げん・幻 -10- と、お知らせ
げんすけ
2020/08/12 08:24
影、影絵、写真、幻灯、映画、テレビ、パソコンのモニター、ケータイの液晶画面。こうしたものたちは、すべてまぼろしです。広義の影です。幻である影、あるいは幻の影、つまり幻影と言えます。映った像、つまり映像とも言えます。何かの代わり、つまり代理と見なすこともできそうです。
要は、「何かの代わり」であって「何かそのもの」ではないという点です。だから、どこか、いかがわしいし、うさんくさいし、はかないし、たよりないのです。そうしたネガティブな言葉およびイメージを、そのまま逆転し、ポジティブに変えるのが、ヒトの想像力であり、その同音異義語とされる創造力だと言えるかもしれません。個人的には、両者は同義語だと思えてなりません。
ポジティブもネガティブもない。両者は表裏一体であり、ヒトがどう「見る」かにかかっている。そんな考え方もあるでしょう。多数のヒトにおいて、考え方や意見が一致しなければならないという、必要性や必然性はないと思われます。唯一の真理がなければならないという、必要性や必然性もないと思われます。「なければならない」とか「あるはずだ」とは、ヒトという種の「願い」であり「欲求」だという気がします。それも、「まぼろし」だと言えそうです。
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「まぼろし」しかないのであれば、「まぼろし」の仕組みを「まぼろし」として知覚し意識しようという、冒険心があってもいいように思います。冒険ですから、賭けであり、危険を冒すことであり、何かに身を任せることだと言えるでしょう。
たった今、冒険という比喩、つまり代理、つまり、まぼろしを使いました。「冒険」という言葉とイメージを出したために、「賭け」とか「危険を冒す」とか「何かに身を任せる」という言葉とイメージが連なって出てきたのです。こういう現象を「連想」とも言います。これが、代理を用いる代償です。「代償」という言葉とイメージは、「代理」という言葉とイメージにおびき寄せられたものであることは言うまでもありません。比喩に導かれた連想とも言えるという意味です。
言葉が言葉を引き寄せる。言葉が言葉を呼ぶ。言葉が言葉を立ちあらわせる。言葉の磁場ができる。万事がこんな感じなのです。
「思考が言葉に優先し先行する」とか、「言葉はヒトの道具であり僕(しもべ)だ」とか、「言葉とヒトとの関係において主導権はヒトにある」という考え方や感じ方や主張もあるにちがいありません。そういう考え方をするヒトたちにとって、「言葉がひとり歩きする」とは、きっと、失言した政治家の言い訳でしかないでしょう。
ちょっと遊んでみます。
まぼろしがまぼろしを引き寄せる。まぼろしがまぼろしを呼ぶ。まぼろしがまぼろしを立ちあらわせる。まぼろしの磁場ができる。万事がこんな感じなのです。
「思考がイメージに優先し先行する」とか、「イメージはヒトの道具であり僕(しもべ)だ」とか、「イメージとヒトとの関係において主導権はヒトにある」という考え方や感じ方や主張もあるにちがいありません。そういう考え方をするヒトたちにとって、「まぼろしやイメージがひとり歩きする」とは、きっと、心の病(※比喩です)にかかっているヒトの症状でしかないでしょう。
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「crazy ape・狂える尻尾のないサル・cruel尻尾のないサル・残虐な尻尾のないサル・ヒト・Homo sapiens・ホモサピエンス・人間・人類・現生人類・wise man・知性・ち・知・知る・ち・血・血を流す・ち・地・地を支配する・地球を支配する・まぼろし・間を滅ぼす・真を滅ぼす・魔を滅ぼす・魔にすり替わる・魔を用いる・魔となる・四魔(煩悩魔・陰魔・死魔・他化自在天魔)をいだく・magic・magie・まじ・蠱・まじもの・蠱物・image・イメージ・イマージュ・像・かたち・ありよう・すがた・かた・方・型・形・片・か・化・た・他・他者」
何の必然性もありません
出るに任せているだけです
ひとり歩き
連想・つらなる・つながる
あわられる・でる
まかせる・まける
圧倒的な偶然性のなかでまけるだけ
まける・間を蹴る・真を蹴る・魔を蹴る・蹴鞠・けまり・まりけ・まけ
まけるに何かをよもうと、懸命にもがく
ma ke ru ・ m 無 a 阿 k 苦 e 会 r 縷 u 有
ま・け・ま・し・た
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「かげ・影・陰・翳」という言葉とイメージはきれいだと思います。「おもかげ・面影」なんて言葉も、趣が感じられて好きです。
「ぞう・像」や「しょう・ぞう・象」もいいですね。意味とイメージの似たものに「形・型・姿・態・様・容・相」などがあります。抽象的で、トリトメがなく、それでいて何か強く訴えてくる力を感じます。
「うつる・映る・写る・移る・うつす・映す・写す・映す・うつろう・映ろう・移ろう・うつろい・移ろい・うつろ・空ろ・洞ろ・虚ろ・うつお・空・うつほ・空・宇津保・うつほら・空洞・うつ・鬱・欝・うつ・棄つ・うつ・全・うつつ・現・打棄つ・うつうつ・鬱鬱・欝欝・うつらうつら」という移り変わりを楽しむのもいいです。
こんな楽しみに耽ることができるのも、まぼろしを相手にしているからでしょう。
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まぼろしを相手にする。不遜な言い方だと思います。「まぼろし」・「言葉」・「イメージ」を相手にする。そんなことが可能なのでしょうか。相手にされているのではないでしょうか。遊ぶのはなくて、遊ばれる。もてあそぶのではなくて、もてあそばれる。
表象あるいは記号あるいはシミュラークルのひとり歩き。そうした比喩は使いたくないというヒトもいるでしょう。
まぼろしを相手にする。杜撰(ずさん)な言い方だと思います。「まぼろし」・「言葉」・「イメージ」を相手にする。そんなことが可能なのでしょうか。「まぼろし」と言ったとたんに、「まぼろし」と念じてあたまに何かを思い浮かべたとたんに、それが「まぼろし」である根拠が消え失せてしまうかもしれないのに。
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写像という考え方があるそうです。きれいな字面の言葉なので、調べてみました。いろいろな種類がありました。数式を使って説明できるそうです。数式も一種の言葉であり、まぼろしです。写像とは、しゃれたイメージの比喩だと思いました。
写像という言葉とイメージと比喩で、何かを「分ける・分かる」とか「知る」とか「きわめる」ことを、本気で目指しているのだとすれば、絶句します。何と言えばいいのか、言葉に迷います。たわむれとして、あそんでいるだけなら、おもしろそうだなと思います。
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まぼろしにこだわるのは、この惑星では、たぶんヒトくらいではないでしょうか。まぼろしのかなたにあるものが、何なのかを知ることも分かることもできないのに、です。
せめて、まぼろしの仕組みを、感じることができたらと、つい身の程知らずなことを考えてしまいます。ヒトであるかぎり、無理にちがいありません。
まぼろしは、ヒトに対して「たちあらわれる」というイメージで感知される気がします。「たちあらわれる」という形での「はたらきかけ」だとも言えそうです。ヒトは、その「はたらきかけ」を「よむ・読む・詠む」のではないかと思います。
言うまでもなく、今、用いているのは言葉の綾です。レトリックです。比喩とも言えます。現に「はたらきかける」という形で、擬人化をしています。また、「よむ」という「たとえ」を使っています。うさんくさいです。
言葉の背後にあると言われている実体や概念の有効性に「かける・掛ける・賭ける」のではなく、言葉とともに「たちあらわれる・立ち表れる・立ち現れる」であろう関係性の有効性に「かける・掛ける・賭ける」という「かけ」あるいは「かたり・語り・騙り・カタリ」をする。ここでしているのは、そんな感じのお遊びなのです。
いかがわしいですね。でも、それ以外に、まぼろしについて語ったり、記述する方法は見当たりません。もちろん、個人的なレベルの感想です。意見と言えるほどのものだとも思えません。
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書くときには、夢のなかにいます。少なくとも、そう思いながら書いています。夢のなかでは、説とか意見とか主張はないみたいです。あるとすれば、感想とか、感じとか、想い。やっぱり、そんな感じです。
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夢を見る。万物に「何か」を読む。すると、心が反応し、思わず口から言葉や音(おん)が出る。場合によっては、語や句や歌を詠む。
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まぼろしにまぼろしをよむ
うつるにうつるをよむ
かげにかげをよむ
むにむをよむ
よによをよむ
よむによむをよむ
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よむによむ よまざるをえぬ よはむなり
【お知らせ】
体調が良くないので、しばらくnoteでの活動をお休みします。
ちょうど連載の区切りの良いところだったのが幸いです。
時節がら、みなさんもどうかご自愛ください。
もどってきましたら、また仲良くしてください。
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