かく・かける(2)

げんすけ

2020/08/17 08:03


 ギャンブルという英語の語源は諸説があり、そのなかでゲームと親類だという説に興味をもちました。「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」と並べてみると、「なるほど」と頷きたい気分になります。もっとも、game にはいろいろな意味があります。大きめの辞書で意味を調べると、驚くような語義もあり、想像力を刺激されます。いったい、どうつながっているんだろう、という感じです。


 個人的には、お金がらみの賭け事も、ある規則に沿った遊びという意味でのゲームにも、興味も縁もありません。いわゆる賭け事を最後にしたのは、大学1年のときに生まれて初めて1回だけやったパチンコでしょうか。宝くじは、もらったことはありますが、買ったことはありません。いわゆるゲームを最後にしたのは、10年ほどまえにPCでやった「ぷよぷよ」くらいでしょうか。囲碁、トランプはまったくやりませんし、自分が参加するスポーツもありません。まさに芸無の芸無し人生です。だからその反動で、ひとりでゲイ・サイエンス=楽問をやっているのかしらん。


 にもかかわらず、さきほど挙げた「人生は賭けだ」「人生はゲームだ」とつくづく感じているので、実際には、自分はれっきとしたギャンブラーであり、ゲーマーであると信じています。というわけで、自分にとっては、毎日がギャンブルであり、毎日がゲームなのです。真剣勝負です。


*ヒトである以上、「賭け」と「ゲーム」には無縁ではいられない。


 これは実感です。「賭け」とは、きのうの記事で述べた、半端じゃなく強いパワーをもつ「何か」に自分の身をゆだねることです。「ゲーム」とは、半端じゃなく強い拘束力をもった規則のようなものに従って生きることです。自由意志という言葉がありますが、そんなものが通用するような状況に、ヒトは置かれていない、という「諦め」に似た意識を強くいだいています。神仏は信じていないつもりですが、


*半端じゃない「何か」


を信じているのは確かなようです。


 特定の言葉を用いて何と呼ぼうと、とにかく、その「何か」としか言いようのないものが気になって仕方ありません。精神衛生上は、その「何か」を世の中に流通している=よく使われている言葉で特定し、その言葉を用いている人たちと一体感を共有するのが、いいに決まっています。でも、その特定の言葉が、今のところ見つからないのです。というわけで、個人的には、「人生は賭けだ」&「人生はゲームだ」くらいで、当面はお茶を濁しておきたいと考えています。


     *


 さて、前回の続きです。きょうは、「かく・かける」と、それと関係深そうな「かかる・かかり・かかわる」を、言葉のレベルで整理してみるつもりです。



*「かく」 : 書く・描く・画く・掻く・欠く・掛く・懸く・繋く・構く・舁く・駆く


*「かける」 : 掛ける・架ける・懸ける・賭ける・駆ける・駈ける・翔る


*「かかる」 : 掛かる・懸かる・繋かる・架かる・罹る・皹る


*「かかり」 : 係り・掛かり合う・掛り・繋り・懸り


*「かかわる」 : 関わる・係わる・拘る



 以上の言葉の羅列を見ていると、「かく・かける」と「かかる・かかり・かかわる」の多義性=多層性=豊かさに、あらためて驚かされます。すごいです。基本的に表音文字である大和言葉系のひらがなが、「漢字+ひらがな」という大発明である送り仮名で処理され変貌している様は、実に感動的です。奇跡に立ち会っていると言ったら、大げさでしょうか。でも、そんな感じなのです。


 とはいえ、ふと気づいてみると、何げなく使っているPCのワープロソフトの文字変換は、その「大発明」を機械が代行してやってくれているのです。この事実を噛みしめると、すごい、としか言いようがなくなってしまいます。実際、日本語を処理するワープロソフトはすごい。


 で、さきほどの言葉の羅列ですが、国語の専門家として、言葉をながめているわけではないので、その羅列をにらみながら、自分は自分なりに気になる点だけを、以下に書きとめておこうと思います。要するに、記事を書くためのメモ作成です。



*文字や文章を「書く・書ける」ということと、「賭ける」こととの「係わり合い」。


*「書く」と「引っ掻く」の「掻く」との「係わり合い」。


*「書く」と「描く(=かく・えがく)」とはどう違うのか?


*書き表す・書き込み・書き記す・書き付け・書き留める


*「掛ける」の多義性=多層性をチェック。


*駆け引き・駈け引き・掛け引き


*「掛詞=懸詞(=かけことば)」における、「掛ける・懸ける」が非常に「気に掛かる」。気掛かり・心掛かり


*願を懸ける・命を懸ける・神懸かり=神憑り・神に懸けて誓う


*賭け事・金品を賭ける・社運を賭ける・賭けに勝つ


*生活が懸かる・優勝が懸かる・メンツに懸けて・神に懸けて・賞金を懸ける


*目を懸ける⇒めかけ・妾


*目掛ける・めがく


*掛け合わせ(=交配)・○と△を掛け合わせて新種をつくる・掛け算(※割り算)


*かき回す・引っかき回す・掻き混ぜる=掻き雑ぜる・掻き分ける


*十字架・仮空⇒架空


*架け橋を渡る(※具体的)・夢の懸け橋(※比喩的)・未来への懸け橋(※比喩的)・友好の懸け橋(比喩的)


*「□とかけて○と解く。して、その心は……」のメカニズムは? このフレーズでの「かける」の意味は?


*医者に掛かる


*声を掛ける・掛け声・掛け合い漫才



 以上は大和言葉と漢字の戯れに注目しましたが、次に、気になる漢字を漢和辞典で調べ、特に「解字」(=文字の成り立ちの説明)に焦点を当ててみます。



*書 : 聿(※筆・ふで)+音符の者。一箇所に定着させる。紙や木簡に筆で字を定着させる。


*賭 : 貝(※財貨)+音符の者。集中する、つぎこむ。


*掛 : 圭(※ケイ)は、△型に高く土を盛るというイメージ。そこから転じて、/\型に何かを高くかけるイメージ。卦(※カ)は卜(※うらない)のしるしをかけるの意。掛=手+音符の卦で、/\型にぶらぶらさげておくイメージ。


*懸 :県は、首をひっくり返した形。つまり、首を切って宙づりのイメージ。縣(※ケン)は、県+糸(※ひも)の会意文字で、ぶらさげるということ。懸は、心+音符の縣だから、心が宙づり状態、つまり気持ちが決まらず、気がかりとなる。


*掻 : かゆいかゆいの蚤(※のみ)と関係あり。蚤の上の部分は、爪(※そう)、つまり「つめ」の形。それに虫が下の部分にある。つめでかきたくなるくらいかゆいかゆいの元となる蚤。掻=手+音符蚤となり、「手の爪で掻く」となる。



 蛇足とは思いますが、こうした「お勉強」は、


*「正しい」 vs. 「正しくない」ごっこという学問


をやっているのではなく、


*「正しくなくていいんだよ」の精神での、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しいお勉強ごっこ」


でやっているのです。


 ですので、上の文字の羅列や、漢字の解字は、


*こじつけって、めちゃくちゃ面白いし、楽しい


という気持ちで実行しています。


 もちろん、こうした「こじつけ」=「ほぼ学問」=「アラガク」=「around 学問」が苦手な方もいらっしゃるでしょう。どうか、あまり、真面目に=真剣に、眉間にしわを寄せたり、肩に力を入れたりなさらないように、お願いいたします。


 以上の記述が面倒くさいと思われる方は、読み飛ばしていただいて、いっこうにかまいません。


     *


 で、「かく・かける」を各種の送り仮名バージョンでながめたり、「かく・かける」に「当てた」漢字の解字を見ているうちに、「かく・かける」の中心的なイメージ=コア・イメージを自分なりに感じました。それは、


*芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の1シーンに似ている。


つまり、


*半端じゃない圧倒的なパワーの手から垂れた糸につかまって、ぶら下っているヒト


というイメージです。


 芥川の短編にある前後のストーリーは無視してください。ただ、


*ヒトが細いの糸につかまって宙ぶらりん


という状況だけが肝心なところなのです。そんなイメージを膨らませていると、一方で、糸にぶら下っているのがヒトではなく、クモにも思えてきました。


*何かに引っ掛かった細い糸に宙ぶらりんとなって、空気の流れに身をまかせて揺れ動いているクモ


 クモは糸を出して巣を作ります。その巣を英語では web と言いますね。そうです。インターネット= Internet の net の親戚の WWW = World Wide Web のウェブです。あなたとこのブログの開設者を結んでいるネット=ウェブ。web には、「織物」という意味もありますね。「織物」と言えば、text =テクスト=テキスト、つまり書かれたもの。


*クモの巣= web =織物= text =テクスト=書かれたもの


とつながってしまいました。


 こじつけ=ダジャレ=言葉の遊び=「存在の大いなる連鎖」=でたらめ=でまかせ=偶然などと、何とでも呼んでください。


 クモをイメージした場合には、巣を


*かける


という能動的な表現もある一方で、風に飛ばされて、糸が引っ掛かる、つまり、


*かかる


という、受動的=風まかせ的=なりゆきまかせ的=身をゆだねる的な、言い方もできます。実際、そんなふうに風に飛ばされて「引越しをする」クモを見たことがあります。個人的には、その受動的なイメージが気に入っています。うん、


*宙ぶらりん


でいきましょう。


 これが「かく・かける」のコア・イメージ=核となるイメージです。


     *


 いろいろ書いてありましたが、個人的に興味があるのは、特に、マラルメがらみの、


*「書く・書ける」と「賭ける」


なのです。


 この問題については、またじっくり取り組むことにし、少しだけ話題を変えましょう。


「もらって嬉しいもの」の話です。「信号論(1)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)でも触れましたね。病気以外なら、たいてい、何をもらっても嬉しいのではないかって話です。「もらう」というと、ふつう、具体的な「物」を思い浮かべませんか? 消費期限がある、生菓子に代表される「物」。スナック菓子みたいに比較的保存がきく、賞味期限がある「物」。


 これらはだいたいが食品ですが、電気製品のように保証期間が明記された、保証書付きの「物」。手作りの「物」。調度とも呼ばれる、家具や道具などの「物」。こうした「物たち」を、よその家の人や、身内からいただくということはよくあります。今、挙げた「物たち」の特徴は、


*手で触れたり、突いたり、場合よっては叩いたりできる


ということです。


 でも、「もらう」ものがすべて、そうかというと、どうやら、そうでもなさそうです。コドモの頃を思い出してください。小学校時代に、


*Oや◎


を、もらうのってとても嬉しかったですよね。


「よくできました」とか「たいへん、よくできました」なんて書いてあるスタンプを押して「もらう」のも、嬉しかったです。そのスタンプの延長上に、通知表の数字があります。5段階評価なら、「5、4、3、2、1」の順で、嬉しいとなります。もっとも、2や1だと、嬉しいというわけにはいかないかもしれませんけど。


「Oや◎」に、話をもどしますが、次のようなことを何かで読んだ記憶があります。確か、外国の小学校の話です。ある女性の先生が、児童のテストや宿題の「丸付け」をするさいに、赤インクではなく、青インクを使っていた。なぜなら、


*赤で「Xや/」のしるしを付けると、人の心を傷つける


からだ、というのです。


 正直言って、意外でした。なるほど、とは思いませんでした。あくまでも、個人的な感想です。みなさんは、今の話を読んで、どうお感じになりましたか? 赤のインクで記された「Xや/」を先生からもらって、それが単に「赤い」という理由で「グサッ」とか、「グサリ」とか、こころが傷ついた方は、いらっしゃいますか? 「うんうん、わかる、その気持ち」なんて、しきりに頷いている方がいても、驚きはしません。


 ただ、自分には意外な話でした。個人的には、色よりも、むしろ、大きく「Xや/」と描いてあったほうが、大きなショックを受けそうな気がします。絶対そうです。今、小学生にもどった気になって想像してみたら、実際に涙が出そうになりました。理屈より自分のからだを信じます。思いっきり大きな「Xや/」が描かれたテスト用紙や宿題帳が返ってきたら、きっと泣いちゃいます。「赤い」からではなく、「でかい」からです。


*しくしく ⇒ めそめそ ⇒ わーん!


でしょうね。


 それはそうと、青のインクやフェルトペンで描かれた「Oや◎」や「Xや/」って不気味じゃないですか? これも、個人的な感想ですけど、自分はそんなふうに感じます。もしかすると、現在のように、ピンク、薄めのグリーン、柔らかい色調のパステルカラーなどのボールペンや色鉛筆やフェルトペンがなかった時代の話だったからかもしれません。自分が、パステルカラーの水色で「Xや/」をもらったとしたら、強いショックを受けることはないのでは? と想像します。


 少々話がそれてきましたが、何を言いたいのかと申しますと、


*もらって嬉しいものとして、物体のほかに「印(しるし)」がある。


逆に言うと、


*もらって嬉しくないものとして、物体のほかに「印(しるし)」がある。


ということなのです。この理屈でいえば、お祝いや励ましの言葉、癒やしに満ちたメッセージなども、もらって嬉しいものだと言えます。逆に、悪態、罵倒、呪いの言葉などを、もらって嬉しくないことは言うまでもありません。


 で、ここでは、話が広がりすぎないように、あくまでも、


*何かの物体に、印した「印(しるし)」


に的を絞ります。


「印(しるし)」とは、もとはと言えば、尖ったもので引っ掻いた跡、筆で書かれたor描かれた墨の残りかす、染料や顔料の残りかす、乾いたインクの細かい粒、鋭いもので彫られたor刻まれた痕跡などであったりするわけで、「物体」とみなしてもいいわけですが、そこまで厳密には考えないでおきましょう。


*目で知覚できる痕跡


くらいに定義し、具体的には、


*ちょっとした「目じるし」から「文字」や「印鑑の跡or像or形」(※印鑑や判子そのものではありません)や「刻印されたものに映じる視覚的な像」


を指すものとします。つまり、視覚的イメージを重視します。


     *


 さて、言葉のフェティシストとしては、ここでまた、言葉=文字いじりがしたいです。短いものです。すみませんが、ちょっと、お付き合いください。


*しるし・印・標・徴・験・記し・著し


*しるす・印す・標す・記す・誌す・認す


*しるべ・標・導・知方


 以上です。


 3つめが上の2つと語源的に関係があるかどうかは不明ですが、楽問では、どうでもいいことです。上の言葉たちをながめていると、いろいろな考えやイメージが浮かんできます。それが楽しいのです。さて、さきほど定義したように、


*「印(しるし)」は「物体」ではなく、「視覚的イメージ=像=形」である。


とします。


「印(しるし)」のなかでも、日常的に使用され、しかも、きわめて重要な役割を担うものとしてハンコ=印鑑があります。このハンコについては、「あなたら、どうしますか?」と「やっぱり、ハンコは偉い」で、「表象」という考え方から詳細な分析をしていますので、ご興味のある方は、ぜひ、お読みください。もちろん、お読みにならなくても分かるように書きますので、安心してくださいね。


 で、ハンコの一種である「よくできました」というスタンプにしろ、赤インクの「○や◎」にしろ、通知表の上位の数字にしろ、なぜ、もらって嬉しいのでしょう? また、教室にある自分の机に「ばか」とか「あほ」と書かれた文字や、通知表の下位の数字や、赤インクの「Xや/」や「O(0点という意味です)」をもらうと、どうして嬉しくないのでしょう? たとえば、小学生時代にもどったつもりで考えてください。しょせん、「印(しるし)」です。数字です。文字です。なぜなのでしょう?


 きのうの記事で書いたばかりの文章なので、まことに恐縮ですが、どうしても必要なので、ここで以下にコピペさせてください。


(1)「表象」 : 「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」という代理=代行という働き=仕組みを利用したい場合に使用する。森羅万象が「表象」になり得る。


(2)「トリトメのない記号=まぼろし」or「記号」 : 「そっくりなものがずらりと並んでいる」and「そっくりなものが他の場所にも数多く存在する可能性がある」and「お母さんのコピーとして生まれたものの、お母さんの権威や支配とは無縁で、いわばコピーのコピーとして存在している」という特性を強調したい場合に使用する。森羅万象が「記号」になり得る。


(3)「ニュートラルな信号」or「匿名的な信号」or「信号」 : 「ノイズと熱が常に存在する環境において、「まなざし=合図」の発信と受信が、一方的、または双方的に行われる」というメカニズムを問題にしたい場合に用いる。森羅万象が「信号」になり得る。


 以上の(1)から(3)までが引用です。


「印(しるし)」をもらって嬉しかったり嬉しくなかったりするのは、「印(しるし)」が表象だからです。何の「表象」、つまり「代わり」なのかと言えば、成績、つまり、ある人のある時点でのある学科での出来具合であったり、ある人に対しての、おそらくクラスの誰かがいだいているネガティブな感情であったりするのです。同時に、「印(しるし)」は、「トリトメのない記号=まぼろし」であり、さらには「ニュートラルな信号」だとも考えられます。


「印(しるし)」を「記号」と考えた場合には、採点する先生は、学校の休み時間や、家での家事の合間に、せっせと赤ペンを走らせたり、その学期の各児童のテストの点数とにらめっこしたりして最終決断を下すという意味です。語弊があるかと思いますが、そっくりな製品を「流れ作業」で作るように、次々と採点し、次々と成績を決めるわけです。


 教師という仕事には、そうした単純作業の側面もあるのです。また、いじめっ子は、それなりに「流れ作業的」に、ある標的に対して「ばか」とか「あほ」とか書くという「仕事=作業」を終え、同じクラスメートに対して別の「仕事=作業」をするか、別のクラスメートを標的にして新たな「仕事=作業」に移るわけです。


「印(しるし)」を「信号」とみなす場合には、教師は、まさに曲線と直線から成る形を、ペンとインクという材料を用いて紙の上に記し=描いた形=像に、「成績」=「よくできましたねーorだめでしたねー」というメッセージを担わせたり、あるいは、偽装や偽造を防ぐために、5種類の数字のスタンプを、「通知表」と書かれた紙にポンポンと押していくのです。


 一方、いじめっ子は、標的のいない教室でこっそりと、または、他の児童の目などぜんぜん気にすることなく、にやにやしながら「ばか」なり「あほ」なりと、標的の机の上に、ボールペンか鉛筆かシャープペンで書くというわけです。「ばか」も「あほ」も、単なる曲線と直線からなる形であることは言うまでもありません。「信号」というレベル=「考え方」においては、その「信号」自体に意味やメッセージはありません。


     *


 以上、見てきたように、


*「表象」「記号」「信号」とは、森羅万象を対象とした「切り口」=「物の見方」である。


と考えていますので、たとえば、「印(しるし)」という対象を、3通りに切り分けることが可能です。この3つのツールを、その目的に即して使い分けることで、何かを説明するさいに、説明がしやすくなります。「かく・かける」というシリーズでも、今後、適宜に使い分けようと思います。


 これまでのブログ記事では、「表象」⇒「記号」⇒「信号」という具合に、3つのツールが支える形で、あるいは、生まれる形で、ブログのテーマの流れが形成されてきました。さきほどは、3通りのツールを用いて「印(しるし)」を説明してみましたが、今後の見通しとしては、


*「書く・書ける」と「賭ける」の係わり合い


という、以前から考え続けている、自分にとって非常に大きな問題をどういう「切り口」で書こうか、あるいは、どういうふうに「切り分け」ようか、迷っているところです。


 きょうは「かく・かける」という多義的=多層的な意味をもつ大和言葉系の言葉のうち、


*「書く」および「描く」と表記される「印(しるし)」


について考えてみました。


「書く」という行為を、考古学的および歴史的視点から論じることもできるでしょう。つまり、ピクトグラム(=絵文字)・トークン(=粘土製証票)・象形文字・楔形文字・エジプトヒエログラフ(=聖刻文字or神聖文字)・漢字などに注目するわけです。


 でも、自分としては、そうした作業に関心はありません。歴史が苦手なのです。むしろ、「今、ここにある」ものに注目し、手もちの知識と情報で間に合わせるという、きわめて無精で横着な方法を取る癖が身についているのです。


*「素人だから」


と言えばそれまでですが、それを、


*「素人だからこそ」


に転じる、図々しさ=厚かましさ=鈍感さで、ゲイ・サイエンス=楽問=「楽しいお勉強ごっこ」していこうと思っています。


 あすこそは、「賭ける」について「書ける」といいなあ、と願を「かける」つもりです。マラルメ師のご降臨を、ひたすら待つのみという感じです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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