はかる -1-

星野廉

2020/09/25 11:28


「わかる」と「はかる」は、字面と発音が似ていますよね。「 wakaru 」と「 hakaru 」。「 w 」と「 h 」。5W1Hなんて言い回しを思い出しました。こういうふうに突然出てくる連想は、「意味」ではなく「忌(※どうか「いみ」と読んでください)」なのだと、前回の「不思議なこと」という記事で、決めちゃいました。反意味とか、へそ曲がりの意味とか、ノイズという感じです。どうぞ、よろしく。このブログでは、忌と意味を別け隔てなく扱っています。


 のっけから、とちくるったことを書いて、ごめんなさい。びっくりなさった方も、いらっしゃるにちがいありません。変なブログがあると聞いたので覗いてみた。やっぱり変。簡単に要約しますと、そのような意味のメッセージを、このブログの左側にある「メッセージを送る」機能経由で、最近よくいただきます。


 そんなわけで、初めてご訪問くださる方にも配慮しながら、たわごとをつづっております。このブログは、万事がこんな具合なのです。「変」であるかどうかはともかく、「偏・辺・片」=「ふち・へり・きわ・かぎり」に常に身を置いていたいという願いはあります。長い目で見ていただくと嬉しいです。で、「わかる」と「はかる」に話をもどします。


 両者が近いか遠いかというと、近いような気もするし、遠いような気もします。その時々によって、受けとめ方が異なる。各人の受けとめ方も、多種多様だ。いずれにせよ、個人レベルの話であることは確かなようだ。そんな感じがします。おそらく、そういう何かほんわかした、雲をつかむような頼りない、ものの受けとめ方が、「はかる」なのかもしれません。「おしはかる」という言葉もあるくらいです。


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 広辞苑を見ると、「おしはかる・推し量る・推し測る」の「おす・推す」は「押す・圧す・捺す」とも関係があるみたいです。スーパーなんかで、野菜やラップにくるまれた魚なんかを買おうとするときに、指で押してみるということがありませんか。商品に圧力を加えるなんて、本当はやっていけないのでしょうが、ついやってしまいます。


「身が引き締まっていて、新鮮かな?」「中が、すかすかなんてことはないだろうか?」そんな思いにつられて、指先で押したり、触ったりしちゃいます。ちょっと後ろめたい気がします。わくわく感やどきどき感も覚えます。それが「おす・推す」なのかなとも思います。そうそう、「重みをはかる」の「重み・重い・重さ」は「思う・思い」と語源が同じらしいという説が、広辞苑に載っていました。


 思い当たることがあります。やはりスーパーでの話なのですが、よくキャベツやカボチャを手のひらに載せて、「重い・重み・重さ」をはかりますね。そんな時には、目を軽く閉じている人がいます。たとえ目を開いていたとしても、その目は宙を見つめているか、うつろです。あれは、自分の「思い・思う」の中にいる時の、人の表情や身ぶりではないでしょうか。


 そんなイメージというか「意味・忌」が気に入ってしまって、このところ、そうした思いを込めて「思う・思い」「重み・重い・重さ」という言葉たちを眺めたり、つづったりしています。「おもいはおもい・思いは重い」「おもいおもい・重い思い」なんて、最近、よく記事に書いています。


 こういうのは、おふざけではなく、自分がつづっているさまざまな言葉たちの「重み・思い・意味・忌・イメージ」=「多義性・多重性・多層性」を、受けとめて楽しんでいるのです。はかっている、とも言えそうです。「はからずに・測らずに・量らずに・図らずに」、文章はつづれない気がします。


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 一方の「わかる」については、これまでさんざん、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある、ああでもないこうでもある、ああでもあるこうでもない、をしてきましたが、殺伐とした印象が常につきまとっているように思えてなりません。何しろ「わかる」には、「分ける・切る・割る」という動作が基本にあります。血生臭いです。ばらばら殺人とか、腑分けとか、マグロの解体という言葉を思い起こします。痛々しいのです。


「はかる」という言葉には、そうしたすさんだイメージをいだくことはありません。小学校の低学年のころ、よく商店街へお使いに行かされました。「はかる」で思い出すのは、お肉屋さんでのやり取りです。確か「ギュウのナミを100グラムください」と、こちらが言うと、いつもコロッケを揚げている島倉千代子さん(※もちろん、若き日のお千代さんです)にそっくりのおねえさんが、「ちょっと待ってね」なんて言って出て来て、牛肉を量ってくれるのです。


 たいてい、「気持ちだけ、おまけしておいたからね」という言葉が返ってきて、その「気持ちだけ」という言い回しと、そう言う時の、おねえさんの口調が妙に色っぽくて、しかも優しげで、幸せな気分になったのを覚えています。「気持ちだけ」とか「心持ち」というフレーズの響き。それが、個人的には「はかる」と密接に結びついています。


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 時計を思わせる上皿式の秤の受け皿に、蝋をひいたような白っぽい紙に載せられた赤いお肉が見える。そこに、「気持ちだけ」が加わる。すると、「気持ちだけ」針が揺れる。「思い」の「重み」が揺れる。こっちの心も揺れる。秤の動きに似ていませんか。天秤やばねを利用した秤の揺らぎ。共振。


 昔は、近郊の農家の人たちが、野菜やお味噌なんかをリヤカーに積んで住宅街を回ってきたものです。リヤカーを押したり引いてくる、おばさんたちは、棹秤(さおばかり)と呼ぶのでしょうか、目盛が刻まれた棹と分銅の位置を調節しながら、慣れた手つきでニンジンやキュウリの重さを量っていました。


 その仕組みが分かったのは、小学校の高学年になってからだと思いますが、そんな妙な道具で重さを「はかる」ことができるというのが、不思議でなりませんでした。お肉屋さんの秤は、針と目盛で何とか「目に見える」のですが、農家のおばさんたちの秤は、得体がしれなくて、何だかいつもズルをされているような気がしました。


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 今になって思うと、学校という場所は、「はかる」と「わかる」に満ちあふれていました。そもそも、学校は「わかる」と「はかる」に二分される、と言ってもいいのではないでしょうか。黒板と教科書とノートをつかってのお勉強は、たいていが「わかる」ためです。理科の実験・観察や体育や家庭科や図工なんかは、だいたいが「はかる」の世界です。保健室も「はかる」の領域という感じがしませんか。体温計、体重計、そして何と呼ぶのか知りませんが、身長や座高を測る計器が置いてあるところです。


 学校と言えば、体育――。苦手でした。いい思い出はありません。体育も、「はかる」の世界です。というか、「はかる」そのものが体育だ、という印象があります。しかも「はかる」だけではなくて、「くらべる」のです。そして「きそう」のです。嫌でした。大学に進学して、一般教養の科目として体育があると知った時には、度肝を抜かれました。「うそー。だまされたー」という気がして、しばらく立ち直れませんでした。


 高校を卒業して嬉しかったことのベスト3に、体育とのお別れがあったからです。そう信じて疑っていなかったのです。なのに、大学にまで体育がついて来たのです。ショックでした。それで思い出しましたが、大学の入学式のすぐあとに、身体測定兼体力測定があったのです。その会場の雰囲気が、すごく嫌でした。体育会系の部やサークルの連中らしき者たちが、当たり前みたいな顔をして場内をうろついているのです。そして握力や背筋力や肺活量などをはかる計器のそばで、新入生たちを物色しているのです。


 ドナドナドーナ、ドーナという悲しげなメロディーが頭の中で鳴り響いていた記憶があります。売られていく家畜になったような、切ない気分になりました。でも、幸いなことに、運動能力とか、体力、腕力のたぐいには、全然自信がなかったので、見向きもされませんでした。特に握力形の数値を見たある上級生が、「嘘だろ」とか何とかつぶやいたのには、一瞬むかっとしましたが、すぐさまほっとしました。「自分は売れそうもない――。よかった」。


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 自分の場合、ほかの人たちに比べて極端に乏しいのが、投げる力です。投げる力をはかるのには、ハンドボールやソフトボールを投げさせられますよね。投げた時の距離が、半端じゃなく短いのです。それを知らない先生なんかだと、ずかずか寄ってきて、「おい、ふざけんなよ」なんて言われたことがありました。肩にきっと障害があるのだと思います。でも、日常生活には支障がないので、気にはなりませんけど。


 必然的に、ソフトボールも、野球も、ドッジボールも駄目ということになります。中学に入って、バレーボールとサッカーをやらされた時には、何とかなりましたけど、幼いころから球技全般に嫌悪感をいだいていました。好きだったのは、走ることぐらいでしょうか。それも短距離だけです。持久力がないので、長距離はまるっきり駄目でした。高校の「マラソン大会」の時には、遅れ気味の第2反抗期だったので、コースの後半は堂々と歩きとおしました。もちろん、「どんけつ=どべ」でした。内心、誇らしく思ったのを覚えています。


 とにかく、スポーツは「はかる」の世界ですね。記録は「はかる」ものですから、当然です。趣味として、何かのスポーツをすることはありません。スポーツ観戦は、積極的にはしません。テレビでたまに見るくらいです。実際に、試合や競技が行われている場に出向くことはありません。プロ野球、サッカー、ラグビーのスタジアムやフィールドにも行った経験が一度もないくらい、スポーツとは縁がないのです。高校3年の秋に、市内対抗の体育大会が催された多目的競技会場に、嫌々ながら、応援のために連れて行かれたのが最後です。


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 それにもかかわらず、スポーツ関係のノンフィクションを読むのが大好きなのです。特に山際淳司と沢木耕太郎が書いたスポーツものは、ほとんど読んでいます。ルールを知らない競技のものでも、おもしろいというか、読んでいて快いので読みました。今挙げた2人の書き手の文章が好きだ、ということもあります。書く側としてのスタンスのとり方に、共感を覚えます。スポーツはやらないけどスポーツについて書かれた文章は読むという癖は、小説や詩は読まないが文芸批評は読むというのに、似ている気がします。


 山際淳司と言えば、自分にとって非常に大切なことがあります。スポーツとはまったく関係がありませんが、おそらく自分がいちばん好きな短編と呼んでいい作品があって、それを訳したのが故山際淳司氏なのです。ピーター・キャメロンという米国人が書いた『ママがプールを洗う日』という短編で、同名の短編集に収められています。その短編が好きで好きでたまらなくて、原書まで買い求めました。今も、かたわらの書棚に訳書と原書が並んでいます。


 その短編(原題は Memorial Day )には、実母と義父に対して口を利かない少年が出て来て、一人称で語るという形式なのですが、短編のストーリーを要約するのも野暮なので、興味のある方は、ぜひ探してみてください。手元にあるのは、ちくま文庫のものですが、単行本でもあります。おそらく絶版なので、古本屋か、図書館で探さなければならないと思います。


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 今、原書のほうを手にして、表紙を見ているのですが、タイトルの One Way or Another の下に絵があり、そこに描かれている赤いフレームの自転車が、よく見ると変なのです。前後にハンドルバーがあって(2つあるという意味です)、サドルがない。そんな自転車が、白い横羽目板の壁をバックに置かれています。


 壁の左にはヒバに似た低木が茂っているのが見えます。絵の右側の隅には窓の端っこが描かれていて、その下に葉の多い枝が伸び、バラのような赤い花が2つ咲いています。で、例の奇妙な自転車の下には、白っぽいコンクリートか、石のボードを敷いたようにも見える小道があり、絵のいちばん下には芝生の緑が覗いています。


 その絵も気に入っていて、よく眺めます。懐かしいのです。高校2年生の時に、20日間ほど米国を東部から南部にかけて旅行し、複数の家庭でホームステイをさせてもらったことがありました。そのうちの、ある家で見た芝生のはえた庭とプールのある風景が鮮明な印象として残っていて、それが短編の描写と原著の絵と重なって思い出されます。


 また、その短編に出てくる少年の心境が、当時の自分と重なって心が惹かれるのかもしれません。何度読み返したか分からない短編です。


 訳文は、山際氏らしい、さらりとした文体(おそらくは下訳と呼ばれる本職の訳者がいて、それに山際氏が手を入れたのでしょう)。乏しい英語力の者が言うのも、おこがましいですが、原文を読むと言葉の選び方にウェットな趣が感じられます。どちらを読んでも、うっとりとした気分になります。ストーリーよりシーンに重点をおいた作風が、永遠の時にいるような錯覚にいざなってくれる。そんな作品です。


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 道草をしてしまいました。とりとめのない書き方で、とりとめのないことを書いています。このブログは、いつもこんな調子なのです。ごめんなさい。


 テーマは、「はかる」と「わかる」でしたね。こじつけ――こじつける、何でもかんでも、つないでしまう、というのも、このブログの常套手段です――になってしまいますが、たった今紹介した短編は、語っている「現在の思い」と回想されている「過去の思い」とが重なって「現在でも過去でもない思い」となったような感じをいだかせる、やや「重い=多重的」で「厚い=多層的」な作りになっています。でも、誤解しないでください。テーマや書き方は全然重くはありません。もちろん、作品の受けとめ方は、人それぞれですけど。


 もう、こうなったら、ずれまくりますけど、「読む」という行為は、「わかる」だけでなく「はかる」とも近いようにも、また「わかる」と「はかる」とが「読む」において重なっているようにも思われます。さらに言うなら、「スポーツをする」にも「スポーツを見る・観る」においても、「わかる」と「はかる」が共に重要な役割を果たしている気がします。そんなことについて、考えてみたいです。


 ちなみに、広辞苑では「はかる・別る」という項目もあり、「(上代東国方言)⇒「わかる」に同じ」という説明が見えます。このブログでよく出てくる広辞苑は、自分にとって「聖書」でも「六法全書」でも「教科書」でもありませんから、「ふーん」とか「へえー」とか「おもしろいなあ」というくらいの思いで受けとめています。


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 以前、「わかる」については、「かわる」とからめて考えてみたことがあります。スリリングでおもしろい体験でした。「かわる(1)~(10)」という連載で試みました。「こんなことを書きました(その5)」の中で、「かわる」シリーズの記事に入りやすいリンクが貼ってありますので、ご興味のある方は、どうぞご利用ください。


「はかる」に関しても、やはり「わかる」と「かわる」がかかわってくる気がします。いちおう、連載の形を取って書いていく予定です。見通しはついていません。でも、研究論文を書くわけではありませんので、あちこち道草をし、出まかせ主義を実行しながら、マイペースで作業を進めていきたいと思います。お付き合いいただければ嬉しいです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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