げん・現 -2-

星野廉

2020/09/21 11:28


 現実について語る場合には、当然のことながら言葉を用いるわけですが、言葉を用いて語っている現実を、言葉を代理としている現実とみなすのではなく、言葉そのものを現実とみなす考え方があるようです。


 現実にそうした考え方の下に生きているヒトたちが億、あるいは10億という単位でいるらしいとのことです。具体的には、経典とか聖典と呼ばれている、言葉で構築された書き物を、現実とみなして日々の生活を送っているという状況と現象をあたまに浮かべています。


 個人的には、想像がつかない生き方です。この国に住んでいるヒトには、理解しにくい価値観だという気がします。なにしろ、言葉が即現実になる世界観と言えそうです。この世界観を代表する2つの宗教について、思いをめぐらせているところですが、両者には大きな違いがあります。


 一方は、翻訳を肯定し、もう一方は強く否定しています。想像を絶する違いだという気がしますが、考えてみたいです。


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 どうして、一方の宗教が翻訳を肯定し、もう一方が否定しているのかについては知りません。知らないので、その宗教を名指しはしません。あくまでも、話、つまりフィクションとして考えてみますので、そのように受け取ってください。現実とか事実とは無関係です。


 小耳に挟んだ、ある言葉・フレーズの断片をもとに、ある素人が妄想していると思って以下の文章をお読み願います。実際、そうなのです。それ以上でも、それ以下でもありません。


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 翻訳というのは、ある言葉を別の言葉に置き換える作業だと考えられています。現在、この国に住んでいる感覚からいうと、たいていの言語とこの国の言語の橋渡しをしてくれそうな辞書はけっこうたくさんあるみたいだし、文法書もあるみたいだし、専門家が教えてくれる学校や塾や講習会もありそうな気がします。


 メジャーな言語で書かれた簡単な文章なら、パソコンを通じて、ネット上の外国語辞書で翻訳して、だいたいの内容であればつかめそうです。


 でも、昔々、伝道のために、聖なる書を、ある見知らぬ地域に持ち込み、長い年月をかけてその地域の言葉を習得し、またまた長い年月をかけて、聖なる書をその地域の言葉に置き換えるなんて、よく考えるとすごく難しそうでややこしいことを行ったという話を見聞きした記憶があります。


 そんな途方もない苦労を支えたのは、信仰の力でしょうか。それとも、何かで読んだ記憶のある、植民地拡大の政策とか、お金がらみの事情とか、そんなものにも支えられて、あれだけの元気が出たのでしょうか。


 いずれにしても、すごいと言うべきだと思われます。大変だっただろうとも考えられます。


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 何が大変だっただろうかと言えば、伝道された側、および、植民地にされた側のヒトたちの苦労です。お節介と言えばお節介なことをされたわけです。


 遠くからわざわざやってきたのは、向こうのヒトたちです。頼んで来てもらったわけではないようです。


 土地のヒトたちは、きっとその土地の神、あるいは神々、または他の土地の言葉で呼ばれていた「何か」を崇めていたはずです。


 神は1つ。それ以外のものは悪であり、魔である。きっと伝道者たちは、強く主張したに違いありません。その背景には、唯一の神以外のものの大きな力あったと言われています。


 力ずく。強制。


 土地のヒトたちの「何か」は追放されるか、滅ぼされるか、隠れるか、化けたという話が残っています。


「何か」は存続し、復活したという話も聞きます。


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 ある土地で生まれたある土地の言葉とイメージを、ほかの土地の言葉に置き換えることは大変だっただろうと推測されます。


 今、書いたフレーズは、実は単純化されたものです。聖典とか経典とか教えとか神話と呼ばれているものは、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃしているのが、ふつうのようです。


 おそらく最初に、混乱、つまりごちゃごちゃぐちゃぐちゃが1人のヒトによって発せられたと仮定しましょう。そのヒトは、言葉を預かったと言ったかもしれません。よくある話のようです。


 次に、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃが伝えられることになるでしょう。大昔であれば、口伝えであったと思われます。伝言ごっこです。話が変わることは避けられそうもありません。


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 変わるは換わる・替わる・代わるとも書けそうです。なかには、伝えるというより、作るヒトがいても不思議はありません。そんなヒトはいつの時代にもいそうです。


 並はずれた記憶力を持つヒトが、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃを一時的に独占していたかもしれません。さぞかし、尊敬されただろうと推測されます。


 出どころは同じはずの言葉や話が、いくつも存在する。出どころの違う言葉や話が、混じり合う。そんな話もよく聞きます。昔もあったと考えるのが、自然かと思われます。


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 やがて、言葉や話が文字として記される、つまり何かに引っ掻かれたり、色素を持つ物質の染みとして何かにへばりついたり、何かに彫られたり、傷として残されることが起こったようです。


 画期的な出来事です。


 でも、忘れてならないことがあります。文字として記されたものは、依然としてごちゃごちゃぐちゃぐちゃであるということです。ひょっとして、時代を経た分、よけいにごちゃごちゃぐちゃぐちゃしたものになったかもしれません。


 そのごちゃごちゃぐちゃぐちゃを、さまざまに解釈するヒト、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃは自分たちだけのものにして、ヒトびとに分かりやすくちょっと変えてプレゼンするヒトなどがいたらしいです。自ら威張るか、周りから崇め奉られるか、どっちかだったようです。


 ごちゃごちゃぐちゃぐちゃが生まれた頃からあった、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃの解釈をめぐる争いは、しだいに拡大していったそうです。


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 さらに、記されたものを「うつす・移す・写す」という形で、複製する手段が考え出されたようです。


 これも、画期的な出来事です。


 でも、ここで確認しなければならないのは、ヒトが写したちょっと頼りないものであれ、印刷という技術でほぼ忠実に写されたものであれ、文字という形で残っているものは、依然としてごちゃごちゃぐちゃぐちゃだったということです。


 このころ、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃを本という形にして、文字をみんなで覚えようと呼びかけ、みんなでああでもないこうでもないをするヒトたちが出てきたようです。


 ごちゃごちゃぐちゃぐちゃは自分たちだけのものにして、ヒトびとに分かりやすくちょっと変えてプレゼンするヒトたちは、本の普及を喜ばなかったみたいです。独占できなくなるのですから、当然でしょう。


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 ある土地で生まれたある土地の言葉とイメージ、つまりごちゃごちゃぐちゃぐちゃを、ほかの土地の言葉とイメージ、つまり別のごちゃごちゃぐちゃぐちゃに置き換えることは大変だっただろうと推測されます。


 でも、それが行われたことは確かなようです。世界一のベストセラーは、いろいろなごちゃごちゃぐちゃぐちゃ、つまり言語に翻訳されています。


 大切なのは、それが現実だということです。「既成事実」という言い方もできそうです。2重の意味の現実です。


 ある土地で生まれたある土地の言葉とイメージが、翻訳という形を通じて、この惑星に生息するヒトという種(しゅ)に広まった。これが1つの現実。


 ある土地で生まれたある土地の言葉とイメージ、つまりごちゃごちゃぐちゃぐちゃが、さまざまな土地で生まれた言葉とイメージ、つまり別のごちゃごちゃぐちゃぐちゃとしてありながら、そのごちゃごちゃぐちゃぐちゃを信じるヒトたちによって、そのごちゃごちゃぐちゃぐちゃは現実に他ならない。2つめは、そうした意味での現実です。


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 現実は正しいそうです。そう言うヒトのほうが、圧倒的に多数である場合には、下手に逆らわないほうが良さそうです。


 ある聖なる本には、世界の終わりまでごちゃごちゃぐちゃぐちゃした文体で書かれているらしいです。広辞苑によると、「はっきりといわず暗黙の中に意思・秘儀を表示すること」を「黙示・もくし・もくじ」とも言うようです。


 その聖なる書のことかどうかよく知りませんが、自分たちの家に備えてある聖なる本に書かれているごちゃごちゃぐちゃぐちゃの一字一句が、真実――現実のきょうだいみたいなものでしょうか――だと信じているヒトたちが多数いるそうです。


 その経典は翻訳されたものも、昔のものに比較的近い形のものもあると、かつて聞いた覚えがありますが、よく覚えていません。


 いずれにせよ、以上の話は、ぜんぶ受け売りなので、真実あるいは現実あるいは事実なのかどうか知りません。


 ちなみに、上で使った真実・現実・事実という3つの言葉についても、知りません。辞書を引きましたが、役に立ちそうもありませんでした。ただ、気になるので、自分なりに考えてみたいとは思っています。ごちゃごちゃぐちゃぐちゃの一種ではないかという気はします。


 いつも、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃという言葉とイメージで片付けてしまう癖があります。わるい癖です。反省しています。


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 翻訳を否定する聖なる書。


 その成立がどのような過程を経たのかは知りません。歴史的経緯に触れる気もありません。ただ、「置き換え」をいっさい拒否するという仕組み・システム・働きかけが、どのようなものなのかについて、考えてみたいです。


 書であるからには、文字で記されているはずです。文字は、黙読、および朗誦の対象になると考えられます。もしも古い形で残っている文字だとすれば、それは専門的な教育を受けたヒト以外には、理解できないものだと思われます。


 ごちゃごちゃぐちゃぐちゃであることは言うまでもないだろうと推測されます。その文字を音読し、書かれている内容を説明できるヒトは、特権的な存在であるにちがいありません。


 翻訳を否定する聖なる書のなかには、その書が法や掟であるものもあると聞いた覚えがあります。その場合には、その書を読める一部のヒトたちが、その書を読めない、つまり意味がとれないという意味で読めないヒトたちを指導し、裁く役目を負うと考えるのが自然だと思います。


 そうした状況は、支配や体制や絶対という言葉および状況と高い親和性をもつものと考えられます。


 翻訳を否定する聖なる書即現実であるという世界観。


 個人的には、体感も、抽象的なレベルでの理解も、できそうではありません。でも、10億を越えると推定されるヒトびとにとって、その世界観はいかなる「抽象」でもなく、「現実」らしいのです。


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 翻訳を否定する聖なる書、およびその書の説く超越的存在を信仰の対象とするヒトびとが、現在、地政学的および世界経済的レベルで大きな影響力をもっているという話があります。


 この国では、なかなか体感できない話です。でも、その影響力が衰えることはまずないだろうという気がしてなりません。とは言っても、ニュースなどを通しての、きわめて根拠の乏しい知識をもとにいだいている希薄なイメージでしかありません。


 意見を求められたとしても、テレビに出てくるコメンテーターやいわゆる「識者」の「意見」か、雑誌か新聞記事で斜め読みしたフレーズの「受け売り」、つまり「紋切り型の文句」しか口にできません。恥ずかしいと思います。


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 明治維新以降、欧米を規範として国家の建設を行ってきたこの国では、翻訳を否定する聖なる書とその書の説く超越的存在を信じるヒトたちが、そのヒトたちの信じる「現実」のなかで生きているさまを想像することは、きわめて難しそうです。


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 文明の衝突という一時期流行したフレーズがあります。


 怖いです。


 個人的には、すごくリアルなイメージをもって、恐怖感を発するフレーズです。そのイメージは次のように「分光」されます。


 翻訳を肯定する聖なる書、翻訳を否定する聖なる書、核兵器、最終戦争、啓示、契約、律法、救世主、唯一。


 こうした分光されたイメージが、からだを包むような恐れを感じるのです。怖いです。


 ひょっとすると、こういうものが、ある意味で「現実」なのではないかとさえ、思えてきます。


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 TIMEという米国系の出版社の週刊誌があります。どういうわけか中学生の頃から、定期購読しています。もったいないので、毎週欠かさず斜め読みだけはしています。米国の雑誌ですから、視点は米国寄りです。


「洗脳」されないように気をつけていますが、斜め読みしたあとには、どうしても自分の物の見方に偏りが生じているのを意識します。あの雑誌の購読者であることは、あの雑誌に染まった「現実」に毎週接しているとも言えそうです。


 一概には言えないとも思いますが、さきほどの、「怖い」という言葉を書いた背景には、米国寄りの視点から見た「現実」が影響している。そう思えてなりません。


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「現実」とは、ヒトが作るものだ。もっと広く言うと、「現実」とは、世界・宇宙・森羅万象に関して、日常生活のレベルで自分が見聞きしている広義の言葉・言語に大きく依存している。そんな言い古されたフレーズとイメージがあたまに浮かびました。


「代理」の仕組みという、ややこしい話抜きでも、似たような物語・神話が出てくるものですね。


 げん・幻・言・現、もう1つ加えて限――これぜんぶ、同じみたいです。


 納得してしまいました。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



#言葉


 

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