代理としての世界 -2-

星野廉

2020/09/26 08:08


「私はあなたじゃない」という意味の言葉が、一時期に流行った記憶があります。然るべき時に然るべき人が然るべき言葉を口にすると、ある地域内でその言葉が広がることがありますね。それにしても「然るべき」という言葉は曖昧=テキトーです。いずれにせよ、その「然るべき」状況を抜きにして、「私はあなたではない」という言葉について考えてみましょう。


 逆に言うと「あなたは私ではない」となります。さらに「ずらしてみる=言い換えてみる」と「Aという人はBという人ではない」と言えそうです。すごく当たり前のことを言葉にしているような気がします。よく考えると、「当たり前」などという決まり文句では片付けられない話のような気もします。


「決まり文句」という言葉を使いましたが、さきほどの「然るべき」と同様に、曖昧でテキトーなのにもかかわらず、多くの人たちが、まさに「『当たり前』のように=その意味を深く考えることなしに=思考停止に近い状態で」用いている語みたいに感じられます。ヒトの用いるほとんどの語やフレーズが決まり文句なのではないか、という気がします。もちろん、このたわごとも決まり文句に満ちている気がしてなりません。話を進めます。


     *


>ヒトは、自覚なんてできっこない。「自覚する」という言葉とイメージを「作ってしまった=捏造してしまった=でっちあげてしまった」ので、その気になっているだけだ。つまり、引くに引けない、という状況になってしまったのではないか。


 以上は、前回の記事からの引用です。ここで、話を飛躍させます。ちなみに、みなさんが今お読みになっているor見ている記事は、うわごとです。たぶん論理的でもなく、筋道も立っていない文章です。そもそも論理とか筋道とか道理といった言葉やイメージの妥当性を信じていないアホが書いているのですから、それこそ「当たり前」だと思われます。


 みなさんは、論理、道理、筋道という言葉が指しているとされることやことのありようが、どれくらい実行されているとお思いですか? 今の質問を簡略化すると、「XだからYで、Zなのだ」ほどの話し方やつづり方に沿って、話したり、書いたり、考えている状況を日常的に、自分やほかの人が実践しているのを見聞きなさっていらっしゃいますか? 首尾一貫してですよ。


 もし、そうだという印象(※あくまでも、印象です。論理or道理or筋道を、論理or道理or筋道で説明することはうさん臭いというか、無理だと思いますので「印象」としておきます)をお持ちになっているとするなら、それって有効性がかなりありますか? 話を戻します。



     *


 話を飛躍する、と書いたあたりまで、戻します。


 (1)自分と他人というものがいるorある。


 (2)自分が、とりあえず「自覚する」と言われている行為=作業をしている。


 今挙げた(1)と(2)の2つのフレーズを読み返して、それがどういうことやありようを指しているのかを考えてみましょう。で、このアホの思っていることを書きますと、次のようになります。


「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みを基本にしている限り、(1)と(2)は分からない。でも、「代わり=代理」に、「すべてお任せする=いわば全権委任状を渡す」のなら、(1)と(2)は「分かる」可能性が出てくる。ただし、その「分かる」も「お任せ=委任」の中に含まれていますから、「分かる」は「『分かるor分かった』ということになっているらしい」という意味になります。「代わり=代理」を通して、直接に「分かるor分かった」なんてあり得ない、ということです。


 ちなみに、「……だとはあり得ない」と思っていることを、「……であるらしい」とか「……だということになっている」とか「……だと決めた」と言い換えると、「……である」可能性があるとまで思い込む傾向が、ヒトにはあるようです。このアホの印象では、こうした思い込みは錯覚だという気がしますが、多数決で否決されるでしょう。事実、真理、現実、客観性とヒトが呼んでいるものは、多数決で決まります。正確に言えば、ある集団ごとに多数決で決まります。集団内に「少数派=多数派が決めた意見に異議を唱える者」がいることは言うまでもありません。


 さらに言うなら、事実、真理、現実、客観性とヒトが呼んでいるものは、多数決で決まると言うより、腕力で決まると言った方が適切なような気がします。「国語とは、軍隊を持つ方言である」みたいなフレーズを見聞きした覚えがあります。英国の歴史と現状を見ると、「言えてるなあ」なんて感心してしまいます(そもそも、英国のことを言っているフレーズでしたっけ)。


 いや、もはや、そうした一国の問題ではないでしょう。広義の欧米と広義のイスラム圏との対立や衝突(「文明の衝突」なんて本がありますね)が現在だけでなく、これから先の世界で最大の問題になるだろう、なんて考えると、お先真っ暗な気持ちになってしまいます。へたをすると「ハルマゲドン」ですよ。その根っこに、事実、真理、現実、客観性とヒトが呼んでいるものの定義の争いがあるのですから。だって、定義の権化である原理主義者は、今話題にしている両サイドにいるのです。しかも、双方の原理主義者たちは、権力の中枢近くにいるのです。


     *


 話を戻します。


 さきほど「委任状を渡す」という言い回しを比喩として用いましたが、やさしく言えば、「自分以外の何かにお任せする=自分の責任を放棄する=ややこしいことは自分は考えないしタッチしない」くらいの状況を指します。そのような状況下で「分かるor分かった」はないでしょう。そんな感じです。ところで、たった今、気になる言葉を使っちゃいました。「自分」です。


「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みを基本にする、というのは「トリッキー=もっともらしいが変」な言い方だとはお思いになりませんか? 「誰がor何が」が抜けているのです。これは、このうわごとを書いているアホが仕組んでいたズルなんです。ごめんなさい。早めに白状しておきましたので、どうかお許しを願います。


「誰がor何が」「何かの代わりに何かではないものを用いる」のかは、不明なのです。ということは、そうした前提に立つと、「自分」「他人」「私」「あなた」について、語ることは、どうも無理らしいと言えそうです。でも、騙ることならできそうです。というか、ヒトは「語る=騙る」=「話を作る=フィクションとして述べる」ことをしょっちゅうやっている。ぶっちゃけた話、それしかできないということになります。このブログのタイトルの一部が「うわごと」なのは、そうした事情も汲んでのことなのです。



※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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