代理だけの世界(3)
げんすけ
2020/09/08 08:54
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
*代理の仕組み
と言う場合には、「何か」が何であるかは保留されます。「未定=不明=分からない」と考えます。「分かり得ない=分からない仕組みになっている」とも言えます。
「代理の独立」、「代理の自立」、「代理のひとり歩き」というフレーズも頭に浮かびますが、あまり使いたくありません。どうしてなのでしょう。たぶん、代理に主体性があるようなイメージが伴うからだと思われます。
それでは、あまりにもヒトがだらしなさすぎます。なにしろ、比喩的に言えば、ヒトの脳が代理(正確言えば「代理というお話」ですけど)を生んだのですから。「ちゃんと子育てしてよ」とか、「育児放棄、つまりネグレクトが立派な虐待だっていうこと、分かってんの」とか、「自分が出したうんちの後始末くらい、責任もってつけてよ」という感じです。
*
ちょっと言い換えてみましょう。
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
において、
A)ヒトは「何か」を「定める=明らかにする=分かる」ことはできない。
B)ヒトは「何か」を「定める=明らかにする=分かる」ことはできない仕組みになっている。
A)とB)というフレーズにおいては、ヒトの限界性が指摘されています。
C)代理はヒトから独立している。
D)代理はヒトから自立している。
E)代理はヒトをさしおいてひとり歩きする。
C)とD)とE)においては、代理が前面に出て来て、ヒトが刺身のつま状態になっているイメージがあります。
*
「代理の独立」、「代理の自立」、「代理のひとり歩き」というフレーズに抵抗を覚えるのは、あくまでも「ヒトがいて初めて代理がある」という状況が感じられないからだと、今思いました。そうなのです。「ヒトがいるから代理がある」のであって、その逆ではないのです。
とはいうものの、事態はもはや「代理があってヒトがいる」と言えるような気もします。ひょっとすると、ヒトが代理に「依存しきっている=頼りきっている=いわば中毒になっている=なしではいらなくなっている=主導権を握られている=使われている=もてあそばれている」状態にあるのではないか。そう思えてきました。
*
話を戻します。
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
*代理の仕組み
と言う場合には、「何か」が何であるかは保留されます。「未定=不明=分からない」と考えます。「分かり得ない=分からない仕組みになっている」とも言えます。
たとえば、「花・はな」という「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」の代わりに「花・はな」という文字と音(おん)、つまり言葉を「用いる=代用する」というレベルの「話=フィクション=説=約束事=ルール=与太話」ではないと言いたいのです。
*
分けると分かるかもしれないので、分けて考えてみましょう。
A)「花・はな」という「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」
B)「花・はな」という文字と音(おん)、つまり言葉
ここで問題にしている「代理の仕組み」においては、A)というものが何であるかは保留=未定=不明=分からないという前提に立っています。とはいえ、この駄文は言葉で書かれているため、言葉を用いなければ、みなさんに読んでいただけないという事情があります。
というわけで、「やむを得ず=仕方なく=いやいや=しぶしぶ=事務的に=官僚的に=『ま、いっか』という感じで=とりあえず」A)と記述していることを、ご承知願います。つまり、かなりテキトーなことをやっているという意味です。したがいしまして、この文章を駄文だの与太話だのと繰り返し、罵倒し悪態をついている次第なのです。まさに駄文には違いないのですけど、いわゆる謙遜で「駄文」とか「拙文」とか「節分」とか「豆まき」とかいうのとは違うと申し上げたいのです。
*
A)「花・はな」という「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」
B)「花・はな」という文字と音(おん)、つまり言葉
実を申しますと、このA)は「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」などではなく、「代理」なんです。それが「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」のような「面=表面=顔=表情=お化粧=お面=仮面」をつけて化けているのです。こんなインチキをいたしまして、申し訳ございません。だからこそ、この文は「駄文なんです=与太なんです=ガセなんです」と言い訳するしかなさそうです。
言い訳をさせていただきますと、インチキをしないことには、なかなかA)とB)の基本的な関係をイメージしていただけないのではないかと思っての措置だったのです。それくらい、A)とB)の基本的ではない関係は、イメージしにくいと思われます。
なにしろ、「ほんまもんに見えて、実は『代理=偽物』」対「代理=偽物」(※基本的ではない関係=正確に記述した関係)というのは、ややこしいです。「ほんまもん」対「代理=偽物」(※基本的な関係=不正確だがシンプルに記述した関係)のほうが、ずっと分かりやすいですから。
この国のレストランなどの店頭に、ウィンドーに収められたイミテーションのメニューがありますね。あれと似ています。そっくりだけど偽物。そっくりだけど食べられない。でも、あまりにもよくできているために思わず食欲をそそられる。そんな感じです。この「そそられる」がきわめて大切なのですが、「代理だけの世界(1)」で分かりやすい説明があるので以下に引用します。
*
「何か」とか、「その『何か』の代わり」って、何だか謎めいて神秘的に聞こえるんですけど。
神秘的ですか? いや、そんなたいそうなものではありません。「何か」とは「餅」で、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」と考えると分かりやすいかもしれません。比較的モチがいいと言われる餅ですが、カビは生えるし、いつか腐敗するし、だいいちモチあるきにくいので、ヒトは絵に描いてモチ運ぶのです。でも、ヒトはそれが絵だということをすぐに忘れます。
「絵に描いた餅」って笑えますね。モチがいいとか、モチ運ぶとか、真面目な顔をしてしらっとダジャレを言うなんて、あなたはすごく性格が悪そう。
ありがとうございます。で、この餅はクジラであっても宝石であってもヒトであってもミミズであってもオケラであってもアメンボであっても山であっても総理の椅子であっても宇宙であっても、それが絵に描けるなら「何か」なのです。餅を、気取って事物や現象、あるいはおおげさに森羅万象なんて呼んでも、それでヒトの気が済むのならよろしいかと思います。また、絵に描いた餅を、表象・象徴・記号と呼んでも事態はいっこうに変わりません。
もう少しゆっくり話してもらえません?
申し訳ありません。では、ゆっくりと……。大切なことは、餅の絵が餅だと錯覚したり、餅の絵が餅ではないことを忘れたり考えないようにするのが、ヒトの常だということです。取り違えとか取り替えのギャグみたいで、お茶目ですね。モチろん、故意に、あるいはすっとぼけて、この錯覚や忘却を利用する、身モチが悪いじゃなくて、鼻モチならないやからがいるので、気をつけなければなりません。
鼻持ちならないやからですって? それ、あなたのことじゃないんですか?
そうかもしれません。
あっさり認めるんですね。「『何か』の代わりに『その「何か」ではないもの』を用いる」って、話からそれてきていません?
そんなことはありません。説明の仕方が悪いみたいなので、別のたとえをします。「何か」とは「あそこ(ヒトぞれぞれですので、お好きな「あそこ」を想像なさってください)」、そして「その「何か」ではないもの」とは「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」と考えると、すごく切実=リアル=ガッテン=あら、いやだ、に感じられるかもしれません。
ちょっと、あなたったら。あら、いやだ……。
ああいうものを見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催してきません? この場合には、燃えないほうが、きわめて危うい=ヤバいかと存じます。燃えてこそ、ヒトなんでしょうね。あれを見て燃えないなんてヒトでなしかもしれません。お分かりになりましたか?
*
以上が引用です。
「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」を「見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催して」くるとお考えになるのが、いちばん分かりやすい=手っ取り早いのではないでしょうか。何しろ、ヒトという種は基本的に、年中24時間発情している=発情期がない=発情期が不定期である、ホモ・サピエンス=英知人=えっち人=好き者なのですから。
*
ですので、A)は「『実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物』であると『仮定=想定=錯覚=事実誤認』しているもの」というのが、最も正確な記述の仕方と言えます。でも、現実には、ヒトはA)が「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」だと意識的に(=確信犯)、あるいは無意識のうちに(=うっかり犯)「思い込んでいる」のが普通です。
いずれにせよ、「思い込み=錯覚」であることは同じです。でも、その「思い込み=錯覚」を責めるのは、個人的な「体感=実感=体験」からしても酷だと思います。ヒトである限り、「免れない=避けられない」たぐいの「思い込み=錯覚」である気がします。これを避けられたら、「ヒトではない=ひとでなし」と言っても過言ではないでしょう。
*
というわけなのですが、そのリアルな「騙され感=思い込み感=自己暗示感=体感=うっかり感=確信感」を大切にしたいという思いもあります。たとえて言えば、天動説は「正しくなく」て、地動説が「正しい」らしいけど、どう考えても体感的には、天動説が「正しく」て、地動説は「正しくない」気がする。そんな感じがしませんか?
そういう「体感」(あくまでも「体感」ですよ)をしないヒトがいたとすれば、ヒトとしてすごく「変な」ヒトにちがいありません。科学者は、そのヒトの知覚機能を検査したり、実験する価値が十分にあると思います。得られるものが多いにちがいありません。
もしかすると、「『何か』の代わりに『何かではないもの』を用いる。つまり、代用する」という「代理の仕組み」以外の仕組みを備えた脳内および知覚器官での異変が、そのヒトに起こっているかもしれません。もっとも、脳の損傷や精神医学上の疾患と認められる症状を呈している方である可能性も高そうですけど。
*
したがいまして、A)「『花・はな』という『実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物』」が本当は代理であることは、心の隅に置いてください。
要領は、「本当は天ではなく地面のほうが動いているらしい」と言い聞かせるのと同じです。
または、「テレビを見ていると、ほんまもんを見ている気持ちになるけど、あれは錯覚らしい。テレビに映っているのはコマ送りされた静止画像であり、その画像は画素から成り立っていてほんまもんじゃないし、テレビのスピーカーから流れてくる音は、再生された人工音であってほんまもんじゃないのだ」と自己催眠にかけるのと同じです。
素直に体感に身を任せつつ、「本当はそうじゃないんだよ」と言い聞かせるのです。そうは言っても、やはり難しいかもしれませんね。
でも、これって、本当に自己催眠や言い聞かせなのでしょうか? そう言い切れないという思いが強くなってきました。ヒトにとっての常態に反する状態を言いかせるなんて、やっていいのでしょうか。でも、さきほどの地動説と天動説に似た自己催眠や言い聞かせは、子どものうちから、学習や教育という形で行われています。さもなきゃ、理科のテストで○がもらえません。
子どもの場合には、他のヒトからの与えられる情報=フィクションを蓄積する途上にあるために、しばしば、体感を強く信じています。ということは、
*ヒトは、子ども時代に天動説を信奉し、やがて、天動説に改宗するが、密かに天動説を信奉し続ける。
とも言えそうです。
一方で、体感に逆らった自己催眠や言い聞かせなんてする必要はない、という気もします。ヒトはほどよく抜けているほうが、地球と環境にやさしくなれるのではないでしょうか。
図式化すると、「知覚(※いわゆる体感ですね)」対「知識(※いわゆる「事実とか真実という名の『物語=フィクション=説』ですね)」という2項対立です。これって、よく考えると大問題ではないでしょうか(体感と知識をめぐっては、「ぐるぐるゆらゆら」という記事で詳しく扱いましたので、ご興味のある方はご一読ください)。
*
ここで考え込むと、先に進めなくなりそうです。
「ま、いっか」主義でいきましょう。この駄文は、学術論文でもないし、駄文を書いている者は素人ですから。緻密で周到にいこうなんて、高望みをしたり見栄を張る必要は全然ありません。身の程をわきまえます。駄文、駄文、与太、与太、ガセ、ガセと、自己催眠を試み、言い聞かせます。
おかげさまで、すっきりしました。与太でいいんだ。ガセでいいんだ。そう居直ることができそうな気分になりました。一時は、マジに考えすぎ(※その割にはずいぶんズレていますけど)、常態を逸脱しかけつつある自分にはっとし、「はらはら=ああ、やばい=ああ、あやうい=ああ、線を越えてしまいそう」(※これって結構、気持ち良いのです)もしましたけど、もう大丈夫みたいです。たぶん、ですけど。
大丈夫と思う時が大丈夫ではないことを、これまでに頻繁に経験してきましたので、「たぶん」という言葉が出てしまいました。お恥ずかしい限りです。
*
では、うじうじをやめて、すぱっといきます。
さて、以上、見てきましたように、
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
*代理の仕組み
は、
*「花・はな」という「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」の代わりに「花・はな」という文字と音(おん)、つまり言葉を「用いる=代用する」。
というレベルの「話=フィクション=説=約束事=ルール=与太話」ではないのです。異なったレベルの「話=フィクション=説=約束事=ルール=与太話」なのです。例の「死に平」と「死に平安」とか、「忌みされるMONO」(このMONOとは消しゴムみたいなモノです)と「忌みするMONO」(やっぱり、物=消しゴムって言えてるわ)とかの物語とは違うんです。
簡単に説明します。
*「ほんまもんの花」とは、実は「代理の花」である。
*「ほんまもんの花」をヒトは、見ることはできない。その匂いを嗅ぐことはできない。それを口にして舌で味わうことはできない。それが発している微音を聞き取ることはできない。それを指で触ることはできない。その存在を感じることはできない。
このようになります。「そんことないよ」とか、「絶対に、そんなの嘘」とか、「アホちゃうか」とか、「もう、あんたにはついていけんわ、さいなら」とか、おっしゃる方がいらっしゃるのは重々承知しております。
*
理解していただけるかどうか心もとなくなりましたが、駄目押しに=駄目もとで、もっと正直な気持ちを書きます。
*ヒトは「現実」を知覚できない。
*
ここで、この駄文で用いている「知覚」とか「五感」とか「第六感」という「言葉=代理=ほんまもんじゃないもの=「『何か』の代わりに『何かではないもの』を用いる。つまり、代用する」という「代理の仕組み」における「何かではないもの」について、説明させてください。
ややこしいそうなのですが、単純なことなのです。「ほんまもんの花」を例に取りましょう。
1)ヒトは「ほんまもんの花」の「一部」を、「情報A」として、知覚器官で「受信する」。
2)1)で受信された情報Aは、「信号化され」、情報Bとなる。
3)2)で信号化された情報A、つまり情報Bは、シナプスを通して脳に送り込まれ、脳で「処理され」、情報Cとなる。
4)3)で処理された情報B、つまり情報Cは、脳内で「認識され」情報Dとなる。
1)から4)を要約すると、ヒトは「ほんまもんの花」を1)から4)のどの段階においても「情報」としてしかとらえることができない、となります。ポイントは、「『情報』としてしか」です。
1)で「ほんまもんの花」と書いたものが、単なる「ほんまもんの花」ではなく、「『ほんまもんの花』の『一部』」となっていることに注目してください。ポイントは、もちろん、「一部」です。
*
*ヒトは「現実」を知覚できない。
とは、
Ⅰ)「現実」は、ヒトの知覚を超えた存在であろう。
Ⅱ)ヒトは「現実」の「一部」を「代理」として「知覚=認識」しているのであろう。 = ヒトは「現実」の「一部」だけを、「代理」として「知覚=認識」することしかできないのであろう。
という「推測=妄想=想像=創造=捏造=お話=与太話」として記述できそうです。
*
Ⅰ)「現実」は、ヒトの知覚を超えた存在であろう。
とは、ヒトは広義の言葉という代理でしか現実をとらえられないという意味です。なお、広義の言葉とは、話し言葉、書き言葉、手話、ホームサイン、身振り言語、記号、さまざまな素材と図法で描かれた絵、さまざまな機械を用いてデータ処理された画像、さまざまな機械を用いてデータ処理された数値や数式などを指します。言い換えると、ヒトが「周りのもの・こと・現象=世界=森羅万象=宇宙」を「知覚=認識」するさいに「媒体=媒介=なかだちするもの=代理=とって代わるもの」全般を指します。
Ⅱ)ヒトは「現実」の「一部」を「代理」として「知覚=認識」しているのであろう。
とは、ヒトは、たとえば「シクラメン」という植物を、
1)いくら「シクラメン」と「名付けた」ところで、「知った=分かった=知覚した=認識した」ことにはならない、
2)知覚器官と知覚機能、つまり五感を用いて「知った=分かった=知覚した=認識した」と思い込んだとしても、実際には、その「全貌=マクロからミクロのレベルにおいて知覚の対象となる総体」を一生を費やしても時間的にも空間的にも知覚できない、
3)ヒトの知覚器官と知覚機能、つまり五感とは絶対的なものではなく、たとえばこの惑星に生息する他の生物のそれと比較すれば、当然のことながら相対的なものでしかない。
4)ヒトが自らの知覚器官と知覚機能を道具や機械や計器と呼ばれるもので補って知覚したとしても、それによって得られたデータを、自前の知覚器官と知覚機能を用いて知覚するほかない、と言えそうです。
*
「ほんまもん=実体=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」とか、「現実=事実=真実=本当=正しい」とか、「知覚する=認識する=悟る=理解する=とらえる」という言葉が、いかにその「意味するもの・こと・現象・状態」とかけ離れた「的外れ=世迷言=迷妄=錯覚=幻想=幻覚=がちょん=ありゃ=まさか=うそー」であるかが、お分かりいただけるのではないかと思います。
とはいえ、ヒトは普通は不遜で傲慢で見栄っ張りですから、自らの「知覚能力=認識能力」に備わっている「そこそこの」精度と有効性と信頼性の枠内にありながら、「そこそこの」を「かなりの」とか「そうとうな」とか「きわめて優れた」くらいのものとして「知覚=認識」しているようです。
例を挙げましょう。
月に仲間を送り込んだ。ノストラダムスの大予言に、内心はビビリながらも大チョンボとして一笑することができた。いわゆる2000年問題を、一応ほんまもんの問題として対処し乗り切った。この惑星の全生物を、何十回か殲滅(せんめつ)できるだけの核兵器を保有している。もうすぐコンピューターでユビキタスだす。痘瘡(とうそう)ウィルスを撲滅し、天然痘を成敗した。地球の温度を徐々に高めるという、半端じゃできないことを実行中である。インターネットで、いろんな楽しいことをできるようにした。アインシュタインという天才らしきヒトを生んだみたい。これからは、バイオテクノロジー、量子、ナノテクの時代なのだ。
この駄文を書いている者もヒトの端くれですので、「たいしたものだ」と恐れ入っている(※「恐れ入る」を大きめの辞書で引いて、その多義性をかみしめていただければ幸いです)次第です。恐れ入谷の鬼子母神。
*
「うまくいっている=うまくいっていない=進歩している=退行している=絶好調=かなりやばい=偉業=異形=グー=愚ー」という具合に、ヒトのなすことは、言葉という代理を使うと何とでも言えます。また、それをどんなふうにも受け取ることができます。
*代理は、匿名的=中性的=非人称的=ニュートラル=のっぺらぼう=タブラ・ラサである。
単純に言うなら、
*代理に責任はない。だいり・いず・いのせんと。ノット・ギルティーである。
代理は、この惑星に生息する他の生物に比較して、極度に肥大化したヒトの脳の産物のはずです。どうやら、代理ちゃんは生んでくれた親に反抗する年齢に達したようです。反抗期=犯行期。ヒトには、代理ちゃんの「親である=親としての」資格があるのでしょうか? 手に負えない事態になっていることにすら、気付いていないように思えてなりません。
*
ここで、冒頭の文章を以下に引用し、今回の駄文をおしまいにいたします。多数の文字を費やしたうえで、この駄文で訴えたかったことが、いくらかでも伝わりやすくなっていれば、幸いです。ここまで、読んでいただいた方に、心よりお礼申し上げます。
*
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
*代理の仕組み
と言う場合には、「何か」が何であるかは保留されます。「未定=不明=分からない」と考えます。「分かり得ない=分からない仕組みになっている」とも言えます。
「代理の独立」、「代理の自立」、「代理のひとり歩き」というフレーズも頭に浮かびますが、あまり使いたくありません。どうしてなのでしょう。たぶん、代理に主体性があるようなイメージが伴うからだと思われます。
それでは、あまりにもヒトがだらしなさすぎます。なにしろ、比喩的に言えば、ヒトの脳が代理(正確に言えば「代理というお話」ですけど)を生んだのですから。「ちゃんと子育てしてよ」とか、「育児放棄、つまりネグレクトが立派な虐待だっていうこと、分かってんの」とか、「自分が出したうんちの後始末くらい、責任もってつけてよ」という感じです。
*
ちょっと言い換えてみましょう。
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
において、
A)ヒトは「何か」を「定める=明らかにする=分かる」ことはできない。
B)ヒトは「何か」を「定める=明らかにする=分かる」ことはできない仕組みになっている。
A)とB)というフレーズにおいては、ヒトの限界性が指摘されています。
C)代理はヒトから独立している。
D)代理はヒトから自立している。
E)代理はヒトをさしおいてひとり歩きする。
C)とD)とE)においては、代理が前面に出て来て、ヒトが刺身のつま状態になっているイメージがあります。
*
「代理の独立」、「代理の自立」、「代理のひとり歩き」というフレーズに抵抗を覚えるのは、あくまでも「ヒトがいて初めて代理がある」という状況が感じられないからだと、今思いました。そうなのです。「ヒトがいるから代理がある」のであって、その逆ではないのです。
とはいうものの、事態はもはや「代理があってヒトがいる」と言えるような気もします。ひょっとすると、ヒトが代理に「依存しきっている=頼りきっている=いわば中毒になっている=なしではいらなくなっている=主導権を握られている=使われている=もてあそばれている」状態にあるのではないか。そう思えてきました。
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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