あう(3)

げんすけ

2020/07/26 07:58


 フェティシストであることは、これまで何度かお話ししました。何を「フェティシズムの対象=フェティッシュ」にしているかと申しますと、言葉です。安上がりですし、あまり、他人様にご迷惑をかけることがないようなので、気も楽です。法に触れるまで逸脱する気配も、今のところはなさそうです。


 言葉のフェティシストにも、いろいろあるようです。ある特定の言葉、たとえば人名を収集し、その由来や成り立ちに詳しい方も、一種の言葉のフェティシストでしょう。製品・商品の名前などの専門家、やたらいろいろな種類の辞書を集めている方、何カ国語も勉強して相当なレベルにまで熟達されている方、言葉遣いに非常にやかましい方も、含めてよろしいかと思います。


 自分の場合には、言葉の物質的な側面、つまり音声=発声=発音と、文字=表記=活字に興味があるだけでなく、言葉の抽象的な側面、つまり意味やニュアンスを始め、「言葉」というよりも「言語」の仕組み=働きにこだわりを抱いています。前者は、ダジャレ=オヤジギャグという形であらわれることもあり、後者は、だいたいが屁理屈だと他人様にとられるものになります。


 前者は、楽しいもの=自己満足で済みますが、後者は、時に「いちゃもんをつけている」とか「喧嘩を売っている」とか「罵倒している」とか「当てこすりをしている」という具合に、受けとられることがあります。前者でも、まれにあります。「でまかせしゅぎじっこうちゅう」というブログを短期間開設していたことがあります。これは、この『うつせみのあなたに』に収めてありますので、ご興味のある方はお訪ねください。


「でまかせしゅぎじっこうちゅう」は、抑うつがひどいときに、気晴らし=憂さ晴らしとして今後もこのブログで、「特別号」感覚で実行するかもしれません。この間、「4月23日にギャグる」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)というタイトルで、やってしまいました。一種の世相批判なり風刺という形をとりますので、それなりに気を使います。


 ブログは、ネット上を嗅ぎ回っている検索エンジンの対象になりますので、検索に引っかからないように、工夫をします。通常の表記をしないように工夫するのです。固有名詞をわざと漢字で書かなかったり、通常はカタカナで書かれるものであれば、ひらがなにしたり、でたらめな漢字を当てる、つまり、感字をしたりするわけです。ケータイの出合い系サイトなどで、違法なメッセージを、通常とは異なる表記にするのと原理は同じです。


 そうすれば、今のところ、キーワード検索のみで作動しているらしい検索エンジンに引っかからずに済み、思いもしないところから、クレームなり、攻撃をされるという事態をなんとか避けることができそうです。


 話がこじれて、うつの気晴らしが、うつの悪化になっては、元(or 本)も子もありませんよね。だいいち、自分は議論のたぐいは大の苦手なのです。まして、腕力を使った喧嘩など死んでもしたくないです。たった今、キーボードに「喧嘩」と入力しただけで、身震いがしたほどです。話題を変えましょう。


     *


 言葉のフェティシストには、多言語を勉強する人もいるのではないかと、さきほど述べました。実は、中学生から高校生だった時期に、NHKのテレビとラジオの全外国語講座を視聴していたことがあります。一つのことに凝ってしまうという、こうした性格は、よくありません。うつと親和性がある性格だと思います。「頑張りすぎてしまう」「融通がきかなくなって無理をする」「律儀になりすぎる」という感じです。みなさんも、気をつけてくださいね。


 で、中・高生の時期に、NHKの語学講座を全部受講しようとすると、ある問題が起きます。部活とかち合ってしまうのです。当時は、オープンリール式の録音テープからカセット式のテープへと移行が完了した時期でした。タイマーを買えば、いわゆるラジカセで講座を自動録音することができましたが、テレビの番組は無理でした。現在のように、録画をする装置があるにはあったのですが、高価で何か特殊な仕事をしている人以外に、一般のユーザーはあまりいませんでした。そんなわけで、何かと理由をつけて、部活をさぼってばかりいました。


 面白かったです。結局は、どれも上達はしませんでしたが、いろいろな言語に触れることが楽しくてしかたありませんでした。当時は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、スペイン語だけでした。そういえば、中国語講座では、数年間の間に講師の方が、台湾国籍の方から中華人民共和国の方へと変わりました。同時に内容が、いきなり政治的な色彩を帯びてきて、いろいろ考えさせられました。当時は、まだ「政治の時代」の名残があり、微妙な問題を察知できる背景にも事欠かなかった時期です。この話題も、苦手なので、ここで止めておきます。


     *


「あう」というテーマで連日記事を書いているために、「出合い=出会い」ということについて、このところよく考えます。あいたいものに「出合う」、あいたい人に「出会う」、予期せぬものや事態や人に「遭遇する」=「出合う or 出会う」。これが人生ですよね。


 ヒトは「あう」という行為に無縁で生きることはできない。個人的には、特にいろいろな言葉(=単語、語句、フレーズ、文、文章)や、いろいろな言語に出合った思い出を大切に心の中にしまっておきたいと思っています。人との出会いも大切ですが、それ以上に言葉や言語との出合いが、個人的には重要な意味を持っています。ここまでは、個人的な体験をまじえて、「あう」ということについて述べてきました。


     *


 さて、


*あう=合う=会う=逢う=遭う=遇う=和う=韲う=敢う=饗う=あうん=阿吽=阿呍=「あ・うん」=ああ=嗚呼=噫=あわれむ=哀れむ=憐れむ=憫れむ=あわれ=もののあわれ=あい=愛


という、このシリーズの基本となるキーワードの連鎖に戻ります。思うところがあり、以上の連鎖は「あう」(1)~「あう」(2)で取り上げたものよりも、長くなっています。上の言葉たちを眺めながら、この「あう」シリーズのもう1つのテーマである、


*「信号」


について考えてみます。


 自分の中では、「あう」と「信号」が「あう=むすびつく」ように思えてならないのです。この点については、頭の中が、まだごちゃごちゃ=ぐちゃぐちゃした状態なので、よりどころとなる「キーワード=気になる言葉」を並べてみます。



*あい、愛、会い、合い、遭い、逢い、遇い、間(=あい)、相、哀


*愛し合う、合鍵、合印、合札、合図・相図、合言葉、合間、合いの手・間の手、合気道、合口がいい、隣り合わせる、意味合い、色合い、兼ね合い、筋合い、組み合わせ、知り合い、付き合い、絡み合い、立会い、立ち会い、立会、御立会い、立ち合い、折り合い、兼ね合い、張り合い、手合い、肌合い、釣り合い、お見合い、寄り合い、間合い、気合、具合、度合い、歩合、地合い・地合、谷あい、山間・山あい、幕間・幕あい、合い方、合口(=あいくち)・匕首、逢引、合挽き・相挽き・合びき、出来合い、果し合い、試合、泥仕合、合鴨・間鴨


*相対(=あいたい)、相容れない、相呼応して、相携えて、相変わらず、相異なる、相通じる、相打ち、相客、相部屋、相性・合性、相棒、相方、相次ぐ、相づち・相槌、相手、相半ばする、相まって、相乗り・合い乗り、相合傘・相々傘、相打ち・相撃ち・相討ち、愛相・愛想


*気が合う、通じ合う、話が合う、意見が合う、合口がいい、道理に合う、理屈に合う、落ち合う、巡り合う、折れ合う、話し合う、付き合う、取り合う、計算が合う、間に合う、向かい合う、目と目が合う、張り合う


*行き会う・行き合う、出会う・出合う、席に立ち会う、死に目に会う


*災難に遭う、事故に遭う、ひどい目に遭う、盗難に遭う、反対に遭う、反撃に遭う、にわか雨に遭う、地震に遭う、返り討ちに遭う


*和える・あえる、和え物・あえ物、ごま和え・ごまあえ


*哀れむ、憐れむ、哀れ、憐れ、物の哀れ、哀れみ、憐れみ、憫れみ


*間狂言(=あいきょうげん)、間柄、山間・山あい、谷間・谷あい、この間、間の子・合いの子弁当、合服・間服、間の手・合いの手・相の手


*(字は違いますが)あいさつ・挨拶、(字は違いますが)相俟って(※「俟」に注目)、(字は違いますが)敢えて・敢えず、(字は違いますが)愛する・愛し合う


*合=会=遭=和=間=相=愛=哀=憐



 こうやって、気になる言葉を並べてみると、


*「うつせみ」が「空蝉」と「現人」に「わける」ことができるように、「空蝉」と「現人」は、「うつせみ」で「あう」ことができる。


 あるいは、


*「あなた」が「彼方」と「貴方・貴女」に「わける」ことができるように、「彼方」と「貴方・貴女」は、「あなた」で「あう」ことができる。


と、以前からぼんやりと考えていたことが、「見える化」しているようにも感じられます。


     *


 大き目の辞書を引くとお分かりになりますが、「うつせみ」も「あなた」も共に、「転じる」とか「当てる」とか「訛る」とかいう、「正しくない」や「誤り」が生じた結果、


*意味の多様性や重層性


が生まれた言葉です。


 言葉が移り変わっていくという現象は、ある厳格な法則や原理に従って変化したり、理屈や論理によって体系的に進化・発展していくのではないと思われます。偶然と必然や、「真」と「偽」や、「正しい」と「正しくない」といった二項対立を軽々と飛び越え、かつ無効化し、「ぐちゃぐちゃ」、あるいは、「トリトメがない」というしかない「戯れ」に似た様相を呈しながら、変成していくものではないでしょうか。


 さきほど述べましたように、十代の後半に複数の言語を「学ぶ or 習得する」というより、「かじって」いて感じたのは、親戚関係にあるヨーロッパの言語が、いかに自由奔放に絡み「合って」=戯れ「合って」、現在に至っているかということでした。親戚同士だから、当然似ている。一方で、「異なっている」と思っていたが、よく観察すると


*「異なる」に「規則性がある」


場合が少なくない。


 ある言語のある部分が、他の言語の別の部分で思わぬ現れ方をしていることも珍しくない。といった漠然とした「感じ」=「驚き」=「不思議」は、のちに大学生になったとき、比較言語学という領域があると知って、これも「学ぶ or 習得する」というより、「かじって」みて、氷解したこともあります。


「やっぱりつながっていたんだ」とか、「これはこういう規則性に沿って訛って伝わっているのか」とか、「これは明らかに「正しくない=誤り=誤解」によって伝わっている」とか、「これは偶然としか思えない」とか、「これは全然親戚関係にない言語から来たものだったのか」といった発見がありました。とりわけ、フェルディナン・ド・ソシュールとエミール・バンヴェニストは、単なる「比較屋さん」で終わらず、めちゃくちゃとも思えるこじつけめいた説を唱えていて、めちゃ面白かったです。


     *


 とはいえ、すべては、


「そうらしい」


というのが個人的な結論=印象です。「真理=真実=事実」ではなく、「そう見えました」「そう考えられます」というべき、アカデミックな世界で「研究」をしている人たちの「感想文=意見書」なのだ。そんな疑り深さというか、飲み込みの悪さが、自分には生来身についているようです。


 一言で言えば、これまた「偏屈者」ということでしょうか。「分からず屋」でもいいですけど。比較言語学をかじってみて、収穫を得たというか、スリリングだったのは、今になって言葉にすれば、


*「インド・ヨーロッパ語族=印欧語族」においても、「あう」という現象が、「正しい」と並行しつつ、「転じる」とか「当てる」とか「訛る」とかいう、「正しくない」や「誤り」によって誘発されて生起し、単語レベル、フレーズレベル、および言語レベルで、意味と形態の多重性=多層性という「豊かさ」を生み出してきた。


ということです。感慨と言ってもいいでしょう。これは、個人的には、とても興味深いことなのです。


 以前から、


*「当たり前=ヒトの常」だと思っている、「正しくない」の「正当性(※正統性ではなく)」


を主張するさいに、よりどころになってくれそうだからです。念のために断っておきますが、すべてが「正しくない」という意味では、全然ありません。そこまで「分からず屋」ではないつもりです。ただ、


*「正しくない」には、「正しい」を活性化する力=パワー=ダイナミズム=ダイナミックスが備わっている。


ことを強調したいだけです。


 というわけで、このブログでも、引き続き、偏屈者と分からず屋ぶりを発揮して、勝手気ままに、自分の考えていることを、おそらく「正しくなく」書いていくつもりです。


 で、さきほど並べ立てた言葉たちの列を眺めていて、


*「信号」


という、最近、個人的に気になってならない漠然とした言葉と、特に関係がありそうだと感じた言葉を抜き出します。


*合鍵、合印、合札、合図・合図、合言葉、相呼応して、相通じる、相づち、相手、相合傘・相々傘、相打ち・相撃ち・相討ち、通じ合う、付き合う、向かい合う、目と目が合う、行き会う・行き合う、出会う・出合う・出会い・出合い、和える・あえる、間柄、間の手・合いの手・相の手、(字は違いますが)あいさつ・挨拶、(字は違いますが)愛する・愛し合う


 以上の言葉を見つめていると、喉の奥あたりにまで「信号」が来ているみたいな、生理的とも言えそうな気配を覚えます。下品で尾籠(びろう)な表現で、恐縮ですが、「ああ、出そうだ」「ああ、漏れそうだ」「ああ、吐きそうだ」といった感じに似ています。


     *


 上の羅列の最後の一行を、再び引用します。


*合=会=遭=和=間=相=愛=哀=憐


 漢字です。もとは中国語の文字です。白川静という、言葉のフェティシストのはしくれとしては、実にうらやましい人生を送った人を思い出しました。漢字の物質的な側面と抽象的な側面との絡み「合い」に命をささげ、すばらしい業績を残された方です。いつだったか、NHKのドキュメンタリー番組で、存命中のお仕事ぶりを見たことがありますが、映像にうっとりと見入ってしましました。その番組を見ながら、漢字に、いい意味でエロティックな=官能的なイメージを抱きました。


 さて、その漢字ですが、この国では漢字が初めて流入した時期には、主に公文書を記すのに用いられてきた「漢文=真名文(まなぶみ)」だけあって、生理的にではなく、頭に訴えてくるものがあります。情よりも理に訴えてくる、とも言えそうです。これは、あくまでも個人的な感想です。


 かつて中国語をかじったころに、漢文も学校の授業で習っていたのですが、両者の共通性をまったく感じなかったのは、どういうことでしょうか? 鈍感だったのでしょうね。おかげで、漢文は今においても、全然読めません。これからも無理でしょう。古文も同じです。読めません。今後も、無理みたいです。そもそもお勉強が大の苦手な無精な身には、もうこの年になると、手習いは無理だとあきらめております。


     *


 それはともかく、上に挙げた九つの漢字が用いられている言葉の中で、特に気になるものを集めてみる必要性を感じましたので、列挙してみます。



*合 : 合弁、合札、合成、合同、合図、合体、合判、合併、合点、合奏、合流、合致、合唱、合理、合掌、合意、合鍵、合議、化合、付合、会合、投合、併合、和合、架合(=かかりあい)、配合、混合、接合、符合、(符号)、組合、頃合、都合、場合、集合、統合、複合、総合、適合、調合、請合(=うけあい)、暗合、(=暗号)、話合(=はなしあい)、縫合、融合、顔合(=かおあわせ)、意気投合


*会 : 会心、会合、会同、会見、会席、会悟、会得、会釈、会話、会談、再会、社会、参会、協会、面会、宴会、都会、密会、集会、照会


*遭 : 遭遇、遭逢、遭難


*和 : 和平、和合、和気、和気藹々、和声、和睦、和解、和親、和韻、和議、不和、日和、日和見、中和、付和、付和雷同、平和、共和、協和、柔和、唱和、穏和、温和、調和、緩和、融和、講和


*間 : 間人、間者、間使、間諜、間接、間道、間隙、間疎、間隔、間歇、間欠、人間、山間(=さんかん・やまあい)、仏間、広間、合間、中間、手間、世間、谷間(=たにま・たにあい)、林間、雨間、空間、夜間、昼間、峡間(=きょうかん・はざま)、期間、時間、晴間、雲間、幕間、瞬間、隙間


*相 : 相互、相生、相同、相当、相好、相似、相応、相伴、相対、相乗、相思、相克、相殺、相術、相場、相棒、相違、相続、相聞、相貌、相談、相撲、人相、悪相、形相、手相、世相、皮相、死相、色相、面相、骨相、家相、実相、真相、様相、滅相、瑞相


*愛 : 愛人、愛好、愛用、愛惜、愛情、愛欲、愛着、愛想、愛憎、愛撫、愛護、仁愛、友愛、恋愛、情愛、偏愛、割愛、最愛、博愛、溺愛、慈愛、熱愛、親愛、寵愛、同性愛、異性愛、父性愛、母性愛


*哀 : 哀心、哀史、哀哭、哀情、哀惜、哀悼、哀愁、哀歌、哀憫、哀憐、哀願、悲哀


*憐 : 憐情、憐憫、可憐、哀憐



 ぐっときます。めちゃくちゃで、ごちゃごちゃで、ぐちゃぐちゃ。それでいて、心に迫るし、染み入る。これらの言葉たちは「生きている」としか、思えない。


*いろいろな出自のものたちが「一堂に会している」=「あっている」=「視線を交わし合っている」=「目配せをし合っている」。つまり、「生きている」。


 語源とか、歴史的経緯とか、正統性とか、由緒とか、根拠とかいう、「正しい・正しさ」とも置き換えられるであろう、窮屈で抽象的なものやこととは無縁で、


*今、ここに「ある」ものやことをじっと観察し、今、頭の中に「ある」らしきものやことを呼び起す=呼び覚ます=よみがえらせる。


の精神で、「あう」と「信号」について、しばらく考えてみようと思います。


 あとは、目を凝らすだけ。


 夜の暗闇の中で、さまざまな信号たちが点滅しているように、既に「あう」は目の前で明滅を繰りかえしながら「ある」のですから。


 たぶん、「生きている」のですから。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。

https://puboo.jp/users/renhoshino77



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