あわいあわい・経路・表層(1)

げんすけ

2020/07/28 12:50


 今、PC脇のアナログ式の置き時計を見ています。文字盤の最上部にある12の真下に「SEIKO QUARTZ」と記されています。単2形の電池で動くものですが、四半世紀以上にわたってかなり正確に


*「とき」を「きざむ」


という動作=働きを続けています。長針、短針、そして秒針があります。


*クオーツ時計


というのは、


*電圧をかけられた水晶が規則的に震動する


という現象を基本としているそうです。


*揺れている


ということですね。


*振り子の揺れから、水晶の揺れへ


というわけですか。


*この置き時計の3本の針は、これまでに文字盤をそれぞれ何周したのでしょう?


 機械=器械=計器は、ヒトがつくったものです。ヒトは自分の身体および知覚器官、そして都合に合わせてものをつくります。ともすると、


*ヒトは、どこかヒトに似たものをつくる


と、以前から思っています。PC脇の置き時計の文字盤をじっと見つめていると、ヒトの顔に見えてくることがあります。


*文字盤はヒトの顔を模倣している


と思います。針の位置によって、表情が変わります。


 時計の針を、英語ではneedleではなく、


*hand


と言いますね。そう思って、目の前の時計を見てみると、文字盤の真ん中にある軸のぽっちがヒトのあたまに見えてきました。ちょうど、真上から、ヒトを見下ろした感じです。長さの違う腕(arm)を開いているように見えます。すると小刻みに動く秒針がうざく感じられます。やっぱり人面のほうがしっくりきます。


     *


 時計をながめていると、同じように文字盤に見入っていたいろいろな時を思い出します。たいていは


*ちょっと目をやる場合は、時刻を知る時


が多く、


*じっと見つめている場合には、何か or 誰かを待っている


ことが多かったように感じられます。


*待っているあいだに、これから起こると予想される出来事をなぞる


という行為があたまのなかに浮かびます。きのうの記事で書いた、


*ミメーシス・ミーム・模倣・擬態・コミュニケーション・伝達・学び・学習・共感=感情移入=empathy・思いやり・同情・関係性・引き寄せ・感染・反復・永劫回帰・円環・輪・鏡・複製・コピー・クローン・生殖・増殖・培養・細胞分裂・挿し木・再生・再演・認証・同定……


といった言葉=感じ=イメージに類することが、


*脳のなかの「スクリーンという場=意識」で起きる


のではないか、と想像=妄想しています。


*脳のなかで、何度も何度も、やり直す=繰り返す


のです。


*時計を見つめるという動作は、人為的に「既視感=デジャ・ヴュ」を「呼び起こす=誘い出す」儀式めいた行為だ。


とも言えそうな気がします。


*これまで経験した、さまざまな「まつ・待つ・俟つ」が数知れなく重なって立ち現れてくる


ような感じです。不思議なことに、


*「待つ」行為における人為的な既視感=デジャ・ヴュは、「未来に起こること」=「未だに起こっていないこと」も「既に見たこと」として感じられる。


のです。


     *


 きのうから、


*再現・再演・反復・変奏・持続


という言葉=イメージを相手にたわむれています。


*アナログ時計や、レコードや、CDが円状である


とか、


*デジタル時計が数字の組み合わせのサイクルを演じている


とか、


*映画やテレビ放送が、静止した映像つまりコマを連続させることで、錯覚を起す装置=仕組みである


とか、


*ヒトは時間を空間的な比喩=たとえ=こじつけ=だまし絵=錯視で処理する


などといったフィクション=お話も、それなりにおもしろいですが、時計の文字盤を眺めながら、


*再現・再演・反復・変奏・持続を、具体的な体験として生きるという、これもまたフィクション=お話でしかないものを、脳 or 意識 or 自我と呼ばれている「得体の知れない=わけの分からない」場で、演じる=「なぞる」


ほうが、ずっと刺激的です。ちなみに、今、「なぞる」と書いたのは、


*「経路」が、既に敷かれている=引かれている


からです。いずれにせよ、少なくとも、


*「演じる」=「なぞる」という体験が「今ここ」である


のです。そのはずです。とはいうものの、


*「今ここ」を離れ、「かなた=彼方=あなた」へと飛ぶことを思い描く=志向する=思考する


ことも、捨てがたい魅力をもっているのは確かです。


     *


 で、今、そんな具合に思い描いていること=妄想を以下に書きつづってみようと思います。


 きのうは、散漫でトリトメのない文章を書いてしまったので、暴走を防ぐために、とりあえず、見通しを立てておきます。


1)「経路」に沿った再現・再演・反復・変奏・持続という体験について


2)生得的な「経路」について


3)「経路」にはどのようなものがあるか、について


 以上の3点に絞って、記事を書いてみます。結果的に書き散らす形になってしまった、


*きのうの記事の注釈


みたいなものになりそうです。では、順番にいきます。


1)「経路」に沿った再現・再演・反復・変奏・持続という体験について


 まず、きのうの記事から引用させてください。


★*意味が分からないのに、うたう・となえる・はなす・くちにする・ひとにつたえる・かく・しるす・おぼえる


ということは、


*特殊な話ではない


のです。


*よくある話


なのです。たとえば、


*お経、保育園・幼稚園でのお歌の時間、学校の授業での音読、カラオケボックスでの覚えたての歌の練習、お習字、今流行の写経、文字を習いたてのコドモたち、言葉を習いたてのヒトたち、新聞の音読、プレゼン、役人の書いた答弁書を国会で読みあげる大臣、国会の議場での速記、裁判での答弁書の朗読、自分の書いたブログ記事を読み返しているこのアホ……


 今挙げた例には、明らかに意味が分からずにしている行為=動作もあれば、意味がある程度分かっているかに思える行為=動作もありそうです。でも、個人的には、これらの行為=動作すべてが、


*意味が分かってやっているようで、そうではない


と思えてなりません。悪い意味で言っているのではありません。


*「良い悪い」といった次元の話ではない


のです。


*意味が分からないけど、やっている


 むしろ、それが、


*ヒトという種(しゅ)にとっては、ふつうなのだ


と言いたいのです。このことについては、いつか、あらためて考え、書いてみたいとも思っています。


     *


 以上が引用ですが、「いつか、あらためて考え、書いてみたい」の「いつか」が「きょう」になりました。


 で、思うのですが、


*ヒトは、自分自身によって or 他人によって、話された or 書かれた言葉を、「分かる」「理解する」「解釈する」ことはできない


という点を確認したいと思います。この場合の言葉は、


*「広義の」言葉=言語 : 話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(家庭だけで通じる断片的な手話)、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号、および、あらゆる知覚対象など


と理解してください。ただ、話がややこしくなるので、話し言葉と書き言葉だけをイメージしながら、これから書く文をお読みなっても、いっこうにかまいません。


 で、


*「分かる」vs.「分からない」/「理解する」vs.「理解できない」/「解釈する」vs.「解釈できない」という対立は、パーセンテージという形で、ある程度の定量化が可能な次元の「話=フィクション」ではない。


と思われます。つまり、「あのヒトの話は、90% or 9割くらい理解できたみたい」といった比喩で片付けられるたぐいの問題ではない、という意味です。というよりも、


*ある文章について言うなら、100人のヒトがいれば、100通りの「分かる」「理解する」「解釈する」がある。また、あるヒトが、その文章を仮に100回読んだとすれば、100通りの「分かる」「理解する」「解釈する」がある。そうした次元の話=フィクションなのである。言い換えるなら、今挙げた2つの例における、100人の100通りの「読み」、および、同一人物の100回の100通りの「読み」における、「分かる」「理解する」「解釈する」という行為の、「ずれ=差異=際=間=あいだ=あわい」に関する、話=フィクションが問題になっている。


ということです。


     *


 違った例を挙げましょう。


*歌をうたう行為や音楽の演奏が、毎回、「異なる=ずれる」という体験にも、よく似ている


と言える気がします。または、


*ある特定の歌や演奏を収録したCDや、映像付きのDVDを100回再生すれば、100回の「異なった=ずれた」「感慨=印象=イメージ」を、「与えてくれる=いだく」という体験にも、よく似ている


と言えるでしょう。なぜなら、


*ヒトは、各人が異なった「生=持続」のなかにいて、しかも、各人が刻々と異なった=変化する「生=持続」の過程にある。


からにほかなりません。簡単に言えば、ヒトにとって、


*人生に、同じ「とき・時・瞬間・あいだ・間」はない。


ということです。難しいことではありません。


*誰もが、今、この時点(※実際には、「移り変わり」として体感される)に、具体的な体験として感じ取ることができる


たぐいの現象(※実際には、お話=1つの考え方=フィクション)なのです。


*生=持続=移り変わり=ずれ=差異


という現象(※実際には、お話=1つの考え方=フィクション)については、歌や音楽以外に、次のような例もあります。


     *


 かつて、印刷術が発明されてはいても、普及していなかった長きにわたる時代に、


*「うつす=移す=写す=映す」


という作業が、いわゆる東洋・西洋を問わず、大きな役割を果たしていました。たとえば、


*話し言葉であれば、口承や口承文学と呼ばれるものとして、説話、先祖の物語、神・神々の物語=神話、預言、経典、法典が、口伝(くちづて)という形で、代々受け継がれてきた。


という「歴史的事実(=フィクション)」があります。ごくふつうのヒトたち=いわゆる庶民が伝えてきたケースもあれば、ホメロスのように、並外れた記憶力の持ち主が壮大な叙事詩を暗唱していたという話もあります。


*口承・口伝の過程において、ずれ=差異が生じて、さまざまなバリエーション=バージョンが存在する結果となった。


という点は、いわゆる文化というものを考える上で看過・無視できません。また、


*書き言葉であれば、口承・口伝されてきたものが文字に変換される=置き換えられるという作業が行われていた。その結果として製作された書き物=文書が、印刷、あるいは、筆写という形で、複製されるようになった。


という「歴史的事実(=フィクション)」があります。具体的には上記の、


*書き物=文書という形態となった説話、先祖の物語、神・神々の物語=神話、預言、経典、法典が、書き写されたり、印刷されてきた。その過程において、ずれ=差異が生じて、さまざまなバリエーション=バージョンが存在する結果となった。


という点も、さきほどと同様に、いわゆる文化というものを考える上で看過・無視できません。


 もう1つ大切な「うつす・移す」という作業があります。「翻訳」です。


*いわゆるお経などの聖典・経典が、いわゆる「原典」からさまざまな言語に「翻訳」された。その「翻訳」がさらに、筆写なり印刷されていった。たとえば、The Bible は、おそらく世界一のベストセラーだと言われている。


ことを思い出しましょう。学生時代に翻訳に興味をもち、


*ジェイムズ・M・ケイン(James M. Cain : 1892-1977)作の「the Postman Always Rings Twice」が『郵便配達はいつもベルを二度鳴らす』 or 『郵便配達はベルを二度鳴らす』という邦題で、田中西二郎、田中小実昌、中田耕治、小鷹信光による訳本として簡単に入手して読めた時期に、読み比べた


ことを思い出しました。


*J・D・サリンジャー(J. D. Salinger:1919-)作の「Nine Stories」も『ナイン・ストーリーズ』『九つの物語』という邦題で複数の翻訳が同時に店頭に並んでいた時期があった


ことも思い出されます。


 翻訳の読み比べは、いい体験になると信じています。2種類以上の訳本のある海外の作品を見つけたら、ぜひ試してみてください。きっと言葉に対する見方が変わるでしょう。つまり、


*複数の訳書の「あいだ・あわい」の「ズレ」を知ることで、「分かる」「理解する」「解釈する」について、再考するきっかけとなるだけでなく、再現・再演・反復・変奏の意味も体感できる


と思います。ちなみに、聖書にも英訳と日本語訳に、複数の翻訳があります。読み比べることで、宗教観が変わるかもしれません。


     *


 話をもどします。かつて、聖典や経典が文字化されていく過程で、


*「異本」=「別本」が複数存在し、それを校合(きょうごう)=校正=検討することにより、「定本」が製作された。


という事実(※実際には、フィクション=物語)は、


*「正しい」「正しくない」/「正と副」/「正と誤」/「正と邪」/「真と偽」/「神と悪魔」/「正統と異端」


といった


*きわめて抽象的な2項対立の物語にかかわる、きわめて具体的な物的証拠をめぐる物語である


と考えられます。つまり、一字一句のレベルでの「ズレ=差異=際=間=ま=あわい」を検討するわけですから、きわめて具体的で緻密な作業にならざるを得ません。とはいえ、宗教の話ですから、最終判断は、「正統と異端」という抽象的かつ主観的な2項対立にしたがうのは言うまでもありません。そういう意味です。


 駄目押しに言うなら、


*「物語の物語」=「物語をめぐる物語」という「再現=模倣=反復」運動は、言葉を扱う以上、避けらない。


ということです。


 また、


*生=持続=移り変わり=ずれ=差異は、ミクロ的視点に立てば、人生に、同じ「とき・時・瞬間・あいだ・間」はないという現象(=フィクション)から生じ、マクロ的視点に立てば、さまざまな文化に共通して見られる、「真と偽」に代表される抽象的な2項対立という現象(=フィクション)として立ち現れている。


と言えそうです。


 以上を前提にして、「経路」というお話=1つの考え方=フィクションについて、述べたいと思います。ここで、きのうの記事から再度、以下に引用させてください。


★で、きのうからずっと考えていることで、特に気になるものとして、


*「歌・音楽=音声の持続」における、「旋律=経路=進行方向=運んでくれるもの=乗物」



*「歌・音楽=音声の持続」における、「再現・再演・模倣=重なる・かぶる・ダブる」および「変奏・編曲・改変=ずれる・ゆがむ・はずれる・ぶれる」


があります。これを、「まつ」でも、考えてみます。


*「まつ・待つ・俟つ・期待する・たのむ・頼む・恃む・当てにする・宙ぶらりんになるorされる=あいだ・間・サスペンスの持続」における、「予測・予見・予想・見込み・見通し・見積もり・先読み・下読み・シミュレーション」と、それに対する「演習・練習・訓練・リハーサル・予習・心積もり・けいこ・用意・準備・備え・ウォーミングアップ・段取り・対策・対応・地ならし・お膳立て・布石・身構え・心構え・心積もり・心得」


みたいなものを、あたまに浮かべています。


     *


 以上が引用ですが、


*「経路」とは、「歌・音楽=音声の持続」における、「旋律=経路=進行方向=運んでくれるもの=乗物」にたとえることができる。


と考えています。上述の


*「広義の言葉=言語」においても、「経路」が「時間=持続」として、刻々と進行方向を決定していく。


点がきわめて注目すべき現象(※実際には、お話=1つの考え方=フィクション)ではないかと、考えています。なお、「経路」については、「3)「経路」にはどのようなものがあるか、について」で、後述します。


 次に進みます。


【※きょうの記事は、かなり長くなるもようです。間借りしているブログサイトの文字数制限に引っかかることは、確実です。いつもより短いですが、内容的に区切りがいいので、ここでいったん、中断させていただきます。この続きは、「あわいあわい・経路・表層(2)」として、本日の次の記事に書きます。ご面倒をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます】


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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