かりる・かる -3-

星野廉

2020/10/31 15:31

『存在と無』


 かっこいいタイトルだなあ。中学三年生の時にそう思いました。哲学したい。そう考えるきっかけになった本のひとつです。高校生になってから買いました。大部で難解。拾い読みしました。積ん読しました。


 いつ処分したかは覚えていません。今はないことは確かです。


 本の題名を眺めながら、いろいろ考えることが好きです。中身に興味がないわけではありませんが、もともと本を読むことは苦手です。


 題名を知っているだけで、自分にとっては十分。そんな本がたくさんあります。『存在と無』も、そのひとつです。わくわくするタイトルです。いろいろなイメージ、言葉が頭に浮かび、収拾がつかなくなります。それなのに、たのしい。愉しい。楽しい。


 存在と無


 上の文字をよーく見てください。少なくとも、十秒は見つめてください。時計の秒針を見ながら、十秒たつのを「待つ」と分かりますが、十秒って意外と「長い」ですよ。


 固有名詞は強い光を放つ言葉です。前後の言葉たちの影を薄くし、時には読めなくしてしまうほどの、まばゆさが固有名詞にはあるので、注意を要します。


『存在と無』


 恐縮ですが、すぐ上の文字を、また十秒間ほど見つめてください。


 さっきの、存在と無、との違いを感じませんか? 『存在と無』と、かぎ括弧でくくったとたんに単なる名詞が本のタイトルとして固有名詞に変化する。そして、その固有名詞は強い光を放ちます。その差異を感じ取っていただきたいのです。


 存在と無、と、『存在と無』との差異。それは、両者の「存在」から生じたと言えると同時に、両者の「無」から生じたとも言える。その両義性について考えてみたいのです。


     *


<私家版『――――』>というタイトルのもとに、文章をつづりたいという夢があります。


「――――」の部分には、既に書かれて存在する書籍のタイトルが入るのですが、その書籍とは無関係だとお断りしておきます。なにしろ読んだこともない本。過去に、買った、あるいは借りたが、全然読まずに終わったか、拾い読みはしたけれど、その内容の断片すら記憶にない本。名前しか知らない本。そうした本の名前が、<私家版『――――』>、という形で、自分の書く文章のタイトルとして記載されることになる。そんな荒唐無稽とも言える夢があるのです。


 かつて、哲学や文芸批評関連の書籍や雑誌の記事に、<『――――』の余白に>というタイトルが、やたら使われた時期がありました。<私家版『存在と無』>よりも<『存在と無』の余白に>のほうがかっこいいなあ、と思いましたが、<『――――』の余白に>は、あくまでも『――――』を読んでいることを前提とした響きがあるので、気が引けます。あきらめました。


 これから先、このブログでときおり書こうと予定している、<私家版『――――』>の『――――』という固有名詞を、アマゾンなりグーグルで検索すれば、その作者名、出版社名、発行年月日が、そして翻訳書の場合には、原著者名、訳者名などのデータも入手できるでしょう。紹介文やレビューを読むこともできるでしょう。


 繰り返し申し上げますが、<私家版『――――』>は、そうしたデータとは一切関係がありません。単にタイトルに同じ言葉が用いられているだけです。


「本書はフィクションであり、登場する人物や場所などは、同名の実在する人物や場所とは一切関係がありません」


という意味の記述と、状況はほぼ同じです。


     *


『――――』という言葉の放つ強い光のまばゆさを前提とし、あえてそのかぎ括弧を外してみる。そして、その言葉の持つ、本来の辞書的な定義やステレオタイプ化したメッセージ、その言葉が連想させるもろもろのイメージやニュアンス、その言葉にまとわりついた手垢や汚れを、すべて肯定する。


 また、かぎ括弧を外された、――――という言葉を目にした人たちがそれぞれ受け取り想起するであろう、多種多様なイメージの「からみ合い」も積極的に肯定する。そうした「からみ合い」が存在することを積極的に認めたうえで、<私家版『――――』>の書き手はその「からみ合い」を構成する言葉たちに促され、その言葉たちと向き合ったさいに今度は自分が抱くことになる「からみ合い」と戯れながら文章をつづる。


     *


 以上が、<私家版『――――』>の初めての試みとなる、<私家版『存在と無』>の「序文」です。序文というからには、本文が書かれる予定です。本文は、たぶんこのブログ開設以来書いてきた、一連の雑文のバリエーション=焼き直し=二番煎じになるでしょう。


『――――』に入れたい言葉たちが、次々に頭に浮かびます。


 善悪の彼岸、言語にとって美とは何か、野生の思考、鏡・空間・イマージュ、権力への意志、「わからない」という方法、動機の文法、男が女になる病気、アレゴリーとシンボル、負け犬の遠吠え、思考と行動における言語、ああでもなくこうでもなく、部分と全体、起きていることはすべて正しい、名付けえぬもの、象は鼻が長い、存在の大いなる連鎖、「あいまい」の知、ビジュアル・アナロジー、翻訳とはなにか、文字の美・文字の力、モノからモノが生まれる……。


 哲学したい、批評したい、自分の頭と体で考えたい。そんなスタンスで言葉を紡ぎたいと思っています。引用、固有名詞の羅列、研究、検証、実証、お勉強、は嫌いです。なのに、なぜ、羅列をしたのか?


 上に羅列した言葉たちは、自分が初めて耳にし目にしたときには、書名という名の固有名詞でした。それは確かです。でも、もともと『』などついていなかった言葉たちです。『』は、お約束事、つまり制度、しがらみ、ルール、掟です。さきほどの、存在と無、と、『存在と無』の差異を思い出しましょう。そして、固有名詞から、『』を外し、匿名化された言葉の環境へと解き放つ。


 すると、例の固有名詞特有のまばゆい輝きの代わりに、どこに光源があるのか定かではない部屋に置かれた物体のように、目を凝らせば凝らすほど、何であるかが認識できない、初めて目にするものとしか言いようのないものとして現前します(※今の文、ややこしくて、ごめんなさい。簡単に言えば、固有名詞が普通の名詞、つまり、ただの言葉に見えるということです)。その何やら懐かしい、それでいて心騒ぐ薄明の中で、そこにある言葉たちが、必死になって別の言葉たちを求め、おびき寄せようとする。


 上に羅列した言葉たちは、思考を刺激し、考えることを促してくれる触媒なのだと、あっさり言うこともできるでしょう。とりあえず、その言い方でお茶を濁すのも、ひとつの方法でしょう。どうせ言い尽くすことなど、到底できないのですから。


 ただ、その言葉たちのまとう表情と身ぶりと運動に、自分の頭と体を任せてみたい。母親の胎内から出て、まだ見えぬ目で初めて「世界」と向き合ったという、始原あるいは誕生という名の「物語(=フィクション)」を想定しながら。


 あえて言うなら、その言葉たちの生い立ちや起源は、このさい、どうでもいい。そう、どうでもいいのです。誰が最初に言った、誰が発明した、誰のオリジナリティー、誰の専有物、「おい、真似すんなよ」、「すごい、わたしって天才? つばつけておこうっと、ぺっぺっ」「そこのあなた、パクるんじゃないわよ」、「" "をつけてググってみよう、おお、まだ『あき』じゃない、しめしめ」(最後のこれは、私がよくやることです(赤面)、ブーメランブーメラン)。


 とはいうものの、「作者」という根強い「神話」と、「著作権・知的財産権」という名の、「制度=ルール=掟」があります。作者、著作権。これなしに、現在のヒトの世界は成り立たないのですから。(「私家版『存在と無』―序文―」より)




     〇



「エピステーメー」(朝日出版社)という雑誌がありました。昔々の話です。note で「エピステーメー総目次(1975-1979, 1984-1986)」という記事を見つけました。収録されていた論考のタイトルを眺めているだけでわくわくします。





 かつてこの雑誌が出るたびに買い足していき本棚にずらっと並べて、その背表紙の模様を目にして喜んでいたものです。杉浦康平氏のデザインだったのですね。杉浦氏の斬新な装幀やデザインの本をたくさん持っていました。どれも高価でしたが、読むよりも眺める楽しみがあり買っていました。ある時ほとんどを処分し、もうありません。


 そんなわけで「エピステーメー」は手元にないのですが、偶然に見つけたその目次の文字たちを「眺める」ことで「読む」ではなく、「詠む、唱える、歌う」を楽しむことができます。「詠む、唱える、歌う、眺める」時には、自分が借り物(引用の織物と言ってもいいかもしれません)になっている気がしてなりません。借り物である言葉たちとともに、かりそめに借り物になっている自分がいます。逆に「読んでいる」時の自分は自己を主張しています。そんな時の自分は窮屈で居心地がよくありません。自分を脱ぎ捨てたくなります。


 目次に並ぶタイトルの文字を眺めながら、詠む、唱える、歌う。いまはそれだけでいいです。というかこれ以上何を望めるというのでしょう。気がつくと、ゆうに一時間が過ぎていたりします。こんな贅沢な時の過ごし方はありません。


     *


 長年購読している朝日新聞のいいところは本の広告が多いことです。本の広告にあるタイトルとそれに添えられたキャッチフレーズを眺めながら、その内容をでっちあげるのが楽しいのです。もう趣味と化しています。とくに中小の出版社が出している学術書が妖しい光を放ち、見ていてぞくぞくします。こんな内容の本は売れないのではないかという懸念を振り払い、空想に集中します。時間がたちまち過ぎていきます。読書ページの書評は詳しすぎて、このお遊びには適しません。


 自分の中にいる借り物の一部を呼び寄せて織る。自分という引用の織物の一部をほどきほぐしてさらに別の模様に織る。自分といういびつなパッチワークの端っこをつついて、新たなできそこないの模様をでっちあげる。


 タイトルを眺めていると、こんな感じのことが自分の中で起きている気がします。とても気持ちがいいのでやめられません。


     *


「エピステーメー」の目次集から気になるタイトルを抜き出してみますね。筆者名と訳者名は後ほどまとめて明記します。それにしても、文脈を欠いた言葉の断片を並べると心底ぞくぞくしてきます。妖しく危ういのです。


【※このわくわくぞくぞく感は他にもあったけど、あれは何だっけ? こんな気持ちを抱いたので考えていたところ、思い出しました。雑誌「遊」(工作舎刊)です。あれも面白かったです。学生時代に、教室なんかで誰かがあの雑誌の一節を音読して、まわりのみんなを笑わせるという遊びが流行っていたことがあります。寄稿文はどれもごくありきたりの散文なのですが、中心となる編集者の筆によると思われる文章(この量が多いのです)がじつに独特な文体で書かれていたのです。手元にないので記憶をたどるというより、記憶とも言えないイメージの残滓を言葉でなぞるしかないのですが、論じているのかそれとも詩として詠んでいるのか判断不能な筆致の、本気とも戯れとも取れるシュールな文章でした。教室で、「『〇〇である』なんだって」と誰かが雑誌の一部を音読すると、「あらまあ」「それはそれは」「至言だなあ」「はい、座布団一枚」「ごっつぁんです」「これは、三枚だろ」「みなさん、勉強になりましたね」「がちょーん」という感じで合いの手を入れるのです。その輪に加わりはしなかったものの、楽しかったです。】


 では、タイトルを引用します。


 権力・性・歴史

 人間の終焉

 偶然と必然についてて

 権力の戯れ 監獄について

 猿とデリディエンヌ あるいは権力と知について

 権力の眼 『パノプティック』について

 無意味について

 非-知、笑い、涙

 ウィトゲンシュタインの〈無意味の意味〉

 〈手法論〉の余白に

 クロソウスキーの余白に

 ブランショ論ノート

 箱と織物

 かくも残酷な知

 距り、アスペクト、起源 

 ニーチェ、系譜学、歴史

 真実への気遣い  

 交差と非両立 


 以下は上のタイトルの出典(雑誌「エピステーメー」より)です。


・ ミシェル・フーコー「権力・性・歴史」(鹿島茂訳)・1976年3月号「特集=映像と知 あるいは記号学批判」

・ 渡辺格「人間の終焉」 〔『人間の終焉 分子生物学者のことあげ』〕・1976年5月号「特集=ウィーン 明晰と翳り」

・ ジャック・モノー「コレージュ・ド・フランス開講講演」・1977年6月号「特集=人間の終焉 モノー・渡辺格・ステント」

・ ジャック・モノー「偶然と必然についてて 付 偶然と必然に関するシンポジウム」・1977年6月号「特集=人間の終焉 モノー・渡辺格・ステント」

・ ミシェル・フーコー「権力の戯れ 監獄について」・1977年12月号「特集=身体」

・ 渡邊守章・豊崎光一・蓮實重彦「共同討議 猿とデリディエンヌ あるいは権力と知について」 〔渡邊守章『フーコーの声 思考の風景』哲学書房、1987〕・1978年1月号「特集=反=哲学 フーコー・ドゥルーズ・デリダ」

・ ミシェル・フーコー「権力の眼 『パノプティック』について」(伊藤晃訳)・1978年1月号「特集=反=哲学 フーコー・ドゥルーズ・デリダ」

・ ジル・ドゥルーズ「無意味について」(木田元・財津理訳)・1978年6月号「特集=ノンセンス 非=知と無=意味」

・ ジョルジュ・バタイユ「非-知、笑い、涙」(横張誠訳)・1978年6月号「特集=ノンセンス 非=知と無=意味」

・ 黒崎宏「ウィトゲンシュタインの〈無意味の意味〉」・1978年6月号「特集=ノンセンス 非=知と無=意味」

・ 宮川淳「〈手法論〉の余白に」・1978年11月号「特集=音の生理 音楽の現在/巻末特集 宮川淳の墓」

・ 宮川淳「クロソウスキーの余白に」・1978年11月号「特集=音の生理 音楽の現在/巻末特集 宮川淳の墓」

・ 宮川淳「ブランショ論ノート」・1978年11月号「特集=音の生理 音楽の現在/巻末特集 宮川淳の墓」

・豊崎光一「巻末付録 箱と織物II Un Cenotaphe pour Atsushi MIYAKAWA」・1978年11月号「特集=音の生理 音楽の現在/巻末特集 宮川淳の墓」

・ ミシェル・フーコー「ニーチェ、フロイト、マルクス」(豊崎光一訳)・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」 

・ ミシェル・フーコー「かくも残酷な知」(横張誠訳) 〔『幻想の図書館』哲学書房(ミシェル・フーコー文学論集)・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」

・ ミシェル・フーコー「距り、アスペクト、起源」(豊崎光一訳)・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」 

・ ミシェル・フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史」(伊藤晃訳)・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」 

・ ミシェル・フーコー「真実への気遣い フランソワ・エヴァルトによるインタヴュー」(湯浅博雄訳)・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」  

・ 豊崎光一「交差と非両立 ミシェル・フーコーにおける見ることと言うこと」・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」

・ モーリス・パンゲ「ミシェル・フーコー、修業時代の」(大久保康明訳)(Maurice Pinguet, «Michel Foucault, les années d’apprentissage», 1984. Repris dans Maurice Pinguet. Le texte Japon introuvables et inédits, ed. Michaël Ferrier, Paris: Éditions du Seuil, 2009.) ・1984年12月、「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」


※こうやって眺めると追悼の気持ちが込み上げてくるリストになりました。



 どうでしょう?


 書き手や訳者の名前や出典である雑誌の号名、つまり固有名詞や出自が添えられたタイトルは、立派でふてぶてしい面構えをしていませんか? それが文化とか学問とか教養とか知識とかいうものの垢なのです。致し方ありません。せめてあの美しくも妖しげな言葉たち(詠まれ歌われるためにいます)と、この垢にまみれながらも端正な顔立ちの言葉たち(読まれるためにいます)のあわいに敏感になろうではありませんか。ものである言葉に罪はありません。あわいは、生きものである(しかも逸脱しています)人の側のレトリックでしかありません。



エピステーメー | クロニクルズ | 書籍 | 朝日出版社

朝日出版社の総合トップページです。CNNEE・語学・書籍・デジタルコンテンツをご紹介しています。

www.asahipress.com


     〇



 嘘をつくのが好きな子でした。自分のことです。特に、得意だったのは、「本当であってもおかしくない嘘」です。得意だと自分で思い込んでいて、実は嘘であることが周りにはバレバレだったなんてことも、よくありました。でも、自分では、「本当であってもおかしくない嘘」をつくことは悪いことではない、と信じていました。確信犯であり、常習犯でした。


 本を読むことや、お勉強は苦手です。でも、好きな本や興味が持てることだと話は別です。それこそ寝食を忘れて熱中します。これは、小学生のころから続いている性癖です。他人の話をよく聞くことも苦手だったし、今も苦手です。一方で、読んでもいない本の内容について話すことや、耳を傾けて聞いたわけでもない話の内容を他の人に聞かせることが好きでした。


 恥ずかしながら、今も、時々やっています。でも、このブログでは、自粛しています。このブログを愛しているからです。またこのブログを読んでくださっている人たちを大切にしたいからです。だから、歯切れの悪い、あやふやな書き方になるのです。


 たまに書いている小説となると、また話は別になります。小説は「嘘=フィクション=語り=騙(かた)り」なしでは成立しません。小説を書く時には、嘘をつきまくります。


 いずれにせよ、さきほど述べた「本当であってもおかしくない嘘」を、未だに引きずっている人生を送っている、と言えそうです。


 要するに、嘘つきなのです。


     *


*「わたしは嘘つきだ」


というセンテンスを命題とし、その真偽をめぐって、哲学者や論理学者とか呼ばれる人たちが、唾を飛ばしながら、議論してきたらしいです。「わたしが嘘つき」であれば、その「わたしは嘘つきだ」という発言は「真実」になるのか「嘘」になるのか? といった議論です。個人的には、こうした「言葉=言語の抽象的な部分」=「意味=メッセージ」のレベルをいじること、つまり思考の対象とするのが、すごく苦手です。


 でも、ちょっと言わせてもらうなら、「わたしは嘘つきだ」を命題として考えるのは変だと思います。「わたし」は刻々変化する存在なのだし、「わたし」と名乗る存在も多種多様なのだし、「嘘つきだ」も状況=コンテクストに左右されるわけだし、「嘘」も多義的なものだし、このセンテンス自体が各種あるレトリックの一つでもあり得るのですから。


 もっとも、今述べた私見も一つの意見=感想=考え方でしかありません。いずれにせよ、ある種の哲学者や論理学者は、「わたしは嘘つきだ」をまともに受け取るのです。きっと、生真面目なのでしょうね。


 哲学にもいろいろあり、哲学者や哲学学者にもいろいろいます。形式的な「論理=筋道=理屈」を重視して、真か偽かに、こだわるタイプ。矛盾を、そのまま矛盾として「肯定する=受けとめる=排斥しない=排除しない」タイプ。大きく、この二種類に分けられるような気がします。


 自分は、後者が好きです。断片的な文章を書き散らし、自由奔放に思いついたことを書くので、あちこちで書いたものをつき合わせてみると矛盾している部分が多々ある。そんな哲学、哲学者、哲学学者のあり方に、引かれます。


 だから、ニーチェの書いた文章や、ニーチェの言ったことらしいことを集めた文章を断片的に読むことが好きです。『善悪の彼岸』なんて矛盾に満ちていて、サイコーです。要するに、自分はテキトーな性格なのです。そんなわけで、ぐだぐだしていて自己満足的で駄洒落に満ちた文章を、ついつい書いてしまいます。


     *


 そういえば、やたら、このブログでは「思い出した」だの、「かつて……したことがある」だの、「……みたいな話を見聞きしたことがある」だのと、書いていますね。それは、上で述べたテキトーな性格の反映でもあるようですし、冒頭で述べたように、「本当であってもおかしくない嘘」の自粛の結果でもあるようです。


 また、現在の自分は新しいデータや情報を頭に詰め込む状況にないからだ、という気もします。つまり、新しい知識を「仕入れる=インプットする」だけの、心の余裕も、金銭的余裕もないという意味です。


 インプットするとすれば、せいぜい新聞記事やネット上のデータくらいで、本を読むことはほとんどないです。新聞記事やネット上のデータについても読み流す程度ですから、頭にちゃんと入ったかどうか=インプットされたかどうかは、きわめて怪しいです。「知識」に対して、無精な態度で接する癖がついてしまっているとも言えそうです。


 とはいえ、頭の中に残っている「知識」だか「イメージ」だか知りませんが、「ぐちゃぐちゃ=ごちゃごちゃしたもの」を自分なりに整理しようとして、必死で紙切れに書き留めています。それをもとにして、みなさんが今お読みになっているような長めの文章を書いています。かなり本気で書いています。


「でまかせしゅぎじっこうちゅう」というブログタイトルで記事を書いたことがありました。あのネーミングは、自分の現状 or これまでの人生 and これからの人生をよく表していると思います。頭の中が「ぐちゃぐちゃ=ごちゃごちゃ」であるために、書くという形で、出してみないことには、何が脳味噌に詰まっているのか分からない。だから、


*出るに任せている ⇒ でまかせを実行している最中 = でまかせしゅぎじっこうちゅう


なのです。もっとも、ちょっと格好をつけるなら、


*「言葉が書ける=言葉を書く」ということは「賭ける=賭く」ということである。


という、ステファヌ・マラルメというフランスの人が言ったと自分が信じ込んでいるフレーズで、「でまかせしゅぎじっこうちゅう」を言い換えることができるかもしれません。その意味では、繰り返しになりますが、本気で書いています。それも、賭け=ギャンブルに夢中になっている人が、本気なのと同じではないかと思っております。


     *


 そんなわけで、考えたり、その考えをメモしたり、そのメモを頼りに文章を書く、しかも本気になって書く、つまりアウトプットは好きなのです。結果として、このブログでは、他の人の書いた文章からの引用がきわめて少ないです。辞書から、言葉や単語を写すのは別としての話です。


 何かの文章を参照しながら、書き写したというのは、『土佐日記』の出だしくらいでしょうか【※『土佐日記』については、「要するに、まなかな、なのだ」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)に書きました】。


 日本語であれ外国語であれ、古典とか、「偉い」と言われている人の書いた文章をそのまま写して、その原文に添えられていた訳文や解説をまるまる写す。あるいは、それにちょっと手を加えて誤魔化す。または、引用文にちゃんと自分なりの意見か解説を加える。そして、ブログの記事とする。


 そういうのは、少なくとも自分のやり方ではありません。その代わり、「自己輸血」、つまり自分の過去の記事からの引用はよくやります。一時、これはやりすぎだと反省し、自粛したこともあります。でも、ついやってしまいます。


 ここで、お断りしておきたいのは、オリジナリティ=「これは、わたしが書いた独創的な=オリジナルな文章だ」というような大嘘は信じていない、ということです。


*すべての言葉、つまり、話し言葉も書き言葉も、既に過去に誰かが話したり書いたことである。


と信じています。


*オリジナリティなんて、あるわけがない。意図するにせよ、しないにせよ、すべてが引用なのだ。


と思います。


 著作権、知的財産権を否定しているわけでもありません。あれは、何かを書いたり、製作した人が、お金を確保するために是非とも必要な、お金儲けの仕組みです。さもなければ、飢え死にしたり、路頭に迷う人たちが、おおぜい出てきます。金銭的な保証=保障は、ものを書くのを生業にしている人や、何かを製作をしてご飯を食べている人には、絶対に必要です。


     *


 話を嘘に戻します。きのうの記事で、あるおとぎ話をしましたが、あれも嘘=フィクションです。嘘であると同時に、これまで自分が見聞きしてきたことの「引用の産物」でもあります。『引用の織物』という美しい言葉が口から出かけましたが、その言葉をタイトルにする書物を書いて亡くなった宮川淳(みやがわあつし)という、ものすごく詩的で理知的な文章の書き手だった人に失礼なので、やめておきます。(「あう(5)」より)



     〇



 仮象、かしょう、かり・かたち、借り物、借りる、かり、かりに。


「読む」のには漢字が適している気がします。たとえば、上記の「仮象」みたいに、ぐっと来ます。頭や脳に来る感じです。でも、「わかる」からは程遠い感じです。「かり・かたち」とか「かりのかたち」と読みかえて、ああなるほどと思い、どきどきもします。「かしょう」と音読みをひらがなにすると、間が抜けて見えます。歌唱、過小、仮称、過少……とイメージが膨らむとも言えますが、面白みに欠けます(ただし仮称は面白いですね、仮象、仮称なんて並べると何だろうという感じでわくわくします)。


     *


 漢語系の言葉は模様と形・象を眺めるのが楽しいという言い方もできます(一方、やまとことばば歌いやすいとも言えます)。楽しいのですが、個々の言葉には好き嫌いがどうしても出てきます。「概念」みたいに一語一義的な頑なさが感じられる(個人の感想ですよ)言葉はかわいくないです(「観念」は観念している部分があって愛着を覚えますけど)。とはいえ、「概念」を辞書で引いてみると、長々とした第一の説明の次に、第二の語義として「大まかな意味内容」なんて内容なんてないよー的な記述があって、こんなかわいげのない言葉にも愛嬌を感じて微笑んでしまいます。「概」ですから、たしかに「おおむね・おおまか」ですよね。なかなかチャーミング。幽霊の正体見たり枯れ尾花。


 要するに昔の中国語の音で読むわけですから、ちんぷんかんぷん、珍紛漢紛、珍糞漢糞、珍聞漢文。音読してもぜんぜん気持よくないわけです。でも、同音でずらし転がすとわくわくが来ます。概念、外燃、本質、本室、仮象、仮称、過小、歌唱、火傷、河床、佳賞なんて具合に。くらくらするようなイメージの氾濫、反乱、叛乱に襲われます。手強いですね。頼もしいわ。


     *


 音読みをしている漢字のつながりが「読む」行為を刺激してくれるなんて言い方もできそうですね。概念、存在、情報、重症化、消費、幸福、年金、知識、自治、過去、情報、世界観、真理、憲法、貧困……(今日の新聞をぱらぱらめくって持ってきました)。どれも偉そうです。胸を張っています。漢語系とやまとことば系という日本語の歴史的な経緯による産物というか言葉の構造のせいでしょうか。おもに元々が学問の分野や知識階級の間で使われてきたためにその垢を感じます。


 あの人が妊娠した。ご懐妊なさったそうです。


 あの人が身ごもった。あの人に赤ちゃんができたって。おめでただそうです。やっとで子宝に恵まれた。


 上の例を見ると、漢語系つまり「音読み」言葉はそっけなかったり、即物的に感じられます。一方のやまとことば系つまり「訓読み」言葉は何だか温かくてほっとします。あくまでも個人の感想ですよ。友達がいないので、他の人がどう感じるかは知りません。


 ここまでお読みになって感じられたと思いますが、漢語系は苦手です。記事でもいわゆる学問の世界で用いられてきた専門用語を避ける傾向があるのは、漢語系が多いからなのでしょう。そうした用語だらけの文章を見ると、ああ駄目だと敬遠します。話を戻します。


     *


 仮象、かしょう、かり・かたち、借り物、借りる、かり、かりに。


 仮象、現象、表象、事象、本質……。はっきり言って、うんざりします。できることなら使いたくないですし、じっさいにあまり使いません。そうした言葉に悪態をつく際に仕方なく使うくらいです。


 いや、そうでもありません。漢字は眺めるのにいいですね。忘れていました。漢字の形、模様、象は見ていてわくわくします。漢和辞典で解字の欄を見ると時が経つのを忘れます。言葉である漢字を見ると言うより眺める。目でやりすごすのです。その字をゆっくりとペンで書くのもいいです。何度も何度も同じ字をなぞるのです。そのうち、文字ではなくなってきます。好きな言葉ではないのですが、ゲシュタルト崩壊なんてレトリックが頭に浮かびます。軽いゲシュ崩とでも言いましょうか。いい気持ちになります。話を戻します。


     *


 借り物。これです。借り物、かりのもの、借りのもの、仮のもの、かり、かりに。声に出して読んでみると、つまり唱えて詠んでみると、ずずんと来ます。頭や脳にではなくてお腹に来る感じです。「わかる」から程遠いのは、「仮象」と同じです。「わかる」なんて高望みはしません。求めているのはささやかな「あっ……」であり「エウレカ!」とか「ガッテン!」なんて悟りみたいなものは期待もしていません。それほど欲深くはないつもりです。「アハ」も欲しくはないです。「わからない」の質が違えばいいのです。こっち(借り物)の「わからない」は心地よいです。あっち(仮象)の「わからない」は居心地が悪いだけです。


「詠む、唱える、歌う」時には、ひらがながやさしく先をみちびき促してくれます。「かり・の・もの」という具合に。訓読みをしている漢字とひらがなの組み合わせも絶妙です。「借り物・借り・借りる・仮に」みたいに。


 借:

 音読み:シャク

 訓読み:か(りる)・か(り)


 仮:

 音読み:カ・ケ

 訓読み:かり(に)


「か」と「カ」が微妙にかさなるところが、不思議でいい感じ。この謎はそっとしておきます。


     *


「読む」は頭・脳に来ます。「詠む、唱える、歌う、眺める、やりすごす」はお腹(ひょっとすると「どこというわけでもない身体に」)来ます。せっかちな方のためにまとめると、そんな感じです。


 いまお話ししているのは、あくまでも個人の感想ですよ。念のために申し添えておきます。


     *


「借り物」は「引用の織物」とも言える気がします。あくまでも仮に借りているわけですから、本当のものとか「これしかない」といったものではないのです。これaも、あれaも、これbも、あれbも……が同時にある・いるという感じです。その「これa」かころころ揺らぎ変わるのですから、始末におえません。何しろとりとめがないのです。それってあなたのことではありませんか。胸に手を当てて考えてみましょう。あっ、失礼しました。ごめんなさい。一般論というズルと横着をしましょう。


 ころころ揺らぎ、とりとめのないものは人ではないでしょうか。さらに言うなら、言葉ではないでしょうか。人の作るもの(人から出るもの)は人に似ているので(「つくる(1)」より)、不思議はないのです。ある人の中にいろいろな人や人以外の生き物や物や有り様や出来事があるように、ある言葉や文章や作品の中に、いろいろな言葉や文章や作品があるというわけですが、それは人だけに「ある」ことなのです。他の動物に言っても、ぽかーん、です。


     *


 ところで、「詠む、唱える、歌う、眺める、やりすごす」というのは、「動詞」であって「名詞」ではない気がします。いえいえ、品詞ではなく、たとえ、つまりかりにの話なのです。誤解を招くようなレトリックを使って申し訳ありません。アンチ反対語派であることは、これまで何度もいろいろな記事で触れてきました(たとえば、「わかるという枠」での悪態を文字通りご笑覧ください)。ついでに言いますと、アンチ名詞派なんです(「動詞という名の名詞」と「名詞という名の動詞 (後半)」にざっと目を通していただければうれしいです)。


 簡単に言いますと、「詠む、唱える、歌う、眺める、やりすごす」は人を揺らぎや動きにへと誘います。だから、たとえとして「動詞」ととりあえず呼んでみたのです。イメージしていただくのが目的です。「読む」は人を思考停止(比喩です)と機能不全(比喩です)に誘います。固定化と硬直化に至らせる(比喩です)わけですね。


 停止とか固定とかいう言葉つまりレトリックを真に受けてはなりません。レトリックはまやかしの仕組みなのです。繰り返しますが、あくまでも比喩ですよ。読むことにより、人は多動状態になり、常に動かずにはいられない心理をかかえていますが、あれは「読む」ことによって、しなやかさと軽やかさ(これもたとえです)を失っているからなのです。本能からズレたとか逸脱した(もちろんたとえです)と言う人もいますね。


「わかった!」「ユレイカ!」と同時に、止まってしまうのです。これは逸脱です、外れているのです。ずれまくり、止まったままどうにも止まらない状態となり、突っ走るのです。このプロセスが、この星において、あちこちでおびただしい数と規模で繰り返されてきたのが、人の歴史だと言えます。このプロセスの集積を、進歩とか資本主義とか発展とか代議制とか文化とか文明とか言っても一向にかまいません。


 だからこそ、仲間を月にまで送り込んだのであり、パソコンやスマホをほぼ一人ひとりが持ってしまったのであり、次々とモノを生産しなければならない輪廻・輪転(比喩です)に陥ってしまったり、進め進め、回せ回せ、作れ作れ、発見せよ発見せよ、出せ出せ、捨てろ捨てろ、もっと速く速く、燃やせ燃やせ、使え使え、刷れ刷れ、壊せ壊せ、喰え喰え、殖やせ殖やせ、殺せ殺せ、が起きているのです。


     *


 スイッチを切らなければなりません(比喩です)。それに気づくべきです。スイッチを作ったのは人ですから、スイッチを切らなければならないのに気づくべきなのです。つけっぱなしはいけないでしょう。節電しましょう。こまめにスイッチオフでしたっけ? 


 進歩や正義や愛や神や仏というレトリックでスイッチが切れるかについては甚だ疑問であり悲観しています。資本主義と代議制に支えられた新種の絶対権力という車輪(比喩です)はびくともしないのです。西も東も、北も南も、隣も内も、この事態に変わりはありません。びくともしないのです。むしろ進行していると言うべきなのか。アホはアホなりに支離滅裂と言われるのを覚悟して、こうやって戯れ言を垂れ流すしかないようです。


 スイッチを切るのには、気づく必要があります。気づくために必要なのは、たぶん「読む」や「わかる」や「悟り」ではないでしょう。「詠む、唱える、歌う、眺める、やりすごす」が必要なのだ、なんて短絡はしません。レトリックを真に受けると馬鹿を見ることは学習したはずです。ただし、「詠む、唱える、歌う、眺める、やりすごす」ことによって、揺らぎと動きがうながされて、スイッチの存在とスイッチを切る選択肢があることに気づく人が出てくる気がしないわけでもありません。


 いま人は、スイッチさえも、AIだかロボットだか知りませんけど、自分が作った人以外の「自動装置」に任せようとしています(資本主義や代議制というどうにも止まらない、いや絶対に止まりそうもない「自動装置」(比喩です)にまだ懲りていないし、ましてや学習していないみたいなのです)。そうなれば途方もない責任転嫁が起こります。責任者不在状態になります。人が作ったシステムが自動になれば、この先誰がスイッチを切るというのでしょう。


     *


「動く」の反対は断じて「止まる」ではないのです。そんな形式論理的で抽象的なレトリックを真に受けてはなりません(プルーストの例の長い長い小説において、「長い」の反対が「短い」では決してないのと同じです)。言葉は欠陥品なのです。人は動いているのではなく、加速した惰性の運動の中で静止しているだけ。逸脱し惰性化した暴走の車輪に乗っかっているだけです。こんなたわごとをほざくアホも含めての話なのは、言うまでもありません。例外なんていません。誰もが輪に乗っかって手をこまねいているだけなのです。いま求められるのは「止まる」という行動だと言えます。


「止まる」ためには、どれだけの行動力つまりパワーとエネルギーを要することか。若い人たちの力が試されています。たとえば、北欧の小さな国出身の少女がスイッチを切らなければならない事態に気づいて目立った動きを示しています。だからトランペットを吹く道化師やその追随者たちからにらまれているのです。目立たない形で他にもたくさんの人たち、とくに若い人たちが動き始めているにちがいありません。気づいている人の数は、老若男女を問わずもっと多いはずです。

 

     *


 繰り返します。


「わかった!」「ユレイカ!」と口にすると同時に、止まってしまうのです。これは逸脱なのです、外れているのです。しかも、この言葉は伝染します。空間的にも時間的にも、伝染(うつ)るんです。同じヒトという種同士ですから。ずれまくり、止まったままどうにも止まらない状態となり、突っ走るのです。このプロセスが、この星において、あちこちでおびただしい数と規模で繰り返されてきたのが、人の歴史だと言えます。このプロセスの集積を、進歩とか資本主義とか発展とか代議制とか文化とか文明とか言っても一向にかまいません。


 だからこそ、仲間を月にまで送り込んだのであり、パソコンやスマホをほぼ一人ひとりが持ってしまったのであり、次々とモノを生産しなければならない輪廻・輪転(比喩です)に陥ってしまったり、進め進め、回せ回せ、作れ作れ、発見せよ発見せよ、出せ出せ、捨てろ捨てろ、もっと速く速く、燃やせ燃やせ、使え使え、刷れ刷れ、壊せ壊せ、喰え喰え、殖やせ殖やせ、殺せ殺せ、が起きているのです。


 駄目押しに言いますけど、これは止まってしまうからなのです(止まってしまうから逸脱した暴走を続けるとも言えます)。もう止まってしまった(止まってしまって、もう暴走が止まらなくなっている)と言うべきでしょうか。この星で、おそらくこうなっているのはじつに洗練された言葉(もともと欠陥品であり破綻しています)という仕組みを持つヒトだけだと思われます。ささやかな言葉の仕組み(一貫して瑕疵はなく破綻はあり得ません)を持つと考えられる他の生き物は、外れることなく動いています(暴走と逸脱のない動きとは区別されるべきです)。逸脱することなく、延々と揺らぎと動きを繰り返して今日に至っています(多くの人が無生物としてとらえているこの星や宇宙もそうなのかもしれません)。これを止めちゃいけません。


 お後がよろしいようで。


     *


 変な終り方をして、ごめんなさい。「エピステーメー」の目次から記事のタイトルを引用して並べたあたりから、厭な予感があったのです。


 雑誌「パイデイア」や「エピステーメー」が本屋に並んでいた頃には、進歩や正義や愛や神や仏というレトリックに反発を覚えながらも、まだレトリックの力を信じていた人たちが多数いました。良くも悪くもレトリックが輝いていて、何かを期待させる光を帯びていた時代。代議制が完全に破綻してポストトゥルースとかいうレトリックが出てきたいまは、ただただ無力感を覚えます。たしかにレトリックが力を失って、露骨なまでにその素性をさらした権力(比喩です)が台頭してきています。歴史を振り返ればいまに始まった事態ではないのですけど、いやに暑くなってきたこの星のこの時代にこうなってくると無力感はいや増します。


     *


 変な終り方をして、ごめんなさい。

 またもや着地に失敗しました。不時着でもいいから、着地したいのです。これ以上レトリックにこだわるのはやめて、ここは素直にいったほうが良さそうです。憑かれました、じゃなくて疲れました。


     *


 明日から十一月ですね。今日は朝がとても寒く感じられました。


 温かくて美味しい物を食べ、元気を出して頑張りましょう。


 人間、食べられるうちが花です。よく食べて、自分の中にある借りものたちに感謝しましょう。自分が食べるというより、この星から借りたものが食べてくれるのですから。感謝。合掌。



 いつの世も ぐれた子どもを 怒鳴る奴


 洟すすり 今日も不時着 ペンを置く



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