テリトリー(2)
星野廉
2020/09/20 08:26 フォローする
あなたは村上春樹を知っていますか? と尋ねられたとします。その時には、たぶん、すかさず「もちろん」と誇らしげに、あるいは、「馬鹿にしないでよ感覚」でお答えになるのではないでしょうか。
では、次の質問だったら、どうお答えになりますか? あなたは村上春樹さんを知っていますか? ちょっと、間を置いて「ええ」とか、「まあ」とか、返事をなさる方がいらっしゃっても、おかしくはないのではないか、と想像します。「もちろん」と即答するには、ためらいがありませんか?
つまり、「さん」をつけたことにより、
*個人的に知り合いである
という意味にも取れる、と申し上げたいのです。英語の
*know
でも、同様の混乱が起こる可能性があるみたいで、
*know ~ by name(sight)
とすることにより、「(名前だけを)知っている」「(顔だけを)知っている」と、正確さを期する方法がありますね。
ちなみに、英語のknow には、聖書でつかわれている、ある特殊な意味もありまして……。おとっとと、話が脱線しそうになりました。こちらの意味のほうは、ご面倒でも辞書でお調べください。 Oh, no! なんて、面倒くさがらずに、よろしくお願いいたします。一方で、 I know, I know! などと、にやにやしながら叫んでいる方も、いらっしゃるに違いありません。
*
で、きょう、問題にしたいというか、考えてみたいのは、その know、つまり、
*知る・知っている
という言葉なのです。
英語の know の語源が、ほぼ「知っている、知る、知らせる、知覚する」どまり、なのに対し、日本語の「知る」の場合には、
*かつて、「しる・知る・領る」とは、何かを目にしたときに、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき」と主張する、という意味だった。
となることは、きのうの記事で書いたとおりです。つまり、「汁=しる=おしっこ」を引っ掛けるワンちゃんやネコちゃんなどの、
*マーキング行動=テリトリーつくり=縄張りつくり=まったりした仁義なき戦い
と同じ行動らしいのです。ただし、ヒトという種(しゅ)についていえば、
*「まったりした=本能という身の程の枠内での=つつましい=ごく自然体な」仁義なき戦いではなく、「マジで怖い=常軌を逸した=とてつもない=過剰きわまる=もう超ビョーキとしか言うほかない」仁義なき戦い
みたいなのです。
しかも、そうした尋常ではない事態をヒトがあまり意識していない、危機意識がきわめて希薄であるようだ、と言えそうなんです。これって、かなり、いや大問題ではないでしょうか。
で、思ったのですが、この
*「マーキング行動=テリトリーつくり」と、「名前=名づけること」は、密接にかかわっている。
という気がします。
このあたりの事情については、屁理屈をこねるより、おとぎ話=紙芝居=アレゴリーを利用して、ほのめかすように訴えるほうが、分かりやすいと思われます。で、これから、ちょっとした馬鹿話をしようかと考えております。紙芝居をご覧になるつもりで、気楽にお読み願います。
*
★な、いいだろう?
大昔のことです。尻尾のないおサルさんたちが、たくさん森に住んでいました。なぜ、森に住んでいるかというと、手先がとても器用で、木登りや、木から木へと飛び移ったり、枝にへばりついた木の実をとったりするのが得意だったからです。その手の器用さは、木登りが上手な、クマさんや、リスさんたちとは比べものにならないほど、すごいのです。尻尾のないおサルさんたちのなかには、小枝や、葉っぱを細工するものまでいました。
その尻尾のないおサルさんたちのなかで、体毛が薄く、あんまりぱっとしない感じの種類のグループがいました。手先は抜群に器用なのですが、力がとても弱くて、おとなしく、またうじうじした性格なので、ほかの尻尾のないおサルさんたちや尻尾のあるおサルさんたちから、かなり馬鹿にされていました。
そのうだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちのグループに、変なことが起きました。馬鹿にされてグループのメンバーの数が減ってきたのですが、その残ったメンバーたちが、やたらずるいのです。それにすることなすことが、とっても変なのです。やることが変で、しかも、ずるいメンバーの血を引くものたちだけが残ってしまった。そんな感じです。「ずるい」と「賢い」は似ています。「ずる賢い」なんていい言葉もありますね。どうして、そのうだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちを、このお話で「ずる賢い」と言っているのかと、不思議に思っている方もいらっしゃるにちがいありません。
その理由は、さきほども少しお話ししましたように、このうだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちが、ちょっとというか、そうとう変だったからです。ほかの種類の尻尾のないおサルさんたちや、尻尾のあるおサルさんたちや、おサルさん以外の生き物たちに比べると、することなすことが、どう見ても変なのです。ふつうじゃないことばかりするのです。ちなみに、なぜ、尻尾の「ある」と「ない」にこだわるのかというと、一般的に「ある」ほうより、「ない」ほうがずる賢いからです。からだも大きいです。英語で尻尾の「ある」ほうをモンキー(monkey)、「ない」ほうをエイプ(ape)といって、区別するくらいです。たぶん、趣(おもむき)がちがうんですね。
さて、うだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちの、変な行動のなかでもいちばん変なのは、何やら口なかでもごもごやることです。木の実や草の実なんかを食べている音とはちがうのです。その変なもごもごを仲間同士でやりあって、森のなかでのいろいろなルールに反することを、はじめるようになってきたのです。前代未聞というやつです。どうやら、もごもごは、仲間うちの合図のようなのです。その合図によって、かなり込み入った連絡をとれるみたいなのです。
もごもごによって、連携プレーをして、ほかの生き物たちの食べ物を横取りする。もともと手がすごく器用ですから、連携プレーで、棒切れをつかって、ほかの生き物たちをいじめたり、殺しちゃう。そのうち、石をつかったり、土や泥をこねて悪さをしたり、わざと森で火事を起すまでになりました。火は、ほかの生き物たちが、もっとも苦手とするものでした。どうやら、その火を手なずけはじめたようなのです。1つ忘れてはならない、大切なことがあります。もごもごをするようになってから、このグループのおサルさんたちの外見に大きな変化があらわれたのです。どういうわけか、恥しがりやさんになっちゃったんです。
もともとが、このグループのおサルさんたちは、体毛が濃いほうではありませんでした。ほかの尻尾のないおサルさんと並ぶと見劣りがする。ぱっとしない。華奢(きゃしゃ)。そんな感じだったからかどうかは分かりませんが、もごもごがはじまった頃から、からだ、特に腰のあたりを、覆うようになったのです。これも、森のルール違反の1つです。木の葉や、枯れ草をつないだり、半端じゃなく器用な手先を利用して草木の茎なんかを編んで腰みのみたいなもので、腰を中心に覆う。これは目立ちますよ。みなさん、腰みのやパンツを身につけた野生の動物さんがいるってお話を、聞いたことがありますか?
もう、うだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたち、とは言えなくなってしまいました。元うだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちは、森から草原まで出て行き、もごもごをフルにつかって、さまざまなルール違反をするようになっていきました。うじうじした性格など、影も形もなくなりました。草原では、何と後ろ足だけで立って歩いたり、たったったたー、どころか、さっさっさーと走れるようになりました。ここまで来ると、ルール違反が増えすぎて、もう「ずる賢い」とは言えません。「ずる」を取って「賢い」と言っても、ま、いっか、になりました。
また、長い長い年月が過ぎました。年月と言いましたが、半端じゃなく長いんですよ。千年とか万年単位で考えてください。その半端じゃなく長いあいだに、半端じゃない変化が起きました。何と、例のずる賢い、じゃかった、賢い、うだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたち、じゃなかった、元うだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちは、ものすごいでかい顔をして、森、草原、川原、海辺、湖畔、砂漠といった、ありとあらゆるところに出没し、木や石や粘土や干した植物やほかの生き物たちの皮なんかをつかって、それは見事な巣をつくっているのです。外見も、腰のあたりだけでなく、いろんなところにいろんなものをつける、つまり、お飾りなんてこともするようになりました。
なお、ここから、元うだつのあがらない種類の尻尾のないおサルさんたちを、ヒトと呼びます。短くてチャーミングな名ですよね。な、いいだろう? って感じです。また、もごもごも、もごもごって呼ぶのは、言いにくいのでやめます。言葉って名をつけましょう。な、いいだろう? って感じです。「賢い」は「賢い」でいいでしょう。「悪賢い」って言いたい気持ちもしますが、ま、いっか、って感じです。
さて、賢いヒトが言葉をつかって、森だけでなく、草原、草原、川原、海辺、湖畔、砂漠などで、数えきれないほどのルール違反をするようになったのですが、このルール違反に共通する大切な「ヒトだけのあいだのルール」ができはじめてきたのです。それは、何かを目にしたときに、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき」と主張する、というルールです。森だけでなく、草原、草原、川原、海辺、湖畔、砂漠などのルールは、もう、ルールでなくなってしまったのです。だから、これからは「ヒトだけのあいだのルール」を、単にルールと名づけます。な、いいだろう? って感じです。
もう、ヒトは怖いものはだんだんなくなってきました。なにしろ、悪賢い、じゃなかった、賢いうえに、言葉をつかうことで、いろいろ覚えたことを、代々伝えてきています。すごい勢いで賢くなっていきました。ここで、1つなぞなぞを出します。
ヒトがどんどん賢くなるとともに、だんだん増えてきたものがあります。それは、何でしょうか?
みなさん、よーく考えみてください。みなさんも、知っているし、つかっているものです。みなさん1人ひとりに、ついてもいます。あっつ! 今のは、大ヒントです。今の「ついている」で答えが分かっちゃったかな? もう、1つおまけの大ヒントをあげましょう。
な、いいだろう?
そうです。大当たり。答えは、名、つまり、名前です。ヒトは、自分が何かを目にしたときに、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき」というと同時に、もごもごの子孫、言い換えると言葉をつかって、名前をつける癖というか、ルールを知らず知らずのうちに身につけていたのです。
ヒトは、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき。な、いいだろう?」と言ったあと、「これを△□○×と呼ぶ。な、いいだろう?」と付け加えるのが習慣になりました。名前のないものに名前をつけることで、自分のものになる。
これが、ルールとなったのです。名って、なんて、すてきな、ルールなのでしょう。いったん、名をつければ、その名はどこへでも、持って行けます。ほかのヒトたちに、「これは、わたしのものだ」という印(しるし)みたいなもの、にもなります。この印(しるし)で、知る、つまり、知識を得たり、蓄えたり、伝えたりすることができるのです。自分が死んでも、子や、その子や、またその子たちへと、えんえんと残すことができます。ヒトって、賢いですね。すごいですね。まるで魔法じゃないですか。これって、半端じゃないですよ。な、いいだろう? いやー、名前って、本当にいいものですね。って感じですね。
*
以上です。
蛇足ではありますが、このおとぎ話=紙芝居=アレゴリーは、単なる与太話=フィクション=でたらめです。したがいまして、いかなる科学的、および、学問的根拠に基づくものではありませんので、その点をどうか、よろしくご理解並びにご了承願います。
ちなみに、上の与太話のタイトルが「な、いいだろう?」となっていることに、ちょっとでも興味がおありになる方は、広辞苑で「な」を引いてみてください。「なあ」も含めると、20くらいの「な」があります。その意味をざっと流し読みしてください。あ「な」どれ「な」い、ですよ。な、すごいだろう? って感じです。
【※きょうの記事は、かなり長くなるもようです。間借りしているブログサイトの文字数制限に引っかかることは、確実です。いつもより短いですが、内容的に区切りがいいので、ここでいったん、中断させていただきます。この続きは、「テリトリー(3)」として、本日の次の記事に書きます。ご面倒をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます】
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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