かく・かける(3)

げんすけ

2020/08/19 08:08


 ポル・ポト(1928-1998)という人名を覚えていらっしゃるでしょうか? 1970年代後半にカンボジアで共産党政権を樹立し、大粛清(だいしゅくせい)=大量虐殺の首謀者となった政治家です。仏印という古い言葉があります。かつてフランス領であったインドシナ3国、つまり、現在のベトナム、カンボジア、ラオスを指します。フランスの植民地だったために、高齢者のなかにはフランス語を理解できる方々がいらっしゃいます。かつて、フランスへ留学した人たちも多数いたとのことです。その1人がポル・ポトでした。


 このブログでよく出てくるフランスの詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)と、ポル・ポトの接点は、その留学にあります。留学時にマラルメの研究をしていたとかいないとか、そんな噂話を聞いた記憶があります(※「マラルメ ポル・ポト」あるいは「Mallarmé  Pol Pot」で検索するとその噂の出所らしきところが複数分かります)。かつて、自分が大学で文学を学んでいたころ、フランス文学の研究者に、旧フランス領の出身者が数多くいるという話を聞いたことがあります。


 自然の成り行きだと感じました。また、イランにも優秀な研究者が複数いるとも耳にした記憶があります。これは、少し意外に感じました。イランとフランスの関係についてはよく知りません。ただ、かつてイラン・イスラム共和国の最高指導者であったホメイニ師が、イラン革命の前に一時期亡命していた国がフランスなのです。なぜなのでしょうね。


 ふと思い出しましたが、1970年代前半に中国に亡命していたカンボジア国王、シアヌークが、旧宗主国フランスの言語を流暢(りゅうちょう)に話している様子を中高生のころに、よくテレビのニュースで見聞きしていました。シアヌークとポル・ポトとの関係も、一筋縄ではいかない複雑なものがあります。


 歴史的経緯を見ていると、敵味方という単純な割り切り方ができません。シアヌークが、フランスではなく、共産党の支配する中国に亡命し、フランス語で世界に「信号」を送り続けていた様を、ブラウン管をとおして不思議に見ていた記憶がよみがえってきました。


 フランスへの亡命という話はよく見聞きします。例の「人民の人民による人民のための政治」(※このフレーズ中「人民の= of the people 」の翻訳には異論がありますね。 of を「所有格」と取るか「目的格」と取るか、なのですが、ここでは触れません)とそっくりなフレーズが、フランス共和国憲法の第1章「主権」の第2条にある「原理」としてあります。


 両者にまつわる歴史的経緯は知りません。また、植民地だった米国が、英国から独立した記念にフランスが「自由の女神像」を贈ったことは有名ですね。「基本的人権」という考え方を、言葉だけでなく、実行に移そうという仕組みが、国家のアイデンティティのレベルで働いているのかもしれません。


 思い出すのは、かつてアルゼンチンに軍事政権が樹立されたとき、多数の人たちがフランスへの亡命を認められました。そういえば、現仏大統領サルゴジ氏の父親は、ハンガリーの貴族の生まれで、ソ連の赤軍から逃れる形でフランスに亡命したと聞きました。そうしたことを許容する土壌(どじょう)が、あの国にあるのでしょう。


 つい最近まで、東欧諸国は、事実上、旧ソ連の「植民地」でした。パリは、そうした土地からの追放者をはじめ、亡命者、移民、そして自発的な異郷生活者= exile (※一時期のヘミングウェイが好例です)であふれている都市だったし、今もそうであると聞きます。


     *


 このように、植民地政策をとっていたヨーロッパの国々のあらゆる面で、かつて植民地 or 半植民地として支配していた、あるいは、大きな影響力を及ぼしていた国や地域がらみの話は、枚挙にいとまがありません。つまり、支配する側と支配される側、そして「敵」と「味方」(※この対立は表面的なものでしかありませんが)とが、多面的=多層的にからみ合っているという意味です。


 当然と言えば当然の現象です。ただ、その係わり合いが理解しにくい。どうつながっているのかが分からない。予想外な結びつきを発見することがしょっちゅうある。そうした発見をするたびに、疑問をいだくと同時に、複雑な心境になります。このように国際情勢や国際問題をニュース記事という媒体をとおして見ていると、


*さまざまな「信号」がめくばせし合っている。第三者である自分には、そのめくばせの意味=メッセージが分からない。ひょっとすると、めくばせを送っている者たち自身にも分からないのではないか。


とさえ思えてきます。


 それくらい、世界は分からない。ネットにどっぷり浸かってニュースを追ってみても、どうなっているのかが分からない。経済とは、また違った意味で分からない。「信号」だらけなのに、分からない。「信号」だらけだから、分からないのかもしれない――。


 国家、文化圏、言語圏、民族、政治集団、宗教などといった、さまざまな要素が、ニュートラルな「信号」を、垢(あか)や汗や血やその他の体液や言語や思想・主義・宗教という言葉でいかに「汚そう」=「色づけしよう」とも、「信号」はあっけらかんとした表情をまとい、熱とノイズにさらされながら、ただ飛び交うだけ。言い換えれば、


*「ニュートラルな信号」たちは、この惑星の王者を決めこんでいるヒトのてんてこ舞いをあざ笑いもせずに、ただ「まばたきし」「めくばせ」するだけ。


です。


     *


 国際関係とか国際政治という分野がありますね。以前、一種の売文業をしていたころ、仕事に少し関係があり興味を持っていたのですが、現在は疎いです。でも、本や文献を通してですが、一時はいろいろ勉強しました。


 外交や交渉といった「ばかし合い」と「裏切り合い」、「インテリジェンス=諜報やエスピオナージ=スパイ活動」という名の「さぐり合い」と「違法行為・犯罪行為」。まさに「魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)。


 たとえば、交渉の現場では、各種の「信号」が飛び交います。めくばせ、ボディランゲージ、文書の文言、テーブルでの席順、私語、無駄話、トイレに立つ、突然の怒り、突然の笑い……。そうした一挙一動が「信号」になり得る。


 交渉期間中の会場以外での「信号」にも、注視しなければなりません。ホテルでの盗聴、盗撮なんて当たり前。ちょっと観光のつもりで、ホテルの近辺を歩いていたら、スリに遭った。美女 or 美男 or 子供が話しかけてきた。買い物をしたら、おつりに妙な硬貨が混じっていた。レストランで食事をしていたら、妙な味のサラダが出た……。といった感じです。四六時中、気を許すわけにはいかないのです。


 繰り返しますが、「信号」は、あくまでもニュートラルなものです。ある意味やメッセージが託されているかもしれませんが、その意味やメッセージが発信者の思惑通りの作用=効果=働きを発揮するかは、誰にも分かりません。


 国際関係・国際政治という大きな枠内でも、外交・交渉や、インテリジェンス=スパイ活動といったレベルでも、飛び交う「信号」は、ことごとく「解読」「読み」「判断」を裏切る。その意味では、


*「信号」に「正しい」「正しくない」、つまり「正解」「不正解」はない。


と言えそうです。


「信号」だと思った「こと・もの・さま」を相手に「解釈」を試みてもほとんどの場合、「無効」です。せいぜい、「勘違い」が「正解」に限りなく近い、上出来なパフォーマンス=成績=仕事ぶり。そんな感じらしいです。国際政治には、詳しくはありませんが、少しかじってみて、個人的にはそんな感想をいだきました。


     *


 どうして、こんな話を書いているのかと、不思議に思われるでしょう。実は、あるお方を待っているのです。ポル・ポト、ホメイニ師、仏蘭西(フランス)という、意味ありげで、それでいて実は匿名的な「信号」を呼び寄せ、国と国、文化と文化といったテリトリーを「ニュートラルな信号」が易々と飛び越し、無化=無効化する様(さま)を思い出すことにより、


*偶然と必然との「間(=あいだ・あわい)」


そして、


*意味と無意味との「間(=あいだ・あわい)」


に成立しているであろう


*「何か」=「間(=あいだ・あわい)」


あるいは、「AとB」というフレーズの「間(=あいだ・あわい)」にある


*「と」=「間(=あいだ・あわい)」


としか呼ぶしかないものの持つ「匿名的でニュートラルなパワー」が訪れるのを待っているのです。あやういですね。それは百も承知なのですが、この儀式なしには、あのお方は訪れてくれそうもないのです。おふざけではありません。本気です。もう少し、お待ちください。


     *


「国際」という言葉の「際」は「間(=あいだ・あわい)」という意味と重なります。「間(=あいだ・あわい)」という言葉は、「関係=係わり合い」の「関」とも係わり合います。


*「さい=際=賽=賽子=骰子=さいころ=采」 ⇒ 「骰子一擲(とうしいってき)=サイコロの一振り」=「賭け」=「賭ける」=「詩作=思索=試作」


 以上は、おまじないみたいなものです。さいころが出ました。いや、「出した」と言うべきでしょう。やらせなのです。マラルメ師のさいころです。


*マラルメのサイコロ


については、「ま~は、魔法の、ま~」、「なぜ、ケータイが」、「ケータイ依存症と唇」、「カジノ人間主義」で、いやというほど出てきます(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)。本人としては、せっぱ詰まった状況で、真剣にサイコロを振っているのですが、その性質上、どうしても、他人様の目からはおふざけに見えてしまうのです。いずれにせよ、


*「さい=際=賽=賽子=骰子=さいころ=采」 ⇒ 「骰子一擲(とうしいってき)=サイコロの一振り」=「賭け」=「賭ける」=「詩作=思索=試作」


は、


*めちゃくちゃなこじつけ


を行った結果としての、おまじないです。


 でも、この記事を書くためには、絶対に「欠かせない」ものです。これがなければ、「何か」の力が「書かせない」というほど、不可欠なものなのです。サイコロは、自分にとって、とても大切なものです。もし、サイコロを振る学問があれば、お勉強してみたいです。サイコロを勉強するのだから、


*サイコロジー


となりそうですが、あいにく、その言葉は「予約済み」=「満室」状態です。 psychology (英)も psychologie (仏)も、ダメということです。


 じゃあ、賽学、骰学、采学? それはそうと、もう、「采(さい)は投げられた」のでしょうか。そうです。今は、ギャンブルをやっているのです。その「さい」ちゅうです。


 でも、お金はかけられていません。何をかけているのか。その答えを知るために、かけているのだと言っても、現在の状態を言い表すのに不正確な言い方だとは思いません。


     *


 話を少し飛ばします。


 さきほどの国際政治の話のなかで、インテリジェンスという言葉が出てきました。ちなみに、CIAのIは intelligence ですね。また、ITのIは information ですね。今挙げた2つの語は日本語では、


*「情報」


と訳す場合があります。「信号」という観点に立つと、この「符合(※ふごう)」を、「符号(※ふごう)」=「信号」=「しるし」として見ることになります。何やら、意味深に思えてきます。


*この符合=符号は、只事ではない。


という感じです。そもそも、


*符合


とは、割符(※わりふ)(=「しるし」を2つに割ったもの)の片割れ同士がぴったりと合うことから来ているそうです。要するに、2つのものが


*かみ合う ⇒ からみ合う ⇒ かかわり合う ⇒ くっつき合う ⇒ つながる ⇒ あう


というわけです。


 インテリジェンスでもインフォメーションでも、多種多様な「信号」がめくばせし合い、何かを引っ掛ける=ナンパしようとして、わくわくどきどきや、びくびくぴくぴくや、ぼけーっとしています。何を期待してめくばせし合っているのか? これから先へと目を向けて、何を懸けた=賭けたたうえで、何に懸けて=賭けているのか? 


 マラルメ師の気配を感じます。すぐ、そばにいるような気もすれば、遠くで見ている視線を感じているだけのような気もします(オカルトめいてきましたが、本人はそういう感じではないつもりなのですけど)。


 IとIとで、相合傘。とはいえ、Iと相と合と会と遭は「あった」としても、愛だけは絶対に「ない」だろうという予感があります。そもそもが、ポル・ポトとホメイニ師との話から始まった記事です。その2人の名のもとに、どれだけ多くの人たちの命が失われたことか。


 実に、きな臭く生臭い=腐臭に満ちた固有名詞ではないでしょうか。両者の間(=あいだ・あわい)に仏蘭西=フランスという国名で「符合」があったとしても、それは「不幸」と「不合=不仕合せ」の別称=蔑称でしかないのでないでしょうか。


     *


 かなりシリアスな問題を、きっとおふざけだと取られそうな文章でつづり、さまざまな「ニュートラルな信号」を散りばめ、その「信号」たちの交し合う「めくばせ=合図」に目を向けてみたものの、あの人、いや、あの固有名詞が訪れる気配は、まことに頼りなげな「しるし」として「知るし」かない。ここに登場させた、


*「信号=符号」たちの「符合」は、仕組まれた「必然」= necessity =「必要性」なのか、奇しくも表れた=現れた=顕れた、「偶然」= accident =「事故」なのか?


 それを「知る」ためには、


*「やらせ」を試みることで、「やらせ」=「必然と偶然の間(=あいだ・あわい)」を引き寄せる=引っ掛ける=ナンパする。


 これしかない。そんな気がします。


※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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