夢の素(3)

星野廉

2020/09/23 08:53

 のっけから、自己輸血=自己引用をして恐縮ですが、前回の「夢の素(2)」から、必要な部分をコピペさせてください。


>ヒトは、生まれて間もなく誰か(※助産婦・医師・看護師・乳母・母親・父親など)に抱かれた時に、同時に「何か・誰か・どこか」を抱く。


>「抱く=抱かれる」は、「接触・触れ合い・関係性・一体感」を意識することである。その意識は確認である。つまり、「抱く・抱かれる」は、既に「織り込まれている」。


 以上が引用部分です。以前から、気になって仕方がないことがありまして、それを今回はテーマにしてみたいので、上の2カ所を写し=移しました。


 このさい、もっとコピペしちゃいます。


     *


>で、これまでずっと不思議に思っていたことが思い出されて、頭の中がごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態になりました。


 そもそも位置って何? 視点・視座って何? 主語って何? 主体って何? ついでに、客体って何? 語・語句・文・文の連なり・文章・作品・文献における視点・主語ってあるの? 夢や夢想にも視点・主語ってあるの? 絵・写真・漫画・映像のコマ、そしてそのコマが連続した動画における視点ってどうなってるの? ヒトは時間を円環や線状に「たとえる=こじつける」なんてやってるけど、それって有効性はどれくらいあるの? 


 前後なんて、空間と時間のこじつけごっこやってるけど、どこまで正気なの? ついでに、上下左右斜めまで頭に浮かんだけど、それって重力があってこその言葉とイメージちゃうか? 宇宙空間では、位置とか視点とか主体って意味があるの? 宇宙船でいろいろやっているけど、しょせん、地上のイミテーションじゃないの? 宇宙ステーションでイミテーションってイミあるの? 「発想=枠組み」の転換が必要だなんて、やっぱし素人であり、しかもアホの浅知恵?


 ついでに、ヒトが生まれてから死ぬまでの「間・あわい・過程・プロセス」を、植物なんかの成長にこじつける、また、その逆方向でこじつけるなんてやっているみたいだけど、有意=意味あり? 生から死を流れにこじつけるのも、意味ありなの? それともヒトに通じるだけの仲間内ギャグ? 進化・発達・発展・退化・衰退・段階なんて言葉とイメージで、生物や無生物の移り変わりを語っているけど、騙っていることにならない? そもそも「移り変わり」って何? それって有り? それとも、ヒトの思い込み? 知覚・意識という枠組み内での話だけのこと? 


 以上挙げたのは、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態のほんの一部なのです。


    *


 以上の*と*の間に挟まれた文章は、「もどるにもどれない」から引用したものです。「夢の素」について書いているのですから、頭の中の「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ状態」をめぐっての最近の記事から必要部分を取り出してみました。自分は、たとえば、上述のようなとりとめのないことを、あれこれ考えながら=ぼーっとしながら日々を送っています。


 冒頭で引用した前回の記事の断片では、「抱く・抱かれる」がキーワードです。次に引用した文章では、「視点・視座って何? 主語って何? 主体って何? ついでに、客体って何? 語・語句・文・文の連なり・文章・作品・文献における視点・主語ってあるの? 夢や夢想にも視点・主語ってあるの? 絵・写真・漫画・映像のコマ、そしてそのコマが連続した動画における視点ってどうなってるの?」がいちばん気になる部分なのです。


 共通するのは、「する=される」「 to do = to be done 」です。英語が添えられているのは、酔狂=お遊び=景気づけ=活性化です。というか、きょうは母語である日本語を用いて少々込み入った作業をする予定なので、念のために英語バージョンもくっつけておきたいのです。日本語を使う以上不可避な言葉の綾やレトリックがからんできそうなので、念のため=気休めに英語でも確認すると言ってもいいです。


     *


 おびたただしい数があると思われる「する=される」のうちで、特に「抱く・抱かれる」にこだわっているのは、ヒトが生まれて間もなく経験する他者との接触のひとつだからです。母親に相当するヒトの「乳首を口に含んで吸う」、あるいは「乳首に相当する人工のものを口に含んで吸う」でもいいのですが、長くて扱いにくいので、「抱く=抱かれる」「 to hold = to be held 」(※「 to nurse = to be nursed 」もあるみたいですが、hold にしておきます)を使って話を進めます。


 等号、つまり「=」で能動と受動が結ばれているのは、今回の記事の主張である、「する」と「される」は近い、あるいはほぼ同じ、思い切って言えば、ヒトという枠内においては同じ、という点を意識してのことです。よくこのブログでは、「=」を用いていますが、それは「意味=sense=判断=方向」の固定化を防ぐという「戦略=企み=方法=お遊び」です。つまり、言葉にもてあそばれるさいに経験する「偶然性=いい加減さ=うろうろ=よろよろ=うじうじ=どうなるのだろう=どうしよう=ま、いっか状況」に身を任せるうえでの誠実な態度の表明であり、「たしなみ=倫理=仁義=礼儀」にほかなりません。


 前置きは、これくらいにして本題に入ります。


     *


 ヒトが現実・真実・事実と呼んでいるものは、嘘っぱちであり、「似ているもの」という意味での「偽物」である。さらに言うなら、人は過去を再現などできない。再現とは捏造するという行為に他ならない。記憶も同様で、捏造に他ならない。


 まず、上記の「フィクション=話=意見=思い=『夢の素』」を前提にします。自分には、そうとしか思えないし感じられない。理由は、それだけです。学者や研究者のように、実証とか論証とか検証とかいう官僚的なたわごとは申しません。そうしなければ、仲間から、あるいは業界の中で馬鹿にされるとか干されるという恐れもありません。そうした作業を生業にしてご飯を食べているわけではないからでしょう。上に書いたように思っている。それだけです。


 で、その森羅万象が偽物だらけであるという環境の中に、ヒトは生きているとします。その偽物たちを、ヒトは見たり、触ったり、耳にしたり、舌で味わったり、その匂いを嗅いだり、その気配を感じたりしているわけです。それが、知覚器官からシナプス経由で脳に至るプロセスで起こっている「情報処理・データ処理」だと考えましょう。


 その情報処理は、ヒト以外の生き物たちも行っているみたいです。ヒトの場合には、そこに話し言葉としての言語を始めとする、広義の言語=表象=代理による「情報の処理」および「情報の蓄積と引き出し・情報の混同・情報の錯誤・情報の捏造」を行っています。そうした操作=プロセス=運動が、多層的なイメージを担っている「思い・思う」のうちの、「意識する・認識する・思考する・混乱する」です。


     *


 なお、ここで言う広義の言語=表象=代理とは、話し言葉と書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などです。言葉と思考or思想とがイコールだとか、ヒトは言葉を使って思考する、といった言い回しがあります。その場合の言葉が、狭義の言語、つまり話し言葉と書き言葉に限られるものであるという前提に立っているなら、個人的には支持しません。当然のことながら、話された言葉、あるいは書かれた言葉を、思考or思想というプロセスにすり替えるなんてズルはなしですよ。


「思い・思考」というごちゃごちゃもやもやの結果としての、ある程度整理された「音(おん)=話し言葉=耳で知覚できる空気の振動」と、インクの染みや画素の集合である「文字=書き言葉=目に見える物質」はあくまでも「もの」であって、脳内で起きている情報処理という「動的なプロセス=こと」ではありません。その両者は別物です。


 ヒトは言語(※話し言葉や書き言葉)を使って思考する。


 ブログでたわごとを書いている自分ですが、そこまで抽象的で「よく出来た=こしらえられた=捏造された」、耳に心地よい美辞麗句=たわごとは吐けません。そんな「高度な=低俗な=見え透いた=何か思惑ありげな」芸は、真似できません。狭義の言葉で思考する? できるものなら、目の前でやって見せてほしいです。もっとも、見えるものじゃないですけど。そうか、だから、自信ありげに言えるんだ。可視化できないものは、何とでも言える。納得しました。


 ついでに罵倒しておきたいフレーズがあります。


 事実と意見を分ける。


 論文などのつづり方教室で言われたり、そのたぐいの分野のハウツー本に書かれているたわごとですが、これも、ブログでたわごとばかり書いている者ですら首を傾げる、見え見えすぎるたわごとです。せめて、次のように記述するのが誠実な態度ではないでしょうか。


 見たあるいは伝聞による報告と自分がいだいている感想を分ける。


 これでも、百歩ほど譲っての話です。


     *


 話を、「抱く=抱かれる」「する=される」に戻します。


>ヒトが現実・真実・事実と呼んでいるものは、嘘っぱちであり、「似ているもの」という意味での「偽物」である。


 という、さきほどの前提にもうひとつ前提を加えます。


「思い・思う」の一部である「意識する」においては、いわゆる「夢=ぼけーっ=思考」も「現(うつつ)=はっきり=思考」も同列に扱う。


 以上のフレーズを土台とします。目が覚めていようと、うとうとしていようと、ぐっすり眠っていようと、「思い・思う=思考する」が働いている=作動している=スイッチが入っている限りは、「夢の素」の破裂・炸裂に促されて「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」から「もやもやぼんやり」を経て「はっきりくっきり」という「グラデーション=濃淡=階調」状の「何か」の真っ只中にヒトは「居る=在る=有る」。そう思うからです。


     *


 たとえば、あるヒトが目が覚めた状態で走っているとします。走っているヒトは、自分が走っていると知覚し認識し意識しているでしょう。その場合、走っているヒトの思いの中で、「走る」とは「走られる」とも言えるような気がします。「走られる」という言い方は、今まで見聞きした覚えがありません。みなさんは、どう思われますか? 日本語には方言がありますから、「走られる」という言い方が、「走る」の活用形として何らかの意味を成し、違和感を覚えない方がいるとしても、全然不自然ではありません。たとえば、尊敬語や丁寧語として「走られる」という活用形が使用されている地域が、この国にあっても不思議ではありません。


 尊敬語として「走られる」という言い方をするヒトたちがいるとします。その場合の「走られる」のは、「あなた」あるいは「あのお方」でしょう。「走っていらっしゃる」という感じでしょうか。この「走られる」における「言説の主語・言説の視点・観測者の位置・観測する者とされる者との関係」はどうなっているのでしょうか。個人的には、「言説の主語・言説の視点・観測者の位置・観測する者とされる者との関係」といった、もっともらしく小ざかしげな言葉とイメージで処理できることだとは思えないのですけど。ただ、「られる」に含まれている「尊敬」と「受身」が「身を任せる=もてあそばれる」でつながるような気がして、とても興味があります。


 それはさておき、形式上=形態上は、「走る=走られる」「 to run = to be run 」となります。しかし、「走られる」は破格っぽいし、「 to be run 」において、run は自動詞の「走る」ではなく「運営する・経営する・作動させる」という他動詞の受動態とみなされてしまいます。「走る=走らされる」「 to run = to be made to run 」とすると、ここで言いたい意味にはなりません。「走らされる」ではなく、あくまでも「走られる」という受身の意味を問題にしているのです。


 そういう「言い方・言い回し」がないのなら、そういう「こと・もの・状態・行為」はない、という考え方もあるでしょう。でも、それはレトリックというトリック、言葉の綾という「ありゃりゃ」にとらわれているだけだと思います。「走られる」という言い方でイメージしているのは、「走る・ to run 」の主体が、「何か・誰か・何らかの状況」によって「走らされる・ to be made to run 」という意味合いではありません。そうではなくて、「走る」という行為・動作が「見られている」「 to be seen running / to be seen to run 」、あるいは「視点・視座・主客・主述」といった「フィクション・捏造された話・筋・経路・習性・意識・思考・知覚・思い」の枠外にある、と言いたいのです。


     *


 ややこしいですね。単純化してみましょう。


 今、目が覚めた状態でAさんが走っています。Aさんは、自分が走っていることを自覚しています。そのAさんは、たぶん、自分が走っているさまを思い描いているからこそ、走っていると自覚している、つまり思っている。背後へと飛び去っていく風景、耳に聞こえる風を切る音、露出した肌で感じる空気の流れ、次々と変わるまわりの匂い、舌で感じる渇き、あるいは額から頬を伝って口に入った汗の味、体内の諸器官が激しく機能している気配。そうしたさまざまな情報が脳で処理されて、自分が走っていると感じている。同時に、そういう自分を「思い描いている」。簡単に言うと、自分は走っていると思っている=意識している。


 一方、頭の中では、いろいろなものが浮かんだり消えたりしている。体でもさまざまなものが感じられたり、体感的な記憶としてたちあらわれる。無我の境地とか無我夢中というのは、走った後の記憶=追想=後知恵だと思います。走っている最中には、話し言葉や書き言葉や表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語や音声(発声)や音楽や合図や映像や図像や標識や記号や信号などが、頭と体に「浮かんでは消える」という状態にあるような気がします。このブログで用いている言葉とイメージを使うなら、多種多様な「夢の素」がぱちぱちと弾けている、という感じです。


 またもや、ややこしくなりそうなので、簡単に言います。Aさんは、走っていると自覚すると同時に、走っている自分を「見ている」「 to see O running / to see O run」のです。それが「走る=走られる」「 to see O running / to see O run = to be seen running / to be seen to run」です。


     *


 以上の状態を仮定した場合、「自分が見ている=自分が見られている」視点・視座・主語・主体といった言葉やイメージは、意味を成さないと思います。上で、便宜上、「(Aさんは)走っている自分を『見ている』」と書きましたが、Aさんには、ほぼそんな感じがするだけで、「見ている=見られている」主語と「見ている=見られている」対象はなく、「見ている=見られている」という行為=動き=身ぶり=状況=光景があるだけなのです。「自分=主体」と「対象=客体」がない、匿名的で非人称的でニュートラルな「行為=動き」というイメージです。


     *


 次に、Aさんがうとうとしながら自分が走っている、あるいは、自分以外のヒトや動物や物(たとえば自動車)が走っているさまを思い描いた=思い浮かべた=思い出したと仮定してみましょう。Aさんが寝入って夢を見ていると仮定してもいいです。Aさんが、目を覚ましていてテレビで何かが走っている映像を見ている、誰かから何かが走っている話を聞かされている、何かが走っている場面を小説で読んでいる、といった場合を仮定してもかまいません。「差異・際・あわい」はないからです。


 いずれの場合にも=条件下にも、さきほどの「走る=走られる」「見ている=見られている」という行為=動き=身ぶり=状況=光景があるだけの状態を意識している。そんなふうに考えています。考えている=思っているだけです。以上述べたこと全部が、個人的に「いだいている=だいている=いだかれている=だかれている」、数々の「夢の素」がぱちぱちと弾けているさなかに、イメージした断片を「継ぎ接ぎした=パッチワークにした」、「手仕事=ブリコラージュ=織物=テクスト」となって、今、みなさんがお読みになっている。そんなふうに言えると思います。


     *


 今回の記事を書きながら、ずいぶんたくさんの「夢の素」=粒が炸裂しました。特に、印象に残ったのは、「ジル・ドゥルーズ」「フェリックス・ガタリ」『機械状無意識』「モーリス・ブランショ」『文学空間』『来るべき書物』「宮川淳」『引用の織物』『紙片と眼差のあいだに』『鏡・空間・イマージュ』「豊崎光一」『余白とその余白または幹のない接木』「ミシェル・フーコー」『外の思考』「クロード・レヴィ=ストロース」『野生の思考』です。残念ながら、『 』でくくった書名を持つ書籍はもう処分して、うちにはありません。だからこそ、「夢の素」なのです。いや、たとえ手元にあったとしても、ものぐさでアホな自分にとっては、「夢の素」でしかないでしょう。


 これらの「夢の素」は同名の固有名詞や書名とはほとんど関係がないかもしれません。あるかもしれません。どちらとも言えないかもしれません。仮に関係があっても、ごく少しだけかもしれません。また、みなさんがいだいていらっしゃる同名の「夢の素」とも重なる部分がないかもしれません。あるかもしれません。どちらかだと言うべき話ではないのかもしれません。


「夢の素」とは、きわめて個人的なものです。わたしの夢は、あなたには見えません。逆も同じです。でも、ヒトは同じような身ぶりや仕草や行為や合図や目くばせをする時があるようにも思えます。そうした匿名的でありながら具体的な「動き」があちこちで反復されているとしたら、それはそれで美しい光景だと思います。


     *


 なお、「する=される」「見ている=見られている」という、今回のお話に興味をお持ちになった方に、ぜひ目を通していただきたい記事を以下に紹介いたします。


「なる(6)」、「なる(7)」、「なる(8)」、「なる(9)」、「なる(10)」、「たとえる(3)」です。キーワードは、「なりきる・なりきり」です。今挙げた記事は、今回の記事よりも、読みやすいかもしれません。お時間のある時に、お読みいただければ嬉しいです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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