あらわれる・あらわす(2)
星野廉
2020/09/19 08:16 フォローする
赤ちゃんって、生まれた時には、きっとびっくりしているでしょうね。
何なんだ~! どうなっているんだ~! なんて。
多分にオトナの視点から見た考えですが、「自分のまわり=世界」と、たぶん心の準備もなく出あうわけです。「何か」というしかない「自分のまわり=世界」が突然あらわれるのです。
そう思うと、ヒトは、ある日、わけもわからず不意に「何か=自分のまわり=世界」と出あい、そのヒトの一生をかけて、その「何か」を少しずつ習得していくのでしょうね。習得というより、その「何か」の一部になっていく=同化していく=染まっていく。
目線が合う、目線を合わせる、目線を交わす、めくばせする、笑みを交わす、触れる、飲む、しゃぶる、食べる、咬む、叩く、真似る、学習、獲得、発見、理解、アイデンティティ、気づき、悟り、喪失、オーラ、気、スピリチュアリティ、希望、絶望、期待、諦め、自分探し、コミュニケーション、交感、愛、暴力、祈り――さまざまな形で、「何か」との出あいを徐々に深めていく。
そして、いつか、わけもわからないまま不意に「何か=自分のまわり=世界」に別れを告げる時が来る。「何か」との出あいは、赤ちゃんが産声を上げた時から始まる。
ここで確認しておきたいのですが、「赤ちゃんを赤ちゃん扱いする=言葉で馬鹿にする」ことはやめましょう。特に専門家と称する方に多いのですが、「未分化」「未成熟」「未発達」「未熟」「発達途上」「原始的」といった、
*当たり前に思えて当たり前ではないかもしれないこと
を、オトナの視点から見た=見下したような言葉で表現するのは、やめましょうよ。
少なくとも、このブログでは、やめたいと思っています。うっかり使用してしまった場合には、謝り、反省します。できるだけ、不用意に使用しないように気をつけます。
オトナは赤ちゃんやコドモに返ることはできません。つまり、赤ちゃんやコドモのことは、勝手に想像するなり、かつての自分の体験の記憶を必死でたどるしかありません。
だから、決めつけるのはよしましょう。とはいえ、専門でご研究されている方々は、それなりの推論を結論として提出したり発表したりするのがお仕事です。それは百も承知です。難しいことを申しているのではありません。
*赤ちゃんを、言葉で馬鹿にするのはやめましょう。
これだけです。
*
で、赤ちゃんって、生まれた時には、きっとびっくりしているでしょうね。これは、単なる素人のオジサンである自分が、勝手に想像しているわけですけど、「びっくり」なんて言葉で言いあらわしていいのかと、気が引け、及び腰になるほど、「すごい」体験だと想像=妄想しています。
きのう、「見える」と「あらわれる」について書きましたが、「見える」を広い意味で取りましょう。五感、そして、もしそんなものがあるとすれば、第六感を総動員しての「いとなみ」です。そこで、場合に応じて「見える=知覚する」と表記するつもりです。
*赤ちゃんが生まれて、「まわり=世界」を見た=知覚した時には、赤ちゃんにとって、「まわり=世界」は「あわられている」。
のではないかと思うのです。
赤ちゃんには失礼ですけど、
*何なんだ~! どうなっているんだ~!
という感じでしょうか? で、
*おぎゃーっ、うげーっ、うぎゃーっ、
とか、表記不能な大声で叫ぶ。そして、手足をばたばたさせる。唾液や汗を含む、さまざまな体液や、気体=ガス(※音声も含んでいいのかもしれません)を放出=「内から外へ出す」=分泌=排泄=排出する。もちろん、そうした行為=行動をしている意識=自覚はないでしょう。でも、そうしている。そうやっている。そうやって生きて=息ている。
*意識 vs. 無意識といった、捏造された=でっち上げられた2項対立とは無縁な状況に投げ込まれている。
とでも言いましょうか。
*
きのうの記事を書いてから、家事と親の介護の合間に、「見える」と「あらわれる」について考えていました。そのうちに、もう1つ「ある・いる」も加えて考えるようになりました。
*見える=知覚する/あらわれる/いる・ある
というわけです。この3つ(※3グループ)は、言葉でしかありません。残念ながら、その実体を、厳密な意味で、知覚あるいは認識あるいは体感することは、どうやらヒトには無理みたいなのです。「厳密な意味で」というのは、「その仕組み=メカニズムを理解する」という意味です。だから、言葉として扱うしかありません。少なくとも、自分にはそれしかできません。とはいえ、言葉には
*綾(あや)
というものがあります。実に曖昧模糊とした言葉です。よくつかいますが、辞書で調べるとその語義に違和感を覚える。そんな言葉の1つです。
*綾(あや)・いろいろな線や形が織り合わさった模様・あや=ああ=あら・あやういようす・あやしげなようす
という具合に、言葉で遊んでみたほうが、何となくしっくりくる言葉です。要するに、
*言葉は、ヒトを翻弄する=もてあそぶ=振りまわす=揺らがせる。
ようなのです。
こんなふうなのですから、ヒトは戦略上、受動的に「もてそばれた」振りを装い、言葉を不意打ちする以外、なす術(すべ)はなさそうにも思えます。で、もてあそばれてみます。赤ちゃんのことは、あとで考えましょう。それより、きのう、書いた「天井の染み」や「トイレの壁の染み」関連のお話をしましょう。
*
*ヒトは、何かに何かを見る=知覚する。
*ヒトは、何かに何かがあらわれているとも考える。
と言えそうだ、という話でしたね。
*ヒトは、何かに何かが「いる」あるいは「ある」とも考える。
を付け加えましょう。
*「見える・見る=知覚する/あらわれる/いる・ある」という3グループの「間(=ま・あいだ・あわい)=際(=さい・きわ)」
には、何があるのでしょう?
それらの「間(=ま・あいだ・あわい)」を、さらにまた知覚することを目的とするなら、これは至難の業(わざ)だという気がしませんか? まさに、言葉の綾にもてあそばれるしかありません。「戦略的にもてあそばれてみる」などと、威勢のいいことを言ったものの、「もてあそばれているという確認」で終わってしまいそうです。
あっちに揺れ、こっちに揺れです。宙ぶらりんです。これじゃ、先週ずっとやっていた「偶然性」=「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズと、その補遺=おまけ=付録=追加である4本の記事:「占い・占う(連載「かく・かける」の補遺)」、「賭け・賭ける (連載「かく・かける」の補遺・第2弾)」、「書く・書ける(1)」、「書く・書ける(2)」の話と、そっくりじゃありませんか。前々回は、そのまた「おまけ」みたいに、保留=置き去りにしたはずの「ノイズ」までが、ゾンビのように追いかけてきたのです。
誰に頼まれたわけでもない独り相撲ですから、他人様に、自分の右往左往を笑われるのは覚悟していますが、その最後の味方であるはずの自分自身にまで、嘲笑されたのでは、洒落にもなりません。いや、駄洒落=堕洒落=惰洒落と言うべきでしょうか。
で、思ったのですが、こういう時には、やっぱり、肩に力を入れたり、頑張ったりしては精神衛生上よくありません。そもそも、抑うつ対策ではじめたブログです。ブログと心中する気などないです。
いつものように、大雑把=テキトー=出まかせにいきます。お食事中、あるいは、その前後の方には、申し訳ないのですが、介護を必要とする親の排泄する姿を、きのうの午後に見守っていて、そのさいに考えていたことをお話しします。赤ちゃんに話をもどすことになります。
*
赤ちゃんが裸でいて、うんちをしたとします。その時の赤ちゃんは、うんちを見て=知覚して、「出た(=内から出た)」あるいは「出した(=自分が出した)」と思う=感じるのでしょうか? それとも、「あらわれた(=突然、見えた or どこからか来た or 何か知らないけど、そこにある)」と思う=感じるのでしょうか?
残念ながら、コドモをもうけた、あるいは、育てた経験がないので、そういう場面を詳細に観察したことはありません。ちらりと他人様の赤ちゃんが、オムツを換えてもらっているさまは目撃したことはあります。
生後2、3カ月になる女の子でした。その時の記憶を呼び覚まそうとしているのですが、はっきりとは覚えておらず、役に立ちそうでもありません。というわけで、これから出まかせで書いていきます。そんなことはない。というお叱りの言葉は、覚悟のうえで申し上げます。
で、出まかせですけど、生後あまり経過していない赤ちゃんが、固形に近いうんちを、ほぼ初めて、しかも裸で排泄した場合を想定しています。たぶん、
*あれっ?
って感じで、見る=知覚するのではないでしょうか? そう思う根拠が、1つだけあります。知り合いの赤ちゃんで、よくおならをして、自分でびっくりしている女の子を知っているのです。生まれて半年も経っていない、とってもかわいい子です。おならは、気体=ガスですよね。出る時に音もします。気体が出るのにお供するわけです。
それと、強引にこじつけた想像なのですが、
*あれっ? = 出た = 何だろう? = どこから来たのだろう? = あらわれた
という感じではないでしょうか? ここで疑問があります。赤ちゃんは、自分という存在を意識しているかどうかです。「未分化」という言葉がキーワードになりそうです。
誤解を招くといけないので、再び触れますが、このように、冒頭に挙げた「未分化」「未成熟」「未発達」「未熟」「発達途上」「原始的」といった、赤ちゃんの発達段階を示す言葉をつかわずには、話ができない場合があります。
そのさいに、ちょっと考えてほしいのです。その言葉が自分に対して投げかけられた時に、嫌な思いをするかどうか。もし、するなら、「ごめんね」という思いやりの気持ちでつかう。そうした心がけ=視点があるとないとでは、研究をするにあたっての態度や、論文を書くさいの展開や趣旨や結論に差が出てくるように思うのです。
それだけです。別に、専門の方々に、ケチをつけているわけではないことをご理解いただければ、幸いです。
*
さて、ここで、「いないいないばあ」という赤ちゃんを対象とした遊びが、赤ちゃんにとって「いる/いない」、「ある/ない」、「あらわれる」という現象を体感する象徴的な体験であるらしい、という説を思い出しましょう。それを前提に、話を進めます。
ある赤ちゃんが、「未分化」というか、自分と他者とを意識していない「段階=時期=状態」であれば、
*あれっ? = 出た = 何だろう? = どこから来たのだろう? = あらわれた
であり、自分と他者との区別ができ始めた「段階=時期=状態」であれば、
*あれっ? = 出た = 何だろう? = 自分から出たのかなあ? or 自分が出したのかなあ? (=ほぼ「あわられたのではない」)
という具合になるような気がします。
もしも、こんなことがあるとすれば、これって、赤ちゃんにとっては大発見だと思います。言い換えると、
*「あらわれたのではない」(否定)を知覚=意識=思考するのは、同時に、「あらわれる」(肯定)を、知覚=意識=思考することでもある。
からです。
もう少し正確に言うと、
*「いきなり、あらわれる」=「不意の出あい」=「遭遇」(肯定も否定もない or 肯定も否定もできる余裕はない)が生じた=起きたのではなく、「自分の中から外へ出た」=「どこからかではなく、自分から出た」=「『ない』が『ある』になった」=「ほぼ『いないいないばあ』」が生じた=起きた。
です。
自と他の区別の萌芽 or 誕生、自己意識の萌芽 or 誕生、自他未分化からの離脱の始まり、自我の目覚め……という感じでしょうか? でも、やはり、ここで強調しておきたいのは、さきほどの、
*赤ちゃんを、言葉で馬鹿にするのはやめましょう。
です。さらに、言わせてもらいますと、
*赤ちゃんを、言葉で馬鹿にするのはやめましょう。=オトナである自分を、棚に上げるのはやめましょう。=自分にだって、まだコドモの部分が多分にあるはず。=ぶっちゃけた話、オトナとコドモを分けるのは、とっても変(※女性と男性、「仲間=うちの者」とよそ者についても、言えることかもしれません)。
です。
*
というわけで、
*発達段階
という言葉の意味や、その言葉をつかいたい気持ちはよく分かるのですが、素人として、あるいは1匹のヒトとしての実感は、
*ヒトは、階段を1段1段上るように成長していくのではない。
ということなのです。
言葉の綾という言葉で、上でも触れましたように、言葉には、ヒトをもてあそぶ=振りまわす特性があります。うっかりと言葉の罠(わな)にはまってしまい、思考が言葉によって思いもしない方向へと暴走する場合をよく経験します。
いちばん多いケースが、「比喩=たとえ」です。段階(= stage, step, grade, phase )という言葉は、「階段・階」に由来したり、そのイメージがまつわりついています(※ただし、phase は本来は「様相・局面」というイメージらしいです)。「階段・階」というイメージに引かれてしまって=釣られてしまって=もてあそばれてしまって、
*1つ上るごとに卒業式
みたいな発想をしてしまうわけです。
でも、よく考えてみてください。自分自身、あるいは、身近な人、あるいは、身近でなくても見聞きした人の話でもいいです。いちおうオトナと呼ばれている人で、確固たる「自と他の区別」や「自己意識」を持ち、「自他未分化からの離脱」の卒業式を晴れて終えているらしき人って、いますか?
個人的には、そんな人は、直接的にも間接的にも会ったことも見たこともありません。そもそも、発達や成長や成熟なんて、幻想ではないのでしょうか。言葉の綾なのではないでしょうか。「幻想」や「言葉の綾」という限界性を承知しての、「これって、ほぼギャグ」=「仕事だと割り切っています」=「本当は違うみたいなんだけど、ま、いっか」という意識があれば、まだましです。
妙にマジな点が、不気味なのです。
全部とは言いませんが、発達心理学の教科書や専門辞典を読んでいると、何か、「発達心理学」なのだから、何が何でも「発達しなければならない」といった、強迫観念めいた性急さ=杜撰(ずさん)さ=大雑把さ=テキトーさ=でたらめ、を感じるのです。
*連続的変化
を指摘する視点もないわけではありませんが、きわめて希薄です。「階段の比喩」に引きずられすぎです。
粗雑な一般論になって恐縮ですが、以前と比較すると、
*ヒトは成熟なんてしない。成長もなし。大人になるなんてことはない。大人になる必要はない。
とか、
*親になるんじゃなくて、親は子どもに育てられるのだ。子どもを持つことで、だんだんと親になっていく。大人と子どもの境なんてあるの? 大人にだって子どもの部分はたくさんある。子どもも1個の人間だ。
みたいなことを言う人が、増えてきた感じがします。とても、誠実で、思いやりのある、正確な考え方だと思うだけでなく、そういう意見を口にする人たちが増えてきて嬉しいです。
*
で、いきなり、天井の染みやトイレの壁の染みに人面を見てしまう話に、飛びます。
*見える=知覚する/あらわれる/いる・ある
のうち、どれなのか?
結論から申しますと、
*あら、われる=あらっ、我る=あらっ、割れる=洗われる
だと思います。
以下に、詳しく述べます。
1)「何かに何かを見る=知覚する」とは、「我=自分を意識する」ことが大前提になる。だから、「あらっ、我る」。
2)「何かに何かを見る=知覚する」とは、「自他の区別のない意識=ふつう、ぼけーっとしている時の意識」が、「何かがあらわれる」という突然の出来事によって、「我=自分」と「何か=おそらく他者」に割れる。だから、「あらっ、割れる」。
3)「何かに何かを見る=知覚する」とは、「わけのわかんないもの or 天井の模様とか木目など or トイレの壁の模様とか木目など」=「ノイズみたいなもの」=「意識を乱し、整合性・規則性を妨げるもの」に、「何かがあらわれる」ことによって、その天井の「表面」や壁の「表面」が洗われて、ノイズみたいなものが消えてきれいになり、その代わりに「何か」(※ヒトによって異なる)が見える=知覚できるようになる。だから、「洗われる」。
以上の1)から3)が、ダジャレ=オヤジギャグの、まことに苦しい=見苦しい説明になっていることに注目してください。そうした上に並ぶ言葉たちの、苦しげで、照れくさそうで、危うそうで、うさんくさそうで、いけしゃあしゃあとした表情、面構え、身ぶり、仕草を、よく見てやってください。
*「偶然性=無作為=無意味」のなかに、「何か=必然性=整合性=有意味」を見ようとする=求める。
とか、
「何かに何かを見る=知覚する」
というのは、そうした、いかがわしい仕組み=錯覚=錯視なのです。
こんなことを書いているブログは、あやういとか、あやしいとか、お思いの方も多いと存じます。でも、この惑星でいちばん、あやうく、あやしいのがヒトなのです。そういう種(しゅ)なのです。居直りましょう。居直るしか選択肢はなさそうです。ですから、ヒトをやめちゃいけません。人間をやめては、だめです。何か話がずれてきました。
*別にまっとうでなくてもいい。ヒトをまっとうしよう。
実は、たった今書いたフレーズは、抑うつが激しくて、つらいときに、自分に言い聞かせるおまじないの言葉なのです。実は、きょうは少しつらいのです。ヒトをやめたいと、ふと思いやすい状態なのです。
*
「何かに何かを見る=知覚する」に話をもどします。たとえば、テレビの画面、それが高画質のものであっても、しょせん、走査線や画素の集まりでしかないことを思い出しましょう。錯覚するから、その画面に、「ちびまる子ちゃん」や、「紅白歌合戦」や、メジャーリーグで活躍するイチローの姿が、「あらわれる」=「見える・見る=知覚する」のです。
たぶん、あれって、オカメインコちゃんや、トンボさんや、コビトカバさんたちには、「わけのわかんないもの or 天井の模様とか木目など or トイレの壁の模様とか木目など」=「ノイズみたいなもの」=「意識を乱し、整合性・規則性を妨げるもの」のようなものにしか見えないでしょう。
そんなふうに考えています。でも、ヒトはヒト、ジンベイザメさんや、イリオモテヤマネコさんや、スナメリちゃんや、ウズラさんたちとは違います。ですから、きのうの記事でも書きましたように、たとえば、トイレの壁の染みを見ていて、何かに出あってしまったら、
*正々堂々と、出あってしまえばいい
のです。
自分の体感を偽る必要はありません。何かが、見えてもいいのです。見てもいいのです。「あらわれた」と思えば、それは、「あらわれた」ってことなんです。あくまでも、たぶん、ですけど、たぶんでいいと思います。
*「△△の、あそこのところが、○○に見えるんだけど、わたし、だいじょうぶかしら?」
とご心配の方、いらっしゃいませんか?
*「だいじょうぶです。あなたが人間様だっていう証拠です。たぶん」
と、いうわけです。
あすは、ちょっとお勉強的なことをやって少々あやうくあやしいと思えてきた、このあたまを冷やすつもりです。
ところで、「かく・かける(1)」の最後のほうに書いた、ツバメさんちの赤ちゃんたちは、無事、みんな巣立ちしました。顔が見られなくなったのは寂しいですけど、嬉しいです。赤ちゃんのいらっしゃる方、赤ちゃんによろしく。
つばくろの早い巣立ちに空眩し
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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