つくる(3)
星野廉
2020/09/20 07:49 フォローする
無人島で1人だけで生きるのなら別ですが、ふつうヒトが生きていくうえで、絶対に免れないし避けることができないものがあります。今、自分が考えているのは、医療、法律、天変地異です。ほかの考え方もあるでしょうが、とりあえず、この3つのものに「お世話」になったり、「拘束」されたり、影響を受けずに生きることは、難しいのではないでしょうか。ここでの天変地異は、広い意味にとって、天気と天候も含めましょう。
たとえば、道を歩いていて、急に猛烈な腹痛に襲われて、倒れてしまう。交通事故に巻き込まれてしまう。突風が吹いてきた。あるいは、かなり大きな地震が起きた。今、挙げたような災難に見舞われる可能性は、高いです。その結果として、病院に運ばれたり、警察官に身元を尋ねられ確認されたり、場合によっては、何らかの行政組織とかかわることを余儀なくされる。こうした事態は、拒める性格のものではありません。
この国だけに限定して、話を続けさせてください。
*仙人、世捨て人、隠者、遁世者、隠遁者、隠棲、潜伏
という言葉があります。それに近い生き方をしているヒトもいます。でも、この国で生きてきた限り、そのヒトには戸籍というものが、あるはずです。その戸籍は、法律によって定められた制度です。戸籍に基づき、戸籍を持ったヒトは、多種多様な司法・立法・行政上の制度とかかわらざるを得ない宿命を背負うことになります。
在日外国人であれば、どこかの市区町村役場で外国人登録をしているか、いったん登録はしたものの、滞在許可の期限が切れて「不法滞在者」となっている場合もあるでしょう。でも、登録の原票は存在するはずです。どこかの国から送られてきた工作員なら、戸籍を「買う」なり、あるヒトの戸籍を「盗む」というケースも考えられます。一種の「偽装」です。
また、
*「住所不定無職」
と分類されるヒトでも、どこかの役所や役場に戸籍があるのがふつうです。
ところで、
*孤独死、あるいは、孤立死
という形で最期(さいご)を遂げる方々がいらっしゃいます。また、
*野垂れ死に、または、行き倒れ
という亡くなり方をされるヒトたちも珍しくはありません。
こうしたヒトたちに共通するのは、
*1人である
と
*人生の最後に、そばに、身寄り、あるいは、知人ないし目撃者がいない
という点です。それでもなお、
*医療と法律だけはつきまとう=医療と法律からは逃れることができない
のです。
具体的に言えば、司法解剖あるいは行政解剖、埋葬、身元の確認、行政・司法機関による書類作成です。さきほど触れた、不法滞在者も、対象となります。身元不明の場合には「身元不明」という言葉で、然るべき処理をされます。例外はありません。話題が暗くなってきましたので、話を変えます。
*
みなさん、嘘はどこまで許されるとお考えですか? 唐突に、漠然とした質問をしてしまいました。ごめんなさい。質問を少し変えます。あなたは、きょう、または、きのう何か嘘をつきましたか? ついたとすれば、それは、まあまあ許される嘘でしたか? それとも、かなり罪の意識を感じる嘘でしたか? その嘘は、たとえば、家族や親しい人を相手に、
*「……しちゃった」
なんて軽い口調で白状して、下をぺろりと出して許される程度の嘘でしたか?
*罪・罪悪感
という言葉があります。罪を辞書で引くと説明されていますが、
1)社会的ルールや道徳などに反する罪
2)法律上の罪
3)宗教的な掟(おきて)を破った罪
くらいに分けられそうです。ほかの分け方も可能でしょうが、以上の分類をもとに話を進めます。
さて、さきほど、あなたがついた嘘は上の3種類のなかでは、どれに当てはまりますか? 2つくらいにまたがるかな? とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんね。ご存知の方も多いと思いますが、家族間での「盗み」は法律的には成立しません。このことを、かつて初めて知った時には、びっくりしました。
いい加減なことは書けないので、電子政府のサイトで確認しましたが、要約すると、
*親族間、つまり家庭内の窃盗(※他人の財物を盗むこと)に関しては、その刑を免除されるという意味のことが、刑法の244条に記されている。
とのことです。
法は家庭に立ち入らないという趣旨らしいです。だから、コドモが親の財布から、こっそりお金を盗んでも、窃盗罪には問われない。でも、そのコドモは、罪の意識を感じるでしょうね。その場合の罪とは、上の1)と3)の中ほどでしょうか。罰(ばつ)を受けることはなくでも、ルール違反なだけでなく、神様か、仏様から、罰(ばち)を与えられそうな気もしますね。
さきほど
*掟(おきて)
という言葉を出しましたが、
*タブー=禁忌(きんき)
という言葉を思い出しました。多分に宗教的色彩の濃い、禁止を表す言葉です。現在では、宗教とは無関係の社会的 or 共同体内でのタブーの意味でも用いられますね。ここで、かつての記事から、自己輸血=コピペをさせてください。
*司法の目的は、人を逮捕することではない。まして処罰をすることでもない。書類を作成することだ。
*大切なのは、身柄の拘束や、刑の執行ではなく、書類作り。=ヒトじゃなくて、紙。
*すべては、ハンコのためにある。
以上は、「あなたなら、どうしますか?」からの引用です。続けて、ちょっと長めの引用をさせてください。
*
★法律とは何でしょうか? 「法律」 については、いろいろな定義が可能でしょうが、てっとり早く言えば、「権威」 だと理解しています。 「国家の権威」 と言い換えても、それほど的外れではないのではないか、とも思います。そうだとすれば、
やっぱり、ハンコは偉い。
無力な市民は、そうつぶやくしかない。なぜなら、ハンコは 「国家の権威」 の 「表象」 だからです。
それが、ハンコが 「偉そう」 にしている、理由です。「偉そう」 は伝染します。ポンポン押すだけが仕事の、役人や官僚に伝染します。要するに、
伝染るんです(=「うつるんです」と読みます、念のため )。
恐ろしい言葉が出てしまいました。
タミフルなんかじゃ、太刀打ちできませんよ。吉田シゲルの孫も、役には立ちそうにありません。いくらマンガ好きであっても、です。戦車で踏みつぶすほかありません。いや、それでも、無理でしょう。ただでさえ、恐ろしい「表象の働き」(=表象作用) が、うつるんです。これ以上、ヒトにとって、恐ろしいことが、あるでしょうか?
*
★から以上までは、「やっぱり、ハンコはえらい(続・あなたなら、どうしますか?)」からの引用です。要するに、
1)法律、掟、ルール、タブーといったものすべては、言葉である。
2)その言葉は、ヒトがつくった=発したものであるにもかかわらず、ヒトが「何か」の代理人を装って、代弁した形をとっていることが多い。
3)国家の重要な役割の1つは、国民およびテリトリー内に居住するよそ者を、「言葉によって管理する=書類を作成し記録する」ことである。
4)国家による書類の作成では、ハンコや署名が、「権威」の印、および、「権威」から「権限」を委託=委譲=請負=丸投げされた or 奪った=勝手に拝借した or 偽造した or 捏造した代理人の印として、その作成された書類の有効性を保証する機能を果たす。
5)官僚主義=官僚支配=権威の代行者による「事務=ほとんどペーパーワーク」が、制度化され、長期にわたって存続すると、事務自体が目的化され、制度は形骸化する。
という点が、きわめて大切な意味を持ちます。
王様ごっこや、お殿様と家来ごっこや、お姫様と家来ごっこや、こども銀行に代表される「……ごっこ」ときわめて似ていながら、権力の後ろ盾がありますから、この形骸化は怖いです。違反したり、反抗すると、マジで罰せられます。簡潔に述べますと、
*反抗 ⇒ 犯行 ⇒ ハンコと番号にいじめまわされる
となります。書類の作成と整理=ペーパーワークに、番号は欠かせません。拘置所や刑務所に入れられると、名前の代わりに番号で呼ばれるそうです。
冒頭で挙げた、無人島で1人だけで生きるのなら別ですが、
*ふつうヒトが生きていくうえで、絶対に免れないし避けることができないもの
のなかに、
*法律
が含まれるのは、そうした前提に立っての
*怖い現実
なのです。これは、たぶん、実際に経験してみない限り、実感=体感できない性質のものだという気がします。
身近で、それほど深刻ではない例を挙げましょう。自動車を運転していて軽い接触事故を起こして、警察に事故証明書を作成してもらった。夜、1人で歩いていて警察官に職務質問され、最寄りの署へと同行を求められた。他の自治体へ引っ越すさいに住民票を移動させようとしたら、職員がコンピューターの端末で入力ミスをしたために、申請した本人が訂正を申し出る必要が生じた。納税について、身に覚えのない「お尋ね」を記載された書類が郵送されてきたので、管轄の税務署に出頭しなければならなくなった。裁判員に選ばれたという通知を受け取った。
以上のような場合には、否応なしに、然るべき役所に出向いて、然るべき係の人に会い、然るべき法律に沿って、然るべき措置=作業を行わなければならないのです。たいていの場合には、ハンコ=印鑑が必要です。本人の署名でもオーケーの場合も増えてきましたが、やっぱり主役はハンコです。もし、何らかの事務的な手抜かりがあれば、それがどんなに些細なものに思われても、やり直しを命じられます。そうです。
*命令される
のです。
*法律とは、命令集=「『……しなさい』 or 『……してはいけない』のかたまり」なのです。
端的に言って、
*法律とは、「言葉のかたまり」なのです。
ということは、言葉ですから、温泉やある種の虫のようにわいて出てきたもの=自然発生したものではないのです。
*ヒトがつくったもの
にほかなりません。誰が、どのようにしてつくったのかについては、もう何度も引用して、気が引けますが、次のおとぎ話=紙芝居=作り話がいちばん分かりやすいと思いますので、再度、コピペさせてください。
*
★「 ひな壇 」とピラミッドは、司法・立法・行政には付きもの。代理、代行、代議士、代表、総代が、うようよ。ハンコぺたぺたのペーパーワーク。このへんが不明の方は、当ブログのバックナンバー、「 あなたなら、どうしますか?」 、「 やっぱり、ハンコは偉い 」 を参照、願います。面倒な方は、このまま、引き続き、どうぞ。「 ひな壇 」は「 虎の威=衣 」とセットで、クラス分け、棲み分けして、暮らすわけ。これが代々続けば、2世、3世、そして、世襲。仲間うちで譲ったり、譲り合えば、天下り、渡り、渡る天下に鬼はなし。
蛇足ながら、「 虎の威=衣 」は「 虎の位 」、ピンからキリまで、枚挙にいとまなし。フェイクファーのパンツから、スマトラ産の超高級品の上下一式の被り物のまで、多岐にわたる。引退後は、民間人をさておいて、真っ先に褒章、勲章までもらえる。ワッペン張って、大威張り。首から下げて、涙腺を緩めるのが、最後のご奉公。なんでこれがご奉公? 公僕、最後のご奉公? ここまで来ると、もうめちゃくちゃではないか? それなのに、庶民が一揆を起こしたり、騒がないのも、究極には「 表象の働き 」の奥深さがあるのではなかろうか? もっと考えてみたいけど、きょうは、それ以上考える暇なし。貧乏暇なし。なぜか、突然、なるほど、
「 タモちゃんのお代理様 」
は、やっぱり言えている、と思う。言えてるどころか、きっと、そうに違いない。「 でまかせ 」ではなく、「 言えている 」とか「 きっとそうだ 」にしてもいいでしょうか、偶然と必然のオーソリティー(= 権威 )だったマラルメさん? ここで権威にすがる自分が、情けない。それはともかく、ヒトよりも、もっともっと偉い存在がいて、ヒトはその代理を務めたいという、願望、欲求、祈り、野望、をもっているのではないでしょうか、マラルメさん? Aにはなれないから、Aの代わりを演じます。Aみたいな顔をしてみます。Aの仮面をかぶり、表情をまね、ときにはお化粧もし、かつらも付けたりもしてみます。
どうです、似合うでしょう? 様になるでしょう? だって、これだけ化ければ、○○様なんて、呼ばれるんですもの。偉く見えるんですもの。いいじゃないの。
という具合に、偉く見えるから、崇め奉られる。ちやほやされる。甘やかされる。
「 どうか、雨が降って豊作になりますように 」「 作物が駄目にならないように、大雨が止みますように 」「 ニワトリとブタが増えますように 」「 隣村の馬鹿どもが攻めてきませんように 」「 今度の戦( いくさ )に勝てますように 」「 あいつとの賭けに勝てますように 」「 おとうさんの怪我が早く治りますように 」「 娘がいいところにお嫁にいけますように 」「 亡くなったあとに天国に行けますように 」「 元気が出ますように 」
「 お任せあれ。任せとき。だいじょうぶ。ところで、あれは、ちゃんと用意しているかな? このあいだは、ちょっと少なかったぞよ 」
万が一、でまかせが当たらなかったり、何かとんでもないことが起きて、都合の悪くなったときには、仮面を外し、お化粧を落とし、表情をしおらしくして、かつらもとって、わたしは代理ですと言って責任を転嫁すればいい。または、「 あんたの信心がたりんからじゃ 」と、これまた、責任を転嫁すればいい。「 代理人 = 代行者 」は、気楽で、いい商売だわい。
これは便利。超便利。魔法みたいに便利。呪術みたいに便利。イッツ・ア・マジック。マジでマジック。マジで絶句。ヒューマニズムよりも、シャーマニズム。コミュニズムよりも、キャピタリズム。デモクラシーよりも、ビュロクラシー。
*
★から以上までが、「1カ月早い、ひな祭り」からの引用です。自己輸血=自己引用ばかりで、申し訳ありません。当ブログは、1巻の絵巻物のように、ブログを書きはじめた頃から、ずっとつながっているのです。「徒然なるままに」というより、「くだくだと」という感じでしょうか。とにかく、つながっています。ですので、ある意味で、エコなやり方が可能です。リユース、リサイクル、継ぎはぎ、という具合です。単なる、無精=横着=ワンパターン=マンネリ=ネタ切れだ、と言われれば返す言葉もありませんが……。
今、思い出したのですが、2、3年前でしたか、新聞の第1面か第2面の下にある書籍の広告で、「司法」、あるいは、「裁判」、という言葉と、「再現」、または「フィクション」という言葉がタイトルか、サブタイトルか、解説にあった著作を見かけたような気がするのです。自分には、本のタイトルや解説を読んだだけで、その内容をひとり合点して満足するという、とんでもない悪い癖があります。きっと、それだと思うのですが、司法の世界にも、
*司法および裁判という制度を「再現」「フィクション」という思考のフレームワーク=考え方の枠でとらえる
スタンスの学者がいたり流派があるのだな、などという「のん気な=能天気な=脳天気な」「想像=妄想」をした記憶があるのです。この記事を書くのを中断して、ネットでキーワード検索をしてみましたが、どうもうまくヒットしないので、やはり妄想なのだと思います。もっとも、「フィクション」(=fiction)には法律用語として「擬制」という重要な意味=考え方があるので、そちらの方面の専門書だったのかなとも思われます。
*
いずれにせよ、「妄想」というものは、「イメージ」と同じく、ヒトが個人レベルで勝手にいだくものですから、「妄想」をいだいている本人にとっては、きわめてリアル=本当=ほんまものなのです。まさに、坂田利夫さんがよく口にする、
*「あんた、ほんまもんやから、こわいわー」
的状況なのです。それにしても、
*裁判はフィクションである
とは、言えてるなあ、と個人的には思います。だって、
*言葉で、事件を再現する
んですよ。これをフィクションと呼ばずに、何と呼ぶのでしょう。ノンフィクションですか? ドキュメンタリーですか? 厳密に事実関係を検証した法的根拠に基づく公文書、あるいは、記録ですか? どんなに「忠実」だの「厳密」だの「正確」だの「緻密」だの「事実に基づく」だのと言葉を並べ立てても、
*「言葉」が、自分自身を「言葉でない」と否定することはできない。
はずです。
*言葉は言葉である。
を否定することができる
*言葉の魔術師
なら、たくさんいそうですし、哲学史、思想史などの教科書を斜め読みすると、そんな
*言葉の魔法使い
たちが、実際にいたみたいです。
言葉は何とでも言えますから、そういう器用なヒトたちがいても、ぜんぜん不思議ではありません。現在ですと、法曹界や検察以外に、グローバルなビジネス展開をしている広告代理店やコンサルタント会社(※ほとんどが欧米に本社があります)などに、そんな魔法使いが多数いるそうです。
何しろ、そういう企業は最新のメディアやツールやスキルを用いたり、依頼者側が出す資金=契約金次第では、かなり上層の政治力まで利用して、プロパガンダ=宣伝=情報操作を行い、たとえば国家の元首を決める選挙の後ろ盾になったりしている=裏工作をしていることは、よく知られていますね。ある地域で紛争=戦争が起きた場合にも、大活躍したというドキュメンタリーのテレビ番組が放映されたり、それを書籍にしたものがベストセラーリストに載ったことを覚えています。
とはいえ、そうした「言葉の魔術師」が存在する「らしい」という「こと=話=フィクション」自体が、
*印刷=コピー=複製された記事や書物という形態の「言葉」のかたまり
として、あるいは、
*「写真」「複製された音声」「テレビ放送の映像・音声」「ネット上に流通する画像・音声」という「再現されたもの」=「再演されたもの」=「コピー」=「複製」
という形でしか、ヒトは「知覚」したり、「認識」する手段=方法=戦略を持ち得ないわけです。何でも、そうです。だから、何でも、
*そう「らしい」
としか言えないのです。
当たり前と言えば、当たり前。驚くべきことと言えば、驚くべきこと。恐ろしいと言えば、恐ろしい事態です。この事態をどう受け止めるかは、もう、例の
*きままでテキトーな「イメージ」
の問題でしょう。つまり、人それぞれ、カラスの勝手状況です。みなさんは、どう受け止めていらっしゃいますか? こういうことって、ややこしいですよね。話を変えましょう。
*
*ヒトがつくるものは、ヒトに似ている。
と、おとといの記事に書きました。それは、
*ヒトは、自分の身体や都合に合わせてものをつくる。
からなのですが、その現象をいちばん体感しやすいのが、玩具です。
「きかんしゃトーマス」なんかは、ヒトがつくった機関車という乗物を、キャラクター化しているわけですが、汽車とか自動車って、正面から見ると、ヒトに似ていませんか? おとといは、冷蔵庫が「お母さん」に似ている、とも書きました。あれこそ、まさに、個人的なレベルでいだいているイメージですから、そうお思いにならない方が圧倒的に多いでしょう。
汽車や自動車の場合には、目や鼻や口がついた形で、キャラクター化され、玩具として製造されたり、絵本になったり、アニメやゲームで映像化されています。多数の人に「共有されたイメージ」と言えそうです。
絵本、アニメ、ゲームですと、コドモは、物語=フィクションを受動的に受ける側に立ちます。一方で、物体としての玩具の場合には、コドモがその物体を手で持ち、物語=フィクションを演じる側に立つことになります。
これって、すごい現象だと、個人的には思っています。ヒトが、表象というものの働きを、身体で演じる萌芽だと感じるからです。あすは、その「フィクションの萌芽」について考えていることを、書いてみようと思っています。
ここまで辛抱して付き合っていただいた方に、こころより感謝いたします。また、あす、遊びに来てくだされば嬉しいです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77