代理だけの世界(2)

げんすけ

2020/09/07 09:29


*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。


*代理の仕組み


 相変わらず、上述のフレーズについての与太話です。


     *


 まず、当然のことを確認しておきますと、この駄文は言葉、正確に言えば話し言葉、もっと正確に言えば文字で書かれています。


 今、ある操作をいたしました。


*言葉 ⇒ 話し言葉 ⇒ 文字


 このように、「言い換え=書き換え=転換=変換=心変わり=裏切り=翻訳(※ 翻訳者は裏切り者だとかいうことわざが西洋にあるそうです)=気まぐれ」をしました。こうした操作を「代理の入れ替え」ととりあえず呼ぶこともできそうです。


 やたら「=」を使って、言葉をつなぐのも、一種の「代理の入れ替え」でしょう。


 この操作について、考えてみます。


 この操作について考える場合にも、「代理」を使い、「代理の入れ替え」を使わざるを得ないところがもどかしいし、悔しいとも言えるし、ちょっと「見方を変えれば=気分転換をすれば」、そのもどかしさと悔しさが快感に転じるなんて、「楽しい=おもしろい=倒錯した=興味深い=馬鹿みたいな」ことも起こります。


*痛いけど気持ちいい。痛いから気持ちいい。


 そんなことを体感なさったことがおありではないでしょうか。あくまでも個人的な思いですが、それとちょっと似ています。


 とにかく、ヒトとして生きている限り、「代理」と「代理の仕組み」を「免れることはできない=避けられない=なしではいられない=依存している=中毒状態にある=常態化している」みたいなのです。


 というか、そういう「前提=思い込み=妄想=とちくるい」に基づいて、「駄文を書いています=恥をかいています=汗をかいています(あっ、これは嘘です)=顎の下辺りを掻いています(これは、考え事をしている時の癖です)」。


     *


*代理が何を代理するのかは、不明である。


 そういうわけですので、さきほどの「言葉 ⇒ 話し言葉 ⇒ 文字」という言い換えの操作は、あくまでも「代理の入れ替え」であり、その三者が「代理をし合っている」と言えても、その場合の「代理し合う」という言い方は、「『何か』の代わりに『何かではないもの』を用いる、つまり、代用する」という「代理の仕組み」における「代理」とは「ニュアンス=意味=イメージ」が異なるみたいなのです。


 ややこしくなってきたので簡単に言います。


「言葉 ⇒ 話し言葉 ⇒ 文字」という言い換えは、いわば「代理ごっこ」であり、「代理が何を代理しているかの解明」ではないということです。


 お分かりいただけたでしょうか。


「代理が何を代理しているかの解明」は、「代理の仕組み」を採用し実行している限り、不可能なのです。一方で、「代理ごっこ」は人の「常=常態=自然体=ヒトであれば大人も赤ちゃんもやっていること」です。二者の差は大きいというか、質的に異なるものだという気がします。


     *


 話を戻します。


 まず、当然のことを確認しておきますと、この駄文は言葉、正確に言えば話し言葉、もっと正確に言えば文字で書かれています。つまり、代理を使って代理について論じようとしています。でも、代理が何を代理しているかは分からない仕組みになっている、という前提で、話を進めています。


 これは、「ものごとを解き明かす=究明する=分かる=発見する=真理に到達する=雲が消えて晴れていく=はっきりくっきり見えてくる」という「運動=志向=指向=嗜好=施行=思考=試行=至幸=歯垢」とは、ほど遠いと言わざるを得ません。


「分かんない」をめぐって、堂々巡りをする。そんな言い方もできるでしょう。


 どうして、そんな馬鹿みたいなことを、あえてやっているのでしょう? 馬鹿みたいなことをしているのは、「馬鹿=愚鈍=愚かで鈍い=アホ」だからです。アホがアホの確認のためにアホをやっている。アホの、アホによる、アホのための、アホ。なかなか言えていると思います。マジで思います。


 ところで、馬鹿だの、愚鈍だの、アホだの、差別語と取られかねない、罵倒をしたり悪態をつくさいに用いる、誠に品のない言葉を使っていることを、お許し願います。


 ついでにお許し願いたいことがございます。この駄文は、確かに罵倒であり悪態であります。また、馬鹿だの、愚鈍だの、アホだのと呼んでいる対象は、この駄文を書いている者を含むヒトという種であります。投げた石は返ってくる。ぶーめらん、ブーメラン。重ねて、ここで深くお詫び申し上げます。


     *


 わたしは、おまえとは違って、馬鹿でも愚鈍でもアホでもないぞ。人間様だぞ。ホモ・サピエンス=英知人だぞ。


 そうおっしゃる方がいらっしゃるのは、承知しております。お山の大将、いや人間様、つまり年がら年中発情しているエッチ人、いや英知人の中で、多数決を行ったとするなら、圧倒的大差をもって、ヒトが馬鹿でも愚鈍でもアホでもないという「説=言葉のかたまり=代理の塊=フィクション=物語=神話=お話=語り=騙り=ペテン」が「正しい=理にかなっている=真実である=事実である=当たり前だのクラッカーorくっきー!」とされることも承知しております。


 というわけで、この駄文は文字通り駄文であり、文字通り与太話であり、文字通りガセであり、文字通りでたらめであり、文字通り出まかせであります。


「文字通り」=「言葉通り」=「代理通り」そうでございます。異存はまったくありません。あるはずがございません。なにしろ、「代理通り」なのですから。


     *


 さて、この「駄文=与太話=ガセ=でたらめ=出まかせ」が「駄文=与太話=ガセ=でたらめ=出まかせ」であるという「スタンス=おたんこなす」がはっきりしたところで、話を進めさせていただきます。


 すべてのヒトによる言葉、もっと正確に言うなら、書き言葉も含め、短いものから長いものまで全部含めての言葉は、「与太=ガセ=でたらめ=出まかせ」です。なぜなら、この駄文は「与太=ガセ=でたらめ=出まかせ」だからに他なりません。そういう「約束事=ルール=文法=指切りげんまんハリセンチョップ」に従って、この駄文は書かれているという意味です。


 繰り返します。


 すべてのヒトによる言葉、もっと正確に言うなら、書き言葉も含め、短いものから長いものまで全部含めての言葉は、「与太=ガセ=でたらめ=出まかせ」です。


     *


 大切な部分を、簡単に言うと次のようになります。


*あらゆる言葉はでたらめである。


 ちょっと説明的に言うと次のようになります。


*あらゆる広義の言葉つまり代理はでたらめである。


 代理だけの世界とは、必然的にそうした様相を呈することになります。


 くどいですが、申し添えます。この駄文は「与太=ガセ=でたらめ=出まかせ」に他ならないという「約束事=ルール=文法」に従ってのお話です。誤解なきよう、お願い申しあげます。


 ただし、     


*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。


*代理の仕組み


 以上の前提に立たない場合は、上述の「代理だけの世界」の様相を免れることができます。そのほうが、精神衛生の面で良いことは言うまでもありません。


 つまり、


 次のようなスタンスを取るのです。


*代理の正統性=正当性を信じる。


*「代理の代理による代理のための代理」=代理至上主義=お内裏様様しゅぎぃをモットーとし、さらに実行する。


 以上二つのフレーズを読み返してみると、別に意識しなくても、ヒトが日々実行していることみたいですね。この駄文が文字通り駄文であることが証明されたようです。


*「代理の仕組み」は圧倒的に強いが、「代理そのもの」も強い。おそらく、後者のほうが強い。なぜなら、ヒト自体が代理と化しているからだ。


 これが結論だと言えそうです。


 ちなみに、こうなるのは、


*ヒトは「代理の仕組み」を否定できるが、「代理そのもの」が「いる・ある」ことは否定できない。


からでしょう。脳が脳を否定できないのと似ていませんか? それは no-no なのです。あくまでも、「代理」としての「脳 = no 」にとってだけの「話」なのですけど。


 というか、そもそも代理だけの世界において、ヒトが代理ではないなんて事態はあり得ないわけです。ヒトは代理至上主義の代理店・代理人・代行業者=エージェントなのです。ちなみに、エージェントがエージェントを利用してもぜんぜん不思議ではありません。お医者さんが病気になってお医者さんにかかるのと同じ。葬祭業者さんがいつの日にか葬祭業者さんのお世話になるのと同じ。てか、かつら屋さんがかつらをかぶるのと変わらねえずら。


 要するに、ヒトは特権的地位にいないし、メタな視座を与えられてもいないとも言えそうです。唯一、特権があるとすれば、代理の仕組みという与太話の作者として与えられた=自分に付与した著作権でしょうか。そうだとすれば、まことに皮肉な=じつに名誉な=当たり前だのくっきー!な話と言わざるを得ません。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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