げん・言 -3-

げんすけ

2020/09/12 07:54


 いかがわしく、うさんくさい話をします。あらかじめ、お断りしておきます。


 言界は、現界であり同時に幻界であり、残念ながら限界でもあるようです。もしかしたら、原界に帰ることができるかもしれない。そんな望みをかけたとしても、眼界には生命の芽に満ちたGen界らしき様子は見受けられません。


 宙ぶらりんの身を支えてくれる、つるにしがみつくしかない弦界においては、揺らぐことだけが生きている身の証しのように感じられます。ぶら下がっているのは、自分ひとりだけなのか。声を発しても、聞こえるのはこだまばかり。この思いを誰かか何かに伝えてくれる糸もないのでしょうか。


 目をつむり耳を澄ますと、何かが動いているような気配がし音が聞こえてきます。糸はあるみたいですから、絃界に生きているとも言えそうな気がします。確かに、びーんという微かな糸の揺らぎが伝わってきます。何か誰かの仕草や動きが震えとなって伝わってくるのでしょうか。


 びーん。


 その振動が宙ぶらりんの自分が揺れている音だと分かったときの驚きを、どう言葉にしたらいいのでしょう。何もない。誰もいない。誰かにいてほしい。何かがあってほしい。ほしい。


 あれ、これ、それ、あっち、こっち、そこ、かなた、ここ。あたりを見回す。いる、あると思い込んでいたものが、ないことに気づく。そんなマイナスの世界。減界というのでしょうか。せめて、ことばあそびで、さみしさをまぎらわしましょう。


 言に満ちた現は幻であり、弦にぶらさがり減を恐れ絃に望みを託し、ここが原であり、Genが眼に映るのを待ち望み、限でないことを祈る。


 言現幻弦減絃原Gen眼限。


 げんげんげんげんげんげんげんげんげんげん。


     〇


 ヒトは世界を相手にしているつもりなのに、ふいに相手が言葉だと意識すると、困った状態に陥るようです。困るのは、欲を持つからで、欲を捨てるか忘れるなら、別に困りはしないみたいです。


 何かを「感じ」て、それを「分かろう」とするためには「分ける」作業が必要になると言われています。大きなものを「分けれ」ば、当然のことながら、その分小さくなって視界にも入りやすくなるし、手にもつかめるほどの手ごろな大きさになりそうです。


「分ける」ことで、ある物や事や状態の一部が「切り離される」事態となるかもしれません。ちりぢりばらばら。そうなると、全体を見渡したいという野望は打ち砕かれそうです。


 でも、そうでしょうか。


 言葉は何とでも言えます。部分が全体の縮図だとか、どこを切り取っても全体と同じ形をしているとか、部分の中に全体があるとか、部分は全体の写像であって各所が対応し合っている。そんなイメージや話を思いつくヒトは、古今東西にいたし、いるようです。


 いかがわしく、うさんくさい話です。


       〇


「分けた」としても、全体は再現できるとか、各部分を順番に延々と見ていけばいいのだとか、曲線を拡大すれば直線に見えるとか、無限大・無限小あるいはマクロ・ミクロという魔法の言葉を使えばいいとか、断片を培養して新たな全体に育てる。そんなイメージや話もよく見聞きします。


 いかがわしく、うさんくさい話です。


 よくできた、すばらしい話です。


 言葉を使えば、何とでも言えます。


       〇


 ヒトは各人が1台のテレビ受像機(※比喩です、念のため)しか持っていない。ヒトは1度に1画面しか知覚したり認識できない。そんな感じもします。


 1台や1画面だけでは、あまりにも情けないので、もう少し増やしたとしても、そんなに数は多くないように思えます。ある割合で、特殊な知覚機能や認識能力を備えたヒトがいると言われています。まわりを見回してみましたが、縁遠い話です。


 テレビ画面、パソコンモニターを例に取りましょう。何枚の画面に集中できるでしょうか。ぼんやりとながめるとか、それぞれの画面を短時間だけ部分的に見るという話をしているのではありません。持続して集中して見る。そういう意味です。


 心もとない感じがします。ヒトという種は、同時に複数の画面を知覚したり認識するようにできていないのではないでしょうか。知覚器官や脳には、そうしたデータ処理ができるような仕組みが備わっていないと思われます。


 たとえ1枚の画面だけでも、怪しいです。テレビ、あるいはパソコンの1画面に、たとえば0.01秒間に映し出される情報量は、きわめて多量であるという気がします。その情報のうち何パーセントに集中できるのか。詳しいことは知りません。具体的な数値化されたデータも挙げられません。


 でまかせですが、わずかの情報にしか集中できないのではないでしょうか。そんな気がするだけです。ふだん、ぼーっとしていることの多い者の、個人的な体験をもとにした感想です。


     〇


 言葉を使えば何とでも言えます。


 多義性とか多層性という言葉とイメージがあります。


 すもももももももものうち


 うつせみのあなたに


 空蝉の貴方(貴女・貴男)に 空蝉の彼方に 現人の貴方(貴女・貴男)に 現人の彼方に 鬱世身の貴方(貴女・貴男)に 鬱世身の彼方に 欝背神の貴方(貴女・貴男)に 欝世霊の彼方に ……


 げんはげんであり、げんであると同時にげんであって、げんとげんのあいだにげんがあるため、げんをげんのげんだと言うこともできる。


 間は観と感の関数である。


 かんにかんをかんじる。


 かんとかんとのかんにかんとかんとをかんじる。


 かんにんしてください。


 かんべんしてください。


 以上は、思いつくままに、つまりでまかせに書いたフレーズですが、言葉を用いれば何とでも言えるため、もっともらしい説明をしたり、別の言い方に翻訳することもできると思われます。そういうことが得意なヒトがいます。


 いかがわしく、うさんくさい作業であることは言うまでもありません。でも、場合によっては、いかがしいとかうさんくさい行為だとは言われません。褒められたり感心されることもあります。


 そういう作業が得意なヒトが崇め奉られるのも、珍しくない気がします。そんなヒトの口から出た言葉が、真理と言われることが、よくあるように思えます。


       〇


 宗教や哲学や美術と呼ばれる分野では、ある文字や図を「象徴」として見なし、それにいろいろな意味やイメージを織り込んだり、読み込んだりする場合があるようです。こうした考え方には、いかがわしさとうさんくささが、どうしても付きまといます。


 狭いところにたくさんのものを詰め込むという作業なわけですから、無理があります。その無理というか不可能性に臨むスタンスが、逆にヒトを駆り立てるという側面も観察されます。


 よくわからないもの、うさんくさいものほど、すばらしいものだという思い込みは根強いようです。「難解だ・難解なもの」が、ほめ言葉であったり、哲学や思想と呼ばれたり、聖なるものとして崇め奉られるのを、よく見聞きしませんか。


 つまらないという意味でうさんくさいものも、崇め敬われることもあるようです。たとえば、イワシの頭でも、壁の落書きでも、ただのヒトでも、路傍の石でも、信仰の対象になり得るみたいです。


 すっきりとしたもの、単純明快なものは、流通しやすく伝達されやすいみたいです。広く行きわたり、何度も唱えるほど、よくわからないものになる気もします。


「わかる・わける」もいかがわしく要注意ですが、「わけがわからない」にも警戒する必要がありそうです。


       〇


「まつりごと」には「政」という漢字を当てるそうです。広辞苑(※これしか大きな辞書は持っていないため、引用しています。「正しい」を求めるためではなく、言葉というとてつもなく大きな読み物の一部、つまり「物語の断片」として辞書を読んでいます)に、「祭事」または「奉事」の意、とあります。


 また、「祭事(さいじ)」は、まつり・神事(しんじ)だと書いてあります。「奉事(ほうじ)」とは、「長上(ちょうじょう)」、つまり年長や目上のヒトにつかえることらしいです。


 政治と宗教と権力が、結びつき、からみ合っていた時代があったみたいです。想像すると、何だか怖いです。今も、3者がわかれていない国や地域や組織があるようです。


       〇


 言葉について考えるとき、その言葉がいわゆる母語であるに越したことはありません。だいいち、楽です。居心地のいいテリトリーだからだと思います。事情があって母語を使えない状況で思考し感じ、作品や論文をものしたヒトたちもいました。


 たとえば、中欧や東欧から迫害や殲滅(せんめつ)を逃れた人たちが、欧州の西にへばりついている斜陽の島国や、さらに大西洋を越えて、自由を標榜する新興の大国に移り住み、母語ではない言葉を習得し、大きな業績を上げたという歴史上の物語もそんなに昔のことではありません。同様のことは今も起こっているようです。


「わかれる・ちる・はなれる・さる・のがれる」によって、「あう・まじる・つながる」があったり、「ぶつかる・あらそう・きそう・とってかわる・かわる・かえる」が生じたりして、新しいものが生まれたと言えそうです。


 そんな大それた話とは関係ありませんが、母語以外の言葉の辞書をたどたどしく引きながら、ささやかな形で言葉について考える手掛かりとすることもできるかもしれません。


       〇


「わかれる・わける」に相当する英語のパーツに、たとえば「 part- 」があるようです。


「 part ・部分・部品・パーツ・分ける・分かれる・別れる」「 party ・一行・集団・政党・宴会」「 depart ・出て行く・出発する・それる・はずれる」「 departure ・出発・逸脱・新計画」「 department ・部門・百貨店の売り場・省・局・課・学科・学部」「 department store ・ depart が集まった店・デパート・百貨店」「 partition ・仕切り・分配・分割・区分」「 apart ・離れて・ばらばらに・別個に・分裂した・異なる」「 apartment ・アパートの1世帯分・部屋」「 apartment house ・アパート・マンション・共同住宅」「 apartheid ・アパルトヘイト・人種隔離政策・差別・隔離」「 particle ・粒・微粒子・分子・粒子・質点・聖餅(せいへい)」


「まつりごと・政」が「 part 」に「わかれる」。部門・省・局・部・課・政党・派閥。本来の機能・役割は、「代理」であったはずです。神、あるいはヒトを超えた存在の「力」を授かったり、預かった「代理」であったり、近代の考え方では、国民から「権力・権限」を委譲された「代理」であり「僕(しもべ)」であったはずです。


 でも、現状はどうでしょう。この国の「まつりごと」をみてください。また、分離ではなく、一致が依然としてあったり、復活しつつある地域も、世界には見られます。


 すごく単純なようで、すごく複雑な動き、または仕組み。そうしたものが、この世を支配している気がします。


       〇


「あう・あわせる・つながる・つなげる」に相当する英語のユニットに、たとえば「 uni- 」があるそうです。


「 unit ・単位・一個・一人・一団・一組・一式・構成単位・設備・ユニット・単位量・単元・地区集会」「 unity ・単一性・均一性・統一性・統一体・まとまり・調和・一致・一致団結・一貫性・固体・単位元」「 union ・組合・結合・合体・合併・結婚・性交・連合・連合国家・連邦・連合表象・同盟・会・クラブ・化合物・和集合」「 universe ・宇宙・森羅万象・万物・全世界・全人類・銀河系・星雲・領域・分野・母集団・多数・大量」「 uniform ・均一な・そろいの・一様な・同形の・一定の・不変の・制服・ユニフォーム・軍服・軍人・制服組」「 unique ・唯一の・無比の・すばらしい・一意性の・無類の・独特の・独自の・ユニークな・唯一のもの・唯一のヒト」「 unite ・結合する・合体する・合併する・結合させる・合体させる・化合する・結婚する・併せもつ・兼ね備える」


 お馴染みのものですね。英語ながら、よくわかるイメージだという気がします。「あわせる・あう」というイメージに、「とけこむ」「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」という印象が薄く、「あわせる・あう」前の各構成物、つまり個の属性が残っている感じを否定することができません。個人的な印象ですが、個の主張の強さに驚かされます。


       〇


「あわせる・あう」というのは、「うつろう・うつりかわる」過程における「仮のすがた」なのかもしれません。だから、個は全を装いつつ、個であり続けるのかもしれません。


 生き物やヒトというレベルで考えると、いいことのように思えます。せめて、個であった名残とか証しをとどめておきたい、とどめておいてほしい。


 個は全を装いつつ、個であり続ける。そうした仕組みが、この世にあることを祈りたい気がします。二面性、さらに言えば多面性という話(※あくまでも話です)があってもいいような気がします。


 こういうのも、うさんくさい話というのでしょうか。


       〇


「光の二面性」とかいう説、つまり物語を最近よく見聞きします。だいぶ前からあった話のようです。言葉として知っているだけで、詳しいことは知りません。この話が実証されていない、あるいは実証されたというニュース、つまり物語についても、よく知りません。


1)ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。


2)ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。


 以上の2つのフレーズを前提にすると、「光の二面性」というのも、やはり、「代理」である知覚から生じる印象とかイメージなのでしょうか。それとも、知覚という「代理」の「代理」である言葉の「綾」というか、「レトリックというトリック」なのでしょうか。


 こういうのも、うさんくさい話というのでしょうか。


「光の二面性」という物語が脚光を浴びて優勢になってきたらしいのですが、それまで優勢だった物語は、嘘だったという意味なのでしょうか。素人の自分にはわかりません。


 嘘という言葉と科学とは相性が良くなさそうなので、「進歩」とか「発展」という言葉に置き換えられて、処理されているような気配を感じます。「光の二面性」もいつか、「進歩」「発展」という名の物語で退出を演じるのでしょうか。


 2つの側面を兼ね備える。個人的には、好きなイメージ・言葉です。


       〇


「わける・わかる」「わけない・わからない」「わけがわからない」「わけなし・わけない」「わけはない・わけもない」「わけあい」「わけあり」「わけがら」「わけ」


「わっか・わ・輪」みたい。ぐるぐる。目が回る。堂々巡り。


 ぐちゃぐちゃごちゃごちゃを、わける・わけない。わからない。わけありみたいだけど、たぶん、わけなし。


       〇


 言語という幻(まぼろし)を用いているヒトという種は、限界で彼方を望みながら、同時に減界の深みにはまっている。そんなふうに考えています。


 限界とは、限度、つまりぎりぎりの線だ、というイメージをいだいています。限界を「かぎり」とも言いますね。「かぎり」に「かげる・陰る・翳る・かげり・陰り・翳り・かげ・影・陰・蔭・翳」を読みたい気持ちにかられます。


「正しい」対「正しくない」という、いかがわしい2項対立は脇に置きましょう。「正しい」対「正しくない」はなし、という、うさんくさいスタンスでいきます。


 限界はいわば境い目ですから、異人や異形のものたちがいる外界と接し、その外界のかなたを望む位置にあると言えます。居心地のいい自分たちのテリトリーつまり縄張りから、さぞかし窮屈で言葉も通じないわけのわからないだろう世界を眺めやるのです。


 減界とは、「何かが欠けている」「何かが足りない」という、常に「乏しい」世界をイメージしています。言葉とは、森羅万象に張り付こうとしても、決して張り付くことのできない運動を常態にしています。万物に名前を付けようとしても、追いつかない。物事や現象をどんどん分けて名付けていっても、きりがない。減界とは、そんな世界です。


 言葉が森羅万象に張り合おうというのは、土台無理な話だという気がします。言葉が限界にあるとは、言葉は枷(かせ)にはめられているとか、言葉は思うように働いてくれないという意味です。言葉が減界にあるとは、言葉は常に足りない、言葉には何かが常に欠けているという意味です。


 代理である言葉の限界が減界だとも言えそうです。


 うさんくさい話です。


       〇


「写像」という考え方があります。ヒトのつくったイメージとしては、よくできている感じがします。でも、よくできているからこそ、そのいかがわしさを免れるわけにはいきません。「写像」という考え方を支えているのは「影」の比喩だという気がします。


「あるもの」と「その影」の間では、両者のあらゆる点が「対応」し合っている。そうした楽観主義に基づく考え方だと言えそうです。写真、スライド、映画、テレビ画面、パソコンのモニター、CG(=コンピューターグラフィックス)、X線写真、CT(コンピューター断層撮影法)、MRI(磁気共鳴影像法)など、視覚的イメージで、「あるもの」を「その影」として映し出す方法があります。


「対応させる」とは、「うつす・移す・映す・写す」作業に、きわめて近い仕組みだという気がします。以下に、そのバリエーションを3つ挙げてみます。


 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。


 ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。


 ヒトは、「あるもの」と「その影」の間で、点と点レベルの「対応関係」を実現するために、各種多様な器具・機器を作り使用している。


 以上の3つのフレーズに共通するのは、隔たりのあるものを「近く」するというイメージ、あるいは動きだと思われます。これが「知覚」なのでしょうが、「近く」に「あるように」「する」のではなく、あくまでも「近く」に「あるように」「見える」「ように」「する」というもどかしい作業・仕組みだと考えたほうが正確だという気がします。


       〇


 幼かったころに、読み聞かせをしてもらったのを思い出すことがあります。文字が読めないために、文字を読んでもらい、その声を聞きながら、あたまのなかで、いろいろなイメージをいだく。


 絵本の場合には、本を読んでくれるヒトの傍らに座り、その絵に見入り、同時に、その絵にはないさまざまな細部を付け足していく。


 紙芝居や人形劇も思い出します。声が聞こえる。絵や人形の動きが生きているように感じられる。


 ないのにあるように見える。遠くにあるのに近くに感じられる。魔法です。おかしかったり、どきどきしたり、時にはこわい気分にもなりますが、心地よい。こわくても大丈夫。こどもはちゃんと知っています。本当は、「遠く」にあることを承知しています。


 声や、絵や、あたまのなかの風景が、本物のようで本物ではないことが、何となくわかっています。


 物語、フィクション。表象(作用)、代行(作用)。こどもは、そんな難しい言葉は知りません。でも、その仕組みは、ちゃんとからだとあたまでわかるようになっていきます。ひょっとすると、生まれるまえから、わかっているのかもしれません。


 言語能力(competence)、言語運用(performance)。こどもは、そんな難しい言葉は知りません。でも、おはなしをきいていると、おはなしのなかにでてくるものたちが、めのまえにいるようなきもちになります。はなしたり、うごいたりしているのが、いきいきとかんじとれるのです。


 声って、ふしぎです。声は、たぶん、魔法です。おまじないです。ときには、何を言っているのか、わからなくてもいいような気がします。わかる必要のない「ちから」のようなものが混じっているのかもしれません。


 でも、わからなければならないこともあるようです。わかる必要のない「ちから」にさからうべき状況もあるようです。まじないは「呪い」とも書けます。「まじなう・呪う」は「のろう・呪う」に似ています。


       〇


「呪う・まじなう・のろう」は「祈る」ことらしいです。問題は、何を祈るかだという気がします。ヒトは、時と場合と気分に応じていろいろなことを祈ります。


 気になったので、「いのる」を辞書で調べてみました。「斎(い)告(の)るの意」と広辞苑は説明しています。語義として、「幸いを請い願う」のほかに「(相手や物事に)わざわいが起こるように祈願する」が同居しています。「わかれていない」ということです。


 胸に手を当てれば、そしてまわりを見れば、あるいは、世界で起こっている出来事についてニュースを通して見聞きすれば、納得できる気がします。残念ながら、「祈る」に2つの意味があるのは、ヒトの常のようです。


       〇


 童話は残酷だとよく言われます。かちかち山、桃太郎、赤ずきんちゃん。おとぎ話や昔話と呼ばれる物語にも、今思うと恐ろしいストーリーが数々ありますね。だます、傷つける、苦しめる、殺(あや)める。争う、戦う。現在、こどもたちが熱中しているゲームも、そんな筋書きに満ちています。


 こどもは、そうした物語をやすやすと受け入れるみたいです。フィクションのさまざまな定型を受け入れる回路が、生前から備わっている。そうした情報が発信されれば、ちゃんと受信する。嘘みたいに楽々と認識し理解してしまう。そんなふうに思えてなりません。


 そうしたフィクションの定型とも呼ぶこともできるもの。それは、善悪とか正誤とか真偽などの抽象的な「対立」を越えた、ぐちゃぐちゃごちゃごちゃしたものとして「ある」。そんな気がします。それを手探りのようにして確かめる手段は、ヒトにとって言葉しかないと思われます。ぐちゃぐちゃごちゃごちゃした言葉です。



※以上の文章は、09.08.26の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。



#エッセイ

#言葉


 

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