あらわれる・あらわす(1)

星野廉

2020/09/19 08:09 フォローする

 やっぱり見えます。人の顔です。似た人を知っています。何を見ているのかと申しますと、天井の染みなのです。20年以上前から、そこにあります。何度見たか知れません。やっぱり見えます。見ないつもりでも、見てしまいます。


 人面○○については、「1カ月早い、ひな祭り」、「ひとかたならぬお世話になっております」、「人面管から人面壁へ」でも書きました。ご興味のある方だけ、ご一読願います。面倒な方は、もちろん、ご覧になるにはおよびません。このままお読み続けください。


 よく考えれば、テレビも、映画も、写真も、絵も、パソコンのモニターも、「「それ」そのもの」ではないにもかかわらず、「それ」を見てしまうという錯覚を利用したものです。でも、それは意図的にそうなっているのであって、


*不意に、出あってしまう。


という体験をしているわけではありません。


 それなのに、出あってしまう。出あってしまった。出あってしまうだろう。出あってしまうかもしれない。そんなことがあります。ヒトをやっている以上は、あります。何かに何かを見る。これって、ヒトである限り、仕方がないみたいです。ネガティブに=マイナス思考で、とられえることはないのです。


 たとえ、不意をつかれたとしても、


*正々堂々と、出あってしまえばいい


のです。


 そういう体験の恥ずかしさ=後ろめたさ=かっこ悪さを、薄めるためのいい言葉=おまじないの言葉があります。それは、


*あらわれる


です。


*○○が見える or 見えた


の代わりに


*○○があらわれる or あらわれた


と、するだけでいいのです。「見える・見えた」が自分の責任なのかどうかは、誰にも分からないと思いますが、とにかく、


*責任を転嫁する。


それだけで、だいぶ、気が楽になりませんか? 


 このように言葉は、時として、ヒトを助けて=救ってくれます。あの天井の染みのなかに見えるヒトの顔は、あらわられているのだ。そう思うと、気持ちがいくぶん、やわらぎます。


 ところが、同時に、


*ぞくっとくる


のです。こっちに落ち度はない。責任はない。そこまではいいです。じゃあ、なぜ? でも、なぜ?


*なぜ、あらわれるの?


 責任だか何だか分からないものを転嫁=押し付けたのはいいけれど、その「押し付けられたもの」 or 「押し付けたこと」が気になってくるのです。なぜ? どうしてなの? 何が起こって、そうなっているわけ? 


 こういうことは、深く考えることではなさそうです。考えてみても、いいことなど、これっぽっちもないみたいだからです。


     *


 あとでもどりますが、話を変えましょう。


*あらっ!


って、言葉というか感動詞=間投詞がありますね。あれって、どんな時につかいますか? 驚いた時につかうのが一般的だと思われます。


*あれっ! ありゃ! ありぃー! あっ! あー! あ! あ"


なんてバリエーションもあります。


 とにかく、「あ」というのは、ヒトにとってきわめて基本的な発声みたいです。あらゆる言語、あらゆる民族、あらゆる個人にとってなんていう大風呂敷は広げませんが、あっとうてきに、「あ」が優勢であることは確かな気がします。「あいうえお表」も、複数のヨーロッパの言語の「アルファベット」も、「あ」か「あ」の兄弟姉妹が先頭に来ますね。


 対照的なのが、完全に口を閉じる「む」=「 m 」や、少し口を開け気味にして発音する「ん」=「 n 」です。


*あむ=「 am 」


*あん=「 an 」


と発音してみてください。


 個人的な感想ですが、気が休まります。呼吸法でも、これに似たものがありますね。「あ」をいくぶん長めに発音すると、さらに気が落ち着く感じがします。どうですか? そんな気がしませんか? 何をやっているのか、あるいは、何を言いたいのかと申しますと、


*「言葉=声=音声」にはヒトのこころに働きかける力=パワーがある。


という、いつかどこかで聞いたような=手垢の付いた=紋切り型=ステレオタイプ化された考え方です。でも、言えてませんか? そうだなあ、と自分は納得しています。


 で、ここで、めちゃくちゃなこじつけをさせてください。


*声を出す(※この時点で何かを見ている)  ⇒  自分以外のもの(=見てしまった対象)に働きかけようとする  =  何かに出あうことを期待するor予想するor心構えをする(=実際には、既に見てしまった対象を頭の中で事後処理する)  =  こころを静める  ⇒  何かに出あってしまう


というメカニズム=仕組みがあるのではないでしょうか。


 長々と書きましたが、「ほとんど一瞬の出来事」ですよ。一方、上記のプロセスの順序をほぼ逆にして、


*何かに出あってしまう  ⇒  その「何か=自分以外のもの」に働きかけようとする  =  その「何か=自分以外のもの」に出あうことを期待していたor予想していたと自分に言い聞かす  =  ショックをやわらげる  ⇒  声を出す


というメカニズム=仕組みがあるのではないでしょうか。


 これも、瞬間的な出来事です。こころを静めたり、ショックをやわらげるのですから、たいていは、「出あって困るもの」に出あうのだと思われます。でも、「たった1人で出あう」よりは、ましなのではないでしょうか。だから、声を出す=何かを呼ぶ=何かに働きかけようとする=何かを巻き込もうとする=何かを巻き添えにしようとする。


 もっとも、「出あったもの」が「出あって困るもの」であるかどうかは、事後=出あったあとの話です。ただし、「出あい」の現場では、その出来事を処理する余裕はありません。この問題は、ここでは考えないことにしましょう。ややこしくなりそう、だからです。後日に回します。今回は、なるべく簡単な話をしましょう。


     *


 で、話をもどします。


 うちの天井の染みの話です。染みにヒトの顔に見えるものを目にした場合には、自分は、


*あらっ、こんにちは。


とか、


*あれっ、こんばんは。


とか口に出すようにしています。おまじないですね。


 小心者なので、そうやって自分をごまかして=だましているのです。さもなきゃ、不気味で仕方ないんです。何だか分からないものですけど、いちおう、挨拶をしておけば、何とかなるんじゃないか。臆病のなかに、そんな小ズルさ=姑息(こそく)さも、ちらちらと見え隠れしていますね。


 みなさん、以上述べたことや、それに似たようなことを、日頃経験していらっしゃいませんか? 別に、天井やトイレの壁の染みではなくてもかまいません。ちょっと飛躍して、お人形さんでも、小さなキャラクターグッズでも同じです。ミッキー、おはよう! とか、プーさん、きょうは元気かなあ、とか、モリゾーちゃん、ずいぶん色が褪せてきたねーとか、声を掛けてあげたり、しません? 声は掛けないけれど、お気に入りの座布団や、帽子や、愛車のボディにそっと手をやったり、撫でる、なんていう仕草をすることがありませんか? 


 または、大好きなタレントがテレビに映った時に、思わず、こころのなかで声にならない声を発していることはないでしょうか? 極端な言い方になりますが、もしも、そのタレントさんに、直接会って長く話をしたことがないとか、テレビを通してしか知らない間柄であれば、それって、立派な「天井の染みのなかのヒトの顔」ではないでしょうか。だって、映像=イメージでしか見たことがないんです。そうそう、英語に、


*idol =アイドル=偶像・偶像神・邪神(※偽りの神)・崇拝の対象


という便利な言葉があります。


 面識のない有名人やタレントというのは、広い意味で、みな偶像(=アイドル)と言えそうです。特に、現在は、偶像(※広い意味でとってください)たちが、テレビの映像、新聞や雑誌や巨大広告の写真、ケータイを含むネット空間での映像としてあふれています。それだけに、親近感が大きくなりすぎて、つい、現実の人物を見ているとか、場合によっては、知り合いの間柄にあるとか、付き合っているような気持ちになっているヒトも多いと思われます。


     *


 ここで、このブログでよくつかうツールを、紹介させてください。以下に挙げる3語は、別個のものであるというより、森羅万象(=「ありとあらゆる物、事、現象)を対象にした「切り口」=「切り分け方」みたいなものです。


1)「表象」 : 「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」という代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。


2)「トリトメのない記号=まぼろし」 or 「記号」 : 「そっくりなものがずらりと並んでいる」 and 「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」 and 「お母さんのコピーとして生まれたものの、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。森羅万象が「記号」になり得る。


3)「ニュートラルな信号」 or 「匿名的な信号」 or 「信号」 : 「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。


 以上の3つは、あらゆるものについてこじつける時につかいますので、トイレの壁の染みも、タレントやアイドルも、キャラクターやキャラクターグッズも、この3つを切り口に説明する=こじつけることが可能です。


 たとえば、○○というタレントは、


1)ある人にとっては、神様の表象であったり、


2)ある時に芸能界に登場して、しばらく活躍し、いつか消えていくという意味では「記号」であり、


3)ある時期には「△△」というテレビドラマの□□ちゃん、同時に××というブランドのイメージキャラクター、また、政府主催のあるキャンペーンでは「**撲滅」のメッセージを送る役割を果たす「信号」だったり


するわけです。


*わたしの○○ちゃんと、トイレの壁の染みをいっしょにしないでちょうだい!


と不快なお気持ちをいだいた方がいらっしゃれば、謝ります。ごめんなさい。別に、批判をしているとか、ケチをつけているとか、悪気はありませんので、許してください。


     *


 さて、


*相貌的知覚


という言葉があるそうです。心理学のうちでも、発達心理学とかいう分野でよくつかわれる用語で、発達途上 or 未発達な段階にいる「幼児」や、「未開人」(※何と差別的な言葉なのでしょう)が、いろいろな事物に、ヒト・動物の顔や表情や動作を知覚する現象を指しているとのことです。大きな本屋さんで、この手の分野の教科書や辞典の記述を読んでみると、今述べたのとだいたい同じようなことが書かれています。


 個人的に、変だなあ、と思ったのが、


*発達途上 or 未発達な段階にいる「幼児」や、「未開人」


に、話が限定されていることです。また、「原始的」「未分化」という言葉も、頻繁に用いられています。この現象って、「オトナ」や非「未開人」でも、それこそ毎日経験していることじゃないでしょうか。ただ、ヒト一般に共通した、


*比喩=たとえ=こじつけ


くらいの言葉で片付ければいいのに、と思います。


勘違い=思い込みをもとに、学者たちが大騒動をやっているような気もします。で、このブログは、学問ではなく、楽問をして遊んでいる場なので、「相貌的知覚」という学問的な定義は無視して、ヒトであれば誰もが(※視覚に著しい障害をもった方は別です。関係者の方々で、不快なお気持ちをいだかれた向きがありましたら、お詫び申し上げます)、


*トイレの壁や、天井の染みなどに、「何か」を見る


とか、


*トイレの壁や、天井の染みなどに、「何か」があらわれる


という現象について話を進めたいと思います。つまり、


*「幼児」+「未開人」 vs. 「オトナ」+非「未開人」


という嘘くさい=子供だまし的=幼稚な(※ああ、こうやって無意識にコドモを差別してしまいます、反省)区別はしません。


 で、思うのですが、どうやら、


*ヒトには、森羅万象をヒトにたとえて知覚する習性がある。


らしいのです。


     *


 ここで、でっかい話をしましょう。


*天体


という言葉がありますね。勘ですが、あれは、英語で言う


*heavenly bodies  = celestial bodies (※ bodies は body の複数形ですね)


を訳したものではないでしょうか。明治以降、特に学問の分野で、さまざまな専門用語が、漢語にある語をそのまま拝借して新しい意味を担わせたり、漢字を組み合わせて新しい言葉をつくるという形で、日本語に取り入れられました。そして、現在にまで至っています。


 もっとも、第2次世界大戦後は、ヨーロッパの言語である原語の発音やスペリングを、カタカナ化する方法が、流行=一般化したもようです。


*body


の語源は、「胴・胸」で、もっと古くは「樽(たる)」だったと辞書に書いてあります。現在では、「身体、からだ、肉体」のほかに、何かの「主要な部分・本体」なんて意味もあります。できれば、辞書でちょっと覗いてみてください。意外な意味もありますよ。そういえば、


*「スタンド・バイ・ミー」


がありますよね。あの映画の原題は「Stand by Me」で、同じタイトルの歌が流れます。原作はスティーヴン・キングの「The Body」という中編小説で、そのタイトルの意味を直訳すると「死体」ということになります。body は、英語をつかうさいには、ちょっと注意を要する語です。


 たとえば、「彼の姿を庭で見かけた」という意味のつもりで「 I saw his body in the yard. 」と誰かに言ったとすれば、相手はびっくりするでしょう。「庭にて彼の死体発見」と取られる可能性が高いです。「 I saw him in the yard. 」なら、問題はありません。また、「ちらりと彼を見かけた」と言いたい時に、「 part of his body」 というフレーズをつかうのもヤバいです。「死体の一部」という意味に取られかねません。


 で、もしも、天体という言葉が heavenly bodies = celestial bodies を訳したものであれば、ヨーロッパの「学問=広義のサイエンス」の一部を成していた、錬金術の発想に基づくものだと思われます。


 詳しいことは知りませんが、錬金術は昔々のヨーロッパでは、キリスト教的な考え方とは対立するとはいっても、「ほぼれっきとした学問」であり、科学、とりわけ化学の発達を促したと言われています。で、錬金術では、ミクロコスモス(=小宇宙)は人間や人間社会、いわゆる宇宙はマクロコスモス(=大宇宙)と考えられていたようです。


 ヒトを宇宙とダブらせて=重ねて=かぶせて考える。これは、ヒトを宇宙にたとえる、逆に言えば、宇宙をヒトにたとえる、ということです。宇宙というでっかいレベルから、ちっちゃなレベルに話をおとしましょう。


     *


 ヒトが2人集まると、最小の集団になります。相棒同士とか、コンビです。そのさいに、「この人は、わたしの片腕です」みたいな言い方をする場合があります。「手と足になって働いてくれている」「手助けをしてくれている」「アッシーです(※もう、死語ですけど)」などという表現もありますね。


 もう少しヒトが増えてグループをつくると、「うちの社長のブレーンだ」、「暴走族の頭(※あたま=かしら)」、「この部署は、われわれの組織の心臓部にあたる」、「前の会社の遺伝子を受け継いでいる」、「うちの部の面(※つら=顔)汚しだ」、「この分野には足を踏み入れたばかりです」、「部の中で頭角をあわわす」……のように、ヒトのからだやその一部を、コンビや集団について語るさいに、たとえて用いることはよくあります。


 ヒトの集まりだけでなく、まわりのさまざまな物や事や現象に、ヒトの身体をダブらせて=重ねて=かぶせるという言葉のつかい方は、あらゆる言語に共通しているのではないでしょうか。1例を挙げれば、さきほどの「暴走族の頭(※あたま=かしら)」のように、トップのヒトを captain =キャプテンと英語で言いますが、cap は帽子のキャップと同じで、「頭」に由来します。フタや覆いを意味するキャップも同じですね。


 無生物の例を挙げてみます。日本列島のおへそ。台風の目。テーブルの脚。椅子の背。車体(※ボディとも言いますね)。船体。路肩。関東と関西を結ぶ大動脈。広い口の瓶。パンの耳。ドアの取っ手。山の中腹。建物の骨組み。論文の骨子。本の背。船首。この催しの目玉。日本経済のアキレス腱……。


     *


 今回のまとめをさせてください。


*ヒトは、何かに何かを見る。


*ヒトは、何かに何かがあらわれているとも考える。


*ヒトは、不意に、「何かを見た時に」=「何かがあらわれた時に」、声を発することによって、その「何か」を手なずけようとし、同時に、自分の気持ちを安定させようとする。


*ヒトの知覚する森羅万象を、このブログでは「表象」「記号」「信号」という切り口で説明することがある。


*ヒトは、ヒト以外の物や事や現象に、ヒトをダブらせて=重ねて=かぶせて考える習性がある。その時には、ヒトの視覚と視覚的イメージ、そして、言語の使用が大きな役割を果たす。


 以上です。


 今回から、数回にわたって、「あらわれる・あらわす」をタイトル、および「キーワード」にしながら、ヒトのいろいろな行為について、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しいお勉強ごっこ」をしていくつもりです。


 ところで、あなたの身近に、人面○○みたいなものはありませんか? もし、あれば、


*それが、実際には何で、何に見えるのか


を、よーく観察しておいてください。そして、時間の余裕があれば、それは「見える」のか、それとも「あらわれている」のか、ぜひ考えてみてください。それが、次回のテーマになる予定です。


 では、また。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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