はかる -2-
星野廉
2020/09/25 11:48
のっけから出まかせを言わせていただくのを、お許しください。当ブログでは、「出まかせ」こそがヒトのすっぴんのありようだと考えています。どういうことかと申しますと、「論理的思考」、「道理を詰めて考える」、「筋道を立てて話す」といった「美辞麗句=きれいごと=厚化粧」に異議を唱えているのです。
今述べたような、ヒトという種がいったん口走ってしまった言葉、つい付けてしまった名前、なぜか貼ってしまったラベルの心地よい響きに、惑わされないようにしましょう。これらのフレーズは、ヒトが物事を考えるさいに、よりどころとなる道具というより、むしろ思考停止を促し、楽をするための玩具に成り下がってしまった。そう申し上げたいのです。
「考えること」「思うこと」「言葉をもちいること」は、本来、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろのはずです。ヒトは、その「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」を、「すっきり」「くっきり」「はっきり」「すぱっつ」にすり替えてしまうという、横着を覚えてしまった。今挙げた擬態語を「論理的思考」、「道理を詰めて考える」、「筋道を立てて話す」といった、格好よく響くが意味不明のフレーズと取りかえてしまった。こうしたインチキは、その場しのぎでしかありません。
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素直に、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」に立ち向かいましょう。そのさいにヒトの頭or心or意識に浮かぶのは、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」であり、口から出るのは「出まかせ」でしょう。親、先生、先輩や、その親、その先生、その先輩……たちが、引いた線や筋、つまり、様式化されたフレーズ=決まり文句=紋切型をもちいて、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」を「すっきり」「くっきり」「はっきり」「すぱっつ」という具合にすり替えるのはズルいです。
そうしたすり替えは、出来レース=八百長=やらせです。そうではなくて、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」に、身を任せるだけの正直さと誠実さを取りもどしませんか。そんなスタンスを「すっぴん」と呼んでいるのです。
「自分の頭と言葉で考えよう」などいう、美辞麗句とは違います。「じゃあ、どうすればいいんだ」という疑問が湧くのは当然のことです。それです。「どうすればいいのか」を考えるのです。ひとさまに、即座に「答え=紋切型のフレーズ」を尋ねたい気持ちを抑えましょう。
誰々が何々と書いたor言ったことを「参考にする」のも、いいでしょう。でも、それをそっくりそのまま借りて=盗んで、「考える」「思う」の手抜きの材料にするのでは、芸がなさすぎます。格好悪いとか言って体裁などを気にせず、「わからない」「どうなってるの?」「こんなん頭に浮かんだけど」「これ、どういうこと?」「なんでこうなるの?」「アホちゃうかと思われるかもしんないけど、こんなこと思ったの」という調子で、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」しませんか。
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「これはねえ、きみ、もう、○○が1世紀前に解決した問題なの」「それはねえ、哲学で言う△△という誤謬なのよ。勉強不足じゃない?」「あっ、そのことね。事実誤認。で、次の質問は?」「これについては諸説があって、私の意見としては□□が▽▽で書いた××が、正しいと思うの」「どうして、そう言えるのかだって? きみぃ、☆☆学派の♯♯が言ったことなんだよ。わかんないの? 頭悪いね」
「一目瞭然じゃないか。見ろよ、この数字。○○機の売り上げが前同時期比でXX%の減収じゃないか」「でも、顧客の満足度を示す値では――」「満足度? そんな言葉は、信用しないね。何がヒューマンでソフトなマーケティング戦略だ。社長は、例の経営コンサルタントに洗脳されているんだ。ハード面での数字を見ないと、命取りだぜ。ほら、○○機の中枢にあたる、この部分での不具合が、YY.ZZ という数字になって出ている」「ソフトじゃなく、ハードですね」「その通り。工場長を通さず、現場のエンジニアと相談しよう」
今挙げた発言は、もちろん、単純化したサンプルです。あえて、どの分野とは名指しませんが、ある作業を行った結果が、見えるなり、手で触れることができるという具合に体感しにくい領域で、よく口にされる「決まり文句」を紹介したまでです。文系の学問分野であろうと、理工系の領域であろうと、ものをつくる場であろうと、サービス業の職場であろうと、以上に類した言い方で、ものごとが「分かった」「考えられた」「解決した」「作業が完了した」「問題点が明確になった」と言われる状況を経験なさったことはありませんか。
共通しているのは、「当たり前」「決まったこと」「正しいとされていること」「適切だと思われていること」「客観的だとみなされていること」「信頼できるとされる数値」が前提となって、物事が運営される事態が進行している点です。こういう状況を、「すっきり」「くっきり」「はっきり」「すぱっつ」が、「すいすいと」「粛々と」「整然として」「着々と」「着実に」「滞りなく」「万事順調に」進んでいるさまである、と言ってもかまわないかと思われます。
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でも、トラブルとか、問題とか、スキャンダルと呼ばれている事態は起こります。どんな分野でも起こります。たとえば、世界屈指のノウハウを有し、経営基盤や人材の面でも、トップに位置すると言われてきた、ごまかしのきかないはずの理工系の粋を集めた企業でも、大トラブル、大問題、大スキャンダルが起きます。現に起きつつあります。
ところで、自分は何を書こうとしていたのでしょう? ちょっと、ここで記事を読み直してみます。
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…………。
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失礼をいたしました。ある「出まかせ」を書こうとして、「すっぴん」という比喩をもちいたあたりから、話が大きく逸れはじめたことを確認しました。まず、「すっぴん」から片づけます。
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ものごとを素直に「考えること」「思うこと」「言葉をもちいること」に伴う「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」に、身を任せるだけの正直さと誠実さを取りもどそう。そんなスタンスを「すっぴん」と呼んでいるのです。
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で、冒頭で書こうとした「出まかせ」ですが、「はかる」では「基準」が重要な役割を果たし、「わかる」では「基準」はないのではないかという、きわめて根拠が薄弱な、単なる「イメージ・印象・勘」なのです。
自分の場合、ブログ記事を書くさいには、前もって、走り書きメモをつくっておきます。これは、たいていが、新聞の折り込み広告で裏が白いものを、カッターナイフで適当な大きさに切り分けたものに書かれています。下書きの段階では、そのメモを見ながらパソコンに向かい、ばあーっという感じで一気に、いわばアドリブで文章を入力していく癖があります。それを記事として投稿するわけですが、悪い癖があって、いったん掲載した記事をモニターで読み直しながら、「清書」をするのです。
その「清書」について、複数の読者の方から、これまで何度もお叱りのメッセージを頂戴いたしました。午前に軽く目を通した記事を、午後に読み直そうとしたら、どう考えても、文面が変わっているようだが、実際にはどうなのか。そういう意味のお問い合わせを何度もいただいております。申し訳ありません。確かに、モニターを見ながら、「あっ、誤字だ」「あっ、脱字だ」「あっ、こんなことを書いている」「あっ、ここは書き改めたい」という感じで、家事の合間に文章をいじってしまうのです。
ブログとしては比較的長い記事を書いているせいか、下書きの段階でワープロソフトをもちいてつづった文章と、ブログ記事として投稿し終わったモニター上の文章が、ずいぶん違うように感じられるのです。文面というか内容まで異なっている気がする。そんなことが、ざらにあります。不思議でなりません。やはり、あやういのでしょうか。
午前中に記事を投稿することが多いのですが、その時間帯には、親の介護を含め、家事・雑事がいろいろありますので、数回に分けて文章をいじっているうちに、最終的にはかなり違った印象の文面になってしまう場合もあります。ごめんなさい。今のところ、そんな書き方しかできないのです。ご理解を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
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またもや、一瞬、何を書いていたのか分からなくなりました。ただ今、さらにもう一度冒頭から読み直してみて、「基準」について書いていたのを思い出しました。ちなみに、このように文章をアドリブで書いていて道草をし、途中で何を書いていたのかが分からなくなった場合には、下書きの段階で整理をして書き直すということはしません。
「いま、ここで」や「手持ちの知識や情報」を大切にしたい。あくまでも「考えながらつづるプロセス」を優先し、「考えてつづった結果」はどうでもいい。ほぼそんな態度で、ブログを書きたいと思っているからです。テキトー、ものぐさ、横着、アホ――そんなご叱責の言葉が聞こえてくるようですが、「すっぴん」でいきたいと考えております。とは言うものの、正直申しまして、若干の後ろめたさはあります。
当ブログでは、投稿した記事がある程度溜まったところで、「こんなことを書きました」を掲載していています。自分が何を書いてきたのかを確認するため、つまり頭の整理だけでなく、アドリブで書いた記事の中で曖昧なままにしていた書名や人名を調べて「直接書かなかったキーワード」として明記することもあります。また、ひとさまに記事の文意を分かりやすく要約するという目的もあります。ちなみに「直接書かなかったキーワード」については、「夢の素(1)」で、詳しく説明していますので、その部分だけでも、ちらりとご参照願えれば嬉しいです。
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話をもどします。
「はかる」という行為には、「基準」があるというのは、よく考えれば当たり前のことです。2通りの意味で当たり前です。(1)秤や計器には、目盛という名の「基準」がある。(2)「はかる」さいには、観測する者の位置・意思・思惑・利害という名の「基準」を考慮しないわけにはいかない。という感じがします。感じがするだけです。
一方、「わかる」という行為では、「わける」という作業が根底にありますから、「わけてみないことには、わからない」という仕組みが想定されます。したがって、前もって判断のよりどころとなる「基準」というものの入り込む余地はなさそうだという気がします。ただし、白黒がはっきりしているor白黒をはっきりさせる作業が「わかる」という行為・状態ですから、「基準」ではなく「根拠」と呼べるものが、「わかる」きっかけとなる、「わかる」を促す気がします。気がするだけです。
感じがする。気がする。という、まことに心もとない話なので、さきほど「出まかせ」とお断りをしておきました次第です。さらに出まかせを言わせてください。
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「はかる」はヒトという枠内でのいわば「確信犯的」かつ「テキトーな」行為であるのに対し、「わかる」はヒトという枠外へと、身の程もわきまえず侵犯しようといういわば「無鉄砲で」かつ「賭けに等しい」行為だと言えそうです。「はかる」では、ダメモトに近い軽い気持ちで秤に「かける・掛ける・翔る・賭ける」。「わかる」では、マジで白黒のどちらかに「かける・掛ける・駆ける・懸ける・賭ける」。そんなイメージでしょうか。
以上のように書くと、前回の「はかる -1-」で、「殺伐とした」とか「血生臭い」と形容した「わかる」が、ドンキホーテ的というか、不可能性に挑むトホホな行為に思えてきます。一方、前回、「ほんわかした」とか「雲をつかむような頼りない」と書いた「はかる」のほうは、計算ずくかつ狡猾でありながら、結果をそれほど重視してはいない、ちゃらんぽらんな行為に感じられます。でも、実際、そうなのではないでしょうか。
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◆はかる -2- (後半)
「わかる」から考えてみましょう。
「わかる」という行為は、ヒトが不可能性に挑戦することです。客観性・真実・事実・現実といった、ヒトという枠の外への志向が前提となっています。ヒトは「わかる」という言葉を発し使用することはできても、「わかる」という言葉が指し示している行為を、ヒトが「期待する」ほどまでには実現できません。
「わかる」を目ざして「わけてみる」。その結果、「わかった」と言えても、心の隅では「わかってはいない」気がする。「わかった」と文字通り言える気がする場合もある。しかし、それは賭けでたまたま「当たった」感じがしないでもない。それは、「何かの代わりに何かではないものをもちいる」という、ヒトにとって不可避な仕組みが働いているからです。
つまり、「わかる」の対象は、「何か」ではなく、あくまでも「何かではないもの=何かの代わり」だからです。その仕組みに敏感な人は、悔しいとか、もどかしく思う。鈍感な人は、「わかった」と狂喜するか、当たり前だと思い平然としている。
このように、「わかる」は、不可能性や不確実性や限界性と、いわば「表裏一体」の関係にあります。その意味で「わかる」と「わからない」とを隔てる「基準」を設定する余地はないと考えられます。むしろ、「わかる」という、いわば「確固としたor後ろめたい幻想」のよりどころとなる「根拠」と呼ぶにふさわしい「判断材料」が、「わかる」を支えています。
以上のようにイメージしています。蛇足ですが、イメージですから、個人的なレベルでいだいている感想です。
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次に、「はかる」を考えてみましょう。
「はかる」という行為は、ヒトが自らの可能性らしきものに挑むことです。なぜ、「可能性らしき」なのかは、上述の「何かの代わりに何かではないものをもちいる」という仕組みが働いているからです。数、長さ、重さ、量といった一連の「もののありよう」を、感覚器官を通して、つまり、あくまでも「何かではないもの=何かの代わり」として「とらえる」ことが基本です。
感覚器官に加えて、道具を用いて、目盛、数値に「置き換える」(※これも「何かではないもの=何かの代わり」をもちいることにほかなりません)という作業を、ヒトは「つくり上げて」きました。たとえ、道具をもちいても、最終的には五感によって「とらえる」という限界性(※言うまでもなく「何かではないもの=何かの代わり」として「とらえる」という意味です)があります。その限界性を構成する要素の一部に、「はかる者=観測者」の位置・意思・思惑・利害が挙げられます。それが、「はかる」行為に不可欠な「基準」を成り立たせています。
ふつう、ヒトは目的になしに、はかることはありません。何らかの「思い・思う」があって、それを満たしたり、実現するために、「重み・重い」をはかります。その目的は、確固としたものであったり、気ままであったりします。
ヒトには、「はかる」行為について高をくくっている向きがあります。「はかる」行為自体が、それほど難しい作業ではなく、また、「はかる」ことに失敗しても、それほどがっかりすることではないと思っているからです。
以上のようにイメージしています。
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「わかる」がヒトという枠外を志向し、「はかる」がヒトという枠内での行為であるという点について、説明を加えます。
「わかる」は、「おもい・思い・想い・重い・おも・面」を、ヒトの限界性=壁=障害物ととらえて、それを打ち破ろうとする意思に支えられています。「知覚器官⇒シナプス⇒脳」という「信号=データ=情報」の流れを経て、意識や認識や行動と呼ばれるものに至るプロセスの外にある、「何か」としか名づけるしかない「もの・こと・さま」を「とらえようとする」行為だと言えそうです。
「はかる」は、ヒトが自分の「おもい・思い・想い・重い・おも・面」の枠内で「とらえられる」「もの・こと・さま」を、「とらえる」以上の行為を求めてはいません(※それ以上の行為を求めるのは、「わかる」のほうです)。また、ヒトには、自分の「おもい・思い・想い・重い・おも・面」が、かなり不安定で、当てにならないものだと、あきらめている節があります。したがって、「はかりそこなう」=「とらえそこなう」ことがあっても、それほど失望しないと考えられます。
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「はかる」と「わかる」とが別個の行為であるとみなせる場合と、両者が重なっているか、両者とは無関係とみなしたほうが妥当だと考えられる場合があります。具体的にみていきましょう。
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*「はかる」の要素が強い場合 :
(1)寒気がして、熱っぽい感じがするので、体温計で体温を測る。
(2)帰宅したばかりの夫が浮かぬ顔をしているので、会社で何か良くないことがあったのではないかと、夫の気持ちを推しはかる。
(3)子どもの誕生日のお祝いに何を買ってやれば喜ぶかと、子どもの気持ちをはかる。
(4)○○社で大規模な商品の回収問題が発生したために、関係する企業の従業員として、そのトラブルの重みを考える。
(5)父親を交通事故で亡くしたばかりの友人の気持ちを思いやり、自分がその立場に置かれたらどういう気持ちになるだろうかと想像する。
(6)廊下の足音を聞いて、兄が帰ってきたと思う。
(7)ポーカーで、相手を観察し、これまでの経験を総合して、その手札を読む。
(8)その日の親の言動から、もうすぐ説教を始めるつもりだなと察する。
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*「わかる」の要素が強い場合 :
(1)患者の体温と血液検査の数値を見ながら、医師がその患者の容態を観察し、医師用のマニュアルを根拠に診断名を決定する。
(2)最近さえない顔をしている夫について、会社の同僚と話して様子を探り情報を得て、退社後の夫を尾行し、確たる証拠を押さえ、夫がある女性と浮気をしていることを発見する。
(3)子どもの誕生日祝いに、新しい自転車を買ってやろうと考えていたが、子どもが自らお祝いの品としてゲーム機を欲しいと言ったので、そちらを買うことに決める。
(4)○○社で大規模な商品の回収問題が発生し、その子会社に勤める女性が、○○社の株価が××円まで急落した時点で、以前に無理やり買わされた○○社の株式を全部売却ようと決心する。
(5)父親を交通事故で亡くしたばかりの友人が、自殺を図り重傷を負ってN病院に入院しているのを知り、さっそく見舞いに行くことにする。
(6)廊下の足音を聞いて、兄が帰ってきたと思ったので、兄に貸していたMDを返してもらおうと部屋から出ようとしたが、兄の彼女のYの声も聞こえたので、遠慮して部屋に留まることにする。
(7)ポーカーで、相手を観察し、これまでの経験を総合して、その手札を読んだつもりだったが、相手に□□万円の借金があることを思うと、気が引けてきたので、この勝負ではわざと負けてやろうと心変わりする。
(8)その日の親の言動から、不穏な気配を感じていたが、幼い弟を折檻し始めたのを見て、家から飛び出す。
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*「はかる」と「わかる」が重なっていたり、からみ合っているとみなされる場合、および両者とは無関係とも考えられる場合 :
降水確率・株価指数・消費者物価指数・偏差値・知能指数・うつ病診断のための「はい・いいえ・どちらでもない」で答える質問票に基づく診断結果・星占い・手相・字画に基づく姓名判断・血液型性格診断および占い・スピリチュアル関連の書籍および自己啓発書に書かれたフレーズ――を根拠として、何らかの判断をする。
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「はかる」を「わかろう」として「わけて」みる。すると、「はかる」には、とりあえず「基準」と名づけてもかまわないと考えられるものがあり、「わかる」には、とりあえず「根拠」と呼んでもかまわないと思われるものがあるようです。「わかり」やすく説明するなら、要するに、「はかる」には主観的判断が関与している度合いが強く、「わかる」には客観性を必死で目指している力み・気迫・野心が感じられます。
「はかる」というと、客観的なイメージがありませんか。たとえば身長が168センチ体重51キロなんて数値化されて出てくるのが、「はかる」の結果です。でも、これって「客観的」という言葉が指し示している「客観性」を満たしているのでしょうか。ご存知のように、長さなり重さの「基準」とされるものは、何国共通ではありません。メートル法が幅をきかせるようになったのは、ヒトの歴史では、つい最近のことです。
「度量衡」という言葉があります。「長さと容積と重さ」と広辞苑では定義しています。「はかる・測る・量る・計る」の対象となる「もの・こと・さま」はいろいろあるでしょう。でも、いくら数値化できると言っても、その背景には、「はかる」うえでのヒトの目的・意図があり、TPOにより、「はかる」の目的・意図がまちまちであっても不思議はありません。それを「客観的」という名で呼んでいいものでしょうか。
出まかせを言わせてもらいますと、「はかる」の結果となり得る「数字」は「名・言葉・語」と同じで、レッテルだという気がします。つまり、それ自体に意味も忌もイメージもなく、ニュートラルなものです。「意味・忌・イメージ」は、ヒトが「勝手に=恣意的に=テキトーに=気分次第で」「決める・いだく」ものではないかと思います。
ところで、さきほど例に挙げた身長と体重ですが、ヒトはなぜそのような「もののありよう」をわざわざ「はかる」のでしょう。不思議に思いませんか。たまたま、お遊びではかったとは考えられません。「はかる」側に何らかの目的・意図があり、また、いったん「はかる」が実行されて「出た」「結果」には、「つかう」側(※「はかった」側と一致するとは限りません)の何らかの目的・意図にそって利用されることになるのではないでしょうか。
たとえば、高校で計測された、ある人の身長・体重が、その人が何らかの事件の容疑者or被害者とみなされ、その行方が知れない場合に、捜索のさいの重要なデータ=根拠とされる場合が予想されます。政府が徴兵制を検討・準備する時に、資料のデータの1つとなっても、驚くには当たりません。
「はかる」が実行されて結果が出た以降、「はかる」側と、出た結果を「つかう」側とは必ずしも一致せず、両者の目的・意図も、必ずしも一致しない。これは、ズレが生じるということです。しかも、そのズレは軽視できない。そんなふうに思われます。
「はかる」の結果であるかどうかを問わず、個人情報と呼ばれているもの――アンケートへの回答、生年月日、年収、健康診断の結果の数値など――が、流出し利用されるケースや事件が後を絶ちません。自分が被害者になった場合を想像すると、わかりやすいと思います。
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一方、「わかる」を支えている「根拠」ととりあえず呼んでいるものは、ヒトという種のレベルにおいてきわめて「主観的」なものでありながら、「客観性」という言葉でヒトが目指しているものを強く求めている感じがします。
「わかる」ための「根拠」は、「はかる」ための「基準」のようには、必ずしも数値化できるとは限りません(※数値化できるかどうかの是非とは別に、数値化されているものがかなりの数に上るもようですけど)。でも、ヒトがしばしば重要視する数字には、ヒトが期待するほどの重要性は認められないようなので、数値化そのものにそれほどこだわる必要はないと思います。理工系の方は、数値の裏にいかに人間臭い動機や思惑があるかを、よくご存知のことと思います。問題は、数値を扱うヒトの側にあります。
数字・数値自体は、言葉・語と同様に、ニュートラルなものです。比喩的に言えば、「もの」です。ただ、「もの」はヒトが、ある目的・意図をもって、ある視点・立場から、恣意的に・自分の都合に合わせて、捏造する・でっち上げることが可能です。「はかる」ための「基準」としてよくもちいられる数字・数値、あるいはデータ・情報と呼ばれる「もの」は、「わかる」ための「根拠」と同様に、「すっぴん」では、かなり「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」としたものであるにもかかわらず、「厚化粧」をほどこした「すっきり」「くっきり」「はっきり」「すぱっつ」に、「化けている」というか「化けさせられている」と言えそうです。
粗雑な言葉をもちいて単純化するなら、「もの」に「解釈」が行われるということです。「もの」を「読む」という比喩も可能かと思われます。ここで、「はかる・計測する」は「わかる・理解する」と同様に、いわゆる「文芸批評」の対象に、かなり近づくとも言えそうです。つまり、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」の対象になり得るということです。
「はかる」という行為の目的・意図にまつわりついている「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」と、「はかる」という行為を実行した結果を「解釈する」という行為に密接にからみついている「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」をまるで存在しないかのように装うのはやめませんか。むしろ、積極的に「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ、うじうじおろおろ」と戯れてみませんか。
「科学的」という言葉が、「何か」を志向する・指向する・思考する・施行するのであれば、それは「まやかし」によって「すっぴん・のっぺらぼう」を「厚化粧する・仮面をかぶせる」ことではなく、「すっぴん・のっぺらぼう」を直視し、認める・見留めることだと思います。「見る・観察・観測」することを止め、「すり替え・糊塗」に傾いた行為は、「科学」の名に値しないと言ってもよさそうです。
いわゆる理系の領域に属すると考えられがちな「はかる・計測する」という行為について、このところいろいろ考えているうちに疑問に感じたことを、ブログ記事を書くさいの、自分のごちゃごちゃおろおろぶりと重ねながら、今回はとりとめもなく、つづってみました。話が、隠喩的で抽象的になってしまいました。ごめんなさい。悪い癖だと反省しています。次回は、「はかる」をめぐる言葉たちに寄り添いながら、具体的に論じていこうと思います。
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うじうじおろおろとしたお話を、辛抱強く、ここまで読んでくださった方に、感謝いたします。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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