つくる(2)

星野廉

2020/09/19 15:23 フォローする

 ちょっと前の自分の写真を見るのは、恥ずかしいものです。かなり前とか、コドモや赤ちゃんの頃に撮ってもらったものなら、居直れます。3、4、10年くらい前の写真が、いちばん恥ずかしいです。


 このあいだ、親のかかりつけの医院へ、付き添っていったさいに、免許の更新を前日にしたばかりらしい女性の看護師さんが、同僚に新しい運転免許証を見せていました。パンチされて無効となった前の免許証の写真と、更新したての免許に載っている写真とを見比べているみたいでした。


 自分は難聴者なのでよくは聞こえなかったのですが、「このお化粧、今じゃできないよね」とか言っていたような気がします。免許証ですから、3年か、5年前の写真について話していたのでしょう。で、納得しちゃいました。


 よくテレビの歌番組なんかで、ある歌手の過去のヒット曲をメドレーで次々と紹介し、さびの部分だけを聞かせることがありますね。あれを見ていると、特に女性の場合には、


*服装、お化粧、髪型の変化


が非常によく目立ちます。


 ありゃ、あんなに眉が濃い=太いとか、何てすさまじいヘアスタイルなんだろうとか、あの肩パッドは今は見かけないなあ、なんて驚くことがあります。歌番組だけでなく、バラエティー番組でテレビドラマの一部を再放送する企画なんかでも、その時代の風景=風俗=流行が、よくあらわれますね。


 で、さきほどの看護師さん同士の会話を間近に耳にして、ああいうテレビの企画を見ていて覚える違和感の正体が、何となくリアルに納得できたような感じがしたのです。


 男性の歌手やタレントさんの場合にも、メークや流行にすごく気を使うだろうと想像できます。ただ、一般の男性の場合には、


*髪型、眼鏡のフレーム、スーツやネクタイの形


に微妙な変化が見られますね。もちろん、お化粧をしない分だけ、


*年齢


が露骨に顔にあらわれる場合があります。そういう意味では、容姿、特に顔が命の俳優さんなんかは、メークをするにせよ、テレビの画質が良くなれば良くなるほど、「受難」となる方たちもいるのではないでしょうか。


 容姿端麗を売りにするのではなく、性格俳優とか、個性派とか、呼ばれている俳優さんなら別ですが、「かわいい」や「美形(※死語ですか?)」みたいに「見てくれ=見場(みば)」が命のタレントさんは、うかうかしていると、前回の記事でご紹介した、


*「トリトメのない記号」


として、消費され、じきに処分されてしまいます。


*取り換え可能=使い捨て可能な「記号」


としての運命をたどらないように努力して、イメチェンや、何かの偶然による「化ける」とか「再ブレーク」で、


*自己差別化=特化


をしない限り、「賞味期限」が切れてしまいます。そう思うと、歌手やタレントさんの世界も大変ですね。個人的には、あの種の職業は、


*きわめて運=運命=偶然性に左右されやすい


のではないかと思っています。なぜなら、前回の記事で触れたように、タレントさんは、見も知らない多数の他人である人たちが、勝手に=きまぐれに=テキトーにいだく、


*自分自身のイメージ(=1人のタレントさんに対して、多数の人たちが、それぞれ勝手にいだくイメージ)


を相手にしなければならないからです。きまぐれで勝手なものは残酷ですが、それだけではありません。


 前回の記事で説明しましたように、このイメージというものが難物で、しかも、まことに


*いかがわしい


のです。もちろん、芸能人として成功し続けるには、自分自身のイメージだけでなく、世渡りのうまさも、重要な要因でしょうけど……。


     *


 みなさんは、どうですか? 自分の3、5、10年くらい前の写真くらいを見ると、何か


*恥ずかしい=気後れがする=照れくさい=正視できない


という複雑な心境を覚えませんか? 


 自分の場合には、あまり写真を撮ってもらう機会がありませんが、いちおう、運転免許証(※難聴が悪化しつつあり運転はできませんので、身分証明書代わりです)と障害者手帳の写真はありますので、それで数年前の自分と「対面」することができます。確かに、見るのは、とても恥ずかしいし、だいいち、がっくりきます。


 まわりに誰もいなくても、ちょっと正視できません。というか、したくありません。心理的には、


*トホホ


です。なかには、そういう複雑な思いとは無縁の人もいるにちがいありません。現在の自分の写真、3、5、10年くらい前の写真、コドモ時代の写真、どれを見ても、何の抵抗も違和感も覚えなかったり、それどころか、うっとりと眺め入ることのできる人たちが少なからずいるだろう、と想像しています。


 いずれにせよ、


*イメージとは、きわめて私的で個人的なものである。


と言えそうです。


 これも、きのう書きましたが、ヒトは自分自身の外見を、ある程度、


*つくる


ことができます。お化粧、エステ、ジム、美容整形、かつらなどの手段があります。また、カウンセリングや癒やしや自己改善といった類のメンタルな方法を用いることで、外側に表れる自分を


*つくる


ことも可能でしょう。多分、経済的な余裕がないと、難しい手段ではないかとは思われますが、結構なお話だと存じます。


     *


*ヒトがつくるものは、ヒトに似ている。


と前回に書きましたが、今回も、前回に引き続き、


*つくる


の前の段階である、


*似ている


に徹底的にこだわってみたいです。


 これを片付けないと、「つくる」に話を移せない気がするのです。「似ている」について考えるさいには、自分自身の実体験や、自分が体感できる経験を材料にするのが、いちばん分かりやすいと思います。何と言っても、世の中でもっとも関心があるのは自分自身であり、もっとも信頼できるのは、自分自身の感性や感覚ではないでしょうか。


     *


 では、質問します。あなた自身のことを、考えてみてください。自分に似たものって何でしょう? 


 外見の話です。写真や鏡に映った自分の姿ですか? 鏡の場合には、左右が逆であることを忘れてはなりません。ケータイのカメラで即、液晶に映し出すことができる自分の映像も、自分に激似なはずです。視点を変えて、親、兄弟姉妹、親戚の人たちのなかにも、自分と似た人がいませんか? 赤の他人でありながら、自分とよく似ていると言われたことがある人もいそうですね。


 以上は、外見、つまり、視覚的イメージです。


 この他に、声が似ているということがあります。家とか、会社とかで電話に出たとたん、相手がいきなり訳の分からないことをしゃべり出し、途中で、「あれっ、あなた、○○さんじゃないの?」なんて、言われた経験がありませんか? 


 とか、ケータイにかかってきた通話で、こちらが「もしもし?」と声を出したとたんに、「ごめん、ごめん」と相手がとつぜん謝り、続けて「うそー。□□さんに間違えて掛けちゃったと思ったよ」と、液晶に表示されている番号を確かめているらしき相手が言い、さらに追い打ちをかけるように「きみって、□□さんと声が激似」なんて失礼な発言を耳にした経験がありませんか? 


 今のは赤の他人に間違えられた例でしたが、あと「お父さんと声が似てきたね」と誰かに言われてむっときたと、ある知り合いが憤慨していたのを聞いた覚えがあります。


 そのほか、体つき、背格好、かもし出す雰囲気なんていう、


*とりとめのなく曖昧なものが似ている


と言われることがあります。さらに、誰かと、


*匂い(or 臭い)が似ている


なんて言われた方、いらっしゃいませんか? 意味深ですねー。どういうシチュエーションを指すのでしょう? 「匂い」に関してそんな会話をした経験がある人がいるのなら、ちょっと、うらやましい気もします。でも、よく考えてみると何の匂いなんでしょう? 匂いではなく、臭いなら、嫌ですね。なにしろ、「臭(にお)い」と「臭(くさ)い」は同じに書けるんですもの。


 あと、


*肌触りや手触りが似ている


もあり得ます。ちょっとやばそうなので、これはパス。みなさん、ご自分で想像なさってください。きっと、楽しいと思います。


 あと、


*味が似ている(=舌が覚えている)


も、あり得ないとは言い切れません。世界には、いろんな人がいますからね。これは、超意味深。というより、こわいですよー。ハンニバル・レクター博士を、思い出しちゃったじゃないですか。


 あと、


*オーラが似ている


ですか? 個人的に苦手な分野ですので、これもパスさせていただきます。


 だいたい、出そろいましたよね。これだけあれば、「似ている」を考察するのに、十分だと思います。


     *


 さて、視覚に絞って話を続けましょう。


*自分に「似ているもの or ヒト」を見て、恥ずかしい=照れくさい=何となく気おくれがする=ぎごちない気がするのは、その対象と自分とを「比較する」「優劣を問う」「ズレを認識する」からである。


と考えられないでしょうか。なかでも、


*比較する


というのは、両義的=諸刃(もろは)の剣(つるぎ)的=「良いところも悪いところもある」と言えそうです。比較されて、こっちが勝っていると思えば嬉しいし、負けていると思えばへこむ、という感じです。


で、今回、特にここで問題にしたいのは、


*ズレを認識する


です。ズレ=違い=落差=差異を、いくつかに分類してみましょう。


1)時間的なズレ : 「遠い過去」、「近い過去」、「若さ/老い」がキーワードです。


2)他者とのズレ : 「ほんもの/にせもの」、「優劣」が問題になります。


3)場面のズレ : 「状況」、「背景=文脈=コンテクスト」が重要な役割を果たします。


 以上を順に検討してみます。


     *


★1)時間的なズレ


 これは、冒頭から見てきた過去の自分と現在の自分との落差に、戸惑い、恥ずかしさを感じる心理の原因となります。繰り返しになりますが、


*「遠い過去」の自分、


つまり、赤ちゃんや幼児期の自分と、オトナ、あるいはほぼオトナである自分とを比較する場合には、


*「居直り」という「年の功=厚かましさ=図々しさ」


の心理が働きますから、あまり、大きな動揺を感じることはないでしょう。動揺するとすれば、幼い時期に、何らかの衝撃的な出来事を、意識的あるいは無意識に経験し、それが


*こころの傷=トラウマ


となって、現在、自覚されているか、こころの奥に潜んでいるという状況が考えられます。これは、心理学・精神分析・精神医学が扱う領域なので、深入りはしません。


 他の生き物と同様に、ヒトも年齢を重ねていく存在ですが、ヒトの場合には、


*「老い」に対し、とてつもなく大きな恐怖を覚える


特性があるように思われます。生き物としては、珍しい心理です。その恐怖に対処するために、医療と経済という分野で、どれだけのお金が動いているかを想像する or 調査することで、その恐怖の大きさが実感できそうです。


 一方、ヒトは、


*「若さ」に対する恐怖=「こりゃ、何とかせんとアカんわ」=「ったく、いまどきの若いやつは……」


と、


*「若さ」に対する羨望(せんぼう)=「うらやましーい」=「くやしーい」


をいだきます。


 ケータイ、ゲーム、小学生のお化粧に対するオトナのうろたえ振りを観察 or 自省すれば、これも、分かりやすい現象だと思います。なお、この点にご興味をお持ちの方は、ケータイを題材にして、オトナのコドモに対する「ビビり」を論じた「なぜ、ケータイが」をご一読願います。


 で、もっとも興味深いのは、


*「近い過去」の自分に対する「恥ずかしさ」


の感情だと考えられますが、これは、


*一種の「近親憎悪」


ではないかと個人的に想像=妄想しております。上述の、3、5、10年くらい前の写真を見るのが、とても恥ずかしいという心理は、


*「ライバル意識」の変形=変種


ではないかとにらんでいます。


 つまり、ちょっと前の自分を「ダサい」と罵倒して馬鹿にしたいのです。なぜなら、


*ちょっと前の自分は「ちょっと若い」


からにほかなりません。さきほど触れたように、ヒトは「老いる」ことを内心ですごく恐れています。その恐怖心を、そらすために、無意識に、「ちょっと前のちょっと若い」自分を標的にして、


*いじめて気を晴らしている=気を紛らわせている


のです。ただし、その一方で、「ちょっと前の自分」への嫉妬もあるかもしれませんね。


 また、いずれやってくる「ちょっと後の自分」が「今の自分」を小馬鹿にして見るであろう、という予感を無意識に感じている。そんな複雑な心理が働いていないとも限りません。たぶん、ですけど。


     *


★2)他者とのズレ


 これも、


*一種の「近親憎悪」


だと想像=妄想しています。ヒトは誰でも、


*自分がいちばんかわいい


ですし、


*世界は自分を中心に回っている


と、無意識、あるいは意識的に感じています。言い換えると、


*自分こそが「ほんもの」であり、自分に似たものは全部「にせもの」である


となります。ですから、


*「ほんもの」には、「にせもの」を馬鹿にする=非難する=罵倒する、当然の権利がある


と信じて疑っていません。そう信じるからには、結論が、


*ほんものである自分のほうが、にせものよりも、優秀であり偉い


となるのは当然です。


 個人のレベルで例を挙げると、上述の「声が似ている」と言われてむかつく心理が、身近で分かりやすいと思います。「こんちくしょう」とか、「失礼しちゃうわ」という感じです。この悪態を翻訳すると、「こっちのほうが、いい声だ。声だけじゃない。性格も、頭も、顔も、こっちのほうが上だ」となります。


*「他者とのズレ」は、似たもの同士のあいだで起こる


わけですから、個人レベルだけでなく、国内の諸問題として、ひいては、世界的規模で頻繁に起こっています。新聞やニュースなどを見ていると、その例は、枚挙にいとまがありません。


 たとえば、この国のある大都市の首長などは、


*自分の理想とする、自分を中心としたファシズム体制 or 王朝とよく似た政治体制を成し遂げている国家を、仮想敵国として憎悪しています。


 簡単に申しますと、「くやしーい。ボクちゃんも、あんなふうになりたい」という心理です。また、与野党の国会議員にも、同様の心理を共有する人たちは多いです。これも、みなさん、ご想像するなり、ご調査ください。ここでは名指しはいたしません。そういう血の気の多い人たちは、たいてい、威張り腐っていますから、テレビの画面を通しても体感できると思います。なお、蛇足ながら、補足しますと、仮想敵国というのは、たいてい、隣国です。


 この点について、これ以上書きますと、「つくる」という、このブログのシリーズが、同じ発音の定期刊行物に似てまいりますので、ここでストップします。


 また、その定期刊行物の名にある文字を冠する全体主義的組織を、なぜか連想=イメージし、気分が悪くなりそうなので、やはり、ここでストップしたほうが賢明だと思われます。とにかく、きな臭い=生臭い話は、大の苦手なのです。


【※全体主義=ファシズムと近親憎悪の関係について関心のある方には、「最後のとりでを守る」のご一読をお勧めします。】


     *


★3)場面のズレ


 みなさん、究極の自分に似たもの・ヒトとは、何でしょう? そうです、自分自身です。「そんなの当たり前だろう」、とおっしゃるお気持ちは十分にお察ししますが、それほど簡単でもないような気もするのです。


 ヒトは「ワシって何?」とか、「自分探し」というものを、大昔から続けてきたようです。物理学や生物学の最先端の考え方のなかには、


*「自分」というものが、きわめて曖昧=不安定=「テキトーな存在」=「いかがわしい見方」である


と説いているものが散見されます。


 どうやら、生物学的レベルでも、物理学的レベルでも、


*自分は常に動きつつある=自分は常に変化しつつある=自分を同一のものとして特定することはできない


みたいな意見=見方=感想=妄想が、優勢になりつつあるようなのです。ただし、これもまた、この記事を書いているアホの誤解=思い込み=曲解である可能性がきわめて高いので、そこのところを、どうぞご了承願います。


     *


 で、簡単な例を挙げます。


 コドモの場合を考えてみましょう。みなさんご自身の経験を思い出していただくのも、よろしいかと思います。保護者向けの授業参観日や運動会って、嫌じゃなかったですか? 嫌じゃなくても、照れくさくはなかったですか? もし、照れくさかったのであれば、その感情です。もちろん、照れくさいどころか、誇らしく感じたというヒトもいるにちがいありません。


 ここで強調したいのは、家で保護者といっしょにいる自分と、学校の教室という場にいる自分は、同じというより、似ているのという点です。つまり、


*異なる場面=状況=コンテクストに置かれた自分は、複数である。言い換えるなら、TPOにより、似ている自分が複数存在するのである。その「自分たち」は、「同一である」というより、「似ている」のである。


と言えそうな気がします。だから、


*ある人から見て、いつもとは違った「場」にいる自分は、「似ている自分」であるために、恥ずかしいと感じる。


のです。


 これは、オトナでも同じです。たとえば、職場で働いている自分、上司から叱られている自分、トイレでひとりでいる自分、酔っ払っている自分、ひとりでこころおきなく眠っている自分を、自分のコドモや配偶者や親や友人や知人に見られて、恥ずかしく思う気持ちを想像 or 思い出してみてください。恥ずかしいだろうと思えば、今、問題にしているのは、その感情です。


 今挙げた例ですと、なかには、恥ずかしくない人もいるとは思います。むしろ、自分の働いている姿を家族に見せて、誇らしく感じる人もいるはずです。


 肝心な点は、見られてまずいとか、やばいとかは別にして、ある自分以外の人を基準にし、その人によって、いつもとは異なる時と場所と背景=コンテクスト=場合=機会における自分が見られているという状況があるということです。そんな状況を想像してみてください。恥ずかしい、ぎこちなく感じる、ちょっと気後れする。もし、そんな感情をいだけば、そのことなのです。確かに、これはかなり個人差があると思います。


 また、「見る/見られる」は、見るほうが見られるほうに感情移入するという側面があるため、たとえば、親が働いている姿を一度も見たことがないコドモが、親が働いているの姿を初めて見たときに、自分に見られている親の気持ちを想像してしまい、一種の気後れや戸惑いやぎこちない感情をいだくということもあるかもしれません。それにも似ています。


 いずれにせよ、微妙で複雑な感情だと思います。


     *


 以上見てきた3種類の「似ている」=「ズレ」は、(A)きわめて優秀な知覚器官によって情報=データとして知覚され、(B)次に、その情報=データをきわめて優秀な脳が処理し、(C)最後は「意識」という少々ぼけーっとした頼りないものが、勝手に=きままに=テキトーに「認識する」という経路をたどります。


 その「認識する」の結果が、「イメージ」です。「イメージ」は、ヒトが勝手にいだくものですから、ヒトそれぞれ=個人差があります。言い換えると、


*きわめて曖昧でテキトー


ということになります。


 ですから、上の3つのズレを説明する言葉たちも、当然のことながら、頼りなげで、曖昧で、テキトーな身ぶりと仕草を演じたわけです。


「似ている」については、これ以上深い入りしても大した収穫は得られないという、トホホな結果となりました。でも、言葉たちがテーマのトホホ振りを見事に演じてくれたという点では、収穫はありました。何ごともプラス思考でいきましょう。


 次回は、「つくる」の一種である「フィクション=話をつくること」へと話をつなげたいと考えています。フィクションもまた、「真似る=似たものをつくる」が出発点になります。また、このブログに遊びに来てくださいね。お待ちしております。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



#エッセイ


 

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