広義の言葉の「仕組み=メカニズム」にこだわってはならない。


です。


 ただし、「二重人格=二枚舌」になるという、「不幸」の回避の仕方もありそうです。こだわっているのに、こだわっていない振りをするのです。そんなふうに振舞えば、いくぶんポジティブに生きられるのではないでしょうか。要は、本気になりすぎないことです。しょせん、「賭け」なのですから、「お遊び」だと割り切ることです。パチンコと同じです。のめり込んではいけません。


「たとえる」シリーズは、今回をもちまして終了いたします。クセのある文章を読んでいただき、ありがとうございました。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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