げん・言 -10-

星野廉

2020/09/21 10:00


「仮に・仮(=かり)」という言葉の語源が気になって、調べたことがあります。どちらにも語源の説明はなかったのですが、「どこか他のところから借りてくるからではないか」とでまかせで、「借りる」を引いてみたら、何か関係ありそうな記述がありました。


 うろ覚えなので、もう一度、辞書で確かめてみます。広辞苑によると、直接的には同源とは書いてないのですが、「借りる」と「借る」に次のような記述があります。


・かりる【借りる】(2)仮に他のものをある目的に使う。代用する。


・かる【借る】(2)仮に他のものを代用する。まにあわせる。(3)他の助力・協力を受ける。

 お断りしておきますが、辞書を引き、「正しい」や「本当」を探しているわけではなりません。「正しい」対「正しくない」とか、「真か偽か」という2項対立には、あまり興味はありません。失礼に響く言い方かもしれませんが、正直言って、どうでもいいという感じなのです。自分にとって、辞書とは、楽しい物語なのです。物語=語り=騙り=フィクション=作った話という意味での、物語です。


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「たとえば」と言って、例を挙げるだけでなく、「仮の」話をする場合があります。「列挙」だけでなく、「仮定」の前置きの言葉でもあると言えそうです。「たとえば、○○みたいなものです」という使い方をすることもありますね。「比喩」の前置きにもなるようです。


「列挙」「仮定」「比喩」に共通するのは、「置き換え」という作業だと思われます。「たとえば」は「たとえる」のきょうだいのようですから、「たとえる」は、まさに「置き換える」であると比較的容易に体感できそうです。


 断定的な言い方に置き換えれば、次のようになると思われます。


 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。


 ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの随所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。


 写像という考え方を採用するなら、ヒトは、「あるもの」と「その影」の間で、点と点レベルの「対応関係」を延々と数えあげている。


 以上の3つのフレーズは断定口調ですが、「そうらしい」だけです。語源的に言えば、たぶん「仮・借り」ですもの。


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 個人的に語源がおもしろく感じられるのは、どこか嘘っぽかったり、こじつけぽかったり、駄洒落めいていたり、つまりいかがわしそうなところがあるからです。また、「転じて」「誤用」「訛って」という記述をときおり見かけるのも、楽しいです。


 ですから、「かりに・かり」に「仮に・仮」だけでなく「かりる・借りる・かる・借る・刈る・狩る・猟る・駆る・離る・着る・枯る・涸る」まで読んでしまうのです。何となくつながれば、それでいいのです。つながっていなくても、語呂がよければ、それでもいいのです。満足します。


 快いか快くないかが大切なのであって、正しいか正しくないかの次元での選択ではないのです。再度、お断りしますが、個人的な話です。


 言葉は、そんなふうに「ある・在る・有る・或る」。そんなふうに「いる・居る・入る・要る・射る・おる・居る・折る・織る」。そう感じています。また、そう信じてもいます。


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 小学生の頃から高校生時代まで、算数と数学には文字通り泣かされました。わからなくて、悲しくて、涙をこぼしたことが何度あったか、覚えていません。悔しいというより、情けなかったです。


 大学に入り、数学と縁が切れた時には、本当に嬉しかったです。あれから、もう四半世紀以上が経ったわけですが、今でも、数学が気にかかります。未練があるというべきでしょうか。ときどき、本屋さんで、数学に関する本を立ち読みしたり、ウェブサイトを覗くことがあります。


 むずかしいです。ややこしすぎます。あたまがついていきません。でも、何から、数学という分野で、それを専門にしているヒトがやろうとしていることのイメージみたいなものが感じられるようになった気がします。比較的最近のことです。


 あくまでもイメージ・印象ですから、数学の得意なヒトからみれば、とんでもない誤解であり、曲解であると言われそうです。


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 数学を「仮に」の世界とイメージするようになりました。「たとえば」の世界とも言えそうです。そう考えると、楽です。


「こうなんだ」「これしかあり得ないのだ」「絶対にこうなるはずである」


 以前は、数学をそうした断定の世界だと思い込んでいました。実際、そうなのかもしれませんが、今はそう思ってはいません。ふっきれた、というのでしょうか。すっきりして、気が楽になったのは確かです。


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 数学は、広義の言葉・言語だと思われます。道具だと考えているヒトもいるみたいです。


 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。


 今書いたフレーズの「その「何か」ではないもの」を、「道具」と個人的には考えているので、「数学は道具だ」とよく言われているフレーズにある「道具」とは、ちがうようです。


 たとえば、物理学や化学で、ある現象や法則を記述するために「道具」として使うとか、機械工学や土木工学でも同様に記述の「道具」として用いるという意味が、一般的ではないかと思われます。


 理論物理学という分野があるようですが、思考実験でもしているのかなと勝手にイメージしています。ある説を提唱したさいに、理論物理学者本人か、本人以外が今度は数学という思考実験で、それを補強する。たぶん、数式とかグラフとか、視覚的イメージでデザインする形で、エレガントにプレゼンテーションをして、もっともらしい、あるいは説得力ある説へとアレンジしてくれる。


 そんなふうにイメージしています。あくまでも、素人の勝手な想像です。いかがわしい話です。


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 数学は、森羅万象のありようをイメージ化するのに、有効性と信頼性のあるモデルを提供してくれる絵か図のようだと、思うようになりました。


 絵か図という言葉を選んで使っているのは、視覚的イメージを優先している気がするからです。


 微分におけるグラフで「曲線を細かく区切ると直線に見える」というイメージ。確率での、サイコロを振るとか、ルーレットの円盤を回したり、スロットマシンで絵柄や数字を組み合わせるイメージ。統計での、何やら手作業的なせわしげな数値化にほんそうされるヒトたちのイメージ。行列でみられる、式というより印章や紋章の模様みたいなイメージ。写像という、影絵や幻灯に似たきれいなイメージ。ベクトルにおける案内図のような矢印などの記号に満ちたイメージ。


 そもそも数式というは、図なのだなあと、今ごろになって気づいて感心しているのです。お恥ずかしい限りです。


 書き言葉や話し言葉では、ややこしくなるから、図式化するというのが、数学の基本みたいだと理解していますけど、たぶんそんなものではないのだろうという気がします。そうではなくても、かまわないと言えばかまわないと思っています。いい夢をみさせてもらえば、満足だという感じです。


 フランスでは、たとえ数学者の書いた数学の論文であっても、論理的で朗読するに値する美しい響きを持った文章であれば、暗唱の対象になるという話を、学生時代に聞きました。どういう意味だったのでしょう。あえて、数式にしないで、表現するという意味にも取れるような気もするのですが、不思議なお話として、解決しないでおきたい謎です。


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 もしも、こうだったら、こう言えるけど、ああだとすれば、ああなるはずなんだけど、どうなんだろうね――。


 仮定とか、仮の話は、そんな感じですが、まさに、どこかから別のものを「借りてくる」わけです。森羅万象の一部を、別の森羅万象の一部を借りてきて、置き換えて、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある、ああでもないこうでもある、ああでもあるこうでもない、と言葉やイメージをいじくるわけです。


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 太古に、どちらかというとひ弱な尻尾のないおサルさんがいて、その脳内で何かが壊れたかずれたようなことが起こって、ヒトという種になった。よく見聞きする物語・神話・説です。おもしろい話です。ちょっと笑いたくもなります。


「ひ弱な」がキーワードだと思います。いかがわしくて、うさんくさくて、安易な連想ですが、「ひ弱」だからこそ、いろいろな道具や仕組みを考え出したり作り出したとも言えそうです。ヒトから、そうした道具や仕組みを取り上げてしまったら、どうなるでしょう。


 よく考えるのですけど、数歩歩くだけでも大変だと思います。靴を没収されているわけですから。確かに、24時間のほとんどを裸足で暮らしているヒトも、この惑星のどこかに多数いるはずです。でも、個人的に想像すると、ぞっとします。下着も取り上げられてしまうのです。


 なんて、ひ弱なんでしょう。仲間を月に送り込んだとか、天然痘を撲滅したとか、金属製の機械に乗って空を飛べるとか、数万キロ離れたところで起こっている出来事をニュースという「代理」で知ることができるとか、地球の温度を高めるのに貢献しているとか、ある意味ではとてつもない規模で共食いをし合っているとか、そんなことを言っても自慢にはなりそうもありません。


 はだかになれば はだあかいさる さればさち


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 言葉には、いろいろな意味がありますが、そのなかに個々の言語と、諸言語に共通する言語活動という意味もあると言えそうです。


 いろいろな意味での言葉について、個々の言語の1つである日本語、そのなかでも書き言葉を使って考え、書く。その試みは、圧倒的な劣勢にあっての冒険、つまり無謀だと考えています。とりわけ、諸言語に共通する言語活動という、個人的にはもっとも興味のあるテーマについて、ある特定の言語を用いて語ることは、まさに騙ることだと実感しています。


 地図は現地ではない。そんな意味のフレーズを思い出します。言葉と現実との関係を、比喩的に述べたものだという記憶があります。


 言語を用いて言語や言語活動を論じるとは、間違った地図を持ってある土地をさ迷って、その挙句に、ここは地図のここにちがいない、ここはここのはずだ、みたいにトンチンカンな勘違いを重ねている作業のように思えてなりません。


 みつけたぞ たからさがしで まけおしみ


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 世界の言語の多様さには驚かされます。膠着語(こうちゃくご)、屈折語、孤立語という分け方に、特に興味を覚えます。


 昔習ったことの、おさらいをしてみます。


A)「わたしはあなたを愛している」


「は」「を」みたいなものが、語と語を接着剤のようにつないでいるのが、膠着語。


B) I love you.


「I, my, me, mine」「love, loves, loved, loving」「you, your, you, yours」みたいに語を屈折させて文を作るのが、屈折語。


C)我愛你.


「我」「愛」「你」は孤立していて変化せず、その語順で文の意味が変わる孤立語。


 大雑把に言うと、そんな話だったと記憶しています。言語に、こういう違いというか種類があることが、すごく不思議です。言語学では、比較言語学など、ある程度実証みたいな作業が可能で、比較的割り切れる分野もありますが、こういう分類をしたのはいいけど、それから先の「どうして」へ進めない領域もあります。


「なぜか」を受けつけない不思議さがあります。説明もできないし、理屈もつけられない。でも、そうなっている。どうなっているのでしょう。


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 時制や法(※直説法とか仮定法という意味での法です)の違い、母音子音の多様さ、語彙(ごい)のばらつき、主語という考え方の有無や違い、話し言葉と書き言葉の差、文字の有無も、不思議でしかたありません。国や地域によって異なる手話についても、謎がいっぱいありそうです。


 あるシステムでのみ有効性を持つようにヒトが作ったコンピューター言語やマシン語と呼ばれているものについても、言葉でしか知らないに等しいだけに、どんなものか知りたい気がします。


 机の上の壁に、あいうえお表が貼ってあります。それを眺めるのが好きです。「あ」から始まって「ん」で終わる図なのですが、じっと見ていると、何なのかわからなくなる瞬間や、瞬間よりもう少し長めの「時」を経験することがあります。


 その「時」が好きです。言葉では、言えません。ただ「好き」とだけ、かろうじて言えるだけです。


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「ん・ n 」は、ふつう、口をかすかに開いたまま、上の歯の裏から奥にかけて(※硬口蓋というそうです)、舌をぴったりとくっつけて、鼻から息を出しながら出す音です。でも、個人的には、「m」、つまり、両唇を合わせて閉じて、鼻から息を出す「む・ mu 」の「 u 」なしの構えで出す音で読んでいます。


 aum とか om とかいう、仏教かサンスクリットか知りませんが、そんな大そうな話とは関係なく、何となく、このほうがしっくりするので、癖でそう読んでいます。


 横着をして、あいうえお表のうちの、「あ・ a 」と「ん・ m 」だけを口にすることがよくあります。伸ばしぎみにゆっくりと発音しながら、何度も繰り返します。2つはつながり、連続した音になります。目をつぶると、口と鼻という穴を通る空気の流れと、鼻の奥の震えだけが感じられてきます。そのうち、眠くなります。


 ヒトは口を開けて「 a 」と言ってうまれて、「 m 」または「 n 」の口をして息を吐いてなくなる。そんな思いにとらわれます。ほんとうのところは知りません。


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「ま・ ma ・間・あい・あいだ・あわい」という言葉とそのイメージが好きです。


「ま」には、あいがあります。わがあります。だがあります。いがあります。かんがあります。けんがあります。ひとがうまれてなくなるまでのあわいあわいがあります。それはうつろいつづくというきがします。


 ことばをわけるとまがあきます。そのまにはなにがあるのでしょう。であいがありそうなきもします。でもわかりません。わかるかもしれません。わからなくてもいいというきもします。わかるよりもあいたいです。あいたい。あう。あうむ。


 あからむへ あうむうあむと わをえがき



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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