夢の素(2)
星野廉
2020/09/23 08:36
頭の中を整理するために、前回の「夢の素(1)」のまとめをさせてください。
「思い」は重い。つまり、「おもい・おもう・思い・思う・想い・想う」という大和言葉系の言葉は、たとえば「考え・考える・思考する・思想する・夢を見る・夢想する・妄想する・幻想する・ぼけーっとする・ひらめく・錯覚する……」を含む、多層的な意味を持っているという話でした。
「思い・思う」を「分ける」と、多種多様な言葉が出てきます。「分ける」ことで「分かる」かというと、「分かる」ような「分からない」ような気がしませんか? 前回には、「夢の素」という個人的なイメージについても書きました。「思い・思う」を「夢の素」で説明することもできそうです。上で述べたように、「思い・思う」という言葉には、さまざまな意味合いがあります。「思い・思う」という言葉を化学調味料の「味の素」のような「粒」にたとえてみましょう。きらきらした細かな結晶のような粒です。
舐めると「何とも知れない」味がします。塩辛いような、甘いような、唾が出そうになる酸味もあるような気がするし、これを口に頬張ったらもどすのではないかというような気持ち悪さもある。しかも、自然物ではなく、人工の化学調味料だというのですから、何となくうさん臭さというか怪しげな感じもしなくはない。そもそもこの調味料の「元」は何なのだろう、という疑問も頭をもたげてきます。
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英語では、化学調味料を「アクセント= accent 」といいますね。その accent という単語も意味深です。アクセント記号なんて意味もあって、これはフランス語では「アクサン」みたいな発音になり、具体的には「´」「`」「^」を指します。時間や角度を表すさいに使う「分」や「秒」を表す「′」「″」も「アクセント」というそうです。これって全部、粒じゃないですか。さらに意味深なのは、英語の accent には、「訛り」という語義まであります。大きな英和辞典でぜひ調べてみてください。おもしろいですよ。
ジーニアス大英和辞典によると、accent の語源は「話し言葉に付けられた曲」らしいです。「まいどありい~」とか坂田利夫さんの「ありがと、さ~ん」なんて時の「節・節回し」を連想します。話を戻しましょう。
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「思い・思う」という大和言葉系の語を、偉そうに=もったいぶって言いたい時に使う「意識・意識する」とか「思考・思考する」という曖昧模糊としたイメージの語にずらしてみましょう。こんな具合に、「思い・思う」は「ずらす・言い換える・すり替える・分ける・分類する・区別する」ことができるという意味で、「夢の素」ととても似ている気がします。
もちろん比喩ですが、「夢の素」とは、いろいろな「思い・思う」が詰まった「粒」なのです。いや、「いろいろ」では軽すぎます。「千差万別」「変幻自在」「万華鏡」「百花繚乱」「百家争鳴」「魑魅魍魎」「跳梁跋扈」「鬱蒼・欝蒼」「もやもや」「ごちゃごちゃ」「ぐちゃぐちゃ」「アナーキー」「支離滅裂」「混沌・カオス」「めちゃくちゃ」「なんでもありー」という感じです。
それが一粒ひとつぶに「びっしり・ぎっしり」詰まっている。それが、「夢の素」です。かなり文章がとちくるってまいりました。これは論じるテーマを記述する言葉たちに演じてもらうという、このブログでよくやる「方法=戦略=企み=お遊び」なのです。こういうやり方をして書いた記事には、よく「直接書かなかったキーワード」として「渡部直己」という固有名詞が出てきます。
自分にとって、「渡部直己」という「言葉」は、「つづる言葉によって『隠喩』としてつづられる対象を『模倣する=演じる=擬態する』動作・身ぶり」であり、「つづられる文章の構造・場の構築へと促してくれる『夢の素』」なのです。言い換えると、今述べた「運動への誘(いざな)い」を、「渡部直己」という固有名詞が著者名として記されている書物から、自分が勝手に=独りよがりに「得った=感じ取った」イメージなのです。ですから、きわめて個人的なものでしかないとも言えます。万が一渡部直己氏が、この記事をお読みになったとするなら、きっと「誤解だ」「すべてでたらめ」「わたしはそんなことを書いた覚えはない」「なんて馬鹿なやつだ」と苦笑なさるか、あるいはお怒りになるでしょう。致し方ないことです。
なお、「渡部直己」という「言葉」が「直接書かれなかったキーワード」として添えられている記事には、「あう(5)」、「かく・かける(4)」、「かく・かける(7)」、「あらわれる・あらわす(6)」、「出る」、「うんちと言葉」などがあります。ご興味のある方だけ、ちらりとどんなことが書いてあるのか、覗いてみてください。たぶん、字面で体感できます。アホなことをやっているなあ、とお思いになれば、「体感できた」と言えるのではないでしょうか。でも、好きなんです、そういう「アホなこと」が。
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自分は、きわめて交際が薄く、他人様(ひとさま)と議論したり、意見を交わすということが皆無に等しい人生を送ってきました。したがって、きのう挙げた「ステファヌ・マラルメ」にしろ、「蓮實重彦」にしろ、『ブヴァールとペキュシェ』にしろ、上で触れた「渡部直己」にしろ、単なる個人的な「イメージ」であり、つづろうとする言葉を、ある運動へと促してくれる=後押ししてくれる「信号=記号=合図=印=夢の素」にほかならないと言えます。
他人様が上述の4つの「固有名詞」についてどんな知識を持っているのか、関連の書籍をどう読んで、どう理解・解釈したのかに関しては、全然知りません。このブログのタイトルの下に添えられたフレーズにあるように、「いま、ここで、手持ちのものを大切にする」という、ものぐさで横着な態度で、ほぼ毎日長めの記事を書いています。無職なので時間だけはあるのです。ないのは、と言うか、どんどん減っていくのはお金です。泣き言は、これくらいにしておきます。
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「夢の素」をずらすと、「『思い・思う』の素」とも、「『思い・思う』を始動させる装置」とも、「意識・思考の素」とも言うことができます。自分で勝手にイメージしている「妄想」ですから、「そんなこと、何とでも言えるじゃないか」「勝手に言っていればー」と言われれば、「はい、そうですね」としか言いようがありません。「言う・言葉」は、それくらいテキトーでいかがわしいものなのです。何とでも言えます。
その「言う・言葉」に至るまでの過程、あるいは「言う・言葉」の直前にあると見なし得るものが「夢の素」とも言えそうです。いえ、そうなのです。いえ、そうにちがいありません。たった今書いた駄洒落って、救いがたいほどくだらなくありませんか。これが、つづる言葉でつづるテーマを演じさせる、という上述の「方法=戦略=企み=お遊び」の短い一例です。駄目押しに書きました。体感していただけたでしょうか。個人的は大好きな「お遊び」なのですが、なかなか読者の方に共感していただけないので、寂しく思っております。
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話を変えます。
みなさん、今、眠いですか? この駄文をお読みになっているのですから、きっと眠気を感じている方がいらっしゃるだろうと推測しております。眠い時って、気持ちがいいですよね。自分も大好きです。昨日も書きましたが、「ゆめうつつ・夢現・ぼーっとしている・意識が定かでないほうに傾きつつある」といった状態です。
ヒトの意識というものを、グラデーション=階調=濃淡としてイメージしてみましょう。「覚醒」から「無意識」あたりを経て「意識不明」。「はっきり」から「ぼんやり」を経て「…………」。「悟り・解脱」から「煩悩・普通」を経て「迷妄・妄執」。簡略化すると、今述べたようなプロセスが頭に浮かびます。
PCでしたら、モニター画面の明暗をコントロールする機能があります。それをいじってみると、ヒトの意識のグラデーションが、比喩的に体感できるように思います。難しく考えないでください。ひとつ大切なことは、このグラデーションは、TPOによって変化するという点です。絶対的で不動の尺度などありません。尺度は、その時々によって異なるものではないでしょうか。刻々と変化すると言っていいかとも思います。為替市場の変動相場制に似ている気もします。
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昨日から「思い・思う」のうちの「意識・意識する」について、ずっと考えています。知覚器官を通じて「世界=身のまわり」の情報を「知覚・知覚する」という形で受信し、シナプスを通して脳に送られたデータが処理される。その次の段階が、「意識・意識する」だと個人的にはイメージしています。百家争鳴であろう、心理学や精神医学や脳科学の諸説については全然知りません。お勉強が嫌いなのです。
そんなわけで、ものぐさにとりとめもなく、「いま、ここで、手持ちのものを大切にし」ながら、考えています=ぼけーっとしています。そのぼけーっとした状態で「ぼけーっとする」について、ぼけーっと考えるわけです。個人的な体験ですから、個人的なイメージが勝手にどんどん湧いてきます。たぶん、他人様に説明するには時間がかかると思われるイメージや記憶がたくさん、瞬時にあれよあれよという感じで「出てくる」こともあります。「走馬灯」というきれいな比喩がありますね。自分の場合には「高速でランダムな走馬灯」です。「しっちゃかめっちゃか」という、めちゃくちゃテキトーな響きのある言葉も、思い浮かびます。
イメージや「夢の素」など、自分の「いだいている・抱いている・擁いている・懐いている」ものは、「いとしい・愛しい」です。愛着を覚えます。うんちと同じで、自分の一部でありながら、出た瞬間、自分から離れていく。そんなもの悲しさも覚えます。ちなみに、「いだく・抱く」と「だく・抱く」はきょうだいですよね。自分が胸にいだいているものは、いとしいし、かわいいものではないでしょうか。だくことは、だかれることだ。そう思います。もたれることは、もたれられることだ、とも似ています。支えることは支えられることだ。そんなふうにも言えるような気がします。手垢の付いたイメージですが、「人」という「漢字=感字」の感じでしょうか。もたれあう。
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「意識する」ということは「意識される」ことだ、とも思えてなりません。きょうは、以前から思っているというかイメージしている「夢の素」のひとつをお話ししたいのです。ちょっとややこしい話なのですが、お分かりいただけるように努力します。
では、その「夢の素」を呼び出します。何だかオカルトめいてきましたが、気にしないでください。その「夢の素」がぱちんと弾けました。
ヒトは「似ている」と「知っている・分かっている」を混同している。あるいは、「似ている」と「知っている・分かっている」とはきわめて近い。そんな思いを以前からいだいています。「似ている」というのは、「何か」と「何か」、あるいは「誰か」と「誰か」、あるいは「何か」と「誰か」、または「何か」と「誰か」と「どこか」のかかわり合いではないでしょうか。その「何か」と「誰か」と「どこか」に、「自分」が含まれている可能性はきわめて高いように思います。その点に興味があります。というか、考えてみたい点はそれです。
ヒトは「自分のまわり=世界」を見ています=知覚しています=意識しています。少なくとも、そう言われています。そういうことになっています。ヒトは、そう信じています。そうした状態・ありようを、とりあえず「『意識する』という言葉」で、呼んでみましょう。
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もしかすると、ヒトは「意識する」と同時に「意識されている」のではないでしょうか。ヒトは、「自分のまわり=世界」を見ていると同時に、自分自身をいわば鏡に「うつして=映して=移して」いる。見ているのは、「自分のまわり=世界」であると同時に「自分自身」でもある。
「自分のまわり=世界」と「自分自身」は「似ている」。未知のものであるはずの「自分のまわり=世界」を、ヒトは実は「知っている」。分からない=分けることのできない「自分のまわり=世界」を、ヒトは実は既に「分かっている=分けている」。
自分が今いちばん興味があるのは、そんなお話=フィクション=でまかせ=作り話=与太話なのです。こういう記事を書いた時には、後日「こんなこと書きました」で、「直接書かなかったキーワード」として、「ジャック・ラカン」「レフ・ヴィゴツキー」と記すところです。実際、上記の文章を書きながら、「ジャック・ラカン」と「レフ・ヴィゴツキー」という「名」の「夢の素」がぱちぱちと弾けるのを感じました。
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ヒトは「(意識的に or 無意識に)分かっている」しか「(意識的に or 無意識に)分からない」。そうも言えそうです。この点については、「出来レース」と「経路」というキーワードを用いて記事を書いたことがあります。
なお、「出来レース」に関しては、「もしかして、出来レース?」、「カジノ人間主義」、「かく・かける(8)」を、そして「経路」については「うたう」、「あわいあわい・経路・表層(1)」、「あわいあわい・経路・表層(2)」、「いみのいみ」、「記述=奇術=既述」、「3つの枠」で考察しています。興味のある方だけ、お時間のある時にでも、ご参照ください。面倒な方は、パスしていただいて一向にかまいません。この記事を読み進めるのには、全然支障はありません。どうか、このままお読み続けてください。
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「出来レース」と「経路」をずらすと、次のようにも言えそうです。
(A)ヒトは、生まれて間もなく誰か(※助産婦・医師・看護師・乳母・母親・父親など)に抱かれた時に、同時に「何か・誰か・どこか」を抱く。
そう思います。これが自他の「未分化」と呼ばれているものなのかに関しては知りません。「未分化」という言葉には抵抗があります。特に「未だに」というイメージに賛同できません。ヒトは、「いつまで経っても分化されない」というイメージはピンときます。体感できるし、日々体感しています。この時点でも、感じています。
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今度は、「抱かれる・抱く」をめぐる上のフレーズを、さらにずらしてみましょう。
(B)「抱く=抱かれる」は、「接触・触れ合い・関係性・一体感」を意識することである。その意識は確認である。つまり、「抱く・抱かれる」は、既に「織り込まれている」。
今書いたことが、いわゆる「本能」なのかもしれませんが、勉強不足の自分は「本能」がどんなものなのか、つまりその定義は知りません。おそらく、各分野の各学派、たとえば発達心理学・精神医学・生物学とその各学派において、「本能」の定義は「分かれている」だろうと思います。
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以上の(A)と(B)の両フレーズの根底に、「似ている」と「知っている・分かっている」という、きわめて近い行為があるように思えます。
ヒトは、自らが認識できる枠内で、「何かに似ているもの」を探している。その探索で「何かに似ているもの」らしきものを見つけたさいには、それは「未知のものの発見」ではなく、「知っているものの確認」である。でも、通常、それは、「未知のものの発見 or 遭遇」とか「知らなかったことの学習」とか「分からなかったことの習得」と呼ばれている。
そんなイメージです。その前提に立つと、「知る・分かる・分ける」より深いところに「似ている」という認識があるという気がします。さらに言うなら、というか、少しずらしてみると、「似ている」が「似せる・似せたもの・似せもの・偽物」とつながって、「本物・真実・事実・現実」と呼ばれているものこそが「偽物」である、と言ってもかまわない気がします。
短絡した言い方をすれば、次のようになります。
「本物」なんてない。ヒトにとって、森羅万象は、みんな「似ているもの」という意味での「偽物=似せもの」だ。
上記のフレーズを書く直前に、「ニーチェ」「ピエール・クロソウスキー」「シミュラークル」という「夢の素」が、ぱちんぱちんと弾けました。そのさまは、超小型の花火の炸裂のようにきれいでした。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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