げん・言 -2-
げんすけ
2020/09/04 09:49
言語との接し方は、2通りあるのではないかと思っています。
1つは、言語そのものにこだわることです。2つめは、何かをするついでに言語に取り組まざるを得ないために、仕方なく言語に取り組むことです。
前者はとても危険な行為だという気がします。警戒を要すると言っていいほどです。できれば、避けるにこしたことはないという怖さを感じます。でも、言語そのものにのめり込む人がいるようです。不幸になるのは目に見えているのに、です。自戒の意味でも、そう思います。
〇
言葉について言葉を用いて語るさいに、避けられないのは、用いられる言語という制約つまり枠組みのなかでしか語れないという点です。大きな問題です。まともに取り組めば、さ迷った挙句、狂気という深みにはまり込むしかない不可能性と向き合うことになるだろうという気がします。
ぐちゃぐちゃごちゃごちゃしたもの、つまり、森羅万象であったり、言語であったりするわけですが、それを、たとえ、あるひとつの言語という枠組みがあるにしても、その制約のなかですっきりとさせようと試みたり、「分ける・分かる」を成立させようとする作業は、危険きわまりない行為だという気がしてなりません。
とりわけ言葉を扱うさいには、過度に真剣になったり、本気になったりするのは、わざわざ危うさを招き寄せるようなものだという気がします。そうならないためには、比喩的な意味での抜け道や風穴やズルが必要だと思います。
幸い、言葉には、「何とでも言える」といういわば「魔法」が備わっているみたいです。その魔法が人知の及ばない力やシステムであるとすれば、その魔法にかかるのはヒトの定めなのですから、無謀な抵抗はやめて、素直に魔法にかかってしまうというのも、1つの知恵かもしれません。
自ら、負けて、任せてしまうという意味です。そのうえで、掛けて、賭けて、翔けて、駆けまくるのです。引っ掻く、つまり書くとか描くくらいなら、それほどの危険はないでしょう。命までかける必要はないと思います。
言葉を扱うさいに、困難と危険を回避し、深手を負わないためには、トリックやレトリックが必要だと考えられます。語る作業が騙る作業にならざるを得ないという言葉の属性は、注目すべき現象だとも言えそうです。
言語そのものや言語に関する問題に真正面からぶち当たり、狂気に陥ったと言われる詩人、哲学者、学者などという名で呼ばれたヒトたちが、著作つまり言葉という形で、その存在の跡をたどる手掛かりを残していることは皮肉と言うべきでしょうか。
〇
現時点で、惑星には多数の言語と方言があり、過去に存続し現在は失われてしまったものもたくさんあると言われています。言語学という分野がありますが、別に言語学者と称するヒトたちに限らず、各言語の仕組みや様態、さらには複数の言語間にみられる共通点や相違点について、調べたり考えをめぐらしたヒトたちがたくさんいたようです。
そうした作業は、言語そのものを知ろうとする探究心からではなく、宗教の伝道に伴う翻訳、教義の注釈の記述、ある時点ではもう読めなくなった古い言葉で書かれた教義の解読、口承として残っている意味不明の教えや神話の解読と解釈、教義の解釈をめぐっての争いといった形を通して、行われてきたと言われています。
〇
ピラミッド、測量、像、建造物、農業(※雨や川などの水との戦い・管理)、土木技術、暦、数字、墓石、文字、碑文、経文、絵画、工芸、錬金術(=アルケミー)、証文、書簡、印、貨幣といった、文明や文化といった言葉でくくられるものを支えてきた、さまざまなスキルや技術や手段の根底には、言語があると思われます。
かつては、宗教、学問、科学、哲学、農業、建築、工学、文芸、教育、語学、通商、交易、経済、植民、侵略などが「分かれる」ことなく、「からみ合って」存続していたらしいことに、興味を覚えます。
時を経るにつれ、やたら何でも枝分かれし細分化して、近接する分野同士、あるいは、1つの領域内での派閥争いが見られるというのが、現状のようです。
広義の「知」の分野に限らず、「分ける・分かれる・分かる」への反省の気運が、たとえば学際とか量子という言葉や考え方を通して、わずかながら高まりを見せてきているような気もします。それが錯覚でなければいいと思っています。
「分ける・分かれる・分かる」が「人為的な作業・操作」なら、「会う・合う・逢う・遇う・合わせる・併せる・遇わせる・会わせる・逢わせる」は「非人称的で匿名的な事件・出来事」であるという気がします。
〇
「わける」の反対は「あわせる」といった形式的な言葉の綾には、いかがわしさと、うさんくささを感じます。無理に「あわせる」努力をしなくてもいいという気もします。「わかる」は努力の対象になりそうですが、「あわせる」は努力してできるものではなく、むしろ「あわさる」のではないかと思っています。
そもそも、森羅万象は、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃとしたものだという気がします。その状態と「あわさる」とは、それほど隔たっていない感じがするのですが、単なる思いつきですので根拠はありません。
でも、もしもそうなら、言葉も「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃとあわさったもの」と言えそうです。でも、言葉には、「わける」への並々ならぬ執着心と野心があるみたいです。執着心や野心を指向性とかベクトルという比喩で語る、つまり騙ることもできそうです。
いずれにせよ、今述べていることは言葉自体の属性というよりも、ヒトのあたまのなかにあるものの「反映」・「写像」(※比喩です)と言うほうが、いくぶんか正確な記述かもしれません。
〇
言葉は「はなす・離す・放す・はなれる・離れる・放れる・はなたれる・放たれる・洟垂れる・はっせられる・発せられる」ことと、「かく・掻く・描く・書く・かける・掛ける・掻ける・描ける・描ける・駈ける・駆ける・架ける・翔ける」ことによって、ヒトの手を「はなれる」ものだと言えそうです。
その意味では、言葉は自由です。自ら動きもし、目くばせや合図も送ってくるし、自動的にヒトに働きかけもする。そう思えてなりません。言葉との新しい付き合い方、接し方を模索してみたいです。言葉とヒトの関係が、このままでいいとは思いません。
〇
ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。
ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。
以上の2つのフレーズを前提にすると、言葉・言語も、お金・貨幣も、「代理」ということになりそうです。
現在、グローバルな規模で起こっている大不況の下で、「貨幣とモノ・サービスの価値、およびその交換」という仕組み・システムに支えられた「市場経済」や「資本主義」に対しての反省や懐疑の兆しがあるならば、ついでに「言葉・言語と森羅万象のイメージ(まぼろし)、およびその発信・受信・伝達」という仕組み・システムに支えられた「知」や「文化・文明」への見直しの芽が生じてもいいのではないかと思うのは、ないものねだりでしょうか。
〇
古今および洋の東西を問わず、ヒトは言語の多様性と向かい合ってきたようです。「言語の多様性と向かい合う」とは、「あう・あわさる」であり、同時に「わける・わかる」でもある状況だと言えるような気がします。
複数の言語の使用、ある言語から別の言語への翻訳、時の移り変わりと場所の違いおよびヒトの移動よって言語がこうむる変化、文字を持つ言語と持たない言語の存在、ろう者の言語である手話、異なる言語を話すヒトとの間で使われる手話および身ぶり手ぶり、複数の言語が混じり合う現象(※英語のいわゆる「世界語化」や外来語の流入だけでなく、広義のクレオールやピジンという現象も含めて考えています)、新しく言語をつくろうとする試みとその定着……。
言語の多様性と移ろいについて、思いつくままに並べてみましたが、こうした現象や状況は、日常的に体験している、あるいは体験できるたぐいの具体的な話だと思われます。
それを意識するか、それとも無視したり、耳を覆って意に介さないようにするか。積極的にかかわろうとするか、できれば避けようとするか。そうした個人レベルでのスタンスの問題だとも言えそうです。言い換えると、「あう・あわさる」であり、同時に「わける・わかる」 でもある状況を、どのように受けとめるかというスタンスの選択です。
異なるもの、さらに言うなら、異形(いぎょう)のものに、積極的にかかわらないまでも、出来る限り敏感でありたいと願っています。母語か外国語かを問わず、意識的に言葉と触れ合うことが、その一歩であり、一部であるように思います。母語であっても、言葉はそれを話すヒトにとって異形のものであり、絶対的他者だという気がします。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
#エッセイ
#言葉