書く・書ける(1)

げんすけ

2020/09/13 07:56


 とにかく、すごい剣幕で怒っていました。ケータイ小説について、です。何かの雑誌で読んだのです。


 要約しますと、次のようなことが書いてありました。「ろくに小説を読んだこともないような者たちが、クズみたいな文章で、クズのような内容の小説を携帯電話を用いて書いている。特に、頭に来たのは、これまで小説なんて全然読んだことがない、などとのたまわっていたことである」。だいたい、以上のような意味の批判でした。


 既存の作家なのか、編集者なのか、文芸評論家と呼ばれる人なのか、覚えていません。これに似た意見を、いろいろな媒体でいくつも見聞きしたような気がします。こういうのは、批判でも非難でも見解でもなく。悪態=罵倒と申します。こうした類のものは、書いてある内容を考えてはいけません。中身に意味はありません。悪態=罵倒とは、感情の発露=表れ=現れです。よく、企業のクレーム係のヒトたちが、言いますよね。別に内容は聞かなくてもいいから、とにかく、まず、相手にしゃべらせろ。それで90%は解決だ。なんて。


 それとほぼ同じです。悪態=罵倒に対しては、その内容について本気で考えるのではなく、その裏=根底にある「感情」だけを読みとればいいのです。で、そういう不愉快なことは忘れればいいのです。ケータイ小説に対する悪態=罵倒の数々を分類し、フィクション化し、個人的に「感情語」に翻訳すると、以下のようになります。


     *


*A「嫉妬」 = 本来なら「感情語」で、「くやしーい」とか、「ぎゃあー」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。


「こんなに汗水を流して、血の出るような努力を重ねて、日本文学を継承するという崇高なる使命感をもって、たくさんお勉強をしてきた、このわたしの小説が売れなくて、何であんな文学的素養のない者たちの駄文が売れるのでしょうか。危険です。文学は危機に瀕しているのです」


 このような具合ですが、みじめったらしいですね。


     *


*B「恐怖」 = 本来なら「感情語」で、「やべーよ」とか、「お金がない」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。


「このままじゃ、困る。現在、出版界は、危機に直面している。敵はネット、つまり、インターネットとケータイにあることは確かだ。それにしても、われわれの劣勢は、どうして起こっているのか? われわれのどこが悪いというのだ? これでも、○○大出だぜ。おら、エリートだど。さっぱり分からない。せっかく、高いカネを払って、大手の広告代理店に請け負わせて、HPを作成させたり、ネットの特性を利用したマーケティングとやらを各種試みさせているものの、成果は芳しくない。発想の転換、パラダイムシフトが求められているのかもしれない。ビジネス上有利だと割り切れば、あいつらを利用しない手もないではないか。ちょっと、擦り寄ってみるか」


 という感じですが、いかにも往生際が悪そうですね。


     *


*C「迷い、または動揺」 = 本来なら「感情語」で、「どうしたらよかんべ」とか、「!?」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。


「もう食っていけねーよー。文芸誌からの原稿の依頼は、どんどん減っている。講演会やトークショーへのお呼びもない。非文芸誌からも、声がかからない。このままじゃ、マジで飢え死にするぜ。この間みたいに、変装して、深夜のコンビニで働かせてもらおうか? それにしても、○○の野郎は、あちこちのウェブサイトに登場しているけど、どういうコネがあるんだ。性格悪いから、聞いても教えてくんないだろうなあ。いっそ、「ケータイ小説文学論」つーのを、酒でも飲みながら書いて、一山当ててみようか」


 うーんと思わずうなってしまうほど切実そうですね。


     *


*D「思考停止」 = 本来なら「感情語」で、「なんとか言ってやってくださいよ、○○先生」(※たいてい、テレビのコメンテーターの名前が入ります)とか、「えっと、あれ何だっけ?」(※何かを思い出そうとしています)の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、いや、この場合には、「知性や考える力」はないのですが、次のように長く語ります。評論家とか、事情通とか、識者と呼ばれる人たちの言葉の受け売りや、パッチワークつまり継ぎ合わせになります。したがって、論旨は支離滅裂になります。


「ケータイは国語を乱します。ケータイは青少年の健全な育成の邪魔になります。ケータイ小説はクズです。ケータイ小説に文学性は皆無です。ケータイがらみの未成年を犠牲者とした事件が激増しています。国家主導で未成年のネット規制を実施すべきです。出会い系サイトなんて、口にするのも汚らわしいです。ケータイリテラシーを学校で学ばせましょう。未成年のフィルタリングサービスを義務化すべきです。未成年者を有害情報から保護しましょう。ケータイを使用すると電磁波を浴びることになります。ケータイ小説って、軽薄な響きがありますよね。ところで、モバゲーって何ですか、○○先生? ついでにネトゲ廃人とかいうものについてもご教示願います、○○先生」


 意味や実体を知らないというか、考えたこともない言葉をつなぎ合わせてわめているという感じがしますね。


     *


*E「八つ当たり」 = 本来なら「感情語」で、「何だかしんないけど、むかつくなあ」とか、「こんちくしょう」の一言で済むのに、なまじっか痴性と血の気の多さと性格の悪さとがわざわいして、次のように長く語ります。小さな飲み屋なんかで、ママを相手にぼやく、酔っ払いのセリフが典型です。


「何がケータイ小説だ。きょうは、会社の帰りにパチンコで一万損したし、今月の営業成績は最下位まちがいなさそうだし、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり! 昨日の夜、公園でジョギングしてたら犬のうんちは踏むし、誰が置いたかわかんないバケツを蹴飛ばしてつま先を怪我するし、ふんだりけったりじゃねーか、何がケータイ小説だ。外回りさぼって、ネットカフェで2ch入ってXBOXの悪口を言ったら、十人くらいに囲まれてよってたかっていじめられるし、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり! ネットカフェを出たら、家からケータイに通話が入って、宅配便ででかい荷物が二個も届いたっておふくろが言うし、よく考えたら、先週、酔った勢いで、夜中についテレビ通販をやって歩行器を買ってしまって、そん時すごくセクシーな声の女の人が、ちょっと早いですけど彼女へのクリスマスプレゼントにもう一台なんてどうですか、なんて言われて、ああいいねえ、なんて返事をしたっけ。おれ、彼女なんていねーのに、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり!」


 これは、とりあえず酔いがさめるのを待つしかないようですね。


 以上です。


     *


 ちなみに、個人的には、


*ケータイ使用に対する、国家によるさまざな規制には反対


です。詳しいことは、「なぜ、ケータイが」と「ケータイ依存症と唇」に書いてありますので、ご興味のある方は、ぜひ、ご一読ください。


 さて、ここではケータイそのものではなく、


*ケータイ小説について


お話ししたいと思っています。


 結論から申しますと、ケータイ小説はクズだとは思っていません。新しい形態(ケータイ)の小説だと考えております。また、ケータイ小説の書き手が本(※特に既存の小説)を読んでいないと発言したとしても、それは、ご本人が気づいていらっしゃらないだけで、実際には、本(※特に既存の小説)以外から、たくさんの言葉の切れ端を


*「読む」


という経験を積んでいるはずです。だからこそ、


*「書ける」


のです。逆に言えば、


*読んでいなければ書けません。


 これって、


*文学理論


的に申しますと、きわめて「重要な原理=当たり前のこと」なのであります。同時に、こんな理論なんて、どーでもいい、ことでもあります。


 また、小説を書くのに不可欠な、語り=ストーリーテリング=展開の仕方、読者を飽きさせないための小道具、読みやすさのテクニック、といったさまざまなスキルやパーツは、別に、既存の作家、まして古典的文学作品を読まなくても、身につけることができます。


 テレビドラマ、映画、CM、雑誌の記事、知り合いとの会話や雑談や馬鹿話、身近な体験、夢でみたこと……といったさまざまなものやことや現象が発している「トリトメのない記号=まぼろし」という形で、あるいは「ニュートラルな信号」という形で、日々体感=体験=体得しているからです。


 こうなると、広い意味での創作のもと=素材となる「体験」においても、「先行する作品」においても、小説、詩、エッセイ、絵画、彫塑、音楽、演劇、映画、写真……といったジャンル分けは意味をなさないみたいです。すべてが「トリトメのない記号=まぼろし」とか「ニュートラルな信号」なんです。


 ある映画を見ていて、俳句が生まれたり、または小説を書くきっかけになったりする。ある俳句からインスピレーションを得て楽曲がつくられる。こっそり深夜にAVを見た体験から現代詩が書かれる。よく見聞きする話じゃありませんか。


「トリトメのない記号=まぼろし」とか「ニュートラルな信号」が何かについては、ぜんぜん気にすることはありません。もし、ご興味がありましたら、「かく・かける(1)」の真ん中あたりに、このブログでよく使うツール=玩具の説明が1)2)3)と3ケありますので、そこだけを斜め読み願います。


 面倒な方は、もちろん、お読みになるにはおよびません。「トリトメのない記号=まぼろし」も「ニュートラルな信号」も、とりあえず「何でもありー」の一種だと、ご理解いただいて差し支えありません。


     *


 さて、上述の、


*読んでいなければ書けません。


については、「かく・かける(6)」でも触れていたので以下に引用します。


     *


 よく考えてみてください。みなさんは、俳句を詠む場合、まずどうなさいますか? 今まで俳句を詠んだことのない人が、俳句を詠もうとするとき、5・7・5という規則だけをあたまに入れて、いきなり、森羅万象に目を向けるなんてことをするでしょうか? そのまえに、既存の=先行する俳句を読むだろうと思います。


*俳句は、いきなり詠むのではなく、まず読む。


のです。


 和歌であっても、漢詩であっても、ヨーロッパの言語の定型詩でも、状況は同じだと思います。さらに言うなら、韻文だけでなく散文でも同じことが言えるような気がします。たとえば、基本的に何を書いてもいい、


*小説は、小説を読んでから書ける(=掛ける=賭ける)。


のです。


 話を一気に飛躍させますが、ヒトの赤ちゃんは、いきなり言葉をしゃべりません。


*赤ん坊は、話し言葉を聞いてから話すようになる。


のです。


     *


 以上が引用です。


 こういうのは、


 *学ぶは「真似る=まねぶ」


とも重なりますね。


 大切なことなので駄目押しで申しあげますが、比較的自由度が高い=わけわかんないとされる現代詩が、いきなり書かれるわけがありません。何を書いてもいいとよく言われる小説やエッセイが、とつぜんあたまに浮かんで書けるなんていうのも、眉唾物です。


 創作のきっかけにはジャンルは無関係とは言え、創作するさいにあるジャンルを選んだからには、先行するジャンルのお手本を見聞きしているはずだと想像できます。


「よーし、現代詩or小説orエッセイさまを書いてやるのだ」という決意表明というか所信表明みたいなものを、たとえ口に出さなくても、あるいは他人に話さなくても、自分のなかで念じなければ、そのジャンルの作品は生まれないということです。もちろん、上手か下手かとか完成度は別問題ですよ。そもそも評価なんてうさんくさくていいかげんなものですけど。


 ジャンルという制度=しきたりが、膠着=マンネリ=非活性状態にあることも確かです。その点、noteでのハッシュタグの多用は頼もしいですね。「小説」、「エッセイ」、「詩」というタグが同居する記事も珍しくありません(さすがに「俳句」と「短歌」の同居はないみたいですが)。こういう風穴を開けるアナーキー=穴あきーは大好きです。私自身はタグのタグいの使用には抑制的ですけど、ただ面倒なだけで別にポリシーとかはありません。


 あ、一つありました。ポリシーというほどのものではなく、むしろルナシー( LUNA SEA じゃなくて lunacy=愚行・きち〇い沙汰=正気のサタデーナイトのほう)なんですけど、記事に「哲学」というタグだけはつけません。世の中の大半のヒトが考えている哲学と私のやっていることは、どうやら違うみたいだからです。誤配を避けるためです。そんだけ~。


     *


 で、話をもどしますと、


*ケータイ小説の未来


というか、今後ですけど、たぶん、このまま続くと思います。テレビが登場したとき、映画やラジオや紙芝居がなくなると、嬉しそうに言う、意地の悪い=性格の悪い=根性の悪い評論家たちがいたらしいですが、今も映画とラジオと紙芝居はありますよね。それと同じです。


 いわゆる純文学も、いわゆるエンターテインメント小説も、いわゆるライトノベルも、いわゆるBLも、いわゆるケータイ小説も、いわゆるネット小説も、シェアの増減=変化はあるでしょうが、それなりに共存していくと予想=妄想しております。ステゴザウルスや、ドードー鳥や、ベータマックスや、おニャン子クラブのように消えることはない、と信じています。むしろ、さらにまた、


*新しい形態(ケータイ)小説


が現れるに決まっています。それが、ヒトのたくましさ=厚かましさ=図々しさ=頼もしさです。


 では、この続きは次回に。



※この記事と別の記事(どれなのか忘れました)を継ぎ接ぎ=パッチワークして書いた記事に、「空前の「純文学」ブーム」があります。ひと味違ったものに仕上げてありますので、ご興味のある方はご賞味ください。


※以上の文章は、09.05.22の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。



#エッセイ

#言葉

 

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