かく・かける(1)


げんすけ

2020/08/16 07:53


 賭け事や占いが好きか、と尋ねられたとしましょう。好きにしろ嫌いにしろ、答えるさいに、何か気おくれに似た気持ちをいだきませんか? 就職試験の面接、または、多くの人たちを前にした公の場で、「はい、好きです」と素直に答えられるでしょうか。うーん。仮に好きだとしても、勇気が要りますね。どうしてなんでしょう。賭けは博打(ばくち)、占いは迷信といったステレオタイプ化したマイナスのイメージがあるからかもしれません。


 ただ、それだけではなく、もっと深いところに「気おくれに似た気持ち」の源があるのではないか、と考えています。賭けと占いとは、多分に似たところがあるように思えます。「好きだと他人に言っても、ぜんぜん、後ろめたさは感じないよ」と、おっしゃる方もいらっしゃるにちがいありません。残念ながら、多数の人に尋ねて回った経験はありませんが、おそらく、大多数の人が、賭け事と占いが好きだと他人に言う場合に、何か気おくれを感じるのではないか。そういう想定のもとに話を進めてみます。


     *


 さて、


*「賭ける」と「占う」の背後=根底には、「負ける」=「降伏」と「任せる」=「服従」がある。


のではないか、と考えています。では、何に「負け」、何に「任せる」のでしょうか? 「負ける」と「任せる」が語源的につながっているのかどうかは、手元の辞書で調べたかぎりでは、よく分かりません。ただ、「自分の身をゆだねる」という点で、きわめて接近した意味があるように感じられます。というわけで、


*何に、自分の身をゆだねるのか?


と言い換えて考えてみましょう。これは、それぞれの人が何を信仰しているかにも、関係がありそうです。ただし、この国は、一神教が生活・文化・政治などあらゆる面で、強い影響力をもつ濃密な風土にはありません。年末年始に、キリスト教の教会、神社、お寺を平気で「はしごする」という、宗教的には希薄な風土が存在する国です。欧米でも、占いに関しては、自分の信仰する宗教とは違ったレベルで接するヒトたちがほとんどのようですから、賭け、占い、宗教をあまり強く結びつけて考える必要はないかもしれません。


 賭けと占いにおいて、何に自分の身をゆだねるか? ですが、こんな答えが予想されます。


*神、神々、仏、先祖、霊、教祖、超越者、天、イワシの頭、宇宙、宇宙の摂理、人知を超えた力、運命、カルマ、確率、あるいは「無」……。詳しくはないのですが、たとえば、競馬、宝くじ、血液型占い、星占いにおいては、お馬さん、数字、血液型、星の運行自体


に、自分の身をゆだねるというよりも、そうした


*表面に現れている=表れている現象や物事


そのものではなく、その


*背後にある「何か」


に身をゆだねているという気がします。


 背後にある「何か」に、身をゆだねるとするなら、これは大変なことです。「背後にある」のですよ。「何か」なのですよ。これじゃ、「わけが分からない」ではありませんか? それこそ、


*背後にある「何か」そのものが、賭けと占いの対象になり得る。


というギャグみたいな状況になるような気がします。いや、ギャグというより、見方を変えれば、


*初めに「負ける」「任せる」ありき。


とも言えそうです。


 つまり、


*初めから負けっぱなし=全面降伏


ということです。圧倒的に「強い・崇高な」存在。こうなると、対処するための切り札は1つしかありません。


*信じるのみ


です。


 ありゃー、という感じです。このレベルになると、絶句、つまり、どんなに言葉を重ねても意味はない事態となります。言うことなし。問答無用。出口なし。行き止まり。思考停止。エポケー=判断中止。ここから先へ侵入するべからず。おしまい。ピリオド。


 それくらい、「信じる」という行為は強い。手強い。どうにもならない。なすすべがない。でも、これって、ヒトにとってはなくてはならない「いとなみ」=行動=心理ではないでしょうか。計算式を立てるなら、


*ヒト - 「信じる」 = O = ゼロ(何も残らない) = ヒトでなし


と表しても、算数のテストで◎をもらえるのではないか、という気がします。


 この場合の「信じる」は、かなり広い意味にとってください。宗教的なレベルだけの話をしているのではありません。無神論者でも、生後間もない赤ちゃんでも、状況は同じです。「意識する」=「知覚する」に近いレベルまで含むものとして、「信じる」を広く考えましょう。すると、


*生後間もない赤ん坊も、「賭けたり」「占ったり」している。


と言えるように思います。


     *


 一昨日まで、「信号」と「信号論or信号学」というツール=玩具をつかって、いろいろなことを考えたり、いろいろな現象に当てはめる=つなげる=こじつけるという「お遊び」=楽問=ゲイ・サイエンスをしていました【※「スポーツの信号学(1)」から「信号論(3)」ですが、安心してください。過去の記事をお読みにならなくても分かるように書きますので。】。慣れない「学問ごっこ」をして、しんどかったことは確かですが、とても面白かったことも事実です。そこで、この「かく・かける」シリーズでも、「信号」という言葉をぜひ使いたいのです。たとえば、


*生後間もない赤ん坊は、さまざまな「信号」を相手に、「賭けたり」「占ったり」している。


みたいに使いたいのです。


 そこで、今後このシリーズで使いそうなツールを、ここで説明させてください。お断りしておきたいのは、以下に挙げる三語は、別個のものであるというより、森羅万象を対象にした「切り口」=「切り分け方」だということです。そして、その「切り分ける」作業に先立ち、「目的」があることが重要な点です。


(1)「表象」 : 「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」という代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。


(2)「トリトメのない記号=まぼろし」or「記号」 : 「そっくりなものがずらりと並んでいる」 and 「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」 and 「お母さんのコピーとして生まれたものの、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。森羅万象が「記号」になり得る。


(3)「ニュートラルな信号」 or 「匿名的な信号」or「信号」 : 「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。


 以上のツールのなかで、さっそく使いたいものがあります。「表象」です。


 半端じゃなく強い存在に、ヒトは太古から気づいていたふしがあります。その圧倒的に強い「何か」(※いろいろなヒトたちがいろいろな名で呼んでいるので、中を取って中立的に「何か」と呼んでおきます)対して、大昔のヒトたちはどう対処してきたでしょうか? 歯向かうとか、戦うなんて、馬鹿なことはしませんでした。なかには、そうしたお馬鹿さんもいたでしょうが、ここでは無視します。


     *


 この問題について、「1カ月早い、ひな祭り」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)という記事のなかに、「占い」と宗教の発生がらみで書いた部分がありますので、横着をして、自己輸血=自己引用=コピペをさせてください。ちょっとおふざけ気味の文体ですが、それは内容のシリアスさを薄めるためです。本気で書いたものですので、そこのところをご理解願います。


     ★


「 ひな壇 」とピラミッドは、司法・立法・行政には付きもの。代理、代行、代議士、代表、総代が、うようよ。ハンコぺたぺたのペーパーワーク。このへんが不明の方は、当ブログのバックナンバー、「 あなたなら、どうしますか?」 、「 やっぱり、ハンコは偉い 」 を参照、願います。面倒な方は、このまま、引き続き、どうぞ。「 ひな壇 」は「 虎の威=衣 」とセットで、クラス分け、棲み分けして、暮らすわけ。これが代々続けば、二世、三世、そして、世襲。仲間うちで譲ったり、譲り合えば、天下り、渡り、渡る天下に鬼はなし。


 蛇足ながら、「 虎の威=衣 」は「 虎の位 」であり、ピンからキリまで、枚挙にいとまなし。フェイクファーのパンツから、スマトラ産の超高級品の上下一式の被り物まで、多岐にわたる。引退後は、民間人をさておいて、真っ先に褒章、勲章までもらえる。ワッペン張って、大威張り。首から下げて、涙腺を緩めるのが、最後のご奉公。なんでこれがご奉公? 公僕、最後のご奉公? ここまで来ると、もうめちゃくちゃではないか? それなのに、庶民が一揆を起こしたり、騒がないのも、究極には「 表象の働き 」の奥深さがあるのではなかろうか? もっと考えてみたいけど、きょうは、それ以上考える暇なし。貧乏暇なし。なぜか、突然、なるほど、


 「 タモちゃんのお代理様 」


は、やっぱり言えている、と思う。


 言えてるどころか、きっと、そうに違いない。「 でまかせ 」ではなく、「 言えている 」とか「 きっとそうだ 」にしてもいいでしょうか、偶然と必然のオーソリティー(= 権威 )だったマラルメさん? ここで権威にすがる自分が、情けない。それはともかく、ヒトよりも、もっともっと偉い存在がいて、ヒトはその代理を務めたいという、願望、欲求、祈り、野望、をもっているのではないでしょうか、マラルメさん? Aにはなれないから、Aの代わりを演じます。Aみたいな顔をしてみます。Aの仮面をかぶり、表情をまね、ときにはお化粧もし、かつらも付けたりもしてみます。


 どうです、似合うでしょう? 様になるでしょう? だって、これだけ化ければ、○○様なんて、呼ばれるんですもの。偉く見えるんですもの。いいじゃないの。


 という具合に、偉く見えるから、崇め奉られる。ちやほやされる。甘やかされる。


 「 どうか、雨が降って豊作になりますように 」、「 作物が駄目にならないように、大雨が止みますように 」、「 ニワトリとブタが増えますように 」、「 隣村の馬鹿どもが攻めてきませんように 」、「 今度の戦( いくさ )に勝てますように 」、「 あいつとの賭けに勝てますように 」、「 おとうさんの怪我が早く治りますように 」、「 娘がいいところにお嫁にいけますように 」、「 亡くなったあとに天国に行けますように 」、「 元気が出ますように 」


 「 お任せあれ。任せとき。だいじょうぶ。ところで、あれは、ちゃんと用意しているかな? このあいだは、ちょっと少なかったぞよ 」


 万が一、でまかせが当たらなかったり、何かとんでもないことが起きて、都合の悪くなったときには、仮面を外し、お化粧を落とし、表情をしおらしくして、かつらもとって、わたしは代理ですと言って責任を転嫁すればいい。または、「 あんたの信心がたりんからじゃ 」と、これまた、責任を転嫁すればいい。「 代理人 = 代行者 」は、気楽で、いい商売だわい。


 これは便利。超便利。魔法みたいに便利。呪術みたいに便利。イッツ・ア・マジック。マジでマジック。マジで絶句。ヒューマニズムよりも、シャーマニズム。コミュニズムよりも、キャピタリズム。デモクラシーよりも、ビュロクラシー。



 ★から、以上までが、引用部分です。


     *


 宗教と、占い=預言=予言と、半端じゃなく強い「何か」の威=衣を借りて、他のヒトたちの上に立つという「政(まつりごと)=支配体制=政治」の成立というシリアスな問題を、紙芝居的に描いたおとぎ話です。きょうのテーマの一つである、「占い」のメカニズムもご理解いただけたのではないでしょうか。


 さて、今度は、歴史ではなく、一個のヒトの成長という視点から、特に「赤ちゃん期」に注目しながら、考えてみましょう。


*生後間もない赤ん坊は、さまざまな「信号」を相手に、「賭けたり」「占ったり」している。


に話をもどします。


 健常者の赤ちゃんは、さまざまな形の「信号」を、主に五感、および第六感(※もし、そのようなものがあればですけど)を総動員して、発信し、受信=知覚しています。そのさいに、


*赤ん坊は、「賭け」と「占い」という行為のなかへと、否応なしに、いわば「投げ込まれている」。


と言えそうです。


 それほど、ヒトの赤ちゃんという存在は無力なのです。


 生後 or 孵化後、数時間で、オトナのミニチュアのような容姿となり、立ち上がったり、動き回ったりする、たとえば、お馬さんの赤ちゃんや、イカさんの赤ちゃんを思い浮かべれば納得できると思います。もちろん、程度の差はあります。ある期間中、お母さんの腹部にある袋(=育児嚢(いくじのう))で保護されているカンガルーさんの赤ちゃんや、巣の中で毛の薄い頼りなげな姿で巣立ちまで過ごしている鳥類の赤ちゃんも確かにいますね。


 なお、ヒトの赤ちゃんの「よるべなさ=無力さ」には、「ネオテニー(=幼形成熟」という現象が関係しているという説があるそうです。語弊を覚悟で申しますと、ヒトは「早産」し、子を「未熟児」として産むということらしいです。だから、自立するまでに長期間を要するという理屈みたいです。このへんの事情については、他の問題とからめて「交信欲=口唇欲」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)、「オバマさんとノッチさん」でも少しだけ触れましたので、ご興味のある方は、ご一読ください。


     *


 さて、ヒトの赤ちゃんが「賭けたり」「占っている」というのは、「ニュートラルな信号」を「合図」という形で発している、つまり、「オギャー」と叫んだり、笑みを浮かべたり、じっと「まなざし」を向けるという具合に発しているのは、オトナの目から見て、


*期待=欲求というメッセージ


を送っているという意味です。


*期待と欲求は、これから先の出来事に向けられている。


と考えれば、「賭ける」「占う」との関連が分かると思います。


 ここで大切な点は、


*期待・欲求 → これから先の出来事=未来の出来事 ← 予測・予想


と図式化するさいに用いることも可能な、「→」と「←」という符号=「信号」にあります。何を言いたいのかと申しますと、


*「→」と「←」という符号=「信号」は、「向き」=「方向」を示している。


という点が大切なのではないか、ということなのです。


 さきほどの「信号」の定義で、森羅万象が「信号」になり得る、とあったのを思い出してください。「→」と「←」も、立派な「信号」です。「向き」=「方向」を示しながらも、それ自体は「ニュートラル」な「長短の3本の線の組み合わせ」でしかないのです。


*たとえ何かのメッセージを担おうと、「信号」は、あくまでも「ニュートラル」であり、「匿名的」なものである。


という特性は、いくら強調してもしすぎるということがないくらい、重要です。言い換えると、そうではないと思われやすいということです。


「信号」の担う「メッセージ」が、「色づけ=意味づけ(=ニュートラルではない)」され、「ある特定の目的を志向する(=匿名的ではない)」ということは、「信号」が然るべき「経路」へと「向かう(=「→」と「←」)」という点においてのみ、「意味」があり、「必然性」が認められるという、「きわめて不安定な基盤」に立っているのです。もちろん、それとは逆に、これを「安定した基盤」に立っているとみなす考え方もあるでしょう。


 でも、ヒトの赤ちゃんを例に取れば、現在の日本という国の比較的恵まれた好条件=好環境を基準にするかぎりにおいて、「安定した基盤」に立った「信号のやりとり」を行っていると言えるにすぎず、この惑星の圧倒的多数のヒトの赤ちゃんたちと、ヒト以外の生き物たちの赤ちゃんたちと比べた場合には、きわめて「きわめて不安定な基盤」に立っていると言ったほうが、残念ながら、適切だと思われます。いわゆる


*生存率という確率


を思い出してください。いかに、赤ちゃんの「賭ける」と「占う」が危ういかが体感できるかと思います。


     *


 このように、


*「ニュートラルな信号」が、然るべき「経路」にまで「向かう(=「→」と「←」)」過程をとらえるには、確率というツールが不可欠になる。


と言えそうです。事態はそれだけにとどまりません。ここで、「信号論(3)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)で利用した、きわめて大雑把な私的「カンニングペーパー」を、コピペさせてください。



A:ノイズ+熱 ⇒ ニュートラルな「信号」 : 合図・視線・まなざし・表情・刺激

   ↓

B:ノイズ+熱 ⇒ 経路・通路(光・電波・波動・電線・管・ニューロンなど) : 線・糸・揺れ

   ↓

C:ノイズ+熱 ⇒ 回路・知覚器官・知覚組織・解読版・グリッド : 色づけ・分ける・知覚・見る・解読・解釈・識別 : 網・濾過記=フィルター・カメラ・マイクロホン

   ↓

D:ノイズ+熱 ⇒ スクリーン・膜・細胞・機械・器械・画面・スピーカー・発信装置=受信装置 : 幕・器

   ↓

E:ノイズ+熱 ⇒ 映像・音声・震動・運動・動作 : 動き・まぼろし・イメージ

   ↓

F:ノイズ+熱 ⇒ 賭け・ギャンブル・偶然(accident) / 成功=不成功・当たり=外れ・作動=誤作動・正常=異状or異常・順調=不調・OK=エラー



 上の図を見ていると、話がしやすいのです。正確さという点からは、まったく信用できない「トンデモもの」ですが、このブログ自体がいわゆる「トンデモ本」の親戚の「トンデモブログ」みたいなものですので、恥を忍んで掲載させていただきます。


 さて、いったん発信された「ニュートラルな信号」は、上図のAからEまでの全過程において、確率に大きく左右されています。


*「信号」の「ニュートラル性」とは、「信号」が常に確率に左右されている状態だ、と言い換えることができる。


とも言ってもよい、とさえ考えています。


 正直申しますと、自分は確率・統計は大の苦手なのです。かつて一種の売文業をしていた頃に、仕事上、どうしてもこの分野の知識を使わざるを得ない事態に陥り、三冊の参考書をもっていますが、今読んでも、さっぱり分からないのです。こういう場合には、「確率」と書いてあっても、比喩であったり、お飾りであったり、はったりであったりしがちですので、せいぜい、「比喩」くらいで使っているのだと理解してくだされば、幸いです。


     *


 では、きょうのまとめをします。


「賭け事」「占い」の背後には、たいてい「後ろめたさ」がつきまとっている。それは、何ものかに自分の身をゆだねているという心理があるからだ、と考えることができる。「身をゆだねる」というのは、体(てい)のいい表現であり、ぶっちゃけた話が全面的に「任せている=負けている」という負い目である。


 この「負け」はヒトにとって、根本的で、始原的とも言えるものある。ヒトは太古から無力であり、圧倒的に強い「何か」に対し、その「代理」を務めるという方法と、その代理人に「占い=預言=予言」をしてもらうという方法を考え出した。また、ヒトは1個の生体としても、生まれて以来無力な存在として存在する。頼りになるのは、自分の「期待・欲求」を伝えるために発する「信号」である。しかし、その「信号」が然るべき「経路」を経て、受信され、最終的にその目的を達することは、「賭け」「占い」である。つまり、確率に左右される。


 という感じです。こう考えると、「信号」をちゃんと受けとめてもらえる赤ちゃんって、幸せですね。母親や母親に代わるヒトのせいでほったらかしにされていたり、そうした保護者とは無関係の何らかの事情によって、メッセージが届かず不幸な目に遭う赤ちゃんが、この世界にはたくさんいるのにちがいありません。


 みなさん、身のまわりにいる赤ちゃんを見守ってやりましょうね。うちの近所にも、赤ちゃんたちがいます。裏の家の軒下に巣を作っている(※「巣をかける」とも言いますが、確かにあれも「かけ」なのでしょうね。まさに命をかけての行為でもあります)ツバメさんちの赤ちゃんです。四羽います。かわいいです。でも。なかには、巣から落っこちちゃう子っているんですよね。悲しいです。あれも、自然の摂理ってやつでしょうか。いずれにせよ、あまり近寄らず、距離をおきつつ、見守っているところです。


 さて、きょうは、ちょっとですが、引用部分にマラルメさんにも出演していただいたため、元気が出ました。あの人は、以前の記事では常連の賓客=ゲストスターだったのです。「賭け」と「ダジャレ」の名人です。このシリーズでは、お手を借り、ご活躍を願おうと思っております。


 あすも、引き続き、「かく・かける」をテーマに書く予定です。ぜひ、また、この楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくお勉強しよう」サイトに遊びに来てください。お待ちしております。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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