かりる・かる -2-

星野廉

2020/10/28 08:02


「借りる」の反対語。貸す、返す、戻す、およびそれぞれの語の同義語を参照すればいい。類語まで調べればけっこうな数になるだろう。「借りる」の同義語も、辞書を引くかネット検索をすればぞくぞく出てくる。類語まで調べれば切りなし。


「借りる」に揺さぶりをかけてみよう。日本語である「借りる」を揺さぶり、ずらすことで、そのイメージを攪乱する。たとえば、「借りる」を手話辞典や手話動画で調べてみる。和英、和仏、和独などの辞書で調べてみるのもいい。その際には語義と語源の項を読む。共通点はあるだろうが、間違っても普遍なんて目指さないこと。読むと言うよりも、むしろ眺める、模様として見る。「借りる」とはなんぞや、なんて具合に。抽象的で(つまり不正確で)、いかにも安直。日本語である「借りる」に普遍などあるわけがない。


 日本語である「借りる」を見てみよう。仮、借。これだけでも、そのイメージの広がりに驚く。かり、かりに、かりる、かる。これを漢字にすれば分かるが、こんな豊穣なイメージの塊が抽象化できるわけがない。収拾がつかなくなるのが落ちだろう。収拾がつかない自分をだまし、かりに抽象化して痩せ細ったイメージが出てきたとして、それが普遍であるわけがない。不毛の多毛作に陥るだけ。


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 日本語である「わかる」を、ずらし、揺さぶりをかける。「わかるという枠」、「わかるはわからない」、「わかるはプロセス」、「はかる -1-」。手話や英語の「わかる」に相当する単語を持ってくる。日本語の似た言葉を持ってくる。日本語の「わかる」に揺さぶりをかけるため、普遍を指向したり思考したりするためではなく。読むのではなく、歌う。「わかる」もどきを連れてきて並べて、お経のように唱える、詩吟のように詠じる、歌詞のように節をつけて歌う。読むのではなく、詠む、たわむれる、あそぶ。「わかる」を抽象したところで「わかる」ものか。わかるはわからない。


※いまでは、あんな威勢のいいことをする体力も気力もない。残された時間も少なそうだし。たわごとを文供養してお茶を濁すのが身の丈に合った処し方なのかもしれない。


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 あらゆる生き物は借り物。生まれた時から借り物、そもそも親が借り物、もちろん、はらからも借り物。かりはしぬときにかえす、そしてかえる。借りは死ぬ時に返す、帰す、還す、反す、孵す、そして返る、帰る、反る、孵る、替える、変える、代える、還る。らっきょうの皮。マトリョーシカ。


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 あらゆる作品は借り物。作品である以上、そのジャンルや流派で先行する作品を真似る、借りる。それが最低条件。その上でさらに何かを真似る、何かから学ぶ、何かから借りる。ジャンルがなければ、そして作者がいなければ、あるいは「作者不明」という言葉が添えられていなければ、ただの物(下手をすればがらくたとかゴミ)、たわごと(素材が言葉であれば)、雑音(素材が音であれば)。逆に、ジャンルというお墨付きがあり、作者がいて、あるいは「作者不明」という言葉や伝説があれば、何でも作品になる。結果オーライ。アート、文芸、ミュージック、芸の道、学問、宗教、すべてが結果オーライ。きわめて、いいかげん、かげんよし。いい湯だな♬


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 あらゆる作品は借り物。引用、複製、コピー、偽物、模造、剽窃、盗作、翻訳、翻案、パロディ、オマージュ、ミニチュア、蛙の子は蛙、借りてくれば何とでも呼べるのが言葉。そもそも借りる対象が借り物。借りる借りる借りる借りる借りる……。大いなる借りるの連鎖。債務超過。借りすぎに注意!


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 引用。誰々が何と言ったかはどうでもいい。自分で考えるのが楽しい。本を買う必要もない。ネット検索をする手間も省ける。


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 誰々が何と言ったかはどうでもいい。名の知れた人物やある分野で大物とされる人物の名前を文章の中で挙げれば、その文章は格好がつく。人は固有名詞の放つ光に弱い。その固有名詞が挙がっている文章さえ、光に満ちているように見える。固有名詞の光はその周辺の言葉さえ輝かせることがある。虎の威を借りる狐。債務超過。借りすぎに注意!


 固有名詞を列挙すればするほど、その文章はもっともらしく見える。つまり賢く見えるし美しく見えるしすごく見える。それで金儲けができることもある。結局はカネの問題に落ち着く。昔から行われてきた風習であり、何の不思議もない。人においてはよくあること。


 固有名詞にちょっとした解説を付け添えれば、その道の権威に見える。解説付きの固有名詞を集めてデパートを作れば、おおいに尊敬される。日銭程度のお金儲けもできる。時間と労力を費やした対価なのだから堂々ともらえばいい。おめでたい。窃盗とは言わないが詐欺にも言い分はある。それはそれで結構。羨ましい。面の皮を分けてほしい。債務超過。借りすぎに注意!


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 デパート(百貨店)や標本箱やコレクションは楽しい。否定はしない。借り物で飾り立てる。自分の物のように飾り立てる。借り物だと毛にも思わないそして思わせない堂々とした態度が大切。


 引用だって明記しましたよね。ちゃんと引用表示にしてありますけど、何か? きょうび引用なしで物が書けるわけがないじゃん。みんなやってるんだから大丈夫。ヤミ米食べずに死ねとでもおっしゃるわけ? 出典明記、情報源明記、問題なし。借りただけですもの、のーぷろぶれむ。審査なしで即日融資じゃなくて貸し出し可能でおま。ついでに、私が借りたってことも、あなたが忘れてくれるとうれしいな。気づかないでくれるともっとうれしかったりして。やってるうちにわけがわかんなくなるのよね。借りる、ゆえに我あり、気にしない気にしない。引用って空気を吸うのと同じで、誰もがあえて意識しないでやってるのよ。どさくさに紛れて借りまくっているって感じ? 借りてるのに借りてない振りするのもうまくなったし。てか、借りまくっているうちに感覚が麻痺するのは人として当たり前。それが人の道。国だって大借金、話がだいぶずれたかしら。とにかく借りすぎ・多重債務にご注意。


 大英博物館は盗品を陳列した館だなどという戯言に惑わされてはならない。収蔵品は世界各地から避難させ保護したものという理屈。避難させ保護しなかったものについては何も言わない。


 借りる。持ってくる。盗む。「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」(ジャイアニズム出典Wikipedia、どや!)


 自分の物。人のもの。オリジナル。著作権。見方と立場と利害と時代と場所によって言葉は変わる。紛らわしい。天から授かるまで出てきて、ややこしい。ギフト。天才。天賦。お告げ、ご託宣、神託、投資信託、予言、預言、余弦、コサイン、タンジェント。誰の言葉か分からない。カネ(貨幣、表象、言葉、モノ、サービス)は世間の回り物。責任者不在。致し方なし。結果オーライ。だからあなたもがんばって。


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 何かを論じている文章の思想や意味や意図に至ろうという抽象と詭弁つまりレトリックを指向するのではなく、言葉そのものというレトリックにこだわるという方法で仕事をした人として豊崎光一を思い出します。他に同様の仕事をした人がいるかどうかは知りません。たまたま思い出すだけの話です。


 たとえばミシェル・フーコーとジャック・デリダの著作にある言葉をまるで詩や小説などの文学作品を相手にするように――論を読むというよりもむしろ歌や詩を詠む手つきで――、丹念にその言葉の修辞(特に比喩)に注目しながら批評を展開したのです(ミシェル・フーコーは『砂の顔』で、そしてジャック・デリダについては『余白とその余白または幹のない接木』「アナグラムと散種」で )。どんな分野に関する論文や著作でも、それが言葉で書かれているならその修辞に注目して批評できます。


 いま言葉と書きましたが、それに数式や化学式なども含めていいと思うものの(数学は言語だというようなレトリックがありますね)、数学や理系の学問にきわめて弱い者としては「含めていいと思う」くらいの言い方つまりレトリックでお茶を濁すしかありません。「数式というレトリック」や「比喩としての数式」なんてわくわくします。


 そうしたフレーズをタイトルにした、あるいはその種のことを論じている文章を読んでみたい気持ちがあるのです。グーグルで検索してみたところ、とうてい読めないような文章が続々ヒットし強烈なめまいに襲われたので諦めました。頭がついて行かないのです。魅力的なテーマであることは確かであり変わりませんけど。


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 借り物は仮象とも言える。借と仮は、はらから、きょうだい。かりのもの、仮のもの、借りのもの。仮面の下に顔を想定するのは致し方ない。想定するなと言うのが無理。仮象、現象、表象、事象、本質……。どこかから借りてきた概念ごっこや普遍ごっこに興味なし。母語は日本語。これで十分。機微まで分かるほどに熟達した外国語なし。翻訳(者)は裏切り(者)。裏切りが悪いとは言えないが。


 仮象。対応物を欠いた、うつろな記号。ただし仮象から連想される事物や有様や出来事はある。仮象と特定の事物や有様や出来事との間に何らかの対応や関係性があるという考え方は魅力的であり、その魅力に抗うのはきわめて難しい。かりに何らかの対応や可能性があるとするならまだ誠実であり正確な物の見方だろう。かりにと保留する態度が正確さへの鍵となる。いま書いたセンテンスもかりにを前提としている、と断らなければならない。やれやれ面倒なこと。


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「剽窃(ひょうせつ)から遠く離れて」という記事を書いたことがあります。短いものなのですが、この記事を書くのには苦労しました。よく覚えていないのですが、二、三時間はかかったと思います。





 何に時間がかかったのかと言いますと、夏目漱石の『吾輩は猫である』、芥川龍之介の『杜子春』、紫式部の『源氏物語』、中原中也の『感情喪失時代』、さらにはおまけである、ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarme)の「海のそよ風(Brise maraine)」から引用するのに意外と手間取ったからなのです。


 間違いがあっては申し訳ないので(うそだろ)、きちんと原文を確かめながら、一字一句丹念に写し取ったのです(ほんまかいな)。とくに源氏物語から引用箇所を探すのには苦労しました。あいにく書棚にも押し入れに積んでいるひしゃげた段ボール箱にも、源氏物語の原文はありません。ああ青空文庫があるわ。思いついて、さっそくサイトを覗いてみたところ、青空文庫には原文がないのです。困った困った。ストレスのあまりにトイレに行くはめになりました。


 で、居間に戻りどうしようと考えていて、ひょっとしてと思い立ち検索してみた結果、原文と現代語訳が対訳になっているサイトを見つけたのです。それからが大変です。古文が大の苦手なので、文字を追うだけで泣きそうになり、嫌だ嫌だと声に出しながら、原文を眺めていました。やる気がない作業は能率が上がらず時間がかかるものです。


 何とか記事はできあがりましたが、引用というのは大変な作業だと痛感したと同時に、やっぱり引用はできるだけ控えようという思いを新たにしました。じつのところ、自分の書いた文章や記事からはさかんに引用しますが、ひとさまの文章からある部分を拝借することはめったにしません。とにかく苦手なのです。アホにもアホの芸風というか流儀はあるみたいですね。


 ところで「剽窃から遠く離れる」なんて可能なのでしょうか。「剽窃から遠く離れる」に限らず、レトリックを真に受けると馬鹿を見ますね。この場合のレトリックとはあらゆる言葉と語句と文のことです。言説、ディスクール、テキスト、テクスト、エクリチュール、文言、文句、発言、書かれたもの、話されたこと、何と呼んでもかまいません。いまみなさんの目の前にある記事の駄文はもちろんのこと、どこか別のサイトに飛んで目につくどんな言葉や文もレトリックだと言えます。


 とはいえ、言葉の綾を真に受けるのは人が常にやっていることです。これをしなくなったらひとでなし。どんなにもっともらしい、あるいは馬鹿げた言葉やフレーズも、しょせん言葉。言葉を使えば何とでも言えます。白を黒だと言えます。あるのにないと言えます。ないのにあるとも言えます。あらゆる言説は言葉の綾でありレトリックなのです。真に受けると馬鹿を見ます。とはいえ、いいこともあります。何でもない場合もありますけど。この記事でも、アホがいけしゃあしゃあとあちこちで「言葉の綾を真に受ける」をやっていますね。


 修辞や巧言や言葉の遊びを文字通り受け取ったり真に受けることは楽しいです。何しろ答えなんて出ませんから(出たと思うのは勝手ですけど)、よけいにいらいらわくわくするのかもしれません。むきーっ、でも、たまんねー、なんて具合に。タマネギをむくのと同じで、なかなかやめられません。安心してください。誰にとっても、そうみたいです。だからこそ、自己啓発とかスピリチュアルとか哲学なんて相も変わらず盛況なのでしょう。人間の歴史(histoire)は、自分の作った言葉にもてあそばれ続けてきた歴史であり物語つまり言葉で捏造したフィクションだと言えそうです。


【※ここでレトリックレトリックとさかんにアホがほざいていますが、いわばマイブームなのです。「借り物」という言い回しに加えて、最近気に入ってしまった言葉なので使いたくて仕方ないみたいですね。以前は「代理」とか「表象」という言葉で言葉に悪態をついていました(金太郎飴と同様に、どこで切っても同じことを言っています)。万が一、興味がある方がいらっしゃいましたら、「もてあそばれるしかない」または「代理としての世界 -4-」を「文字通り」ご笑覧ください。】


 念のために書き添えますが、いまレトリックに悪態をつくさいにダシに使った「剽窃(ひょうせつ)から遠く離れて」というタイトルは蓮實重彦氏による『小説から遠く離れて』という著作名のもじりです。お借りしていじったということですね。なお、お借りしたその言葉もレトリックであり借り物であることは言うまでもありません。


小説から遠く離れて

村上春樹、井上ひさし、丸谷才一、村上龍、大江健三郎、中上健次などの代表作に説話論的な還元を施しつつ、本書自らが限りなく「小

www.kinokuniya.co.jp


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 人は誰もが借り物。個人レベルで言えば、「自分」は引用の織物、パッチワーク、ごった煮。いわゆる「意識」のレベルでも、他人によって受け取られる人格やキャラや役割といったレベルでも、生まれ生きて死ぬ生体のレベルでも、人は借り物であり引用の織物。


 DNA、分子、原子に還元される、還る、返る、帰る。受け継ぎ、受け継がれ、食い、喰われ、交わり、混じり、襲い、襲われ、追い、追われる、生体。ヒト、けもの、サル、虫、鳥、魚、菌、植物、ウィルス。等しく繰り返し繰り返される生命。パンタレイ。生者必滅。還る、帰す。土にかえる、海にかえる、空、天ではなく大気にかえる。四元素、四大、五大、火、空気・風、水、土・地。四でも五でもお好きなように。好みの問題。火葬、風葬、水葬、土葬。合掌。


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 パンタレイ、万物流転。輪廻やあの世や天や前世については保留。見た者なし、見たという言葉があるのみ。すべては言葉、物語、フィクション、レトリック。説話、説、伝説、神話、叙事詩、噂話、口承、都市伝説、教義、経典、新聞、ニュース、雑誌、書籍、放送、ウェブサイト。伝聞、捏造、伝達、再現。映像、音声。広義の言葉、言語。言葉、言葉、言葉。


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 人は引用の織物、借り物、パッチワーク。多面体、プリズムという美しい比喩。比喩はたとえ、かりにそうであればというたわごと、戯言、戯事、戯れ言。美しいたとえ。人はたとえというレトリックに弱い。人が人であるゆえん。レトリック、たとえにこころを動かされない者は人に非ず。人非人、ひとでなし。


 人は引用の織物、借り物、多面体、プリズム。あの人、この人、自分、他者、わ、な、てまえ、てめえ、おまえ、かれ、あれ、これ、それが、同時に、あるいはかりに、またはまばらに、ある、いる、おる、おとずれる場。場としての人、自分、意識。仕草、身ぶり、表情、目つきを借りる、まねる、なぞる、にせる、ふりをする、演じる、なりきる、なる。化ける、なりきる、化粧、異装、仮装、真似、仮面、仮名、偽名、改名、変名、a.k.a。この人にあの人を見る、聞く、感じる、似ている。面影、気配、錯覚、忘我、エクスタシー、人違い、なりきり、真似、分身、生き写し、変装、かたり、偽装、擬態、変態、憑依、離人、解離。自分の中にいる別の人、縁者、他人、物、無生物、化け物、化身、かみ、ほとけ、万物。


 たいそうな話ではなく、誰もが日常で経験するささやかな思い、感覚、気分。錯覚なのかもしれない。これはどういうことなのか。軽い意識の障害なのかもしれない。思い過ごし、なりきり、からおけ~~、ぼけー、うわの空、こころここにあらず、意識散漫、ぼんやり、無意識、ああいいきもち、はあ、軽い失神・気絶、お酒なんて一滴ものんれないおー、うぃーっ、眠り、居眠り、夢、夢うつつ。自分が自分でないような。自分の中にいる誰か他の人、あなた、かれ、かのじょ、あれ、それ、It、Es、何かの中にいる自分。いかがわしくうさんくさい話だが否定はできない。言葉、レトリック、言葉の綾、フィクション、かたり、物語であることに変わりはない。特権的な物語、真理・真実、普遍はない。無い袖は振れない。いや、振りがあるのみと言うべきか。


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 人は言葉を借りる。言葉は借り物。借り物から借り物を借りる。この仕組みを人はあやつることはできない。「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みを、人は仕組むことはできないのと同じ。


 言葉を返す、戻す。いまいる誰かに渡す。近くにいる誰かに渡す。遠くにいる誰かに渡す。いつかいる誰かに渡す。渡す、伝えるのではなく、渡すだけ。伝わるわけがない。


 言葉を返す、戻す、渡す。受け継がせる。いつか、この動作も終わる。渡す相手がいなくなる時が来るはず。


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 借りる。借りたものを返す、戻す。貸すは、欲にまみれた返す、戻す。見返りを期待する。みかえる、見返る、見変える。みかえり、見返り、身返り。交換。


 かえすものはなに? 恩、仇、借り、借金、つけ、言葉、からだ、ほほえみ、倍、利子、ナッシング。


 貸し借り、かりる・かえす・かす、返す、返却、返還、返済、返事、返礼、交換、贈与、婚姻、供物、祝儀、ギフト。代価、対価、値。ただ、無償。ただ、只、唯、徒、常、直。


 欲、願い、祈り。欲、五欲、六欲。


 経済学、文化人類学における「借りる」と「貸す」と「返す」。交換。学問、科学であるからには抽象し普遍を目指すという荒唐無稽をおかすしかない。ゲイ・サイエンス、楽問に徹してはどうか。無理だろう。ヒトという種の真理欲、普遍欲、悟り欲は強い。欲深い。ヒトという病。サルという自然。ゴキブリという自然。ウィルスという自然。ヒトだけがあそこを病んでいる。地球を巻き込んで。ゴキブリにも明日があるのに。ウィルスにも明日があるのに。だから、ヒトの欲を全面的に肯定し加担するわけにはいかない。


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 意味、意図、概念を考える時、つまりレトリックを真に受ける時、人はレトリックに負けている。負かされている、任されている。人は言葉になっている。なりきっている。言葉にならない限り、言葉を読めない。反論する、否定する、批判する、論破する、悪態をつく。そうした目論見をいだいたとたんに言葉に負ける。読んだとたんに言葉にねじ伏せられている。


 読む人は、言葉を受け入れざるを得ない。正確に言えば、言葉にならざるを得ない。反論や否定や罵倒は、その次の話。


 言葉、レトリックをやりすごす。真に受けない。模様と音として目と耳でやりすごす。写経、うとうとしながら読む、習字、書道、筆写。言葉を目でやりすごす。お経、念仏、国会の答弁、授業や講義での教師の声、歌。読むのではなく、むしろ詠む、唱える。言葉、レトリックを耳でやりすごす。


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 言霊。意味でも概念でも意図でもない。ひょっとすると音でも模様や形でもないかもしれない。言葉がレトリックになりそこなう時、つまり言葉を真に受けない時に言霊が立ち現れる。とはいうものの、言葉を持つヒトだけに通じるギャグ、お話、フィクション、作り話、でたらめ、たわごと。


 言葉、レトリックはヒトの心身を揺らぎと動きに誘う。経路、筋はすでに敷かれている。人は筋なしに生きられない。筋、経路、いみのいみ。経路、筋が敷かれているのがヒト。ヒトのみ。他の生き物に聞かせても、ぽかーん。馬鹿にすることなかれ。死する、筋を知るつまり死を知るヒトのほうが賢いという錯覚と傲慢、他の生き物にとっての不幸と災い、この星にとっての危難と終焉への道筋。


 初め、言葉は放ち、話し、歌うためのものだった。いつしか人は言葉を真に受けるようになり、言葉は読むものになった。夢との架け橋だった言葉が、うつつでさらに目覚めるための道具になりさがった。言葉には荷が重すぎる。


 それでは言葉がかわいそう。むしろ人には荷が重すぎると言うべき。身の程知らず。だからこそ、人。身の程を知らないから、ここまで来た。言葉を道連れにして。それだけではない、この星の他の生き物たちも道連れにする勢いで。


 そもそも言葉は放ち歌うためにある。いまも人は唱え歌う。憑かれたように唱え歌うことがある。心地よさが忘れられない。頭ではなく身体が覚えている。はなれられない、はなさない。依存。ある意味では病。ただし、せめてもの救いとも言える。人が読むよりも、詠み唱え歌っていれば、この星も安泰。



#エッセイ

#言葉

#日本語


 

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