つくる(1)
星野廉
2020/09/19 15:16 フォローする
冷蔵庫って、お母さんに似ていると思いませんか? 幼児にもどった気持ちになって、しゃがんだり身をかがめ、目線を下に構えて、そばに立ってみると、そんな気がするのです。どっしりとしていて、幼児でなくても、小学生低学年くらいが抱きついて、ちょうどいい重量・体積・質感があります。
エプロンみたいに白くて、いろんなものが貼り付けてあって、よく耳を澄ますとぶーんというやさしい音がして、熱を発していて温かく、扉を開くと、どんな望みもかなえてくれそうな、こころが静まる思いがします。そんな気分になっている自分は、たぶん幼児がえりをしているのでしょうね。
コドモたちが帰宅すると、すぐに飛んでいくところが台所。そして、真っ先に冷蔵庫を開ける――。そんな話をよく聞きます。オトナも、そうみたいです。だいいち、この自分がそうです。帰るなり、まっしぐら。ネコまで、ついてきます。「衣食住」のうち、もっとも切実なものが「食」だという気がします。その人にとって基本的な欲求を、最初に満たしてくれた存在。お乳を与えてくれた存在。それがお母さん、あるいは、その代理を務めてくれた人なのです。ですので、
*冷蔵庫は、お母さんに似ている。
と思います。
ただし、マンガやアニメになっている、
*「あたしンち」で出てくる、冷蔵庫に形が似ていなくもない、例の「四角っぽい」「お母さん=母」に似ている。
という意味ではありません。一方でクレヨンしんちゃんの「お母さん=母ちゃん=みさえ」のようにスリムであっても、上で述べたイメージをいだく基盤となる状況=背景=事情に変わりはありません。
*
きのう、たまたま電気製品の量販店に、近所の人に連れて行ってもらいました。その人がエアコンを買い替えるので、声をかけてくれたのです。車の運転ができない自分には、助かります。蛍光灯やコンセントなど細々したもので欲しい物があったし、親の介護を手伝ってくれる人が家にいてくれるというので、喜んでついて行きました。
そういえば、以前に同じ量販店で、たくさん並んでいるテレビの画面を見ていたのがきっかけになって、「1人に2台のテレビ」、「人面管から人面壁へ」、「マトリックス」、「こんなマヨじゃいやだ」、「そっくり」と、立て続けにいろんな考えが浮かんできたのでした。
あの時に、
*ヒトは、1度に1台のテレビ受像機の「画面=意識=スクリーン」にしか集中できない。
とか、
*トリトメのない記号=まぼろし
なんていう話を、でっちあげてしまいました。それなりに面白かったです。そういう、根も葉もない(※実は、本人は「根も葉もある」と思い込んでいるのですけど)こじつけが好きなんです。
で、その量販店で蛍光灯を買おうとしていたら、近所の人に「ホームセンターのほうが安いよ」と言われて、今度はホームセンターにまで連れて行ってもらいました。きのうは火曜日であまりお客さんはいなかったので、人混みが苦手な自分には嬉しかったです。電気製品の量販店と、ホームセンターで、いろいろなものを見て回ることができました。
家にあるもの以外の、家庭用品や電気製品を目にすると、すごく脳の刺激になります。脳がある種の興奮状態に陥ってしまい、家に帰っても、しばらくその状態から覚めることができませんでした。ふだんは、毎日ずっと家にいることが多いので、刺激が強すぎたのかもしれません。
*
冷蔵庫の話にもどりますが、やっぱりお母さんに似ていると思えてなりません。でも、これは多分に個人的なイメージの問題ですから、どこかの家のお子さんに、
*冷蔵庫って、お母さんに似てるよね。
なんて言えば、このオジサン、アホちゃうか? と思われるのがオチでしょう。下手をすると、あのオジサンとは口をきいちゃダメよ、なんて、保護者の方がお子さんに小声で注意、いや警告しそうです。
で、きのう、さまざまなものを見ていて思ったことは、
*ヒトがつくるものは、ヒトに似ている。
です。
冷蔵庫は、高度成長時代に、白黒テレビ、洗濯機とセットにされて「三種の神器」と呼ばれたもの1つです。自分はいわゆる「かぎっ子」でしたので、帰宅すると誰もないアパートの部屋のなかで、真っ先に向かったのが、やはり冷蔵庫でした。そばに行くと、安心したのです。
三種の神器は、文明の利器というやつで、高度に洗練化=進化した「道具」であるため、「ヒトに似ている」というイメージは希薄です。でも、お茶わん、湯飲み、箸(はし)、スプーン、フォークといった「食」に関係のある物たち、椅子、テーブル、机、布団、ベッド、枕などの広義の「住」関連の物たち、そして、シャツ、上着、ズボン、スカート、下着、手袋、帽子といった「衣」に関する物たちをよく観察すると、ヒトに似ています。なかでも、手袋なんて、手と激似です。
器(うつわ)類は、水をすくう時の片手あるいは両手の形に似ています。口をつける湯飲みやグラスには、口があります。箸やフォークは指に似ています。椅子には背も足=脚もあります。ふっくらとした座布団の感触は、どこかお尻に似ています。衣類は、からだに当てるわけですから、とうぜん、その当てる部分にそっくりにつくられています。
さらに、こじつけをするなら、自動車なんて正面から見ると、顔に見えてしかたがない方、いらっしゃいませんか? 私がそう言うと、うなずいてくれる人が多いので、言えてるのではないでしょうか。これこそまさに、
*人工の人面OO
ですよ。
もっと、こじつけます。機関車や電車も、そうですね。トーマス君とはちょっと違った意味で、ですが。テレビもそうですね。というか、そうでしたね。テレビ時代の初期には、受像機の上部にウサギちゃんのお耳みたいなアンテナが付いていたのをテレビで見たことがあります。
あと、こじつけると、銃なんて男性器に似てません? 水鉄砲はもちろんのこと。ロケットもそうかな。その他に、ヒトやヒトの身体のある部分に似たものを挙げるなら、口を開けたポスト、長針と短針が表情を刻々と変えるアナログ時計、先端に毛のついた歯ブラシ、鉛筆やペン(どういうこっちゃ)、チューブ入りのケチャップやマヨネーズ(ぐにゅっと出てくるさまを思い浮かべてください)、ケータイ(?)、ゲーム機のコントローラー、ガラス張りのパチンコ台……。こじつけが、だんだん苦しくなってきましたね。
*
話をもどしましょう。
太古にヒトが生活に必要なさまざまな物=道具をつくりはじめたとき、その物は、身体の一部に直接触れる物だったはずです。文字通り、生活に密着していたにちがいありません。すると、どうしても、
*ヒトの身体の一部に合わせる
わけですから、
*身体のある部分に似る
ことになりそうです。
衣類がいちばん分かりやすいと思います。最初は、ただ毛皮、木の皮、葉っぱを組み合わせた物なんかで、からだを覆っていただけでしょう。そのうちに、いろいろ細工をしたり、素材を加工するようになり、身体にフィットするような物たちを、つくるようになったのではないでしょうか。
今述べたことは、ぜんぶ想像ですが、そんな感じだと思っています。
*
視点を変えてみます。ラスコーやアルタミラの洞くつの壁に描かれた絵のことを、学校で習いました。ウマとかウシとかシカなんかの姿が、描かれていたらしいですね。狩の成功を祈るのだったか、祝うのだったか、忘れましたが、とにかく、あれは「食」と関係があることだけは確かではないか、と想像しています。
単なる「お絵かき」=「落書き」=「お遊び」ではなかったのではないでしょうか。あと学校で教わったことで思い出すのは、石器や土器のほかに、土偶や埴輪のたぐいです。前者は道具でしょうが、後者は宗教的な意味を持っていると習いました。
描くにしろ、材料を変形させてつくるにしろ、いっしょくたにして、
*つくる
という言葉でくくって、あれこれ考えてみたいです。で、でまかせで思うのですけど、
*「つくる」の基本は、「真似る」である。
と言えるような気がします。
おとといまで、「あらわれる・あらわす」というシリーズの記事を書きつづっていました。後半になるにしたがって、
*「似ている」
という言葉が、すごく気になりはじめたのです。
*「同じ=同一である」
ではなく、あくまでも「似ている」に惹かれるのです。で、
*「真似る」とは、「似ている」を「つくる」ことである。
と言えそうなのですが、その「似ている」を判断するのは、ヒトの「意識」だと思います。単純化すると、まず、
*「世界=他者」を「知覚する」があり、それを脳が「情報」として「処理する」を経て、「意識」が「認識する」。
となります。
きわめてテキトーですが、その線に沿って、話を進めさせてください。申し遅れましたが、このブログは、専門家と呼ばれる人たちのやっている学問ではなく、素人、そのなかでもアホの素人が、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくやろうよ、お勉強ごっこ」をやっております。特に、初めて、このサイトに来ていただいた方には、その点をよろしくご理解願います。ですので、楽しんでいただく、遊んでいただく、ちょっとあたまの体操をしていただく、そんな感じのサイトだと思ってくださいね。
*
で、
*「似ている」
ですが、これは、ヒトが、とても優秀な五感と、もしもそんなものがあれば第六感をつかって
*「知覚する」
ではなく、とてもぼんやりとした頼りない存在である「意識」が
*「認識する」
ものだと考えています。冒頭で、
*冷蔵庫って、お母さんに似ていると思いませんか?
と書きましたが、あの問いかけに対する、みなさんのご返事は、「うん、似ている」、「えっ? どこが?」、「いや、ぜんぜん」、「あなた、だいじょうぶ?」、「似てると言えば似ているような気もするし……」、「変なところに入ったぞ」(※このあとはクリックして他のサイトへ飛びます)といった感じでしょうか。
つまり、
*「似ているか」どうかの判断は、ヒトそれぞれ=個人的なもの=その時の気分にもよる。
です。言い換えますと、
*「似ている」かどうかは、「イメージ」の問題である。
となります。実は、この「イメージ」についての話は、前回のシリーズのサブテーマを引きずっているのです。簡単に、できるだけ分かりやすく要約しますと、
*「イメージ」は、ヒトが「いだく」=「抱っこする」ものであるため、つい甘やかされて、自分勝手でわがままな存在になりがちである。その結果、テキトーで、不安定さを特性とする傾向が見られる。
です。
このように書くと、「イメージ」の「イメージ」が悪くなります。白状しますが、ちょっとズルをしたから、そうなってしまったのです。かわいそうですから、「イメージ」の「イメージ」を良くしてあげましょう。
*「イメージ」は、ヒトが勝手に「いだく」ものであるため、テキトーで不安定で、時にはいかがわしく、また、うさんくさい印象を与えるが、テキトー=不安定=いかがわしい=うさんくさいのは、自分勝手でわがままなヒト自身のほうである。
このほうが、正確な言い方だと思います。「そうなら、最初からそう書けばいいのに」と、お思いになっている方がいらっしゃるでしょう。ごもっともです。でも、今の書き換えですが、これって、わざとやったのです。つまり、
*「だました」
のです。
ごめんなさい。「まあ、なんて性格が悪いんでしょう」と、感想をお持ちになった方、これまた、ごもっともです。許してください。理由があるのです。どうか、説明させてください。
この記事のタイトルをご覧願います。「つくる(1)」となっています。ということは、「つくる」という言葉をテーマにシリーズみたいなものをやるつもりだ、という意味です。で、そのテーマについて書く場合に、このブログでは、ちょっと変なやり方をするのです。
*記事のテーマの内容を、「記事でつかう=記事に書く」言葉たちに演じさせる。
という方法=戦略を取るのです。
*
少し話をずらしますが、「つくる」という言葉のつかい方の例として、
*話をつくる(=作り話をする)・泣き顔をつくる・笑い顔をつくる・顔をつくる(=お化粧する)・声をつくる・若くつくる(=若作りをする)・口実をつくる・嘘をつくる
という一連の用法がありますね。要するに、どれもが、
*嘘をつく・偽る・ごまかす・だます・でっちあげる・化ける
という行為です。言葉には、「何とでも言える」という特性があり、それは、まさに、たった今述べた、「(ほぼ故意に)偽る・ごまかす」ことなのです。
で、さきほどの、
*「イメージ」は、ヒトが「いだく」=「抱っこする」ものであるため、つい甘やかされて、自分勝手でわがままな存在になりがちである。その結果、テキトーで、不安定さを特性とする傾向が見られる。
を、
*「イメージ」は、ヒトが勝手に「いだく」ものであるため、テキトーで不安定で、時にはいかがわしく、また、うさんくさい印象を与えるが、テキトー=不安定=いかがわしい=うさんくさいのは、自分勝手でわがままなヒト自身のほうである。
へと、わざと書き換えた=わざと言い換えた=要するに偽った=要するにごまかしたのは、「つくる」という、今回の
*記事のテーマの内容を、「記事でつかう=記事に書く」言葉たちに演じさせる。
つまり、
*「つくる=故意に偽らせる=故意にごまかす」というテーマを、そのテーマをつづる言葉たちに「偽らせる=ごまかさせる=つくらせる」というふうに演じさせる。
を実践したのです。
*
ややこしいですね。なんで、こんなことをするんでしょうね。好きだからなんです、とお答えする以外、申し開きができません。よく言えば、
*記事に書かれている言葉たちの、表情・仕草・動き・めくばせまでに、目を配ってあげてください。
という願いなんです。悪く言えば、
*おふざけ
ですが、決して悪意から出るおふざけではありません。たとえ、おふざけであるとしても、本気で=マジでやっているんです。
嘘くさく聞こえるかもしれませんが、
*言葉たちを愛している。
からなんです。誤解を招きやすい表現ですが、この記事を書いているアホは
*言葉のフェティシスト
なんです。言葉に愛着を持ち、言葉が好きで仕方がないんです。その意味では、ビョーキかもしれませんが、このブログを読んでくださっている方々に、嘘はつきたくないので、正直に告白します。本気です。正気とまでは申す勇気も自信もありませんが、本気です。
*
ここまでお話ししたので、付け加えて申しますが、このブログの文章では、
*○○=△△=□□
という具合に、似たような意味の言葉や、ちょっとずれた意味同士の言葉や、場合によっては、正反対の意味の言葉を「=」でつなぎます。あれも、方法=戦略=ビョーキの症状なんです。たった今、ここで話している最中のサブテーマを言葉に演じさせましたが、お気づきになりましたでしょうか? 「方法=戦略=ビョーキの症状」が、そうです。で、どうして「=」をつかうのかと申しますと、少しまえのところで書きましたように、
*言葉には、「何とでも言える」という特性があり、それはヒトが故意に「偽る・ごまかす」さいに、よく用いられる。
ということを、「暴(あば)く」と同時に、話の方向が一方に傾いていったり、意味が固定=固着=断定=「それ以外はなし」=「これだけが正しい」となるのが、嫌いなので、それを避けようとしているからなのです。
さらに申しますと、
*○○=△△=□□
と並べることで、言葉に対する自分の愛着やこだわりや姿勢といった、きわめて個人的な考え方=主張を読者の方々に「体感」してほしいと願っているからなのです。
*
以上述べたような方法=戦略は、確かに、ややこしいです。ですので、以前は、ほのめかすくらいに止(とど)めたり、あえて詳しく説明することまでは控えていました。
ところが、プロフィールに載せてあるメールアドレス宛に、複数の熱心な読者の方々から、「読みにくい」「なぜ、『=』をつかうのかが分からない」「全体的には、言いたいことは分かるので、文章をもっと簡潔にしてはどうか」。といった意味の苦言とアドバイスを頂戴するので、
*ややこしいけど、何とか分かっていただけるように説明しよう、
と決意したのです。
で、このところ、頻繁に記事のなかで、上述の方法=戦略を実践したさいに、すかさず説明を加える、という弁解=言い訳=一種の種明かしをしているのです。ややこしいですね。くどいですけど、本気なのです。これが自分流の
*言葉への接し方=愛し方
だと信じて、マジでやっていることなのです。
*
きょうは、新しいシリーズの初回であり、また、「偽る・ごまかす」という手段にもなり得る「つくる」というテーマを選んだことでもあるので、あえて、長めに説明=弁解をしました。
このように、このブログは、読む人によって好き嫌いがはっきり分かれそうな、書き方=文章=文体=「書くうえでのスタンス」を選択しています。こればっかりは、ご理解をいただければ幸いです、としか申せません。
この書き方をやめてしまったら、このブログには何も残りません。何だか、泣き言を述べているようになってしまいましたが、自分としては、自分に正直に書いている結果なので、へこんだり苦しみながら文章を書いているわけではありません。
文章を書くことが、しんどいことは事実です。でも、書くことは大好きです。さもなければ、毎日、長めの記事など書けません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
*
さて、話をもどします。「似ている」を基盤とする「イメージ」について話していたのですね。シリーズの第1回なので、ここで、このブログでよくつかうパーツ=道具=玩具を紹介します。これまでは、3つだったのですが、おとといまでやっていた「あらわれる・あらわす」シリーズの後半で「出てきた」=「あらわれた」新メンバーである「イメージ」を加えた、4つを紹介します。
以下に挙げる4語は、別個のものであるというより、森羅万象(=ありとあらゆる物、事、現象)を対象にした「切り口」=「切り分け方」みたいなものだと考えてください。
1)「表象」 : 「何かの代わりに「その『何か』ではないもの」を用いる」という、代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。
2)「トリトメのない記号=まぼろし」 or 「記号」 : 「そっくりなものがずらりと並んでいる」 and 「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」 and 「お母さんのコピーとして生まれたにもかかわらず、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。なお、通常、「記号」は、購入 or 入手され、消費 or 使用 or 保存され、用が済むと、廃棄=処分される。森羅万象が「記号」になり得る。
3)「ニュートラルな信号」 or 「匿名的な信号」 or 「信号」 : 「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図=メッセージ」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。
4)「イメージ」 : 個人レベルで、ある物・事・現象・言葉などについて、それと「似たもの」=「真似たもの」を、ヒトの「意識」が勝手に=きままに=テキトーに、「認識する」=「いだく」というメカニズムに注目したい場合に用いる。「イメージ」には、「何かに似たもの」だけでなく、ヒトが勝手に「捏造(ねつぞう)した」=「でっちあげた」ものもある。森羅万象が「イメージ」になり得る。
以上の4つは、あらゆるものについて、こじつける=たとえる=説明する時につかいますので、冷蔵庫も、お茶碗も、スカートも、この4つを切り口に説明する=こじつけることが可能です。
たとえば、冷蔵庫は、
1)あるヒトにとっては、文明の「利器」=「表象」であったり(※この惑星には、冷蔵庫が、かつてのこの国の「三種の神器」の1つであったように、財力の象徴=ステータス・シンボルである地域がたくさんあるでしょう)、
2)大量生産され、そっくりなものと一緒にお店に並び、購入され、消費され、いつかは廃棄されるという意味では「記号」であり、
3)一人暮らしの高齢者にとっては、食料を保存する機械であると同時に、プレゼントしてくれた孫からの愛というメッセージを担った「信号」であったり、
4)あるアホなオジサンにとっては、それを見ると「かぎっ子」だった過去を、個人的レベルで「何となく=勝手に」思い出すことから、母親に似た「イメージ」をいだかせる電気製品の1つだったりするわけです。
*
シリーズ初回のきょうは、いろいろ道草をしましたが、あすもまた道草をしながら(※道草も、このブログの特徴です)、「つくる」について考えていることを、つづっていきたいと思います。
ぜひ、遊びに来てくださいね。お待ちしております。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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