夢の素(1)*
星野廉
2020/09/10 09:17 フォローする
「あのね、昨日というのか今日と言うのか分からないんだけど、昨日の晩に寝てから見た夢の話を聞いてくる?」なんて、親しいヒトから言われたら、みなさんはどんな気持ちになりますか? 「あーあ、面倒くさい」「他人(ひと)の夢になんて興味ないよ」「また?」「退屈そうだな」「どんな夢だろう」「気になるなあ、このヒトの夢なら」「何? 何?」など、いろいろな気持ちが考えられます。
要は、相手に対して関心や愛情があるかどうかで、そのヒトの夢について知りたいかどうかが決まる、そんな感じではないでしょうか。中には夢占いや、精神分析の一種らしい夢分析に、興味を持っているヒトたちもいるにちがいありません。
立場を逆にして考えてみましょう。自分の見た奇妙で不可解な夢や、とてもおもしろかった夢であれば、誰かに話してみたい。夢を見ているときにいだいた「わくわく」「どきどき」「あれれ」「なんだろう」という気持ちを、他人と分かち合いたい。あるヒトが夢に出てきたのなら、そのヒトにぜひ伝えてみたい。そう考えるのは自然な欲求だと思います。
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自分の見た夢を上手に語るヒトがいます。一編の物語のように、ストーリーがあり、描写がある。起承転結らしきものまであり、会話が頻出するとなると、「このヒトは話をつくっているのではないか」と疑ってしまいます。一方で、見た夢について一生懸命に語ろうとしているらしいのは分かるのだけど、しどろもどろになってきたり、収拾がつかなくなって途中であきらめてしまうヒトもいます。
そうなると聞いているほうが、話している相手に同情してしまうのですが、なぐさめるのも変だし、手伝うわけにもいかず、気まずい雰囲気になる。そんな経験をなさったことがありませんか。個人的には、自分の見た夢を言葉にしようとして、まとまりがつかなくなってしまうヒトに好感をいだきます。そのほうが正直だという気がするのです。
夢を掌編としてしたためるヒトもいますね。夏目漱石やその門下だった内田百閒の作品が頭に浮かびます。率直に言って、個人的にはどれも楽しめませんでした。両作家の思い出話をつづった短編のほうが、よほどおもしろいです。これは読むヒトの好みの問題でしょう。
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夢を見るのが好きです。楽しい夢だけでなく、怖い夢でもいいから、今晩は夢を見ることができますように、と祈りながら床につきます。ということは、眠るのが好きだという理屈になります。かなり前から、そうした傾向はあったのですが、特にこの数年前からひどい抑うつ状態が続いています。でも、夜に眠れないということはめったにありません。ドクターには、首を傾げるヒトもいます。「うつの典型的な症状のひとつは不眠なんだけどなあ」という意味のことをおっしゃったドクターもいました。
教科書やマニュアルどおりにいかないのがヒトではないでしょうか。まして、こころの問題です。「おかなしいなあ。○○するはずなんだけど」「あなた、本当に○○しない?」と言うお医者さんは、どの科にもいますね。そう言われた患者のほうが困ってしまいます。医師対患者というのは、力関係では力は医師側にありますから、つい「やっぱり、先生のおっしゃるとおり、○○です」なんて、気の弱い患者なら言いそうです。個人的にも、そんな経験があります。
で、うつの話に戻りますが、「ドクターは、過信しないように」というのが、大学で心理学の教員をしている知り合いのアドバイスでした。そう言われたからというわけではなく、自分は現在のドクターを信用していません。つらくて悲しくて切なくて苦しい時に、ぼーっとなれるお薬だけを処方してもらうために、通院しています。
日によって程度に違いがありますが、消えたい、なくなりない、死にたい、という気持ちはとても強いです。でも、夜眠れないほどの心配事はありません。いつでも、消えてかまいません。今でも、オーケーです。ただ、消えるさいに痛いのは嫌です。それに、おいそれと消えるわけにはいきません。高齢の親の介護という義務があるからです。まだ、自主的に消えるわけにはまいりません。
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話を戻します。眠ること、夢を見ることが好きです。大好きです。夢は夢でも、将来に向けての夢はありませんけど。
ぼけーっとすること、考えること、思いにふけることも、大好きです。今挙げた3つの状態は、自分の中ではかなり近い行為です。そういえば、「ぼーっとする、ゆえに我あり」という記事を書いたことがあります。「不自由さ」でも、触れました。ご興味のある方は、記事をご覧になってください。
最近では、「まことはまことか (前半)」で、図式をつかって、自分のイメージしている「思考する」という行為について書きました。きょうは、その続きです。
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「思い」は重い。そう思っています。これは、「つらい」という意味にも解釈できますが、ここでは、そうではありません。どういうことかと申しますと、「おもう・おもい・思う・思い・想う・想い」という大和言葉には多義性=多層性がある、という意味です。いろいろな語義やイメージが詰まっている言葉だとか、いろいろな語義やイメージを担うことができる言葉だ、と言い換えることもできそうです。そんな「重み」のある言葉だと思います。
愛用している広辞苑によると、「おもう」は「重い」と関係あるかもしれない、それに「おも・面・顔つき」から来ている説もある、と書いてあります。どう結びつくのでしょうね。興味津々です。「思い」は重い。「重い」は思い。「思い」は面(おも)に出る。「面(おも)」は思いの鏡。うーむ……。おもしろい。
具体的な話をしましょう。「おもう・おもい・思う・思い・想う・想い」という言葉と、その言葉が喚起する類語やイメージを並べてみます。
考える・思考する・思想する・想像する・夢想する・夢見る・空想する・物思いにふける・妄想する・認識する・意識する・考慮する・思慮する・熟慮する・考察する・思案する・思惟する・出まかせを言う・熟考する・深慮する・専心する・瞑想する・黙考する・思案する・思いめぐらす・思索する
イメージする・アイデアが浮かぶ・頭をひねる・頭に汗をかく・意思する・意志をいだく・意図する・思惑をいだく・たくらむ・疑う・疑念をいだく・印象をいだく・回想する・回顧する・想起する・思い出す・追憶する・思いつく・ひらめく・悟る・感慨をいだく・感想をいだく・雑感をいだく・雑念をいだく・邪念をいだく・執念をいだく・情念をいだく・想念をいだく・所感をいだく・心境をいだく・心もちをいだく・気もちをいだく・気分をいだく・気がする・感じがする
思いやる・思慕する・想定する・推測する・憶測する・推定する・推しはかる・予想する・思いを焦がす・思い当たる・思い入れをもつ・思い込む・錯覚する・幻覚をいだく・幻想をいだく・思い過ごす・思い立つ・思い違いをする・勘違いをする・連想する・誇大妄想をいだく・無念無想・沈思黙考する・心積もりでいる・心当たりがある・心残りがする・夢を描く・夢見る・ぼんやりする・ぼけーっとする・ぼーっとしている・とりとめもなく考える・うーむ・ああ・ほー・はー・おー・えーっと・ん?・そうだ!・そうか・「…………」
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以上、複数の辞書や類語辞典を参照しながら、思いつくままに書き連ねました。整理されてはいません。とりとめがありません。むしろ、整理されていなくて、とりとめがないほうが自然だと思います。整理する。分ける。分かる。分類する。筋を通す。そうした行為も、「思う」の一種でしょう。というより、それは「思う」の結果としての「文章」や「何度かリハーサルをした後の談話 or プレゼン」だと思います。
今、ここで問題にしているのは、そうした言葉(主に書き言葉)によって整理された理路整然とした「思う」のありようではなく、みなさんがふだん日常的に経験している「思う」なのです。メモにしろ、下書きにしろ、推敲された作文にしろ、書かれたものとして存在する「思い・考え・アイデア・思考・思想・論考」以前の、もやもや、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ、なのです。
個人的な意見というか印象ですが、さきほど上に列挙した言葉たちを全部、「思う・思い」に担わせてもよろしいかという気がします。あれだけたくさん並べてみると、もやもや、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃした印象を受けます。だから、「思い」は重いのです。
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よく「言葉を使って思考する」とか言われますが、個人的にはそうは思えません。もっとも、言葉を「話し言葉」と「書き言葉」という狭い意味で取った場合の話です。言葉というものは、「何かの代わりに、その何かではないものを用いる」という仕組みだと考えてみましょう。すると、話し言葉と書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などすべてが、言葉だと言えそうです。
実際、みなさんは、たった今紹介した広義の言葉を使って、考えたり、頭に汗をかいたり、思いにふけったり、夢想したり、妄想したり、推測したり、思い込んだり、ぼけーっとしたり、思いやったり、思い出したり、ひらめいたり、出まかせを言ったり、たくらんだり、思い過ごしをしたりしているのではないでしょうか。
たとえば、ブレーンストーミングという功利的な「お遊び」があります。あれって、一種の「もやもや、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」ごっこだと思えてなりません。ふつうは集団でやる「ゲーム」ですが、自分なんかしょっちゅうひとりでやっています。みなさんも、密かに、あるいは無意識にやっていらっしゃいませんか?
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話を夢に戻します。「ゆめうつつ・夢現」という言葉があります。夢か現実かが分からなくなっている、ぼけーっとした状態のことですね。きれいでうっとりするようなイメージをいだかせてくれるので、大好きな言葉です。実際に起こっているのかどうか、曖昧で分からない状態というのは、眠ることと夢を見ることが好きな者にとっては、たまらないイメージです。
以前から、おそらく子どものころから、「夢の素(もと)」というものがあると信じてきました。元素という言葉のイメージと重なります。でも、実は、味の素という化学調味料から連想した言葉なのです。
今、ある日のことを思い出そうとしています。確か小学校の低学年くらいの時だったと思います。授業中にぼんやりと窓の外を眺めているうちに居眠りをしていて、先生に注意されて、目を覚ましたものの、まだうとうとしていて、居眠りの間に見ていた夢が気になって仕方なく、その夢の続きを見たくてたまらなくなり、その夢を思い出そうとしていました。
思い出そうとしているうちに、夢の光景というか音というか断片的な「何か」が光沢を帯びた小さな粒になって、きらきらと目の前に浮かんでいるというか、散っているような気がしました。その粒が味の素に似ていて、その粒状の小さな欠片(かけら)を、一粒ひとつぶ頭の中でとらえるたびに、断片的なイメージが光景や音となって膨らんできて、ほかの粒と混じり合うと、その光景や音が合体したり、別のものに移り変わっていった。そんなイメージというか記憶がよみがえってきます。
「ゆめのもと」「あじのもと」「夢の素」「味の素」。そんな言葉が、粒のイメージと一緒に頭の中を駆けめぐっていた覚えがあります。これまで何度か、思い浮かべた記憶あるいはイメージなのです。
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大人となった現在でも、夢の素という言葉とイメージが、繰り返し出て来ます。どんな時に出てくるのかというと、たとえば、ものを考えるとき、ものを書くとき、ぼーっとしているとき、寝入ろうとするとき、夢を見ていて目が覚めて、それまで見ていた夢を断片的に覚えているとき――です。ブログ記事を書くときにも、その前の段階として、記事を書くために、思ったことや考えたことやひらめいたことを走り書きメモとして残すときにも、夢の素が出てきます。
そう言えば、きのうの朝に「こんなことを書きました(その19)」 の下書きを書いているさなかに思い出したことがあります。数週間前、「うつせみのくら」をせっせとつくっていたころに、ブログ画面の左側にある「メッセージを送る」機能を通じて、ある質問を受けました。「こんなことを書きました」にある「直接書かなかったキーワード」とは何か、というお問い合わせでした。メッセージはメールアドレスを付けなくても届くのですが、その質問をなさった方はメールアドレスを添えてくださっていたので、返事を出しました。その返事を要約します。【注:「うつせみのくら」とは、いったん削除した過去のブログ記事のバックアップを使い、再ブログ化したサイトです。そのサイトも削除して、現在はありません。それに代わるものとして、全記事を電子書籍化して収めたパブーのマイページがあります。】
「直接書かなかったキーワード」というのは、その記事を書くときに、頭に浮かんだ言葉やイメージです。もっと詳しく言うと、記事を書くために用意してある走り書きメモにある言葉やフレーズ、そしていざ記事を書く時になって、頭に浮かんだ言葉やフレーズやイメージのことです。
だいたいは、主に、かつて読んだ本の名前や、その本の著者や、その時に書いている記事のテーマと関係のあるヒトの名前や、記事を書くのを後押ししてくれた言葉やフレーズやイメージです。もちろん、単に記事の中であえて言及でしなかった、つまり、頭には浮かんだものの書く必要性が認められなかった言葉やフレーズも含まれます。
今ではもう手元にない本、書棚にあっても手にすることのない本、押入れ内に積まれている段ボール箱に入っていると思われる本を、いちいち参照しながら記事を書くことはありません。出まかせと即興=アドリブに頼っています。記憶力が乏しいせいで、本の内容も、おぼろげに、あるいは断片的に覚えているだけのものがほとんどです。そうした著者や、タイトルや、書かれていたキーワードやフレーズ(用語やテーマ)や、その本と著者についてのイメージ(断片的な記憶や記憶間違い)は、さきほど述べた「夢の素」とほぼ同じです。
「夢の素」と同様に、さまざまなイメージや思いをいだかせ、言葉を誘発するというか、言葉が出るのを後押ししてくれている。そんな感じです。ですから、自分にとって、「夢(=広い意味での想像界)」と「現実(=知覚されている現在)」と「思考(=広義の言葉を用いて動いている心)」とは、かなり近いものとして「在る」し、または「出てくる」と言えます。言い換えると、「夢・現実・思考」は、「夢の素」という粒がぱちぱちと弾ける「ありよう=場=状況=動き=事件=出来事=偶然=アクシデント」なのです。
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たとえば、「直接書かなかったキーワード」でよく出てくる、固有名詞とされる「ステファヌ・マラルメ」という「夢の素」は、自分にとっては学者が研究している対象の「ステファヌ・マラルメ」でもなく、実在したとされる1個のヒトである「ステファヌ・マラルメ」でもなく、「ステファヌ・マラルメ」というヒトが書いたとされる作品群や草稿の集積でもなく、「ステファヌ・マラルメ」というヒトおよび固有名詞をめぐる神話でもありません。圧倒的な偶然性の中で、ひたすら言葉というサイコロを振っている「運動・動き・身ぶり」としての「夢の素」なのです。その意味では、匿名的でニュートラルな存在とも言えます。しかも、きわめて個人的なものなのです。
「蓮實重彦」ならば、絶えず言葉の身ぶりと表情に目を向け、時には自らも言葉に目くばせを送り、「音(おん)」「活字=文字」という言葉の物質性にひたすら寄り添う「運動・動き・身ぶり」である「夢の素」として、自分に働きかけてくる「言葉とイメージ」なのです。実在の人物とは、「固有名詞」という「名」で、かろうじてつながっているだけとも言えそうです。
人名だけでなく、書名であっても同じです。一例を挙げるなら「ギュスターヴ・フローベール」作とされる『ブヴァールとペキュシェ』です。この小説では、「知を約束するもの=知を保証するもの」、つまりヒトが「確かなもの」として信じている「言葉・フレーズ・言説」を文字通りに取ることにより、「『言葉』と『言葉が指し示すとされているもの』とが『連携=対応』している」という根強い神話に滑稽なまでに裏切られる二人の男が登場します。「夢の素」とは、そうしたヒトの「ありよう・運動・動き・身ぶり・仕草」なのです。運動ですから、動き=揺らぎます。
※以上の文章は、10.01.22の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。
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