あわいあわい・経路・表層(2)
げんすけ
2020/07/28 12:57
【※以下は、本日掲載の「あわいあわい・経路・表層(1)」の続きです。】
2)生得的な「経路」について
きょうの記事は、
*きのうの記事の注釈=変奏
となることが明らかになってきました。ですので、横着をして恐縮ですが、またもや、きのうの記事から引用させてください。
★*筋=広義のストーリーのあるもの
を列挙してみましょう
*歌・音楽・踊り・能・オペラ・演劇・物語・小説・神話・経典・映画・テレビドラマ・ゲーム・人生・生活・歴史・未来図
こうなると
*「何でもあり状態」
になってきます。実際、そうなのでしょう。何でもありぃ~って感じです。
で、その
*筋=広義のストーリーを「なぞる・あとをたどる・そう・つける・つきそう・くっつく・くっついていく・まねる・ならう」という運動・動作
が、すごく気になるのです。ひょっとすると、この運動・動作が、
*わくわくどきどきじりじりの正体
ではないでしょうか。で、上のフレーズをもっと長くしてみます。
*筋=広義のストーリーを「なぞる・あとをたどる・そう・つける・つきそう・くっつく・くっついていく・まねる・ならう」という運動・動作を、あたまのなかで、あるいは、身体を用いて、何度も繰り返す喜び・快感に、ヒトは取り付かれている=依存症になっている=離れられない=なしではいられない。
という気がします。これは、
*ヒトのフィクションへの「偏愛=異常な愛着=依存症」と深くかかわっている
とも言えそうです。
*ミメーシス・ミーム・模倣・擬態・コミュニケーション・伝達・学び・学習・共感=感情移入=empathy・思いやり・同情・関係性・引き寄せ・感染・反復・永劫回帰・円環・輪・鏡・複製・コピー・クローン・生殖・増殖・培養・細胞分裂・挿し木・再生・再演・認証・同定……
という具合に、イメージと言葉とが、まさに「増殖」し続けます。
*増殖が増殖する。
ということです。で、上記の言葉たちに共通するのは、
*つなげる仕組み=つなげるフィクション=つなげるダイナミズム
という点かもしれません。いろいろなものが、つながってしまいます。というより、勝手につなげてしまっているのですけど。いや、そうじゃなくて、
*実際につながっているらしき現象を、今度は言葉とイメージでつなげるという儀式=操作によって、確認=納得する。
というのが正確な言い方かもしれません。もちろん、
*「実際につながっている」かどうかは、検証不能だ
ですけど。
*
以上、長々とコピペをして、申し訳ありません。
あまりにも、説明不足の文章なので、どうか「説明責任」をまっとうさせてください。そのために、またもや、引用をしたいのですが、よろしいでしょうか? えっつ? 「気の済むように、勝手にすればー」ですか? ありがとうございます。
ということで、「ぼーっとする、ゆえに我あり」から、必要な部分だけを、以下にコピペさせていただきます。短いですので、よろしく、どうぞ。
★*言語という表象の仕組み(=「何か」の代わりにその「「何か」以外のもの」を用いる)には普遍性がそなわっている
らしい。そのように言えそうです。なぜなら、世界のほぼあらゆるヒトが、手話を含む、広義の言語を程度の差はあれ、用いているからです。で、さらに、
*ヒトは、言語という表象の仕組みを、生後に学習する前に既に生得している
のではないかと思えて仕方がないのです。これは、上述の
*デカルト(1596-1650)
そして、米国の
*チョムスキー(1928-)
という言語学者が共通していだいている考え方みたいなのです。
*
以上が、引用部分です。
で、材料がそろったところで、説明に入ります。結論から申し上げますと、
*歌・音楽・踊り・能・オペラ・演劇・物語・小説・神話・経典・映画・テレビドラマ・ゲーム・人生・生活・歴史・未来図
などの
*筋=広義のストーリーを「なぞる・あとをたどる・そう・つける・つきそう・くっつく・くっついていく・まねる・ならう」という運動・動作を、あたまのなかで、あるいは、身体を用いて、何度も繰り返す喜び・快感に、ヒトは取り付かれている=依存症になっている=離れられない=なしではいられない。
と考えられます。つまり、
*ヒトにみられる、「フィクションへの偏愛=異常な愛着=依存症」と深くかかわっている
とも言えそうです。
で、ただ今述べた考え方=お話=フィクションを敷衍(ふえん)するなら、デカルトやチョムスキーが、イメージとしていだいていたしていたらしい、
*ヒトは、言語という表象の仕組みを、生後に学習する前に既に生得している
というフィクション=考え方=お話と同様に、
*言語という表象の仕組み(=「何か」の代わりにその「「何か」以外のもの」を用いる)には普遍性がそなわっている
とみなすこともでき、この考えを、さきほどの「筋=広義のストーリー」に関する考え方と並べて類推する=こじつける=つなげるならば、
*ミメーシス・ミーム・模倣・擬態・コミュニケーション・伝達・学び・学習・共感=感情移入=empathy・思いやり・同情・関係性・引き寄せ・感染・反復・永劫回帰・円環・輪・鏡・複製・コピー・クローン・生殖・増殖・培養・細胞分裂・挿し木・再生・再演・認証・同定……
といった一連の言葉=イメージに共通する、
*「つなげる」という仕組み=「つなげる」というフィクション=「つなげる」というダイナミズムという「特性=属性」には、普遍性がそなわっている
となり、言い換えるなら、
*ヒトは、つなげる仕組み=つなげるフィクション=つなげるダイナミズムという特性=属性を、生後に学習する前に既に生得している
と考えられます。これを、とりあえず、
*生得的な「経路」
という言葉(=イメージ)で呼ぼうと思っています。
えっつ? 「それって、引用した文章を組み替えて、つなぎ直しただけじゃないの!」ですか? お気づきになりました=ばれました、か?
ごめんなさい。おっしゃる通りになってしまいました。いえ、悪気はございません。いつもの「ま、いっか」主義=でまかせ主義を実行しているうちに、そうなってしまったのです。お許し願います。えっつ? 「勝手にすれば~」ですか? ありがとうございます。
*
では、次に進ませていただきます。
3)「経路」にはどのようなものがあるか、について
2)で見てきましたように、
*言語という表象の仕組み(=「何か」の代わりにその「「何か」以外のもの」を用いる)
と、
*経路=筋=広義のストーリーを「なぞる・あとをたどる・そう・つける・つきそう・くっつく・くっついていく・まねる・ならう」という運動・動作
と、それに深くむすびついている=重なっている=かぶっている
*「つなげる」という仕組み=「つなげる」というフィクション=「つなげる」というダイナミズムという「特性=属性」
は、
*ヒトにとって、普遍的なものであるだけでなく、生後に学習する前に既に生得している
と考えられます。そのうち、
*経路=筋=広義のストーリー
と、とりあえず呼んでいるものについて考えてみましょう。まず、これらの言葉=イメージの類語を並べてみます。
*文法・ルール・方向性・規範・進行・流れ・傾向・志向性・指向性・傾き・構造・骨組み・プログラム・回路・型・スタイル・文体……
といったところでしょうか。簡略化してみると
*方向・進行――順序・前後――型・形
の3つの要素に分けられるような気がします。
*
次に、既存の研究分野や学問で使用されてきた、類似の用語=ジャーゴンや、それと対立する用語=ジャーゴンを、あえて、ごちゃまぜに並べてみます。なお、
*類似と対立を併記するのは、両者が必ずしも対立しているとは限らず、むしろ、類似している場合がおうおうにしてある
からです。
*物語の構造・説話の構造・構造分析・(広義の)文法・動機の文法・生成文法・旋律・節・節回し・メロディー・リズム・フレーズ・ロール・ロールプレイング・役割・役・キャラクター・キャラ・セリフ・司会・司会進行・演出・構成・台本・シナリオ・コード進行・マンネリズム・ワンパターン・ワンパターンギャグ・仲間受けギャグ・十八番(おはこ)・即興演奏・アドリブ・インプロ(即興劇)・自動書記・自動筆記・ノイズ・でまかせ・偶然・ハプニング・アクシデント……
といったところでしょうか。以上が、「経路」の具体例だと言ってもかまわないと思います。こうしたさまざまな「経路」に共通しているのは、
*規則性と不規則性
という2つの要素が拮抗していることです。その
*程度が問題になっている
点が重要です。
*「経路」において、規則性と不規則性は連続している
とも言え、
*規則性と不規則性という2つの要素の程度の「差・間・あわい」が、各「経路」の名称を決定している
と言ってもかまわないと思います。突飛な例を挙げますが、いわゆる
*出来レース=やらせという「経路」は、規則性と不規則性のあやうい綱渡りである。
と常々思っています。
*
上で列挙した2種類の言葉=イメージのリストを眺めていると、
*「経路」とは、方向=進行、順序=前後、型=形という3要素をめぐる、規則性と不規則性のからみ合いである
という気がします。比喩的に表現するなら、
*「経路」とは、宇宙を支配する圧倒的な偶然性のなかに投げ込まれた、ヒトをふくむ森羅万象の運動であり、その運動に、ヒトがかろうじて「あわいあわい=淡い間」として意識する必然性の影である。ただし、「あわいあわい=淡い間」が、あくまでも抽象的なものとして、意識される点を忘れてはならない。
と言えるように思います。
*
さて、
1)「経路」に沿った再現・再演・反復・変奏・持続という体験について
2)生得的な「経路」について
3)「経路」にはどのようなものがあるか、について
という具合に、
*きょうの記事は、きのうの記事を引用し、それに注釈を加える
という形式をとっています。お気づきになられた方もいらっしゃると思いますが、これこそ、まさに
*再演・再現・変奏・反復
にほかなりません。何を言いたいのかと申しますと、
*記事に書かれている言葉たちに、記事のテーマを演じさせる
という、このブログで、これまで何度も「密かに」試み、時には、その「種明かし」をしたことがある、
*「意識的な」方法=戦略=お遊び
なのです。
*テーマとは、抽象的なものであり、フィクション=お話=考え方として、あたまに訴えるしか「伝える」方法はない。
という宿命=特徴をもっています。一方、この記事に書かれている
*言葉たちは、あくまでも、具体的な活字=文字であると同時に、テーマ=メッセージ=イメージを「伝える」という抽象的な側面も備えているという2面性をもっている。
と言えます。きょうの、
*記事で試みた「意識的な」方法=戦略=お遊びは、活字=文字の表層的なレベルにおける、言葉の具体的な運動=動き=表情=仕草=めくばせとして、テーマを言葉たち自身に演じさせようとする実験である。
と考えています。
*実験である限り、評価の対象となり、また、成否の判断をくだされる対象ともなる。
のは、言うまでもありません。今回の
*再演・再現・変奏・反復というテーマを、言葉が演じてくれた
と、あなたが少しでも体感されたとすれば、それに勝る喜びはありません。このブログを書いているアホは、それくらい言葉を愛しています。
*言葉が言葉であることを、ヒトが知覚=意識するのは難しい
のが現実です。
*ヒトは、言葉を前にして、言葉の向こう=彼方=あなた=言葉以外のもの=意味=イメージ=メッセージを見てしまう。
のがふつうです。
*言葉が皮膚=肌=裸体をさらしているのに、ヒトはそれを見過ごし、衣装を見てしまう。その意味では、言葉の表層も「あわいあわい=淡い間」である。ただし、「あわいあわい=淡い間」としての言葉の表層が、あくまでも具体的なものとして、知覚される点を忘れてはならない。
と言えます。
だからこそ、
*言葉の表情と動きを、体感=知覚してやってほしいのです。
ややこしいことを書いて、ごめんなさい。この方法=戦略について、万が一興味をお持ちになった方がいらっしゃいましたら、「あらわれる・あらわす(6)」をお読み願います。そんなくだらないことに興味はないと思われた方は、パスしちゃってください。それが、ふつうだと思いますので。ただ、本人はけっこう、本気でやっているのですけど……。
*
ここまで辛抱して読んでくださった方に、この記事のなかで書かれた裸体の言葉たちに代わって、深くお礼申し上げます。どうもありがとうございました。
繰り返し 身をさらしつつ 見逃され
目を凝らし 踊る言葉を 褒めそやす
そこに在る 淡いあわいに 目を注ぐ
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
#エッセイ