書く・書ける(2)

げんすけ

2020/09/14 07:58


 今回をもちまして、「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズの補遺=おまけ=付録=追加はおしまいです。そこで、「書く・書ける」というタイトルのもとに、このブログの顧問=アドバイザーであるマラルメ師がらみに、


*「書く・書ける=賭ける」


という問題について、総まとめみたいなことをしてみようと思います。マラルメという人は、昔々生きていたフランス人で、日本の中学校にあたる学校で英語教師をしながら、一般の人たちからは「わけがわかんない」と言われる詩を書いていました。実際、何を考えていたのか、わけがわからない人です。そもそも、誰でもそうですが、


*他人様の考えていることなんか「わけがわかる」わけがない。


のです。


 だから、勝手に想像=推測するしかないわけで、そうならば、いっそ、「□□さんが考えていたこと」なんか、無視して=放っておいて、自分が考えていることを一生懸命に追求したほうが、人としてはまっとうなのではないか、とも思っております。というわけで、というか、何となくというか、このブログでは、なるべく


*「▽▽さんが××って言っていました or 書いていました」


は自粛して、


*今、ここにあるものやことや現象と、手持の知識と記憶を総動員する。


という、無精で=横着で=出まかせ主義的なやり方で、ああでもないこうでもないや、ああでもあるこうでもあるという具合に、のらりくらりとゴタクを並べております。とはいいながら、書いているものは、いつやら、誰かが言ったり書いたことと激似で、


*オリジナリティもハーブティもクリエイティビティもマクビティも、まったくなし


というパッチワーク=継ぎはぎ=ごった煮を書いています。もろ、言い訳になりますが、これって、仕方がないんです。


*物「事」を「書く」ということは、「事欠く」ことである。


というのは、誰も避けることができない仕組み=メカニズム=仕掛け=ネズミ捕りみたいなのです。


 ですので、これから書くことも、いつやら、どこかで、誰かが言ったか書いたものにそっくりなものになると思いますが、いちおう、このシリーズのまとめとして書いてみます。


     *


 で、またマラルメが出てきますが(※マラルメ師などと持ち上げておきながら、呼び捨てご免)、そのマラルメという人は、


*書くことは、「偶然性を装った必然」=「人為的な偶然性」だ。人為的なものである以上、「賭け=書け」は偶然の産物に見えて、実際は「やらせ=出来レース」でしかない。したがって、ヒトは、その意味においてのみ、作品、たとえば、詩を「書ける」にしかすぎない。


みたいに考えていたような気がするのです。


 マラルメの書いたものを原文のフランス語で読んだのは、20年以上も前のこと。それも、たいした読解力もないくせに、ちょっと読んだだけ。あとは、翻訳や、わりと質のいい解説書=あんちょこ(※これって死語でしょうね)を読んだだけ。でも、すごく気になるので、過去の言葉の切れ端を大事に記憶しておいて、たまにあたまから引き出して、いろいろ考えてみる。ずっと、そんなことをしています。


 言葉というのは、匿名的なもの=誰のものでもないという特性があるため、本来なら、もう、マラルメなどという固有名詞にこだわることも、まして自分自身の名前という固有名詞に執着する必要性も、ぜんぜんないのです。でも、言葉には言霊という言葉で言うしかない、畏怖すべき側面があることを、ひしひし感じております。で、たとえば、外国語の名前をカタカナに変換しただけのものではありますが、


*マラルメ


という言葉に、ある種のパワーみたいなものがそなわっている「気がして」たまらないので、シャーマン=巫女(みこ)みたいに、その名=言葉を媒介にして、言葉を引き寄せる=引っ掛ける=ナンパするという悪さをしているのです。


 ややこしいことを書いて、申し訳ありません。この文章をお読みになっている方は、さぞかし、ややこしいとお感じになり、うんざりなさっているだろう、とは十分承知しております。でも、このようにしか、書けないのです。


     *


 さて、ちょっと視点を変えます。


「かく・かける(1)」の下のほうでA~Fのついた図表を描きました。いちおう、コピペをさせてください。


A:ノイズ+熱 ⇒ ニュートラルな「信号」 : 合図・視線・まなざし・表情・刺激


   ↓


B:ノイズ+熱 ⇒ 経路・通路(光・電波・波動・電線・管・ニューロンなど) : 線・糸・揺れ


   ↓


C:ノイズ+熱 ⇒ 回路・知覚器官・知覚組織・解読版・グリッド : 色づけ・分ける・知覚・見る・解読・解釈・識別 : 網・濾過記=フィルター・カメラ・マイクロホン


   ↓


D:ノイズ+熱 ⇒ スクリーン・膜・細胞・機械・器械・画面・スピーカー・発信装置=受信装置 : 幕・器


   ↓


E:ノイズ+熱 ⇒ 映像・音声・震動・運動・動作 : 動き・まぼろし・イメージ


   ↓


F:ノイズ+熱 ⇒ 賭け・ギャンブル・偶然(accident) / 成功=不成功・当たり=外れ・作動=誤作動・正常=異状or異常・順調=不調・OK=エラー


 以上なのですが、ちらりとだけ、見てください。


*ノイズ+熱


という文字が6つ見えますね。このもととなった「あう(6)」の最後の3分の1ほどをまたもや、横着をして、以下にコピペしますので、これまた、ちらりとだけ、目をやってみてください。


*論理というものは、案外、熱いものなのかもしれない。


*哲学や論理学だけでなく、数学や物理学を含む自然科学でもいいが、そうした学問を学ぼうとか、研究しようとするヒトは、しばしば強い情熱(感情的、情動的といったほうが正確かもしれない)をこころに秘めている。


*コンピューターは以前には電子計算機と呼ばれていた。つまり、機械である。最先端のもの、そして未来のものは、違った素材が主体になるというが、現在の主流のコンピューターは金属や鉱物が素材である。機械やコンピューターというと、冷たいイメージを連想されがちだが、実際に機械やコンピューターを扱っている人にとって、いちばんの悩みは熱をどう下げるかだという。機械は作動、つまり動く。動くからには熱を発する。熱は機械そのものの素材を変形あるいは変化させる。すると誤作動が起きる。したがって、「熱を下げること」がきわめて重要な課題になる。


*コンピューターも、医療用のカメラやメスも、どんどん小型化されてきている。機械や器材は、「動く」のが仕事である。動くためには熱を発しなければならない。熱くなると動きに狂いが生じる。コンピューターに話を絞ると、コンピューターは、1か0の二進法で情報を処理する。1か0という仕組みを実現するためには、どんなにあがいても、何らかの移動、変化、反応という形態をとらざるをえない。分子、原子、電子、というナノの世界であっても、熱から逃れることはできない。


*数学者も、論理学者も、哲学者も汗をかく。禅僧も、修道士も、修道女も、教祖も、聖人と呼ばれるヒトも、みんな汗をかく。囲碁の名人も、チェスの達人も、汗をかく。コンピューターも、あっちっち。ナノテクも、それなりに、あっちっち。バイオテクノロジーもDNAも、それなりに、あっちっち。理論物理学も粒子も、それなりに、あっちっち。ノーベル賞も、きわめて、あっちっち。


*脳でも、事態は同じらしい。ヒトは生きている限り、熱を発する。食物を摂取し排泄をする存在である以上、必然である。沈思黙考、冷徹な思考などとは、嘘だったのだ。


*プリズムは、勝手にきらきら輝くのではない。そんな魔法なんてない。見る者が、動くからきらめくのだ。


*コンピューターはもちろんのこと、「運動」(※つまり、移動、変化、反応)するものは、常に熱を発せざるを得ない。冷たいようで、実は熱い。死んだようで、実は生きている。比喩を用いれば、蓮實重彦氏の著作のタイトル『批評 あるいは仮死の祭典』にある「仮死の祭典」と言える。死んだふりをしても、熱い。死を装っても、うごめいている。


 以上です。


     *


 どうですか?


*熱



*動く


という文字がいくつも散りばめてありますね。


 実は、これが、このシリーズをまとめる=束ねるキーワードなのです。当ブログは、支離滅裂=出まかせ=でたらめにはちがいないのですが、それなりに「流れ」みたいなものがありまして、個人的な書きものですから、当たり前と言えば、それまでなのですけど、とにかく、「つながっている」のです。


 で、結論から申しますと、ここに来て、またその流れのなかで1つの節みたいなものが出てきまして、それが


*熱=動き=然=燃(≒ノイズ)


なのです。


     *


 では、説明させてください。


 このシリーズでは、偶然性と必然性について、一貫して考え続けてきました。そのさいに手掛かりとしたのが「かく・かける」という大和言葉系の言葉の多重性=多層性でした。これは、送り仮名を添えて「漢字+ひらがな」と表記することで、確認できます。


 また、その作業の過程において、「当てられている」漢字の語義や「解字」を漢和辞典で調べることで、思いがけない発見もありました。で、ふと、「かく・かける」に当てる漢字だけでなく、


*偶然・必然


も「ついでに」調べてみたのです。で、びっくりしました。瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出る。鳶(とび)が鷹(たか)を生む。という感じで、


*偶然に偶然出合って=出会って=出遭って=出逢ってしまった


のです。


 それまで出そうで出ない感じだったものが、一気に出てしまった、と言ってもいいです。もよおすことなく出てしまった。つまり、漏れ出てしまった。お漏らしをしてしまった。粗相をしてしまった、とも、似ています。とにかく、


*偶然に、偶然に遭遇してしまった


のです。こういう時に、言霊の気配を感じちゃうのです。あれーっつ、という感じです。とにかく、結果を箇条書きします。


*偶然=遇+然


*遇 : 「あう」「遭遇=ひょっこりと思いがけずにあう」「もてなすことで、相手と関係し合う」「CHANCE」「たまたま=おっとっと=ひょっこり=あら、まあ」「似たもの同士が出あってペアを組む」「符号=符合=付合」「合体・ドッキング・性交(※比喩)・交尾(※比喩)・つがう(※比喩)」「熱い!やばい!間違いない!」(※ご不快なお気持ちをいだかれた関係者の方々に、お詫び申し上げます。でも、すごく言えてるんです)


*然 : 「イエス」「OK」「それしかない」「……みたいよ」「でもねー」「でもさあ、でもさあ」「……だとしたら」「でね」「熱くなる」「燃える」「似てると思うけど、『燃』って字の親戚」「ジュージュー肉を焼く」「脂身を焼く」「『難』っていう字が意味する自然発火とも親戚」


*必然=必+然


*必 : 「ぜったいに(or きっと)……になる/間違いない!」「あったりめーよー」「何が何でも……するわ」「目じるしの棒くい(?)を、両側から当て木をして締めつけて(?)、動くことのないように、ずれることのないように、しっかり固定する(※なんのこっちゃ? とにかく、力ずくで動けない状態=「ほぼテゴメ」にするらしい)」


 複数の漢和辞典で調べた結果、以上のような意味のことが書いてあったのです。


 個人的には、びっくりしました。さきほど、ちらりと見ていただいた、2つの記事に出てくる


*熱


という言葉が、どうして気に掛かって仕方がないのかが、ぼんやりと分かってきたからです。


     *


 さて、ここからは、飛躍します。


 めちゃくちゃこじつけます。まず、チャート化=図式化=カンニングペーパー利用=見える化します。


               ┌────────

                  │ 森羅万象=宇宙

               │ ↓     ↑

偶然性=遭遇=であう ←→   │ 宇宙の揺れ=動き=膨張

               │ ↓     ↑                              │熱の発生(≒ノイズの発生?

                 └────────


   (知覚という枠内)      (知覚という枠外)


          ───────────┐

必然性=人為=ヒトの意思・意志  │

 ↓             ↑     │ =自由=不自由

人工物=機械・器械・機具・言語  │

               ───────────┘


 以上のチャートを説明すると、以下のようになります。


*偶然性とは、絆(きずな)で結ばれた森羅万象のかけら同士が「であう」場=可能性である。


*偶然性とは、森羅万象のかけらである割符の片割れ同士が符合する場=可能性である。


*必然性とは、ヒトが偶然性を装った=真似た結果として、作られた規則性=整合性である。この前提には、ヒトが偶然性に必然性を見ている=錯視しているという状況がある。この人為的な必然性の有効性は、ヒトが製作し操作している機械・器械類、およびそれらを利用しての諸システムにおいて、顕著に観察される。


*ヒトが自らに備わった知覚、特に狭義の言語を通して見た(=錯視した)場合には、必然性と偶然性とは相反する=矛盾するものとして知覚=認識される。


*森羅万象=宇宙が、常に、揺らぎ動いている(=膨張している?)結果=原因として、熱が遍在している。


*森羅万象=宇宙が、常に、揺らぎ動いている(=膨張している?)結果=原因として、遍在している熱と、やはり遍在しているノイズとが、同じものである、あるいは、同じ特性を備えているかは不明。


*熱とノイズとには、ニュートラル=匿名的=特性を特定できない、という共通点がみられるのではないか? 


 以上が、偶然性と必然性についての個人的考察=妄察です。以下は、「書く・書ける・賭ける」についての個人的考察=妄察です。


1)森羅万象である、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちの「間(※ま・あいだ・あわい)」に、ヒトは「何か」を見る=錯視する=知覚する。その「何か」は個人としてのヒト、あるいは、特定の集団としてのヒトによって異なる。


2)ヒトは、1)の過程において、見る=錯視する=知覚する「何か」に対し、自らの所有物である「しるし」を「しるす」習性がある。これを「書く」という行為の源泉とみなすこともできる。


3)ヒトは、2)の過程の次の段階として、見る=錯視する=知覚する「何か」を「分かるもの」に転じる。ここで、知覚だけでなく、言語が重要な役割を果たす。多くの場合には、知覚器官を用いた知覚よりも、脳内に深くつながりを持つ言語のほうが、より優勢になり、脳を中核とした認識作用を促進させることになる。また、言語のうちの話し言葉よりも、文字を用いた書き言葉のほうが優勢な道具として機能することになる。それは、文字の物質性、つまり、文字が保存=記録、携帯=流通=運搬=伝達=通信、複製(※筆写 or 印刷)される特性を備えていることが、大きく寄与していると考えられる。「かく」は、「掻く」あるいは「描く」を経て「書く」へと発展し、特権化されたたと考えられる。


4)ヒトは、3)の段階において、2)の段階において学習=獲得した習性を、具体的な行動に移す。


5)ヒトは、3)の段階において、「表象」の認知と「表象作用=代理・代行の仕組み」を無意識に、あるいは、意識的に学習=獲得する。


6)ヒトは、3)の段階において、4)と5)でみた、言語を中核とした劇的な学習能力=情報処理能力の獲得によって、テリトリーの発生と成長、集団行動の洗練化、および、コミュニケーションの高度化を急速に前進=発展=発達させる。


7)6)での急激な変化=発達は、特定のテリトリー内の「であい」とその深化を加速化するのみならず、複数のテリトリー間での「であい」を加速化させる。


8)7)の結果として、ヒトは「理・必然性・法・業・因果・意味・条理・有意味・有・在」という概念をいだくようになる。これにより、ヒトは、自らがこの惑星でもっとも優れ=進化した存在であるという自信を得る。


9)8)は、あくまでもヒトの幻想=想像であり、ヒトが森羅万象の一部として、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちになり得る状況は変らない。


10)ヒトは、森羅万象だけでなく、自らもまた森羅万象の一部として、知覚=認識する。その結果、森羅万象と自らの両方を、1)で述べた、「表象」たち or 「トリトメのない記号=まぼろし」たち or 「ニュートラルな信号」たちの「間(※ま・あいだ・あわい)」に、ヒトは「何か」を見る=錯視する=知覚する対象として扱うようになる。その「何か」は個人としてのヒト、あるいは、特定の集団としてのヒトによって異なることは、1)でみた通りである。


     *


 以上の1)から10)は、「かく・かける(6)」にある、めまいを誘うほど長たらしい図表をご覧になりながら読むと、理解しやすいかと思います。いや、やっぱり、あの図はご覧にならないほうが、よろしいかとも思います。


 これにて、「かく・かける」シリーズと、その補遺=おまけ=付録=追加はおしまいにします。ここまで、辛抱してお付き合いくださった方に、こころより感謝いたします。



※以上の文章は、09.05.22の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。




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