代理だけの世界(1)

げんすけ

2020/09/04 10:12


*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。


 今書いた、あきれるほどシンプルなフレーズを、さらに短くすると、次のように言えそうです。


*代理の仕組み


 これだけです。


 以上のフレーズを出発点にして、思うところを書いてみようと思います。


「代理の仕組み」は、この惑星に生息する多種多様な生物に、「知覚」および「認識」と呼ばれる「仕組み=メカニズム=システム」という形でそなわっているようです。


 当然のことながら、ヒトという種もその中に含まれます。ただし、ヒトの場合には、かつてのしがない尻尾のないサルが、ホモ・サピエンスという尊称を自らに与えるまでに、どういうわけかなっちゃったという経緯があります。


「どういうわけか」については、脳内で異変が起きたらしいという「説=物語=フィクション=与太話」があるそうです。「ズレた」「本能が壊れた」とも、「変奏=変装=変相=『変そうだわ=変みたい』」されているのを見かけた覚えがあります。


 脳が肥大化したとも言えそうです。つまり、情報処理能力が飛躍的に高まったということのようです。その結果として、言語や貨幣に代表される代理=表象が作り出され、それらがヒト同士を「空間的に=物理的に=距離的に=地理的に=あちこちへ」にも、また「時間的に=歴史的に=代々」結びつけたりつなぐ役割を果たした。言い換えれば「情報=データ」を伝えるという「仕組み=メカニズム=システム」が可能となり、実際にそうなっちゃった=成立してしまったみたいです。


     *


 ヒトにそなわっている知覚器官で、ヒトは「自分の周り=世界=森羅万象=宇宙」の「断片=情報=データ」を「信号」として受信し、つまり信号化する。次に、確かシナプスとかいう「糸=線=伝導媒体=道みたいなもの=管みたいなもの」を通して、脳へと「送り込む=伝達する=伝える」らしい。


 脳は、伝わってきた「信号」を「処理」するみたいです。「処理」という言葉は、曖昧と言えるほどテキトーなイメージを持っています。「適当にみつくろってくれ」とか「善処します」なんて言い方に通じるテキトーさを感じます。


「テキトーさ=いかがわしさ=胡散(うさん)臭さ」が、「珍重される=信奉者が現れる=『いわしの頭も信心から』を地で行く」ことも確かです。宗教やスピリチュアルや自己啓発に、曖昧さを伴うテキトーさが共通するのは、さもありなんという印象をいだきます。


 脳に伝えられた「信号」が「処理」される。


 今述べた「言い方=言説=フレーズ」に対して、「なるほど」と空返事と大差ない感心の言葉を返す人もいるでしょう。「含蓄がある」とか、「奥が深い」とか、「難解である」という印象批評的な思いをいだく人もいるでしょう。脳の研究者でない限りは、それくらいの言葉を吐くか、イメージを持つのか普通だと思われます。


 いわゆる脳の研究者が、その「言い方=言説=フレーズ」をどれくらいの「理解度=確信=思い込み=はったり」をもって受け止めるかも、はなはだ疑問です。


 素人の中に、「脳に伝えられた『信号』が『処理』される」というフレーズが、ほとんど「ナンセンス=無意味=不条理=馬鹿らしい=何も言っていないに等しい」と言っても構わないくらい「曖昧なこと=分かっていないこと=解明されていないこと」だと、薄々感じている人たちがたくさんいても不思議ではないと思われます。


 なぜなら、「脳に伝えられた『信号』が『処理』される」ということを文字通り取るなら、いわゆる「認識する」とか「思考する」とか「思う」とか「考える」という、誰もが日常的に体験している状態を指していると考えられるからです。


 専門家も素人も関係ありません。年齢も関係ありません。誰もが、「脳に伝えられた『信号』が『処理』される」を体感しつつあると言えそうです。


     *


 上で述べた、


*「体感しつつある」


ということが、


*「無意識に体感しつつある」


であろうと、


*「意識的に体感しつつある」


であろうと、


*意識の代理が、たとえば言葉である


かぎり、


*「代理」を口にしたり、耳にしたところで、その「内容」は分からない


か、


*かろうじて、ちょっぴり分かった気になれるだけ


な状況だと思われます。


 ヒトという種は、その


*かろうじて、ちょっぴり分かった気になれるだけという状態を常態にしている


と、かろうじて、ちょっぴり分かった気がします。


 でも、「気がする」だけですから、たぶん、ちょっぴりどころか、ほば全然分かっていないのでしょうね。


 とはいうものの、その


*かろうじて、ちょっぴり分かった気になれるだけ


で、ヒトは日常生活を送るのに支障はないと思われます。ただし、日常生活ではなく、たとえば学者として学究生活を送っているヒトたちについては知りません。


     *


 単純に考えましょう。


 ヒトは知覚し認識する。


 何を?


 自分の周りを。


 どんなふうに?


 詳しいことは知りません。ただ、代理として、みたいです。


 代理って何?


 たとえて言えば、饅頭の中身ではなくて饅頭の皮だということです。具体的には、言葉やお金が、典型的な「饅頭の皮」です。


 皮の中身は分からないってこと?


 たぶん、分からないと思います。


 皮だけってこと?


 そうみたいです。


 うそー。


 同感です。


     *


 どうやら、饅頭の中身には絶対にたどり着けないようです。皮だけで満足するしかないみたいです。もちろん、これは比喩です。お忘れなく。


     *


 少しややこしく考えましょう。


 ヒトは「代理」しか「知覚=認識=思考=体感=理解=習得=学習=記述=伝達」できない。


 何の代理?


 分かりません。「『何か』の代わりに『その「何か」ではないもの』を用いる。つまり、代用する」=「代理の仕組み」を採用している限り、分からないようになっているからです。


「何か」とか、「その『何か』の代わり」って、何だか謎めいて神秘的に聞こえるんですけど。


 神秘的ですか? いや、そんなたいそうなものではありません。「何か」とは「餅」で、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」と考えると分かりやすいかもしれません。比較的モチがいいと言われる餅ですが、カビは生えるし、いつか腐敗するし、だいいちモチあるきにくいので、ヒトは絵に描いてモチ運ぶのです。でも、ヒトはそれが絵だということをすぐに忘れます。


「絵に描いた餅」って笑えますね。モチがいいとか、モチ運ぶとか、真面目な顔をしてしらっとダジャレを言うなんて、あなたはすごく性格が悪そう。


 ありがとうございます。で、この餅はクジラであっても宝石であってもヒトであってもミミズであってもオケラであってもアメンボであっても山であっても総理の椅子であっても宇宙であっても、それが絵に描けるなら「何か」なのです。餅を、気取って事物や現象、あるいはおおげさに森羅万象なんて呼んでも、それでヒトの気が済むのならよろしいかと思います。また、絵に描いた餅を、表象・象徴・記号と呼んでも事態はいっこうに変わりません。


 もう少しゆっくり話してもらえません?


 申し訳ありません。では、ゆっくりと……。大切なことは、餅の絵が餅だと錯覚したり、餅の絵が餅ではないことを忘れたり考えないようにするのが、ヒトの常だということです。取り違えとか取り替えのギャグみたいで、お茶目ですね。モチろん、故意に、あるいはすっとぼけて、この錯覚や忘却を利用する、身モチが悪いじゃなくて、鼻モチならないやからがいるので、気をつけなければなりません。


 鼻持ちならないやからですって? それ、あなたのことじゃないんですか?


 そうかもしれません。


 あっさり認めるんですね。「『何か』の代わりに『その「何か」ではないもの』を用いる」って、話からそれてきていません? 


 そんなことはありません。説明の仕方が悪いみたいなので、別のたとえをします。「何か」とは「あそこ(ヒトぞれぞれですので、お好きな「あそこ」を想像なさってください)」、そして「その「何か」ではないもの」とは「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」と考えると、すごく切実=リアル=ガッテン=あら、いやだ、に感じられるかもしれません。


 ちょっと、あなたったら。あら、いやだ……。


 ああいうものを見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催してきません? この場合には、燃えないほうが、きわめて危うい=ヤバいかと存じます。燃えてこそ、ヒトなんでしょうね。あれを見て燃えないなんてヒトでなしかもしれません。お分かりになりましたか?


 ええ、何とか。――ところで、「意味されるもの」と「意味するもの」とかいう話を聞いたんですけど。


 それは聞いた記憶があります。その理屈を考えた人に質問してください。信じがたい話だとしか申せません。


 あたまがこんがらがってきたわ。話をもどします。もう一度聞きますけどね。絵に描いた餅とか、あそことか言って、煙に巻かないでくださいよ。とにかく単刀直入に答えてください。「『何か』の代わりに『何かではないもの』を用いる。つまり、代用する」の「何か」って何なの?


 ヒトには、「絶対に分からないもの」「絶対に直接的に出あったり、触れたり、知覚したり、悟ったり、まして認識したりできないもの」とでも申しますか――。


 ペシミスティックですね。


 はあ、まあ。


 夢も希望もないじゃないですか?


 はあ、まあ。


 そんなんじゃ、元気出ませんよ。頑張れませんよ。


 そうでもないですよ。居直るとか、はったりをきかすとか、都合の悪いことは忘れるとか、自己催眠をかけるとか、妄想するとか、幻想を見るとか、幻想を信じるとか、幻覚に陥るとか、すれば元気も出ますし、頑張ることもできるみたいです。


 夢も希望もないより、ましじゃないですか。


 そうお思いになる方が、圧倒的に多いようです。さもないと、ヒトは「生きて=息て」いけません。


     *


 ちなみに、ここに書かれている言葉たちも「代理」です。「代理」のお世話になって、この駄文=与太話は書かれているとも言えます。


 ヒトは「代理」なしには生きていくことができないわけですから、「代理」の「効用=良い面=メリット=方便=使い道=利用の仕方」について考えるというスタンスをとってみましょう。


 そうしたスタンスを「代理至上主義」とでも名付けたいと、ふと思いましたが、すぐに馬鹿馬鹿しいとふと思いましたので、やめておきます。


 なぜ、「代理至上主義」という名称が馬鹿馬鹿しいと思ってしまったのか。そんなことを考えてしまいました。


 一、「代理至上主義」はヒトの常態ではないか。あえて名付けるほどのことでもない。そんな気がします。


 二、「代理至上主義」を自覚しているかいないか。これは、イエスとノーではっきり分けられるものではないと思います。絶対的なイエスと絶対的なノーの間には、グラデーションがあると思われます。そのグラデーションという帯の中をあっちへこっちへと千鳥足でブレ続けている。それが、ヒトの常態というべきではないか、という感じがします。


 三、「代理至上主義」とは、ひょっとすると「禁句=タブー=それをいっちゃおしまい」ではないでしょうか。


 以上、三点が頭に浮かびましたが、読み直してみると、「代理至上主義」とは馬鹿馬鹿しいどころか、口にするのもはばかれる恐ろしい言葉ではないかと思いました。


     *


「代理至上主義」という言葉はさておいて、「代理」の「効用=良い面=メリット=方便=使い道=利用の仕方」について考えるというスタンスを実践してみましょう。


 で、ふと思ったのですが、以下のような「代理」の利用の仕方がありそうです。


 A)「代理至上主義」


 B)「代理」の「効用=良い面=メリット=方便=使い道=利用の仕方」について考えるというスタンス


 このようにA)とB)を並べた場合、A)はB)の、そして逆にB)はA)の「代理」ということができるのではないでしょうか。


 同じく次のようにも言えそうです。


 X)代理の仕組み


 Y)「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。


 このようにX)とY)を並べた場合、X)はY)の、そして逆にY)はX)の「代理」ということができるのではないでしょうか。


 以上の二つの例は、「言葉=フレーズ=代理」同士が「代理し合っている」とでも言えそうな状況です。言い換えると、「代理が代理し合っている」状況となりそうです。


 ただし、いずれにせよ、A)、B)、X)、Y)という各代理が「何の」代理であるかは依然として不明なまま、という「付帯条件=付帯状況」が付きまといます。


 話を中断します。


     *


 以上の「代理」の利用の仕方を読み返していて、さらにふと思ったことがあります。


*「説=物語=フィクション=与太話」


 このフレーズは、さきほど書いた文章の一部を引用したものです。


「=」で結ばれた四つの語は、それぞれ「代理」の関係にあると言えるのではないでしょうか。


 この「駄文=与太話」では。やたら「=」を用います。これは、センテンスなり文章の流れを固定化するのを避けるために故意にやっている「おまじない=儀式=癖=惰性」みたいなものです。書いている本人は戦略だと考えているのですが、どうやら「全然効き目のない戦略=独りよがり=独善=愚行=単なるアホ」だとも薄々意識しております。「薄々」になっているところが「惰性=アホ」たるゆえんであります。


 次のような例もありましたので、引用します。


*「知覚=認識=思考=体感=理解=習得=学習=記述=伝達」


 本来「=」とは、数学で使われている等号と呼ばれている符号なのですが、数学とは全然関係なく使っております。


 フランスという国のある種の文系の学問領域で、やたら数学や自然科学の符号を使っていることに対し、理系の学者のうちで血の気の多い人たちがかんかんに怒ったという話を、聞いたか読んだかした覚えがあります。


 その血の気の多い人の中でも、やたらねちっこい性格の人たちが、いかに理系様のご符号が誤用されているかを、自分の専門の研究をおっぽり出してまでして、わざわざ「悪態=議論」や「悪態=論文」や「悪態=本」という形で、世に訴えようとしたらしいのです。


 この「悪態=駄文=与太話」とある意味で似ていて、ほほえましく思いました。


 で、その感想なのですが、どうやら、例の血の気の多い理系様たちは、「自分の周り=世界=森羅万象=宇宙」を対象に「研究」とやらをしているあまり、「自分の周り=世界=森羅万象=宇宙」が代理であることを失念しているか、すっとぼけているようなのです。


 一方、批判された文系の方々も、自分たちが学問をする以上使用せずにはいられない言葉や符号が「代理」であることを失念しているか、すっとぼけているようなのです。


 うろ覚えの話を思い出しているだけなので、たった今書きましたことは、「悪態=思い込み=勘違い=誤解=曲解=駄文=与太話」以外の何ものでもありませんことを、ご承知願います。


     *


 話を変えます。


*「知覚=認識=思考=体感=理解=習得=学習=記述=伝達」


 ただ今引用したフレーズは、「説=物語=フィクション=与太話」とはちょっと違っています。本当は、次のように記述したかったのです。


*「知覚=認識=思考=体感=理解=/or習得=学習or記述or伝達」


 でも、このように書くのが面倒なので、やめただけです。基本的には、次のような意味で、ある程度厳密に書き分けたいのです。


*「=」=つまり=および


*「or」=あるいは


 でも、最近、「つまり」「および」「あるいは」「または」というつなぎの言葉の境い目が、自分の中できわめて「曖昧=テキトー=懐疑的=『こんな分類、嘘ちゃうか?』的」になってきたために、面倒臭さと「ま、いっか」の相乗作用で、ええい、もう「=」でつなげてしまおう、という態度と記述になっているという事情があります。


 それくらい、「真面目に=不真面目」に「代理」一般および「代理」の典型例である言葉について考えております。本気でマジなお話です。


     *


*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。


*代理の仕組み


 とにかく、この「仕組み」は、どうあがいてもビクともしない感じなのです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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